2009年2月1日日曜日

俳句九十九折(22) 俳人ファイル ⅩⅣ 中島斌雄・・・冨田拓也

俳句九十九折(22)
俳人ファイル ⅩⅣ 中島斌雄

                       ・・・冨田拓也

中島斌雄 15句


冬の鳥射たれ青空青く遺る
 
讃美歌や揚羽の吻を蜜のぼる
 ⇒「吻」に「くち」とルビ
 
子へ買ふ焼栗夜寒は夜の女らも ⇒「焼栗」に「マロン」とルビ
 
雲秋意琴を賣らむと横抱きに
 
爆音や乾きて剛き麦の禾
 ⇒「剛」に「つよ」、「禾」に「のぎ」とルビ

星がともだち石焼いもを石から掘り
 
掌にのせて白桃無傷無量光
 
月光の底で火となす枯牡丹
 
礁の間の囚われ水母白昼夢
 
神の瞳と子の瞳重なり枯れる天
 
雉子の彩雪林を撲つ命がけ
 
山椒魚をつつむ山の香銀河の香
 ⇒「山椒魚」に「ハンザキ」とルビ
 
春の月の先へ先へとわが一騎
 
原神という蒼き眉宇銀河の刻
 
エビネラン一角獣をさしまねき

 
 

略年譜
 
 
中島斌雄(なかじま たけお)
 
明治41年(1908) 東京市生
 
大正13年(1924) 句作開始
 
昭和3年(1928) 「鶏頭陣」同人
 
昭和5年(1930) 「ホトトギス」「馬酔木」参加
 
昭和11年(1936) 「鶏頭陣」「ホトトギス」などから離れる
 
昭和16年(1941) 第1句集『樹氷群』
 
昭和21年(1946) 「麦」創刊
 
昭和24年(1949) 第2句集『光炎』
 
昭和29年(1954) 第3句集『火口壁』
 
昭和48年(1973) 第4句集『わが噴煙』
 
昭和54年(1979) 第5句集『肉声』
 
昭和56年(1981) 第6句集『午後』 『現代俳句の創造』
 
昭和63年(1988) 逝去(80歳)
 
平成2年(1990) 『中島斌雄全句集』
 
平成4年(1992) 『中島斌雄の世界』(田沼文雄編)
 
平成15年(2003) 『現代俳句のすすめ  中島斌雄句文集』(沖積舎)
 

A 今回は中島斌雄を取り上げます。
 
B この作者の存在というのはどこかしらその実体が判然としないような印象がありますね。現在、その作品についてもあまり話題になりませんし、注目されることも少ないようです。そのため、その作風については一体どういったものであるのかいまひとつ明確となっていないようなところがあるようです。

A 経歴を見ると、中島斌雄は16歳の頃に句作を始め、昭和3年には小野撫子の「鶏頭陣」同人、そして一時「ホトトギス」「馬酔木」にも参加しています。大学時代は俳諧史の研究を行い、その後中学教諭を経て、大学教授となっています。大学は69歳まで勤め、名誉教授となり退職。俳諧に関する著書などもいくつか存在するようです。
 
B こういった経歴を瞥見すると、師系が小野撫子という少し特殊な系譜に属することや、俳諧の研究者であったことなど、やや異色の俳人といった趣きがありますね。
 
A では、その作品についていくつか見ていくことにしましょう。
 
B まず〈冬の鳥射たれ青空青く遺る〉を選びました。昭和23年の作です。
 
A 始めに目に浮かぶのは冬の青空を飛ぶ鳥のイメージですね。
 
B その青い冬空を飛翔していた鳥が猟銃か何かで撃たれて、一気に中空から地面へ向かって落下し、視界から消えてしまいます。しかし、一羽の鳥がいなくなったとしても、冬の青空はそのまま何の変化もなく青い色を湛えたままである、ということでしょうね。
 
A 鳥が撃たれた後も青空は青いままであるということは当たり前の事実ですが、そういった当たり前の事実に着目し、その様子を「青空」を「青く遺る」とわざわざ言語化して表現したところがこの句の眼目ですね。
 
B この句から安水稔和の「今撃とうとする鳥に」という詩を思い出しました。その一部を引用すると〈おまえはえらばれるもの。/そしてうち殺されるもの。/私はえらぶもの。/うち殺すもの。/鳥は鳥だ。/私は私だ。〉といった内容のものです。
 
A この句ではさしずめ「青空は青空だ」とでもいったところでしょうか。
 
B 現実そのものの絶対性とそれに伴う世界の無情さとでもいったものを強く喚起させられるところがあります。
 
A 続いて〈讃美歌や揚羽の吻を蜜のぼる〉です。この句も昭和23年のものです。
 
B 「讃美歌」という言葉からまず西洋的なイメージが思い浮かびます。
 
A 虚子に〈蝶々のもの食ふ音の静かさよ〉がありますが、この虚子の蝶の句の静謐でありながらもやや異様な印象の世界とは対照的な作品ですね。中島斌雄の句は「讃美歌」と「揚羽」、そして「花の蜜」という甘美な言葉の組み合わせから非常に詩的な印象を受けます。
 
B 続いて〈子へ買ふ焼栗夜寒は夜の女らも〉です。この句は昭和25年のものです。
 
A 先の「讃美歌」の句同様「焼栗」を「マロン」と表現したところなど、やはり西洋の詩的な雰囲気があります。
 
B 中島斌雄にはドイツ文学の素養があったようで、場合によっては、大学では俳諧史ではなくドイツ文学の研究への道を進む可能性もあったとのことです。中島斌雄の作品にはそういったところからの影響も大きいところがあるのかもしれません。
 
A 中島斌雄の句の世界は、たしかにドイツロマン主義の世界と通底するような雰囲気がありますね。
 
B また、この句からは、神生彩史の〈貞操や柱にかくれかがやけり〉の存在を髣髴とさせるところがあります。
 
A 神生彩史の句は昭和23年のものですから、時代状況としては近いものがあるようです。
 
B 続いて〈雲秋意琴を賣らむと横抱きに〉です。昭和27年の作です。
 
A 中島斌雄の句では、割合著名な作品であると思います。
 
B 琴というものは思った以上に大きなもので、そのサイズは普通、長さ約160センチから200センチ、幅約30センチであるそうです。
 
A それこそ長さだけなら人間の身長に近いものがありますね。その琴を横に抱えた姿を捉えたところと、琴の質感と重量感が手応えをもって感じられるところがこの句の眼目というところでしょうか。
 
B この句からはドラマ性がやや感じられますね。秋の高い空の下、地の上で琴を横に抱えて歩む人物の姿が思い浮かぶようです。
 
A 寺山修司にはこの句を本歌としたと思しき〈売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき〉という短歌があります。
 
B 続いて〈爆音や乾きて剛き麦の禾〉です。
 
A この句が中島斌雄の作品の中でもっとも有名な作品であると思います。昭和29年の作で、このころから中島斌雄の句は「社会性俳句」へと傾斜していきます。
 
B この時期には他にも〈夜の爆音最もひびく蛾の翅に〉〈スト九旬赤旗裂け秋の雨に鳴る〉〈工煙の身に沁むばかり鯉のぼり〉などという句がいくつもみられます。
 
A 「爆音」はどうやら当時のジェット機の発する音響のことを意味するものであるようです。
 
B その爆音が当時の時代状況だけでなく、この間の「戦争」の影をも喚起するところがあるようですね。
 
A また「乾きて剛き麦の禾」という表現にも、その乾いた麦の痛覚を伴うような鋭い質感から、「戦争」の影を連想させるところがあるようです。
 
B 続いて〈星がともだち石焼いもを石から掘り〉を取り上げます。この句は昭和33年の作です。
 
A この句も中島斌雄の作品の中では、割合有名なところがあると思います。
 
B 基本的には、「星」と「石焼きいも」のみで構成された句ですね。
 
A 単純に冬の星空の下で、その星空を仰ぎながら、石の中から焼きいもを取り出してそれを食べているということなのでしょうね。
 
B 冬の星の冷やかな光と、熱された石と焼きいもの温度による対比。そして、そこに焼きいもから立ちのぼる湯気と、それを食べる人の息の白さも加わるようです。
 
A そういったやや幸福とでもいうべき情景が「星がともだち」というやや幼い感じのする童話的な表現から感じられるようですね。
 
B 先ほどの〈子へ買ふ焼栗夜寒は夜の女らも〉を連想させるところがありますが、この句からはそういった現実の重さは感じられないようです。
 
A 続いて〈掌にのせて白桃無傷無量光〉を鑑賞しましょう。
 
B この句は昭和34年の作です。この頃から中島斌雄の作風は、所謂「社会性俳句」から徐々に変化を見せ始めるようになってゆきます。
 
A この頃から、俳句表現における「新しみ」とは何かといった問題を追及し、その思索の深まりと共に中島斌雄の俳句は現実的な世界からどちらかというと抽象的な想念の世界へと足を踏み入れていくこととなるようです。
 
B たしかにこの〈掌にのせて白桃無傷無量光〉という句をみると、単純に現実の景物をそのまま句にしたものではないようです。
 
A 「掌にのせて白桃無傷」までは現実における具象の世界なのですが、下五の「無量光」という表現により、一気に句の世界が象徴の域にまで飛躍しています。
 
B 最後の「無量光」という表現により、まるで白桃そのものが発光するといった超現実的なイメージが現出するようです。
 
A まさしく「アミターバ」の光といった感じですね。永田耕衣の〈白桃を今虚無が泣き滴れり〉を思い出しました。
 
B そういえば耕衣も中島斌雄と同じく一時期小野撫子の「鶏頭陣」に所属していた時期があります。
 
A この後、さらに中島斌雄の作品は象徴の領域へと深く踏み込んでゆくことになるようです。
 
B この時期の作品としては〈くらげ透く雲を墓標としたる日々〉〈蝌蚪沈むつぶやき黒くひびき合い〉〈痩身を月光が透く海が透く〉〈郭公を霧に閉じては袋掛け〉〈赤い半月砂漠まがいの丘登る〉などがあります。
 
A 続いて〈月光の底で火となす枯牡丹〉を取り上げます。この句は昭和38年のものです。
 
B この句も単純に現実の景物をそのまま写しとったものではないようなところがありますね。
 
A まず、「月光の底」と表現したことで非常に大きな空間を捉えています。
 
B その後の「火となす」という表現は少し変わった感じの表現であるように思われるところがあります。枯れた牡丹を「火となす」であって、「火となる」ではないようですね。
 
A 「火となす」ですから月の光の底で、枯れた牡丹を燃やしているということなのでしょうか。
 
B 牡丹の花が火の中で甦るようですね。そしてそれを月の光が包みこんでいます。
 
A 月の光の中における火の色が、凄絶なまでの鮮やかさを感じさせます。
 
B 実の作品でありながら、どこかしら虚の世界にも通じているかのような印象がありますね。
 
A 続いて〈礁の間の囚われ水母白昼夢〉です。昭和45年の作品です。
 
B ここに来ても象徴性への志向は顕著のようですね。岩礁に取り残された水母、それはまさしく白昼夢そのもののといった感じがします。
 
A この句はメタファーが駆使されているわけですね。このあたりになると、さらに中島斌雄の句業は、益々孤高の歩みとでもいうべき趣きとなってきます。
 
B 昭和40年には〈唐黍焼く辻いつか無頼が身について〉、昭和46年には〈蟇産み終うわが詩いささか晦渋に〉そして昭和47年には〈樹皮へ吹雪老人となること拒む〉という自らの所思を詠み込んだ句もみられます。
 
A こういった句を見ると、中島斌雄の作風の変化というものは、自らの意志によって意識的に進められてきたものであるということがわかります。
 
B この時期の作品としては〈気泡のように蜜蜂巣だち雲流れ〉〈山中に地球儀まわし霧深める〉〈未知へ向け雪煙の樅伐り倒す〉〈旅果てずスパゲッティに霞まぶす〉〈雪林が流星の墓蒼い墓〉などがあります。
 
A 続いて〈神の瞳と子の瞳重なり枯れる天〉です。昭和48年の作です。
 
B この句もその表現は抽象性、象徴性を強く帯びています。
 
A イメージの表出が最早普通のものではなくなってしまったようなところがありますね。「神の瞳」と「子の瞳」を同一視しているとでもいうのでしょうか。
 
B その後に「枯れる天」という表現がやってきます。なにかしら人智を超越した存在がこの句の中にはイメージされ象嵌されているようです。
 
A この時期には他に〈山蝶のみちびく夕日デスマスク〉〈冬銀河けぶる左右に女弟子〉〈火の山の雪あおあおと一人旅〉〈谷底へ塔の光背大落花〉などという句が存在します。
 
B 続いて〈雉子の彩雪林を撲つ命がけ〉です。この句は昭和51年の句です。
 
A 雪と林のみのモノトーンの世界における華やかな雉子の姿は、まるで抽象性の高い超現実的な句を創出し続ける中島斌雄自身の自画像のようにも思われてくるところがあります。
 
B この時期には〈音楽は氷る樹の根に星からめ〉〈殉教やどたりと蛇が屋根裏に〉〈山中に銀河を語る大銀河〉〈黄落や大工の群れにイエス居て〉〈方舟で万緑の梢漂わん〉〈鯉裂いて取りだす遠い茜雲〉〈入寂の谿あふれ翔ち木の葉蝶〉などといった作品が見られます。
 
A 続いて〈山椒魚をつつむ山の香銀河の香〉です。この句は昭和54年の作です。
 
B 山椒魚というミクロの視点から、「山の香」そして「銀河の香」という二重の広範な表現によって山の全容さらには銀河という宇宙規模とでもいうべきマクロの視点へまで世界が広がるようです。
 
A 中島斌雄の作品にはこのように宇宙空間にまでその作品世界が及ぶようなものが多く見られますね。
 
B 続いて〈春の月の先へ先へとわが一騎〉です。昭和57年の作です。
 
A この句も先ほどの〈雉子の彩雪林を撲つ命がけ〉と同じく自身の姿を詠んだものとみていいでしょう。
 
B たった一人の道行きとでもいったようなところでしょうか。この句を見ると粕谷栄市の「歌」という詩を思い出します。その中の一部を引用すると〈歌のようなものを信じて、この世で生きると、ある日、ひとりの男は、芒ばかりの野を、どこまでも、馬で行かねばならない。〉といったような内容のものです。
 
A 続いて〈原神という蒼き眉宇銀河の刻〉です。この句も昭和57年の作です。
 
B このとき中島斌雄の年齢はもはや70代前半ということになりますね。
 
A ちょっと信じ難い事実ですね。「原神」とその「蒼い眉宇」、それが「銀河」と取り合わせられることでその「原神」の「眉宇」がまざまざと顕現してくるような感じがします。一種のコズミックワールドとでもいったものでしょうか。
 
B 他にもこの時期には〈美吉野の曼陀羅埋めよ花の雲〉〈天上に緋鯉遊戈山の澄み〉〈雪降りぬ唇ひき結ぶ鮫の上〉などといった句があります。
 
A 昭和58年に〈火の山を炎えつつ孤り越え往けり〉という句が見えますが、まさしく中島斌雄の歩みはこの句の情景そのものであるとでもいうべきような雰囲気がありますね。
 
B 最後に〈エビネラン一角獣をさしまねき〉を取り上げます。昭和60年の句です。

A この句は中島斌雄が生前発表した最後の作品です。「麦」昭和60年5月号に発表されたもので、「詩人像」という前書が付された7句のうちの1句です。
 
B 「エビネラン」とは、「海老根」という植物のことで「海老根蘭」とも書くとのことです。これは春の季語であるそうです。
 
A 「エビネラン」の咲く場所で、「私」が「一角獣」を「さしまね」いているということなのでしょうか。
 
B 「一角獣」は「ユニコーン」という伝説上の生物であり、処女の懐でのみおとなしくなるそうです。
 
A ということは、「一角獣」を「さしまね」いているのは、若い女性ということになるようですね。「エビネラン」という花は、その女性の存在を象徴させるために配置されたものであるのかもしれません。
 
B このような作品を見ると、中島斌雄は最後までセオリー通りの在り来たりな作品を書くことを自らに戒め続けたように思われてきます。
 
A さて、中島斌雄の作品を見てきました。
 
B 今回、この中島斌雄の全句集を通読したのですが、その句業は、質、量ともに大変重量感のあるものであると思われました。
 
A 全句集に収められた句は、中島斌雄が俳句を始めた大正後期から昭和60年までの約60年間という長大な期間に及ぶもので、その総数はおおよそ4200~4300句ほどということになります。その句数の量の多さもさることながら、中盤から終盤までの作品の晦渋さによる読解の困難さも加わって、それらの作品を通読するのはなかなか容易ではないところがありました。
 
B はじめのあたりはまだ俳句らしい俳句が並んでいるわけですが、その歩みの半ばあたりからは緩やかなペースながら、その作品世界は実験性による晦渋さや象徴性を加え、静かながらも徐々にヒートアップしていくようなところがありますね。
 
A そのため、今回は作品の選についても大変な困難を感じました。
 
B この作者については作品全体を通して読まないと、その実質が見えてこないような側面が確かにありますね。
 
A 実験的な作風というと戦後はその多くが、高柳重信や金子兜太の周辺やその系譜の作者で占められているようなところがありますが、このように高柳重信の関係でもなく、金子兜太の系統にも属さず、独自の道をひたすら歩み続けたという事実もなかなか興味深いものがあります。
 
B まさしくこの作者の存在は「異色の俳人」としか形容できないところがありますね。そのことだけでも、中島斌雄の歩みというものが如何に孤独なものであり、また多くの困難を伴うものであったかということが容易に想像できるような気がします。
 
A しかしながら、その作品については、これまで述べてきたように全体的に実験的な作品が多いため、言葉が有機的に結びついていなかったり、表現として完遂されていないのではないかと思われるものも多く、その句業について全体としては必ずしも優良な作品や成功作ばかりが示されているわけではないということもやはり事実であるという気もしました。
 
B たしかに全句集を通読すると、その作品の全体から伝わってくる迫力というものは紛れもないところがあるのですが、秀句率についてはけっして高いとは言い難いところがありますね。
 
A それでも長い歳月にわたって営々と「新しみ」を追求し続け、常凡に堕することをひたすら忌避し、最後の最後まで一歩たりとも後ろへも引くことのなかった中島斌雄のその愚直とでもいうべき姿勢には、正直、感動的なものを覚えました。
 
B たしかに中盤からラストへ至るまでの道程には学ぶべきところが少なくないのではないかと感じるところがありました。
 
A 中島斌雄の作品は、現在ではあまり注目されないところがありますが、それでもそのコズミックな作品世界は、今なお静かな威容を湛えているものであると思われます。

 

選句余滴

 
中島斌雄 
 
初暦イエスパウロの道あり ⇒「道」に「ことば」ルビ
 
鷹ゆきて静かに蒼き峯のそら
 
樹氷群黙せり吹雪天に鳴り
 
妻病むとわが割る氷夕焼す
 
月光の外套のまま歩み入る
 
一灣の月下なりけり夜光虫
 
白地はや銀河の冷えの躬に及ぶ
 
砂丘に食ふトマト烈日より熟れし
 
地の嘔吐蒼き聖夜の星が瞰る
 
葡萄掌に重し月下の鐡路踰ゆ
 
置手紙西日濃き匙載せて去る
 
蜘蛛の巣ねばる揚羽を天へ放ちやる
 
神苑に飼はれ鷹の眼飢ゑふかし
 
詩を訳す銀河の冷えのただなかに
 
聖者の手手袋透し燃ゆるかな
 
寒旱子の画の戦車みな火噴く
 
霧の車窓の暁の灯十字十字なす
 
雪の帰郷誕生石の赤深まり
 
降誕祭山上の岩星まみれ
 
痩身を月光が透く海が透く
 
郭公を霧に閉じては袋掛け
 
赤い半月砂漠まがいの丘登る
 
岩の根に錨は孤り夜の秋
 
皿白く秋雲往かす魚の骨
 
唐黍焼く辻いつか無頼が身について
 
気泡のように蜜蜂巣だち雲流れ
 
ほととぎすこのドア茜色に塗ろう
 
山中に地球儀まわし霧深める
 
未知へ向け雪煙の樅伐り倒す
 
蟇産み終うわが詩いささか晦渋に
 
旅果てずスパゲッティに霞まぶす
 
雪林が流星の墓蒼い墓
 
青い星刷る岩山の吹雪以後
 
山蝶のみちびく夕日デスマスク
 
冬銀河けぶる左右に女弟子
 
火の山の雪あおあおと一人旅
 
谷底へ塔の光背大落花
 
罠を見に白息濃くす夜明け星
 
音楽は氷る樹の根に星からめ
 
殉教やどたりと蛇が屋根裏に
 
山中に銀河を語る大銀河
 
黄落や大工の群れにイエス居て
 
方舟で万緑の梢漂わん
 
鯉裂いて取りだす遠い茜雲
 
入寂の谿あふれ翔ち木の葉蝶
 
鵯の眼は澄むむらさきの実を嚥んで
 
まぼろしの顔降る雪の奥の奥
 
鱒となり夜明け身を透く水となり
 
罠の歯を彌陀を眠らす大雪野
 
頸ねじれし夢のコンドル赤い砂
 
ひるがえる嶺々牧水の黒マント
 
氷る滝幾千氷菩薩現れ
 
四月尽大樹ふたたび歩きだす
 
黒蝶の分霊やまず青山河
 
冬銀河じゃりりと撓むわが一樹
 
墓山で光りの蛇とすれちがう
 
聾いて降り立つ銀河系の駅
 
美吉野の曼陀羅埋めよ花の雲
 
天上に緋鯉遊戈山の澄み
 
雪降りぬ唇ひき結ぶ鮫の上
 
大ムラサキ羽化のふるえの永と劫
 
天の声灼けんばかりに白い道
 
火の山を炎えつつ孤り越え往けり

 
 

俳人の言葉
 

俳句は、重層構造をその本質として持つ、その表層は、往々にして自然の小景だが、その内層は、より大きな、より深い何かを思わせるべきである(…)それは、ときに自然の摂理であり、人間の運命である。ひっくるめていえば、宇宙万物の在りようそのものである。
 
中島斌雄 『現代俳句の創造』(昭和56年 毎日新聞社)より

--------------------------------------------------

■関連記事

俳句九十九折(8)俳句アンソロジー・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(9) 俳人ファイル Ⅰ 下村槐太・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(10) 俳人ファイル Ⅱ 小宮山遠・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(11) 俳人ファイル Ⅲ 三橋敏雄・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(12) 俳人ファイル Ⅳ 阿部青鞋・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(13) 俳人ファイル Ⅴ 飯田蛇笏・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(14) 俳人ファイル  宮入聖・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(15) 俳人ファイル Ⅶ 石川雷児・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(16) 俳人ファイル Ⅷ 正木浩一・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(17) 俳人ファイル Ⅸ 神生彩史・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(18) 俳人ファイル Ⅹ 火渡周平・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(19) 俳人ファイル ⅩⅠ 大原テルカズ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(20) 俳人ファイル ⅩⅡ 中田有恒・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(21) 俳人ファイル ⅩⅢ 島津亮・・・冨田拓也   →読む


-------------------------------------------------

■関連書籍を以下より購入できます。












4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

こんにちは。

全句集を息を切らしながら何度か通読したクチです(もうずいぶん前ですが)。

最初期は別にして、詩的純度や韻律のテンションを高いまま持続しようとする句作が、「牛後」(73歳)以降、のびやかな、解放感のある句作へと変化した感じがします。「牛後」とそれ以降が私自身は好きです。

匿名 さんのコメント...

署名がヘンになりました。すみません。
(コメントは削除できないのですね?)

上のコメントは、さいばら天気 でした。

匿名 さんのコメント...

天気さま

コメントの削除ですが、メールしていただければこちらで承りますので、ご遠慮なく。

匿名 さんのコメント...

さいばら天気様

コメントありがとうございます。

なるほど。
確かに終盤あたりから「軽み」とでもいったようなものが作品の上に現れてくるようですね。
「セレクション俳人 対馬康子集」に所載の対馬康子さんの「中島斌雄における宇宙」という評論にも「五十七年以降、斌雄の句境はいよいよ沈潜の境に入る。現代俳句とは何かを追求し続けた斌雄にとって、その理論と模索の時代は終わりつつあった。」という指摘があります。