2009年2月22日日曜日

八木忠栄・武田肇

俳句の余白
八木忠栄句集『身体論』及び
武田肇句集『ベイ・ウインドー』を読む


                       ・・・高山れおな

以前このブログで、高岡修の詩と俳句を紹介した時に、高橋睦郎を別格として、詩人の俳句のレベルはどうもあまり高くないのではないかという意味のことを書いた(第十二号)。その考えに変わりはないが、ともあれ詩人たちの俳句が、専業俳人のプロフェッショナリズムとは一線を画し、過剰に質にこだわり過ぎない鷹揚な魅力を持っていることは確かだろう。中でも作家(詩人でもある)の小沢信男を中心にしてはじまった余白句会(*1)は、清水哲男、井川博年、八木忠栄、辻征夫(故人)、多田道太郎(故人)、アーサー・ビナード、今井聖(この人は専業俳人ですが)といったメンバーを擁する詩人たちの句会として、俳壇番外地風の存在感を放っているのは周知の通りだ。

余白句会の詩人の句集としては、『んの字 小沢信男全句集』(*2)、辻征夫『貨物船句集』(*3)、清水哲男『打つや太鼓』(*4)などが手元にあって、昨年、そこに八木忠栄の『身体論』(二〇〇八年八月九日刊 砂子屋書房)が加わった。この『身体論』をご紹介したいが、その前に上記三冊の句集を少しだけ覗いておきたい。『んの字』では、〈月島西仲通り〉と前書のある、

学成らずもんじゃ焼いてる梅雨の路地

と、表題句である、

んの字に膝抱く秋のおんなかな

あたりが代表句か。「余白句会調」なるものを想定してよければ、このもんじゃ焼きの句などはまさにその典型だろう。すなわち、上昇志向は野暮として退け、下降とまでは言わずとも小成に安んずる心意を粋として共感を寄せるふうである。低い視線で庶民生活をスナップする人事句が多く、自然詠はほとんどない。総じて有季定型の規範に忠実で、文体はわりあい保守的、ただし切れ字は目立たない。と、書いたそばから「秋のおんなかな」と、切れ字が出てくるのは具合が悪いけど、この句にしても他の要素はおおむね上に述べたような特徴に適合しそうだ。

もんじゃ焼きの句を含む「東京百景」の章は、小沢の初期作品からなっており、九十句の全てに前書がついているのも珍しい。これは小沢の俳句の教科書が、久保田万太郎だったためらしい。〈当時は久保田万太郎句集一冊がお手本で、他は眼中になし。万太郎句にはしばしば魅力的な前書きがあって、その模倣をこころがけました。〉と、「あとがき」にある。この前書の力を大いに展開させたのが、「足の裏」の章に収める妹君逝去に際しての連作。「鳥渡る 実妹伊藤栄子を送る」とタイトルの付された全十句を引いておく。

  「栄子がもうダメです」
汝が夫の夜寒の電話こらえ泣く

  入院40余日「脚なんか、ほら、骨と皮」
足裏のなおやわらかく冷まじく  
⇒「冷」に「すさ」とルビ

  気胸後遺症の肺活量ついに30と
その肺で夜長の空気吸いきれず

その肺でこの白髪まで露の世を

  吾は胸郭成形手術で生きのびて
肺病の兄妹なりき吾亦紅

千歳飴わけてしゃぶりし日もありき

  通夜へ、人身事故により電車遅延
毀れやすきものひしめくや月の駅

  告別式、路傍の子らの声
死んだひとの車がゆくよ秋の野辺

  火葬場にて
孫の画と菊を抱いて焼かれけり

鳥渡るはらからの骨ひろうとき

多田道太郎による跋には、〈葬の前後、何十時間かの物語俳句になっていて、読む人を悲傷の共感に誘わずにいられません。〉とあってその通りだが、評者としてはとりわけ七句めの前書と句のみごとさに打たれる。前書にさりげなく置かれた「遅延」の語に、何か万感とでも言いたいような響きがある。その遅延の時間が、「毀れやすき」心と身体とを持ちながら「ひしめく」群集の存在へ目をひらかせるのだが、この「月」ほど美しい月も滅多にないだろう。ちょっと、芭蕉の〈数ならぬ身となおもひそ玉祭り〉を思い出させる。

月といえば、辻征夫の遺句集『貨物船句集』には、

満月や大人になってもついてくる

がある。先ほど芭蕉を引いたが、こちらはさしずめ李白の「月下独酌」の余白句会版か。童画のようななつかしげな構図のうちに、〈我歌へば 月 徘徊し/我舞へば 影 零乱す〉という詩句の薄っすらと狂気を纏ったエクスタシーにも通う気配が揺曳する。辻の句集にはこんどは小沢信男による跋が付されており、「満月や」の句は辻が死去する三ヶ月前、参加した最後の句会に出句したものだと解説されている。最高点を取ったそうだが宜(むべ)なるかな。『貨物船句集』全体の水準が必ずしも高くない中で、掲句は抜きん出ている。この一句を得んがための、辻晩年の俳句遊歴であったかとさえ思う。

清水哲男は、「増殖する俳句歳時記」(*5)の仕事でも知られるように、俳句とのかかわりは少年時代からと筋金入りで、定型を操る自在さは辻征夫などをはるかにしのぐ。『打つや太鼓』では、こんな句にひかれた。

雪降るとラジオが告げている酒場
ぱかんぱかんの灰皿洗う春の暮
お話がありますと言い枯れにけり

例えば、この「雪降ると」の句でも「ぱかんぱかんの」の句でも、清水のある日の実体験を詠んだものとしてなんの問題もないはずなのだが、にもかかわらずそう言い切るのに一抹の躊躇を覚えるのは、そこに庶民生活の典型性を演出するような匂いを感じるからで、このかすかな演出感・演技感のようなものがつまり余白句会調なのかと思う。そこへゆくと今回の本題、八木忠栄の『身体論』はどうか。開巻早々、

底冷えの底にまたがり脱糞す
あつさりと睾丸にぎる春の医者

などという句に出くわす羽目になって、ここには多少の露悪趣味はあるにせよ、余白句会的な演出性とは微妙に異なる詠み口を感じる。もちろん、一方には、

歌舞伎町チンピラ風情が「もう秋か!」
道後の湯秋ぢや秋ぢやと沈みけり

といったあからさまな余白句会調もまま見られるから、八木の独自性をあまり強調しすぎてもいけないだろうけれど。

本書をまとめる段階で、身体というものにこだわっている自分が改めて見えてきた。作っているときにはまったく意識していなかった。なぜ身体なのか? それもよくわからない。突然「身体論」という言葉に摑まれてしまった。そのことを、今はもっともらしく検証なんぞしたくない。ご覧の通り無骨な身体である。

「あとがき」ではこんな調子で句集名の由来が語られていて、なるほど、たまさか跨った和式便所に底冷えの底が抜けたような侘しさを感じるのも身体なら、当たり前の医療行為だと頭ではわかっていても大のおとなが他人に睾丸を握られる馬鹿ばかしさを強いるのも身体に違いない。もっとも、「身体というものにこだわっている」のは八木だけの話ではなくてほぼ万人がそうなので、八木が特異だとすればそれが「こだわり」の系列として見えてくる程に身体を俳句に詠もうとしていることであろう。で、実際、『身体論』にはどんな「身体」があるのだろうか。

雪ごんごん亭主黙々臓物捌く  ⇒「臓物」に「もつ」とルビ
雪激し魚の臓物洗面器
臓物の位置を正して冬ごもり
すさまじや臓物さぐるドクタア
霾るや臓物うたひだす真昼

まず目につくのは、端的に「臓物」を詠んだ句。これは捌かれた魚の臓物であったり、作者自身の臓物であったり、なんだかわけのわからないものの臓物であったりするようだ。先ほども「春の医者」が登場したが、またも「ドクタア」が顔を見せている。はっきりとはわからないながら、身体へのこだわりには、六十代に入っての作者の肉体の現実が大きな影を落としているということなのだろう。臓物五句のうちでは、〈臓物の位置を正して冬ごもり〉が殊に俳諧。「冬ごもり」という季語はそれ自体身体性に由来しているとも言え、例句のうちにも、

冬ごもり又よりそはむ此はしら  芭蕉
眼ばかりは達磨にまけじ冬籠  来山
白粥のあまりすゝるやふゆごもり  去来
冬籠目のくたびれる明り窓  杉風
いねぶりて我にかくれん冬籠  蕪村
身に添てさび行壁や冬籠  太祇
冬籠顔も洗はず書に対す 正岡子規
人間の海鼠となりて冬籠る  寺田寅彦

と、いった調子でその性格をより強く打ち出しているものも少なくない。ただ、未だ重んじられているものの、近世とは社会の条件が異なりすぎて、どうかすると句が嘘臭くなりがちな、現在では遣うに難しい季語でもある。八木の「臓物の位置を正して」という把握は、今日的な新しみを探り出し得ていて、なかなかの好句かと思う。八木はまた、

女性器といふ器あり冬ごもり
冬ごもりふぐりにぎつてをるのだよ

とも作っていて、「冬ごもり」という季語本来の身体性が、八木自身の身体意識を刺激しているさまはいよいよあきらかだ。もっとも、前者は破礼句としてもいただけない失敗作だし、後者は嫌味はないものの何やら中途半端に終わっているが。

遠花火身をゆだねればもうひとつ
ほうとあく女のくちからほたるほたる
青すだれ女ゆつくり割れてくる

性愛の世界を暗示するものとしては、こうした句がある。どれも巧みに幻想的な絵を見せるが、そのぶん既視感がまとわりついてくる。

風光る雲のきんたまぶうらぶら
早春の雲は乳房を出したがる
花の闇にも肉の闇ぎつしりと
稲妻や唇から唇へあばれ馬
  ⇒「唇」に「くち」とルビ

これらはあるいは、身体を介しての自然詠と称すべきものかもしれない。中では、四句目の“暴れ”ように最も引かれる。くちびるからくちびるへ奔る「あばれ馬」が、性愛を暗示するものなのか、あるいは単に言葉の寓意なのか、しかとはわかりかねるが、評者自身は前者にやや傾きながら受け取っている。

野良犬のふぐりは貧し敗戦日
八月が棒立ちのまま焦げてゐる
花粉症ニッポン国がつんのめる


国家意識とまで言ってしまうと大袈裟だけれど、身体を通じて描いた「ニッポン国」の図、三題。三句目が良いと思う。

痰を吐き唾吐きひとり冬田行く
酔ふて夜半冬のバケツを抱き踊る

身体性を踏まえた句の中では、この二句の苛立たしげな表情に最も共感した。一句目は、「冬田行く」が心象の寓意とも取れるのが弱点といえば弱点で、あくまで眼前の景の直叙として味わいたい。二句目。「春の医者」というフレーズが前に出てきたが、ここにも「冬のバケツ」という言い方があって、表現としては拙劣の謗りを免れない。「春の医者」はたしかに春だし、「冬のバケツ」はなるほど冬だ、という意味で嘘はないのが救い。以下、身体性云々とはかかわりなく、興に入った句を幾つか。

薬局もポストも化けよこの暑さ
りんご齧るてんでに写楽の貌をして
たはむれにたはむれせんと夏座敷
年の瀬の仁王雑踏まで出てこい
初席やとんで出てくる漫才師

これら、いささか面白すぎる句かもしれない。ではこんなのは?

花吹雪肩ぐるまの子消されゆく

肩車された子供をかき消すほどの花吹雪とは誇張もはなはだしいけれど、「消されゆく」のは実は視覚ではなく記憶なのだと気づけば、これは誇張でもなんでもない。眼前の景によって、子供だった自分が肩車された時間、自分の子供を肩車してやった時間がよみがえり、そのことがまた過ぎ行くものとしての自覚を呼び覚ますのである。

      *      *       *

武田肇の『ベイ・ウインドー』(二〇〇九年一月九日刊 銅林社)もご紹介しておく。これも詩人の句集とはいえ、余白句会系のそれとは全くおもむきを異にする。この人が編集している「ガニメデ」(*6)という詩誌は、毎号三百頁を超えようかというボリュームで、海外詩の素晴らしい翻訳や当代知名の詩人の新作が載っている一方、どうかすると自称詩人に近いような人の作品までが並んでいて、玉石混交これに過ぎたるはない。評者も求められて石の方を百句投じたことがあるが、圭角に富むらしいこの詩人は自身作句にも熱心で、『ベイ・ウインドー』はすでに三冊目の句集にあたる(*7)

「ガニメデ」という誌名は木星の衛星に由来し、さらにさかのぼればゼウスに誘拐された美少年ガニュメデスに由来する。こんどの句集もカヴァー画として、男性ヌードばかり描いたことで知られるヴィクトリア朝の画家ヘンリー・スコット・テュークの代表作《八月の青》(ロンドン、テート・ギャラリー蔵)をあしらっていて、武田の美的志向が奈辺にあるかはあきらか。中身もそれを裏切らない。

男娼や江戸の暮春を嗅ぎ分ける
蠶屋の少年に裏藉りるとは
⇒「蠶」に「かひこ」、「藉」に「か」とルビ
春月に少年の種はじけ飛ぶ
少年にへこも齧ひ込む夏の月
  ⇒「齧」に「く」とルビ
少年も手の飛魚も裸かな
湯をはじく少年の膚ながれぼし

他にもあるが、まずはこんなところ。中では五句目の「裸」の一語は素晴らしい。それにしても、全体として趣味性が先立つ印象が強いのは、武田の責任なのか、当方のセクシュアリティの貧困の責めに帰すべきなのか。素直に良いと思ったのは、

朧なりわれ印歐語族ならず
花の晝もえる地球を逖見かな  
⇒「逖」に「とほ」とルビ
蛤に精神が出かゝつてゐる
うつはものふせれば物の囀るや
白鷺城に骨組見たり夏の蝶 
 ⇒「白鷺城」に「はくろじやう」とルビ

といったあたりの、文明批評の匂いを感じさせる作。それから、

男は湯へ女は雪へ歸るかな

やはり当方には、少年愛の世界よりはこの方が味わい深い。〈女人咳きわれ咳きつれてゆかりなし  下村槐太〉の句と同様に、掲句の男女にも「ゆかり」はないものと読みたい。


(*1)「余白句会会館」
http://homepage.mac.com/yohaku/Menu7.html
(*2)『んの字 小沢信男全句集』 二〇〇〇年 大日本印刷ICC本部
(*3)辻征夫『貨物船句集』 二〇〇一年 書肆山田
(*4)清水哲男句集『打つや太鼓』 二〇〇三年 書肆山田
(*5)「増殖する俳句歳時記」http://zouhai.com/auth.html
(*6)銅林社発行
(*7)第一句集『星祭』 一九九三年 銅林社
第二句集『海軟風』 二〇〇八年 銅林社

※八木忠栄句集『身体論』及び武田肇句集『ベイ・ウインドー』は、
  著者より贈呈を受けました。記して感謝します。

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2 件のコメント:

松丘 さんのコメント...

高山れおなが、「俳句など誰も読んではいない」と言っているのに興味を持ち、ここへきました。
そして、この記事を読みました。
小成に安んじる態度も、自由な表現として、面白いです。90句全部に前書きを載せるのも、面白い。
  薬局もポストも化けよこの暑さ

型破りなのが、面白い。
自由に表現する世界が、あってもよい。
上昇志向だけでなくても、俳句形式を使った表現もあってもよいと思った。

高山れおな さんのコメント...

松丘様

コメント有難うございます。
八木忠栄氏の俳句は、おっしゃるように破天荒で、こだわらない面白さがありますね。