・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井
農婦病むまはり夏蠶が桑はむも『山国』 所収
窪田:これも、昭和28年の作。戦後も昭和30年代後半まで、信州では養蚕が盛んでした。私の家も蚕室兼住宅の総二階の家でした。よく言われるように「蚕」を「お蚕様」と呼んでいた様に、座敷も茶の間も畳が上げられ蚕室に変わります。蚕飼いの頃は住居部分は隅の方に追いやられるわけです。寝ていると、板戸一枚隔てた蚕室からは、蚕が桑をシンシンと食む音が聞こえてきました。小学生の私も朝飯前に山の畑まで父母に連れられて行き、桑を運びました。蚕上げ(上蔟)の日は、学校を早引けして来いと言われました。養蚕は一家総出の仕事でした。
掲句からは、農婦のやるせない気持ちが痛い程伝わってきます。家族の者も農婦の病を気遣ってはいるものの、働き手を一人失ったいらだちもあるでしょう。そんな人間のことにはお構いなく蚕は桑を食べ続けています。遷子はそうした農家の実情をよく知っていました。こうした景は遷子の胸を強く揺り動かしたでしょう。社会体制への批判のような思いもあったかもしれません。しかし、この句を社会性俳句と呼ぶことにはためらいを感じます。『現代俳句大辞典』(2005年三省堂)には「社会性俳句 ①社会性のあるテーマや素材を詠った俳句。②特に第二次世界大戦後、俳句の文学性が問われたことを契機に起こった社会性俳句論争の対象になった俳句やその中で生まれた俳句を指す。」(①②の番号は筆者加筆)とあります。①の意味で言えば掲句も一応社会性俳句と言えないこともありません。しかし、遷子には②のような作句意識は無かったように思います。目の前の情景が遷子の情を揺さぶりそれを書かせたのです。社会の理不尽さに憤りを感じたとしてもそれを主張しようという意識は薄かったでしょう。また、そうしていたら遷子の句からは、温かさが感じられないと思います。素材は社会性を帯びていても、遷子のそれはあくまでも情景描写(描写と言っていいのか迷いますが)であるのです。
中西:高原派のリーダーと目されて、活躍している時期なのですが、28年は高原旅行句がないように思われるのですが。高原派の方々とこの年は行動を共にしていないのではないでしょうか。
高空は疾き風らしも花林檎
という同年作が高原派らしい作品ですが、林檎の花ですから、高原というより近所の果樹園か、農家の畑で作ったといった感じがします。また、
妻病めばいや山国の春遠し
という句がありますから、或は家から動けなかった事情があったのかも知れませんね。その分、故郷でもある、佐久を丁寧に詠う姿勢が見えます。
顔痩せて青田の中に農夫立つ
という農村風景を人間中心にして描いている句があります。
「農婦病む」の句もこれと同じで、人間を中心に農村を描いたものといえるでしょう。窪田さんの鑑賞で、家族総出の作業で、一人欠けても打撃だということを知りますと、かなり切実な光景だということが分かります。実は句だけ読んでいる時は、ただの情景描写と思っておりました。ところがそうではなかったのですね。「桑はむも」には深い意味があったのですね。病人も働かなければならないのを承知していながら、病で体が動かないつらい立場なのです。これが、嫁の立場ならなおさらでしょう。この辛い立場と家族の辛い状況が描かれていることがわかります。農村を外側から踏み込んで描いています。
風景と自分の生活詠から、土地の人々の労働を描いたものへ、守備を広げてきているようです。
葛その他刈り負ひて若きはよし 『雪嶺』31年
架線夫の天や雪岳うち乱れ 『雪嶺』31年
繭安の極暑の桑を負ひ戻る 『雪嶺』33年
夜涼一家青き蚕棚が家に満ち 『雪嶺』36年
滂沱たる女の汗や糸を取る 『雪嶺』36年
これらは、次の句集に載せられた句なのですが、28年に詠われた物に比べると、より説得力のある表現となっていますが、28年の「顔痩せて」「農婦病む」の延長上にある句ではないかと思います。
また、筑紫さんが、東京四季出版の『現代100名句集』の遷子句集『雪嶺』の解題で「28年ごろから医師俳句を詠むようになった」と指摘されていますね。そう見ますと「農婦病む」の句は医師俳句の範疇にも入るのでしょうか。
薬餌謝して死を待つ老やうすき繭 『雪嶺』33年
この句なんかは、「農婦病む」の句の後編を詠んでいるような気がする句です。
原:前回、遷子の作風を、当時の俳人達との比較・照合によって見ていくという角度を、磐井さんに示していただいて、俳句史的な視座が生まれてきたと思いました。今後、『雪嶺』における社会批判的作品及び『山河』における境地を確認していく際にもこうした目配りは重要になっていく筈で、遷子研究の幅が広がった気がします。
窪田さんには前回に引き続き佐久という地域の、都市部とは異なる当時の生活状況を教えられます。今回も、鑑賞と同時に一句の性格を適格に把握して下さっていて納得のいくものでした。付け加えることはありません。
この句でふと眼を惹かれたのは「も」の使用です。詠嘆の助詞ですが、これまで遷子の句については情に凭れかからない直截な詠風と印象していましたので、短歌的情感を誘うこうした修辞は、師秋桜子の影響によるものかと興味深く思いました。もちろん掲出句にべたべたした思い入れはありません。実見した即物性が、過度な情感を排しているのでしょう。
この「も」の使用は『山国』中に多く見かけるもので、掲出句の前後にも
送らるる山羊に白樺の花散るも
家を出て夜寒の医師となりゆくも
などがありますが、その後の『雪嶺』には見えず『山河』には一句のみでした。
深谷:前回の句の二句後に掲載されている句ですね。馬酔木的な端麗さは、かすかにその調べ(A音七字、M音四字)に端緒を見出せるものの、句の対象は秋櫻子が目指した絵画的美しさとはおよそ縁遠い、貧しい暮らしの中にある生々しい現実です。私も初めてこの句に接したとき、そのインパクトに衝撃を受けたのを憶えています。
地元にお住まいの窪田さんの御指摘はさすがに実体験を踏まえられたものであり、「板戸一枚隔てた蚕室からは、蚕が桑をシンシンと食む音が聞こえてきました」という記述には、思わず唸らされてしまいました。そうした状況の理解を抜きにして、この句を鑑賞することは困難でしょう。
そして、遷子にとってもこうした現実に直面することが重なり、磐井さんが指摘された「抑制のタガ」が徐々に外れていったのだと思います。その意味で、遷子の「ヒューマニズム俳句」(勝手な造語ですが)の嚆矢となった句として位置付けられるのではないでしょうか。
筑紫:今回は遷子の社会性やヒューマニズムに触れるコメントが多かったように思います。社会性という態度にはいくつかのパターンがあるように思います。常日ごろ思っているのは、社会性には倫理観が常に基礎にあるのではないかということです。ただ、倫理観の発露には二つ方法があるように思います。整然とした倫理観が先にあり、それに不条理な社会の出来事を当てはめるやりかた。もうひとつは、社会の出来事の中で、さまざまに試行錯誤しながら、自己の倫理観を固めて行くやり方。遷子の俳句に社会性があるとしたら、後者であるといえるのではないかと思います。
前者の社会性は悪を排除しますが、後者の社会性は悪を排除するとも限りません。たとえば、前回の鑑賞で登場した
寒うらら税を納めて何残りし 『山国』
の句で税務署を悪とみるべきかどうか。句の裏に自分でもはっきりと分からない憤りがあるとしたらどうでしょうか。善悪以前の憤り、それが生まれてそのあと、外部に対する批判になったり、自己に対する反省となったりするわけです。前回、「『何残りし』には税引き後の所得だけではなく、自分が社会に対してなした業績の評価も入ってしまっているような気もする」と述べた留保は、そんなところにちょっとためらいを禁じられなかったせいなのです。
たとえば「人を殺してはならない」は普遍の道徳律ですが、
隙間風殺さぬのみの老婆あり 『雪嶺』
には、そんな道徳律だけで割り切れない、地域の医療現場の独自の倫理が見えるように思うのです。「殺さぬのみの老婆」は善なのか悪なのか、また誰が善で誰が悪なのか。一方的に決めつけることはできないように思います。そして、それが「遷子の社会性」なのだろうと思います。それは、与えられたイデオロギーではなくて、「遷子のイデオロギー」ともなって行くように思うのです。
ところで医学と社会性というと以前から気になっていることがあります、皆さんの感想をお聞きしたいと思うので場違いながらあげてみます。明治末から大正初期にかけて、自然主義文学という運動が流行しました。しかし、日本の自然主義作家の作品を読んでもなぜ「自然主義(ナチュラリズム)」なのか久しく不明でしたが、よほど後にその創始者であるゾラの伝記を読んではっきりしました。ゾラは、自然科学者のクロード・ベルナールの「実験医学研究序論」を下敷きに「実験小説論」を書き、人間は環境と遺伝で行動を決定するとの前提のもとに、人間と社会を実験的方法で観察をする方法を説いています。そして膨大なルーゴン・マッカール叢書20巻(25年かけて執筆したこのシリーズの中に名作『居酒屋』『ナナ』『ジェルミナール』があります)を書いたのですが、この中でさまざまな人間を悲惨な運命に陥れる実験を行っています。このように現実社会の醜悪さを赤裸々・露骨に描いていますが、実験小説(自然主義小説)は医者が疾病を治すように道徳的役割があるのだともいっています。醜悪な病気の症状を冷静に見、病巣を摘出しなければ病気からの快癒はないからなのです。なるほど、ゾラは後にドレフュス事件に際してフランス陸軍を糾弾し、下獄、大文豪の地位を捨てて亡命までするのですが、この正義感がなければ本当の「自然主義」は生まれなかったのだと納得できました。(科学的)観察だけでなく治癒まで責任を負うことが文学の本義だと考えていたようなのです。第二帝政下での『居酒屋』の女主人公の劣悪なる運命も、フランス陸軍内でのドレフュスをめぐる陰謀も、ゾラにあっては同じ病気であったのです。その意味で、姪との不倫を綿々と描くような日本の自然主義作家とはまったく違うのは当たり前です。
余計なことをいろいろ述べましたが、遷子の社会性は、ゾラの文脈の中で読み解くと多少分かりやすいと思います。医者の目で見た科学的真実(それは生理的真実と社会的真実があるはずです)と、実践の徒である医者が持つべき倫理観が結合するとき、遷子独自の俳句がそこに生まれるように思います。遷子は自然主義作家だったのではないか、ちょっと意外な思いつきですがいかがお考えですか。
掲出の句、溌剌とした夏蚕と病む農婦の対比が鮮やかです。「馬酔木」で育った遷子の科学的な目は最適の風景を切り取っています。しかしそれだけにとどまらず、生産のときを迎えて心静かにしていられない病臥する農婦の気持ちが、同じ地域に住むだけに痛いほど遷子には分かるのでしょう。緊張の中の静寂――いや静寂の中の緊張が伝わって来ます。
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1 件のコメント:
・農婦病むまはり夏蚕が桑はむも
1.窪田さんの解説で農村の養蚕生活は尽くされていますが、ここで注目すべきは、季語としての「夏蚕」のはたらきでしょう。夏蚕は春蚕に比べると病気が発生しやすく、死亡率が高くなります。夏蚕が元気に桑をはんでいる姿を見、その音を聞けば、農家のものは(病婦も含め)まずは心慰むことしょう。医師としての遷子も(病婦の病状に鑑み)心を動かされるところが多かったのでしょう。それが、詠嘆の助辞「も」の感動表現の根っこでしょう。
2.相馬遷子の生涯と句を当欄で始めて読みました。彼が医師として農村で働いていた時期は、日本の農村の生活が‘近代化’していく時期と重なります。彼らの奮闘が、国民病といわれた結核を農村から駆逐する一助となったことは間違いないでしょう。面白い時代の作家だと思います。
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