2008年9月13日土曜日

佐藤文香句集『海藻標本』を読む(5)・・・中村安伸

佐藤文香句集『海藻標本』を読む(5)

                       ・・・中村安伸

前回〈水平てふ遠くのことや夏休〉という句について〈客観的であると思われている世界のとらえかたを、自分自身を確固たる中心に据えることから再構築しようとするアプローチ〉というように書いたのであるが、この部分こそ佐藤の俳句の根幹をなしている問題である気がしたので、もう少々これに取り組んでみようと思う。

たとえば「客観写生」を私はつぎのような手法であると解釈している。対象を――まるで主体と切り離されたものであるかのように――凝視する。そのようにして対象が主体の内面世界とシンクロする瞬間を待ち、言語を用いて固定するのである。

それに対し〈水平てふ〉の句から感じるのは、主体をひとつのセンサーのようにして、流動する世界を感知し定着させるという方法である。このセンサーは世界の外側にあるのではなく、世界の中にゆるぎなく置かれている。

ときに主体は行為によって世界をゆるがせることもある。そのとき、主体には一種の分裂が起きているのであり、ゆるぎなく置かれたセンサーとしての主体と、行為しながら世界を動揺させる主体のふたつが、ひとつの肉体のなかに同時に存在しているということになるだろう。

〈少女みな紺の水着を絞りけり〉の作中主体が、観察する眼であると同時に水着を絞る少女たちの一員であったように。

行為する主体と見る主体が同時に存在し、その二つの役割を峻別することは、前回とりあげた〈友に友と思はれてをる端居かな〉といった作品において「自分自身を客観視する」というアプローチとしてあらわれている。

しかし、このふたつの主体はときに溶融することもある。〈水平てふ〉の句の「遠く」という語、あるいは〈夕暮の長き若布を洗ひけり〉の「長き」という語は、距離や長さの程度を表す語でありながら、他の何者とも比較せずに用いられており、作中主体の主観によって発せられた語であると言える。

これらの作品には、行為する主体――見る主体の位置からは客体である――の主観が、見る主体によって客観視されるという構造があり、独特の浮遊感を醸し出すことにつながるのである。

句の表面にあらわれているかどうかは別として『海藻標本』におさめられた俳句作品においては、世界の内側に主体が置かれていることが多いのであり、そのことが「作中主体を主人公としたひとつの物語」としてこの句集を読むことを可能にしているのだと思う。

 * *

さて、この句集に添えられた池田澄子による「序」は、あるひとつの句をとりあげることからはじまっている。これは『海藻標本』には含まれていないものである。

夕立の一粒源氏物語

佐藤文香本人を知るずっと前から、この作品は私の記憶のなかにあった。俳句甲子園についての報道記事に個人最優秀賞として掲載されたこの句を読み、深く印象づけられたのであったと思う。

この句を読んで私は、またもや叱られるかもしれないが、まるで「辞世の句」のようであると感じてしまった。

辞世の句とは、その完成度や価値などとは別に、作者の人生の総量を天秤の片方の皿に置いたなら、それとつりあう重量を引き受けることになるものだ。作者の人生の総量と書いたが、俳人であれば、作品としてのかれ、彼女自身の総量、すなわち一生のうちに生み出したすべての作品の総量ということになるだろう。

この句を「辞世の句」のようだと感じたのは、これが、佐藤文香という存在の未来における総量をあらかじめ引き受けているように思えたからだと思う。

また深読み癖が頭をもたげてくるのであるが、この句の「夕立の一粒」には作者自身が投影されていよう。そして大胆にとりあわせられた「源氏物語」は、周知のとおり日本語で書かれた最古の長編小説であり、日本の伝統的美意識の源泉のひとつである。大地へ降りそそぐ夕立は、やがて「源氏物語」をその源流とする美意識や文化の大きな流れへと合してゆく。その流れのひとつの粒子として、自分自身の生涯を予言するかのようにして書かれた句と感じたのだ。

この作を句集に入れなかったのは、池田澄子が記しているように、度胸をもって「捨てた」ということなのだろうか?

しかし、結果としてこの句は池田の「序」を引用するかたちで句集の帯に印刷されているのであり、句集に収められなかったことによって、かえってその存在感を増す結果となっている。

このような結果も佐藤の狙いどおりのものだったかどうかはわからないが、池田が言うとおり記念碑的なこの句は、いまのところ、第一句集のすべての句とつりあうだけの重さをひきうけるべき位置におかれているようである。第二句集が上梓されたなら、さらにその分の重みを加えることになるであろう。

しかし、もしかしたら、この「前もって書かれた辞世の句」が、新しい作品によって上書きされるということが今後起きるかもしれない。いや、ぜひ起きるべきだと思うのだ。それも、子供の頃に抱いていた「夢」が、年を経るにしたがってどんどん縮小されてゆくというようなことではなく、より大規模に、よりクレイジーな方向へと飛躍してほしい、と、これは押し付けが過ぎた言であろうか。

さて、もしもこの句をこの句集におさめるとしたら、末尾に置く以外にふさわしい位置はないだろう。しかしながら、この句を末尾に置いた場合、作品が完結してしまったという印象を強く与えることになってしまう。

この論の最初に述べたように、この句集はひとつの作品として完成させることを強く意識してつくりあげられているのだが、同時に今後上梓されるであろう第二句集、第三句集へとつながってゆく序章でなければならない。それらの句集の積み重ねが佐藤文香という俳人になるのだから、ここで完結させてしまってはいけないのである。映画や芝居の大団円に一陣の不穏な風が吹き込むように、続編への予兆を感じさせる仕掛けがぜひとも必要なのだ。

そのことについては、第3回にてすでに述べたのであった。上記のような仕掛けとして句集末尾に置かれたのが〈七月の防空壕にさいころが〉という句なのだが、私はこれについてやや否定的な見解を示したのであった。つまり「防空壕」という語からの連想によって、この句を戦争俳句の一種として読んだのである。

しかし、あらためて句集をしめくくる作品として読み直してみると、もうひとつ別の読みの可能性に気づかされた。

つまり、第4回に述べた内容に即して言うなら「内蔵しているもの」という分類を行った作品の系統に属するものとして読むことが可能だと思うのである。

「防空壕」から戦争や空襲を連想することをいったん棚上げし、現在も残っている穴倉や洞窟のようなものとして、より即物的に読んだらどうであろうか。スケート靴を仕舞う箱や、時計が動いている暗室のように、暗くてうつろな空間。しかし防空壕は外部へと開口した穴であり、かすかな外光が内側へこぼれ落ちもするのである。

「さいころ」は子供の遊びにも使われるが、本来は博打の道具である。不可視な未来へ向けて、小さな出入り口から差し込むわずかな光線――それでも七月の光の強度はそなえている――を頼りに、長と出るか半と出るか、乾坤一擲、賽は投げられた、とばかりに立ち向かっていく気概を込めたものという読みも可能なのである。

このような読みのほうが、この句をもって句集をしめくくろうとした佐藤の気持ちに沿っているのかもしれない。ただし、以前の読み自体を放棄するつもりは無く、あくまでも両論併記ということにとどめる。

さて、再度〈夕立の一粒〉に戻るのだが、池田はこの句をめぐって、若者のタマシイを捨てた佐藤の潔さに対し、若干の苛立ちを述べているのであるが、句集全体を見まわしても「若者のタマシイ」の痕跡をとどめているものはないのである。おそらく彼女の俳句のなかには、はじめから「若者のタマシイ」は無かったのだろう。

もちろん佐藤文香本人に若者のタマシイが無いということではない。ただ、それを俳句に反映することをまったく考えていない、俳句とはそういうものではないという美意識によって強く自らを律しているのだと思う。

たとえば恋愛や性は馬や古典に託すことでしか陳べようとしないし〈祭りまで駆けて祭りを駆けぬけて〉にある過剰なエネルギーの噴出と見えるものも、客観化されたうえで表現されているのであり、なめらかに仕上げられていて異物感がない。

この強い自制心は、作品の完成度を高める上で役立っていると同時に、この時点での佐藤の限界のひとつともなっているだろう。

池田は佐藤に対し〈大変なライバルの出現である。〉とエールを送った上で、「序」を以下のように結んでいる。

文香は大人になりながら、生きることの怖さや悲しさを知ることで言葉をこそ頼りにし、言葉に向き合うことで一層、人であることのさびしさの極みをも知っただろう。さびしさという強い味方、そこから得たものが佐藤文香の俳句を香らせる。と私はここで言い切る。

自分自身を客体として見つめることは、淋しさをともなう苛烈な行為であるに違いない。人として生まれた以上いつかは一人で死ぬのだし、無条件に自分を受け入れてくれる愛など地上には存在しない。自分が他人と違った特別な恩寵を得ているわけでないと知ることは、底知れない淋しさと向き合うことである。しかし、その淋しさを受け入れること以外に、表現に重みを加えるすべは無いと言ってもいいだろう。

池田自身もやはり、そのようにして淋しさと向き合うことを続けてきたはずである。その共感を込めて「ライバル」という語をあえて使うのだろう。

 * *

佐藤自身による短いあとがきには〈私は俳句を選んだ。つかう言葉のひとつひとつを思い遣ることができる。〉と書かれている。

つかう言葉のひとつひとつを思い遣るということは、語のもつ意味だけではなく、音や姿といったすべての要素のすみずみまでに配慮して組み合わせるということである。きりがないので例句をあげることはしないが、ひとつの助詞のこまやかな働かせ方にまで、佐藤はじゅうぶんに意識的であることが感じられるのである。

そして上記の言葉は「何故俳句なのか」と友人に問われたり、自問自答したりしながら、考えてつづけてきたことに対する現時点での結論なのであろう。

もって生まれ、恵まれた環境によって育てられ、さらに自ら磨いきたであろう言語表現の才を生かす道として「俳句を選んだ」ということを断言しているこの一文には、なかなかの重みがある。

佐藤にとっての俳句は消閑の具や気軽なコミュニケーションツールなどではなく、世界と対話し、あるいは対決するための手段としてしっかりとその手に選び取られた大切な道具なのである。そして、すぐれた使い手こそが道具を進化させてゆく。

 * *

五週にわたって書いて来た「佐藤文香句集『海藻標本』を読む」であるが、そろそろ筆を擱くことにしたいと思う。

『海藻標本』後の佐藤の新たな展開に注目しようと思っていた矢先、新作二十句が掲載された同人誌「里」の最新号が届けられ、彼女がすでに次の段階へと進もうとしていることが見てとれた。そのことについては、また稿をあらためて記したいと思う。

最後に読者へのお願いであるが、俳句作品はもともと多義的なものであり、読者の数だけ異なるニュアンスの読みが存在して良いと思う。私の読みに違和感を感じられることがあれば、ぜひこの記事のコメント欄にそのことを記していただきたい。そのことが、読まれる俳句作品の内実を豊かにすることにつながるだろう。

アジリティ、エラボレーションのみならずインタラクティブ(対話性)ということもまた、このメディアの重要な可能性のひとつなのである。

*佐藤文香句集『海藻標本』は、著者より贈呈を受けました。記して感謝します。

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■関連記事

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5 件のコメント:

高山れおな さんのコメント...

中村安伸様

五回にわたっての佐藤文香『海藻標本』書評、お疲れさまです。トータルでの文字量は七、八十枚にはなるでしょうか。単一の句集にこれほどの紙幅をさいての書評とは、もしや桂信子の「激浪ノート」以来では……というのは冗談にしても、昨今稀有のことには違いありません。しかもその読みたるや句集全体の分析にはじまり、個々の句についても鋭い解釈が示され、堪能いたしました。『海藻標本』自体は小生も目は通し、すぐれた句集だとは思いましたが、中村さんの読みにより、一見したところよりもはるかに周到かつ重厚に編集された句集であると認識しました。「里」誌でも特集が組まれたようですが、中村さんの書評が今後の『海藻標本』読解の叩き台になってゆくものと思います。仲間褒めのそしりを受けようとも、その点は申し上げておきます。当ブログは、新刊俳書に対する迅速にして分量が充分あり、しかも社交的配慮抜きの評価を下すメディアが俳句界に存在しないことをに対する不満をひとつの出発点にしております。まずはその範型を示して貰ったものと存じます。取り急ぎ。

さんのコメント...

  夕立の一粒源氏物語  佐藤文香
 私も、「俳句甲子園」を検索したときに、この句にであってインパクトを受けました。シチュエーションをきめるのは、こわいところがあります。
 俳句甲子園という「若者の場」ときめられたところでは、生き生きとした少しずっこけぎみの句さえ求められることもアリますが、そこをやりすごして、このように大人びた、逆に言えば、若さを抜け出した句を仕上げる、この距離の置き方自体が思春期の巾の裡でしょう。(彼女おませだなあ、私の高校のころはもっと幼稚だったように想います。)

 そうですか。これは句集にははいっていないのですね?辞世とまではいいませんが、源氏物語の「夕顔」をおもいだして、そのはかない雰囲気に似合う句であるなあ、と、作者の物語の構成力に感心しています。こういう句(相聞歌)を差し出された、現代の光源氏が、ふらっとよろめいて、トータル80枚の句集評作家論を画きたくなる気持ちは分かるような気がします。

 文香さんの句集を持っていないので、安伸さんの文章からだけの印象ですが、俳句が上手いと言うべきですが、,むしろ文学的想像力の豊かな方だと想いました。
青春の感慨を、その年齢相応ではなく少し上の大人のふりをした主体賭して設定し、それを仮構をすることがありますが、それも、思春期のダンディズムなのですね。

 あ、安伸氏は、この句ではなくて「水着を絞る少女」をのぞいてしまったのか・・・。
 この句も面白かったです。ひとつだけ、安伸氏への違和感があるのです。水着を絞っているといっても、ほんとに裸なんですか、この女の子達は・・?
 私のおばちゃんリアリズムの視線でとらえると、せめて、下着ぐらいは身につけていたのではないかと・・。これも、このとしごろに自然に発散するコケットリーや世間知を感じますから、(少女というのは、真裸でなにかする、というようなお行儀のわるいことはないと想う。)レースの付いたシュミーズぐらいには着替えていたのではないかと、想うのです。
でも。白い細い「あすぱらがす」とか「スパゲティ」のような裸体のロリータ達が、あるいはバルチュスの少女たちが、迷走的な表情で水着を絞っている、と想像した方が楽しいかも知れない。
 この解釈は、安伸氏特有の身体感覚の比喩でしょう。読み込むこともまた、想像力の発現過程ですから、すぐれて主観的なオマージュになっていて、批評の視角も爽やかでした。
 
 で、ここから窺われるに、佐藤文香さんの句作りは、読み手を楽しくする物語的な設定が幾つか、折り込んであるのだろう、と思います。たしかに一箇の才能の登場でしょうね。おばちゃんも負けちゃ居られない、ねえ澄子さん。

 ああ、読みたくなっちゃった。文香さん、句集くださらないかしら。この句集持っていないのです。オーストラリアの絵はがきかグッズと交歓で。  吟

文香 さんのコメント...

中村安伸さま、「『海藻標本』を読む」を読んでくださった皆さま、ありがとうございました。
私も大変楽しく、驚き感心しながら読ませていただきました。
『海藻標本』という句集にとって、これほどありがたいことはありません。この句集の作者としても、これほどありがたいことはありません。

>「水着を絞る少女」
吟さんのおっしゃるとおり、たしかに少女は服を着ているはずの年頃ですね。絵としては、全裸の方がきれいですが。


(肝心の『海藻標本』、出版社には在庫がなく返品待ちの状態です。私の手元には少しございますので、お言い付けくだされば定価・送料無料にてお送りいたします。)

中村安伸 さんのコメント...

■れおな様
過分なコメントいただきありがとうございます。分量はもうすこし少ないと思いますが。ともかく『海藻標本』に読みたい欲望を誘うものがあったからこそ、思わずこれほどの期間、読みつづけ、書きつづけてしまったということなのでしょう。

▲吟さま
お帰りなさいませ。〈夕立の一粒〉ですが、私のおおげさな読みよりも、「夕顔」のはかない雰囲気に似合うという読みのほうが、より普遍的で美しいと思います。

さっそくの違和感表明、ありがたく思います。件の水着少女の句についてですが、リアルに読むならば実際の少女であった(ある?)吟さまに決して太刀打ちできるものではありません。
書評という体裁ですが、この文もまた私の作品であり、ことにこの部分などは鑑賞よりも演出が勝ってしまってますね。佐藤文香原作、中村安伸監督の短編映画といったところでしょうか?
「キミたち、ここは裸じゃないと!」って、実際にそんなものを作ったら大変です。

●文香さま
豈ウィークリー第5号表紙の写真にうつっている三冊の本は「初の評論集」「初のエッセイ集」そして「第一句集」という初モノ尽くしです。
この書評も、まとまったものとしては初の句集評ということになります。
読んでいて実に楽しい句集でしたが、評を書くことはさらに刺激的で楽しい経験でした。

こちらこそありがとうございました!

さんのコメント...

中村安伸 様

「件の水着少女の句についてですが、リアルに読むならば実際の少女であった(ある?)吟さまに決して太刀打ちできるものではありません。」(安伸)

その通りですが、裸であろうが、なかろうがどっちでもいいんです。ホントは。
写真や映画の場合にはよく物議を醸しますが、それは、想像力の場面のできごとですし、連想が飛躍してつぎにすすめるのは、韻文でも散文的論理のばあいもおなじです。
ジェンダー的感覚は意識的なものと無意識的なものが在り、貴方の場合は無意識に「男性の視線が言葉を産んでいる」。ということを言いたかったんです、「言葉の身体性」という豈の特集を想い出します。
 これも、立派に「ひとつの方法」です。




「書評という体裁ですが、この文もまた私の作品であり、ことにこの部分などは鑑賞よりも演出が勝ってしまってますね。佐藤文香原作、中村安伸監督の短編映画といったところでしょうか?」

書評が創作だというのは、全く賛成です、私のスタンスがそれです。論理でコンセプチュァルに俳句を理解できれば、一冊の句集をもっていなくても、そのひとはりっぱなな俳人ですね。(ホントかな?)
ともかく。文にまつわってくる身体性と言うべきのその迫力はたいへん美しいものです、殺伐と素っ気ないネットでこういう文章を目にしたわたくしたちもしあわせというべきでしょう。文香さんにメールして注文しましたよ。貴方の書評が、一冊の句集を買わせたのです。これは大事なことです。「中村安伸」
という批評的個性の誕生を見たのですから。
俳句の実作は難しいですが、俳句批評の創造はもっと難しいです。デモそれをやらねば、あたらしい好い俳句が出来ないし、残りません。
 この句集。実物を拝見してから、また、おばちゃんのちょっいじわるな嫉妬の視線でよんでみませう。

こういう作業を通じて、俳句批評の視座は再構成されてゆくはずですね。がんばれ!!がんばれ!!(吟)