■俳句九十九折(3)
昭和40年代作家の成果
・・・冨田拓也
俳句九十九折(3) 冨田拓也
A 第三回目です。前回の俳人名のリストを改めて眺め、いまさらながらあれで本当によかったのだろうかという思いがします。あの中に俳句の全容が必ずしも存在するのだろうかという疑念というか。
B 何かを選ぶということは一種の暴力でもありますからね。山本健吉然り。高柳重信然り。
A なるべく個人的な嗜好や好悪を越えて広範な視野から選出しなければならないと思っていたのですが、そうなると、どうしてこの作者を入れて、この作者を入れないのかという疑問が際限もなく襲ってきます。また、見落としや取りこぼしもやはり多いです。幸田露伴、石島雉子郎、相島虚吼、赤城さかえ、松井利彦、阿部誠文、深谷雄大、復本一郎、黛まどか、伊丹三樹彦、松本恭子、小林貴子、秋尾敏、坂本宮尾、永末恵子、小林千史あたりの名前が欠けていました。また、当然ながら名のある人たちばかりが俳句の世界をかたちづくっているというわけでは必ずしもないという事実もあります。
B まあ、何事においても完璧ということはありえません。無論、だからといってそのことに甘えてはなりませんが、これからも引き続き改訂を繰り返す不確定な「おおよその目安」くらいのものということにして、いまのところはとりあえず放置しておきましょう。
A さて、前回は戦後の俳句の歴史である金子兜太、高柳重信、鈴木六林男、佐藤鬼房、飯田龍太、森澄雄、赤尾兜子、加藤郁乎、寺山修司から昭和四十年代の阿部完市、飯島晴子、折笠美秋、河原枇杷男、安井浩司、鷹羽狩行、上田五千石、酒井弘司、大岡頌司、福永耕二、竹中宏、大串章、矢島渚男へと至る流れを見てきました。
B 今回はその続きですが、もう少し昭和40年代を前回よりも詳しく見る必要性を感じました。もう一度1961年(昭和36年)の現代俳句協会の分裂から見ていくことにします。どうやらこの現代俳句協会の分裂のあたりから、いままで猛威を奮っていた前衛俳句運動が退潮してゆくようです。そして、次の1962年(昭和37年)は、3月に富澤赤黄男没、4月に西東三鬼没、11月に飯田蛇笏没、という年となります。
A すごい年ですね。この後は前衛俳句運動の反動から伝統や古典の見直しが始まり「飯田龍太・森澄雄の時代」ともいわれるようになっていきますから、蛇笏のここでの逝去は俳句史において象徴的にすら感じられます。
B この後の昭和40年代には「龍太・澄雄の時代」と併行して、宇多喜代子さんの「個の凍結とその時代―昭和四〇年代の問題」という評論に〈とりわけ阿部完市と河原枇杷男が刊行した句集の俳句は、はっきりと従来とは違った時代が来たという時代の推移を感じさせるものであった。〉とあるように、阿部完市、河原枇杷男、安井浩司などによる「存在のエポックともいうべき時代」が存在するといえそうです。どうやらこのあたりから俳句の多様化が進んでくるようです。そして、高度経済成長に伴う女性の俳句進出などによって俳句の大衆化が始まります。そういった状況の中から阿部完市、飯島晴子、折笠美秋、河原枇杷男、安井浩司、上田五千石、酒井弘司、大岡頌司、福永耕二、竹中宏、大串章、矢島渚男などの伝統から前衛まで様々な作風を持った作者たちは登場したようです。
A しかしながら、この中でもやや特異な作風である阿部完市、飯島晴子、折笠美秋、河原枇杷男、安井浩司、竹中宏といった作者の成果が、現在の俳句の世界ではほとんど不問にされているようなところがある気がしますね。伝統的な作風の福永耕二にしても現在、いまひとつポピュラリティを得ていないというか。
B 齋藤慎爾さんと宗田安正さんの「俳壇」2005年の8月号の対談を引用しましょう。
宗田(発言) 河原枇杷男、安井浩司、阿部青鞋とか、あの辺が評価されないんだ。前衛俳句の後に「存在の時代」みたいなのがあるんじゃないかと思うんだ。潜在意識の世界や非意味の詩に踏み込んだ阿部完市を含めてもいい。阿部青鞋なんて全然話題にもならない。橋間石だってもっと論じられていいね。全句集が出たけど。そういう俳句の、特に内容が無視されて、今はあまり相手にされないんだ。何かおかしなことになったね。技術ばっかりで。
齋藤 そう。僕らが見たところでも、永田耕衣、河原枇杷男、阿部青鞋、橋間石、安井浩司、ここらへんだ。龍太さんにも文句を言ったんだ、なぜ河原枇杷男を入れなかったんだって。平井照敏のアンソロジーでも河原枇杷男が落ちている。
A 筑紫磐井さんも1999年の『俳句朝日増刊 現代俳句の方法と領域』に「昭和四十年代の若い匂い」という文章で渚男、浩司、頌司、章、耕二、弘司、宏、修司、美秋を上げ〈その前の世代に比べ華々しく報われるところが薄い世代なのではなかろうか。〉と書いておられます。
B やはり阿部完市、飯島晴子、折笠美秋、河原枇杷男、安井浩司、竹中宏あたりの作品は従来のオーソドックスな俳句に比べると少し難解な傾向の作が多いです。どれも玄人好みでややとっつきにくいというか。しっかり読むとその言葉の働きが非常にスリリングで面白いのですが、なかなかテキストと正面から向かい合うのが大変なところがあります。おそらくその難解さの裏側には表現意識における尋常でない「何か」が潜んでいるからなのでしょう。安井浩司『阿父學』、飯島晴子『蕨手』、竹中宏『饕餮』あたりを再読するとなると私もやはりやや気後れがしてしまいます。
A 福永耕二にしてもその作品は、句集を読むと結構複雑というか緊密な構造を持っている作品が多いです。どこか一句一句に容易に人を寄せ付けない緊迫感があり、それがいまひとつこの作家を一般化させない要因となっているのかもしれません。信じ難いことかもしれませんが、福永耕二は、『昭和文学全集35』(1990年 小学館)所収の飯田龍太編『昭和俳句集』、平井照敏編『現代の俳句』(1993年 講談社学術文庫)、長谷川櫂編『現代俳句の鑑賞101』(2001年 新書館)、金子兜太編『現代の俳人101』(2004年 新書館)といった各種のアンソロジーにも収録されていません。
昼顔や捨てらるるまで櫂痩せて
流星のあと軋みあふ幾星座
凧揚げて空の深井を汲むごとし
落葉松を駈けのぼる火の蔦一縷
新宿ははるかなる墓碑鳥渡る
句集『踏歌』(1980年刊)より
B 安井浩司と竹中宏については林桂さんが『俳句・彼方への現在』(詩学社)の1989年2月の時評「安井浩司と竹中宏」で〈安井浩司も竹中宏も、内面を掘りさげてゆこうとするゆえか、個人の方法を異にしながら、それを越えて不思議と言葉の重さに於いて共通の手応えが感じられる。ふたりは、安井の言葉を借りれば「絶対言語への信仰」にたどりついてしまった、いわば自分の言葉を掘りあててしまった作家である。しかし、彼等を俳句史的にあるいは俳壇的にどのように書こうとするのか、まだ多くの俳人の関心の外にあるようだ。そして、そのための読みと批評もまた多くの関心の外にあるのであるから。〉と書かれておられます。
A 現在はこの時評から約20年後にあたります。この二人の作家への評価は残念ながらいまだに不問にされているというべきでしょうか。
安井浩司
鳥墜ちて青野に伏せり重き脳
塋をやくやしじまの空に馬具ひとつ
まひるまの門半開の揚羽かな
麦秋の厠ひらけばみなおみな
稲の世を巨人は三歩で踏み越える
睡蓮や内なる人のみ戸を開く
存在みな捲かれて引かれ行く春に
天上の鮫を庭師は切り落とす
花曇る眼球を世へ押し出せど
初旅と頭蓋の中にただよう雲と
草という一字の遺言頂かん
『安井浩司選句集』(2008年 邑書林)より
竹中宏
火は薪をおほふ涅槃に復活なし
審きもまた光と響き大牡丹
暁けゆくや電車のなかに毬つきつつ
白孔雀尾をしぼり宵ひくき瀧
鉄斎の老い黒き瀧赤き瀧
天眼よりのびた片手が噴水折る
うすぐもり瞰れば京都は鮃臥す
袋かけ金神の血がながれこむ
瞬いて首の飛んだる青嵐
句集『アナモルフォーズ』(2003年 ふらんす堂)より
B 河原枇杷男についてですが、安井浩司がこの世ならぬ「昼の俳人」だとすれば、河原枇杷男はまさしくこの世ならぬ「夜の俳人」といった感があります。
身の中のまつ暗がりの螢狩
まなうらに蝮棲むなり石降るなり
或る闇は蟲の形をして哭けり
月天心家のなかまで真葛原
星月夜こころに羽搏つもの棲みて
A 飯島晴子にしても始めのころは随分難解ですね。意味性を超越した言葉の迫真力が感じられます。
一月の畳ひかりて鯉衰ふ
樹のそばの現世や鶴の胸うごき
さるすべりしろばなちらす夢違ひ
天網は冬の菫の匂かな
鶯に蔵をつめたくしておかむ
B うーん、こういった作者たちの作品を見てゆくと、作者としてなんとも不幸な運命を背負っているような感じがしますね。優れた達成を示してもいまひとつ理解されず、まともに評価もされない。その圧倒的な孤独とそれゆえの栄光。そして、そういった誰も覗き込むことのない精神の深みに沈潜し、存在の内部の暗がりに目を凝らすという孤独な営為に耐え続けたからこそ、これらの作者たちはその気高さと光量を自らの作品の裡へと招き寄せることが可能だったのかもしれません。
A その孤高の作品からは心の奥深いところから掘り起こされたゆえのただならぬエネルギーの強さが感じられます。ひたすら平明を標榜し洗練を重ね一つの完成を示し、その表現レベルの飽和点に達した感のある現在の俳句にとって、異質ではありながら、学ぶべき原初的で混沌としたエネルギーがここにはあるのではないでしょうか。
「俳人の言葉」 第3回
書くことの無意味さを知らずして、書くことの意味を識ることはできない。
河原枇杷男
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■関連記事
俳句九十九折(1)・・・冨田拓也 →読む
俳句九十九折(2)・・・冨田拓也 →読む
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