2008年9月20日土曜日

時評風に(坂巻純子/作品番号5)・・・筑紫磐井

時評風に(坂巻純子/作品番号5)

                    ・・・筑紫磐井

猪村直樹、武藤尚樹への手紙原稿を整理していると、坂巻純子あての手紙原稿が出てきた。坂巻純子(昭和11年~平成8年)は「さかまきすみこ」と読む。周囲も「おすみ」さんと呼んでいた。柏の資産家の娘で生涯独身で暮らし、決して下品ではない、しかし姐御肌の女流であった。福永耕二と坂巻純子は、若手の多い「沖」にあって、一格上の兄貴・姐御のような存在であった。実際、「沖」で初めて俳人協会新人賞をとったのは福永耕二(受賞時には亡くなっていたが)であり、耕二の4年後に純子がとっているから、まあ脚光を浴びている二人であったといえようか。耕二については最近しばしば書き、現代俳句協会の講演でも詳しく語ったからここでは繰り返さない(富田拓也氏が連載で触れているので、こちらも見ていただきたい)。純子には〈炎天をゆく胎内の闇浮かべ〉〈たらたらと螢火夢の継目かな〉の『新絹』(昭和51年 牧羊社)、〈朝寝してこの世しんかんたりしかな〉の『花呪文』(昭和59年 卯辰山文庫)という句集があり、特に後者で受賞したのだが、この頃の手紙の控えは私の手元にないのでどういう感想を持ったかは定かでない(むしろ私の手紙に対する純子の礼状の方が残っている)。次の『夕髪』(昭和63年 富士見書房)、『小鼓』(平成8年 本阿弥書店)に寄せた手紙控えを再構成して純子を語ってみたい。

一点の紅のうごきし雪間萌     『夕髪』

夕髪や嬥唄の山の青しづく

真似てみてやつぱり怖いをどり喰ひ

梶の葉や姉と姿見かはりあひ

離れにて足拭ひゐるいなびかり

蟹せせる美しき額をつき合せ

純子の特徴のよく分かる句である。私が冒頭に述べた純子の属性はこれらの句に端的に表れているといってよい。おそらく、杉田久女、三橋鷹女、橋本多佳子の系譜を継ぐものであることは容易に想像できよう。それは本人も意識していたらしく、〈夏痩の好き勝手してゐたるなり〉などという句を詠んでいるがこれは行き過ぎ。

ただ純子に影響を与えた先人と違って、日本趣味に止まらなかったことは〈純白のシルクの裾を露の世へ〉〈森番の蟇に裳裾をつかまれし〉のような句が見られることからも頷ける。一歩踏み出す向上欲にも燃えていたのだ。

面白いのは、こんな華やかばかりではない句もこの句集からは見え始めていたことで、私には結構新境地に見えたものである。

蛍まつもうひとり待つ盃伏せて

ひだり足ときに浮かせて桃摘花

ねんねこのあのふくらみは眠りゐる

その次の『小鼓』は純子最後の句集となるわけだが、この句集に収められた作品こそ純子にとって最もドラマティックな時期の俳句であった。すでに純子は病気がちであり、私もほとんど会うこともなくなってしまったが・・・。

みそはぎに水ふくませる衰微かな  『小鼓』

ひたち野や御代がはりなる麦二寸

裏山の硫黄濁りに春は遅々

純子の基調は変わらないながら、表現の仕方が「沖」特有のダイレクトな譬喩から巧みな表現に変わってきている。純子のスタイルは純子独特とはいいながら誰かに真似できるものであったが、この句集ではちょっとうなりたくなるうまさとなってきた、技巧が生命力を超え始めたような印象さえ受けたものであった。

酔ふ前のしーんとしたる冷酒かな

何不自由なきアパートに闘魚飼ふ

台風籠りとは滝裏にゐるごとし

これが前句集で純子の新境地とよんだものの展開であり、純子がことさら拒否し続けた境涯性がどことなくほの見えてくるのは、遺句集に近い最後の句集だけに、後々になって考えると哀れである。

師の如く痩せれば見ゆる狐火か

初夢の鳴らぬ鼓に泣きてけり

白薔薇や狂ひもせずにじつと居て

圧巻はこのあたりであろう。「師の如く」は能村登四郎の相貌を知っていれば何となく納得できる作品だが、狐火が見えるというのは実は異常な境地なのである。とりわけ、それは登四郎ではなく純子に見え始めているのだから。師の如く痩せた純子を思うとぞっとする。

「鳴らぬ鼓」とは、宝生流にある能「綾鼓」(世阿弥の「恋の重荷」の元曲。鳴らぬ綾の鼓を鳴らせば女御との恋が叶うとだまされ死んだ老人の霊が女御を責め苛むという凄い曲)のこと、というと私が常々嫌っている過剰鑑賞になりそうだが、実はこうした深読みは今回ばかりは適切なようである、純子はこの第四句集を『綾の鼓』と名付ける意志であったが、由来を知る登四郎が強いてその名前を避けさせたという。綾の鼓伝説を承知してそのコンテクストの上で師弟はこの句と題名をやり取りしていたのだ。

「白薔薇」は純子の最後の燃えさかるような瞬間にふさわしく、〈夏痩の好き勝手〉の句とは比較にならない。
その後の闘病期の句は淡々として、最後を待っているような気がしないでもない。〈問診に短く答へ汗したり〉〈お負けほどの目方増えたり夜の秋〉〈冷まじや二時間待つて名を呼ばる〉。本稿第1回で伊藤白潮氏を紹介したが、同じ病気と言うだけではないだろうが傍観的な態度が生まれているようだ。このちょっと前には、純子は「月に一度がんセンターに通いですが、医師に恋してますので何よりの楽しみ。俳句にはもっと恋して居ります」というしゃれた手紙をくれたりしていたのだが。

『小鼓』の感想を書いた手紙を8年7月28日に出したがさすがに今度は返事はなかった、じっさい、その時はもう純子は最後の入院をしていたはずだ。そしてその年の10月31日に亡くなっている、享年60歳。攝津幸彦の亡くなった二週間後であった。登四郎の追悼句は〈露の世のこよなき弟子を見送りし〉。同年同人の北村仁子も失い、〈双翼をもがれし年を逝かしむる〉と詠んだように、登四郎の晩年は最も忠実な弟子を相次いで失う失意の晩年であったのだ。

      *       *

高山れおな氏が『鑑賞 女性俳句の世界』を小気味よく切っているのを読みながら、このシリーズの女流のラインアップが何を語るのかを考えてみた。明らかに坂巻純子は忘れられかけている作家だからである。

今回の時評は、作品番号1、2の蓋棺録に近くなった。作品番号3、4の私の筐底録は、現に存命中でありながら忘れ去られた若い俳人たちの(私なりの)再発見であった。その意味では、俳壇から去るという彼ら自身のとった行為が忘れ去られる原因となったのはよく分かる話である。しかし、坂巻純子のように、過去活躍し存命中にかなりの評価を得ながらいま『女性俳句の世界』の編纂の中でラインアップから外れるにはどんな原因があるのだろうか。『女性俳句の世界』編集部の人選の当否を問うというのではなく、そうした評価基準をいやおうなく変化させる時代の勢いを問うてみたいのである。これは今日の(読者でもあり作者でもある)あなたないし私が、近い未来にどのように忘れ去られていくかの予測にも繋がる話なのである。例えば、前回の高山論で言えば、江戸時代の多代女という作家の100年以上にわたる評価の浮沈と関わり合う問題でもある。

坂巻純子を、杉田久女、三橋鷹女、橋本多佳子の系譜を継ぐ者と言ったが、独特の美意識の保持者である点で共通するということである。かって女流のあり方としては典型と思われてきたそのような濃密な情念は、今の時代、いささか負担となってきてしまっているのかも知れない、―――と中村安伸氏の連載「佐藤文香論」を読んで思う次第。(9.17)

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1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

筑紫磐井様

もう十五年ほども前になるのでしょうか、いちどだけ磐井さんに連れられて「沖」の中央句会に参加したことがあります。後にも先にも、ああいうマンモス句会に参加した唯一の体験です。その句会の折り、最高点句を取ったのが坂巻さんでした。その作品はっきりとは記憶していませんが、季語が白玉で、そこに女性の情念をとりあわせていたこと、小生はこういう句風はもはや古いのではないかと磐井さんに批判的感想を述べたことを覚えております。また、その句に点が入るたびに、背筋をのばし、毅然とした態度で名乗りをあげる坂巻さんのよく通る声も耳に残っております。御稿読みつつ、往時渺茫の思いしきりでした。