2008年9月7日日曜日

佐藤文香句集『海藻標本』を読む(4)・・・中村安伸

佐藤文香句集『海藻標本』を読む(4)

                       ・・・中村安伸

佐藤文香の第一句集『海藻標本』より、表現技法上の特徴を示す作品をいくつか挙げ、検討を加えることにしたい。

・省略

夏料理鏡の奥のやはらかく

鏡の奥のほうになにかやわらかいものが映っている景があるとして、それを散文として巧みに述べたなら、その一個の事実だけを過不足なく伝えることができるかもしれない。この作品は、俳句形式の短さからくる「省略」の必要性を逆手にとり、曖昧で多義的な表現を成立させたものである。この句の「省略」されたと思われる言葉を補って以下のようにしたなら、句の示す内容はかなり限定されたものとなる。

夏料理/鏡の奥(に映っているもの)のやはらかく

意味を限定し、正確に伝達するために必要な語やフレーズを省略することで、その句のさししめすものの輪郭は曖昧になる。多くの面をもつ立体をイメージするとわかりやすいだろうか?読者は作品という立体から「解釈」という詩的真実をいくつもひきだすことができるのだ。たとえば「鏡そのものの硬い質感が実は相対的なものに過ぎない」こと「鏡に映った世界とわれわれの手に触れている世界の違いが実はあいまいである」ことなどの「解釈」が導きだされ得るとして、それらは、たとえばこの作品がミラーボールだとすると、跳ね散らかされた光の飛沫のひとつひとつということになるだろう。とりあわせられた「夏料理」という季語は、この作品に色彩を与えている。さしづめミラーボールに当てられた色鮮やかな照明ということになるだろうか。もちろん、実景として鏡に映っているものが夏料理である、という読みも排除されない。

青に触れ紫に触れ日記買ふ

この句もまた省略を巧みに用いることにより、実景を抽象的なイメージに昇華することに成功した作品として、既に人口に膾炙しているものである。

・機知、発見

アイスキャンディー果て材木の味残る

アイスキャンディーを舐めつくしたあと、その軸というか、棒の部分を舐めたとき木の味がする。誰もが経験したことのある事実だが、同時に誰も特別の意識を払うことのなかったことがらであり、これを「発見」の句と考えることが可能だろう。発見された事実そのものの新鮮さという点では、それほど目覚しいものではないかもしれない。ただ「果て」という措辞の情感と「材木」という硬質な語の配合に巧みさを感じる。

・とりあわせ

足長蜂足曲げて飛ぶ宝石屋

この句は「宝石屋」という下五のとりあわせが見事である。「足長蜂」と「宝石屋」は対照的でもあり、似てもいる。このとりあわせによって足長蜂に宝石の輝きが、宝石屋に並べられた宝石たちに蜂の活力がそれぞれ分け与えられるような気がしてくる。「足曲げて」は、人間なら跳躍に備えて力を溜める動作に通じるが、蜂はその姿勢ですでに空中を飛んでいるのだ。

・本歌取り

国破れて三階で見る大花火

有名な杜甫「春望」の冒頭〈国破山河在 城春草木深〉にもとづく本歌取りであることは言うまでもないだろう。この詩は『奥の細道』にも引かれていることで、俳人におなじみである。「山河」の音から「三階」を引き出したのも見事だが、その誕生から死までが一瞬のうちに眼前にくりひろげられる「大花火」というものを配合したことによって、国、花火、そして人というそれぞれにスケールの異なる生涯と、それらにわかちもたれている「儚さ」などを実感させる。「三階」というのは、作中主体の位置としてもなかなか絶妙だと思う。「花火」にも――作中に直接は登場しないが――「山河」にも近すぎず遠すぎず、微妙な昂揚と寂寥感のバランスを汲み取ることができる。「三階」の音は「三界」にも通じていよう。

・比喩

嗚呼夏のやうな飛行機水澄めり

大江健三郎『二百年の子供』(中公文庫)に次のような一節がある。〈「ベーコン」は、さわると柔らかいですか?夏のようなものです。馬のからだと同じです。〉←「からだ」に傍点

ベーコンとは、障害をもつ長男真木が「森の家」で出会った犬の名前。妹のあかりがカードに書いた質問に、真木が答えるという場面である。

ここでの「夏」は犬の質感にもとづく比喩であるが、佐藤の句の「夏」はどちらかというと抒情的な、気分の上での喩と言えるだろう。〈逆光の汽船を夏と見しことも〉という句の「夏」も同様のイメージで用いられている。

一方で〈密漁のごとくに濡れて冬の薔薇〉の「密漁」は質感を中心とした喩である。また〈ヨットより出でゆく水を夜といふ〉は比喩のように見えるが、レトリックの句である。

ここまでとりあげてきた技法それ自体は、既存の俳句において一般的に用いられてきたものであり、佐藤が技法そのものを創出したわけではない。これらの技法を巧みに活用しているということのみが言えるのである。

  * *

続いて、佐藤の作品に表現されている内容やテーマという側面から検討を加えてみることにする。

・絵画表現の謎

行秋の君は線もて描かるる

肖像画というものは、ある人物をモデルとして描かれるものだが、それは標本のごとく実物を変質させたものとは違い、紙やキャンバスに線や色の勾配によって示された像である。

この句の独特さは「君」と呼びかけた相手がモデルとなった人物であるか、紙やキャンバスに書かれた像なのか、はっきりしないところにある。もちろん佐藤は意図的にこうした混濁を作り出すことによって、絵画表現に関わる「存在の謎みたいなもの」を問いかけてくる。

描く水に形を与ふる金魚玉

これも同じく、絵画表現の謎に言葉で肉薄しようとする作品であろう。水を描くということが、水そのものを描くことでは成立せず、その容器などを描くことによってはじめて成り立つということ。発見であり、機知であり、同時に「水」の本質の提示でもある。

夏の蝶自画像の目はひらいてゐる

これもやはり絵画表現をめぐっての作品であるが「夏の蝶」という季語は命の絶頂における中断、たとえばゴッホのような夭折の画家を連想させる。描く画家が同時にモデルでもある自画像においては、目を閉じた像は存在しないはずだという機知の句でもある。

水音のゆたかなる絵を片陰に

この作品は、絵画を見る側の感性のはたらきを示すものであろう。

・内蔵しているもの、天賦の才

スケートの靴熱きまま仕舞はるる

暗室に時計はたらく冬の蝶

これらは句集中に並べ置かれている作品であるが、内容的にどちらも同じテーマを扱ったものである。箱の中に熱をもったまま収納される靴、そして暗室のなかの時計、いずれも暗い場所に活力をそなえている「もの」を収める、あるいはおさめられているという状況を描写している。

これらのモチーフを深読みすると、隠されている可能性、才能といったものを暗示しているように見えるし、二句を並べ置くあたり、作者自身そのことに自覚的なのではないか、という気もするのである。
他に同じモチーフを扱った句として以下の二句がある。

白靴の真白あるらむこの箱に

色のなきものを蔵してゐる浴衣

「白」から「色のなき」への変化に微妙な心理的変化を見出すこともできるだろう。浴衣のなかに蔵しているという表現は、より直接的に作中主体自身の肉体、ひいてはその内面を示すだろう。

愛鳥週間床に宅急便ふたつ

という作品は「宅急便」すなわち、なにものかを内に蔵している包みを、その外側から描写したものである。「愛鳥週間」という季語のとりあわせも巧みである。人間以外で人語に似たものを発することのできるものとして、鸚鵡や九官鳥などがいるが、これらはすべて鳥類である。また、鳥というものは、姿の美しさや愛らしさ以上に、その発する声音をこそ愛されてきた存在だと考える。鳥を愛するというフレーズを含む「愛鳥週間」という語からは、表現、しかも言語による表現へと、かすかな連想がはたらくのである。

宅急便が「ふたつ」であることも謎めいており、さまざまな深読みを誘うものとなっている。二つの包みがそれぞれ、送ろうとしているものと受け取ったものをあらわしていると読めば、それはinputとoutput、すなわち読むことと書くことに対応していると言っても差し支えあるまい。

NHKの北京五輪中継のテーマ曲として使用されていたMr.Childrenの「GIFT」という曲のタイトルは「贈り物」と「天賦の才」という意味を重ねて用いたものであったと思しい。佐藤文香は自らの天賦の才に、やはり自覚的なのであろうと思う。

・概念、本質の提示、世界の再構築

水平てふ遠くのことや夏休

「水平線」から「水平」という概念を抽出することによって、遠くにあればあるほど、物体間の差異が曖昧になるというパースペクティブを表現するのだが、それは結局、世界の中心に置かれた視座の揺ぎ無さを示すものでもある。客観的であると思われている世界のとらえかたを、自分自身を確固たる中心に据えることから再構築しようとするアプローチは、次のような句にも共通している。

灯を消してのちの水中花を知らず

うづくまれば小さくなるなり花野原

・自己の客観視と孤独感

自己をゆるぎなく世界の中心に据えることができるということはまた、自分自身を客観的に位置づけることができるということを意味している。この句集には家族を含む他者との関係を描いた作品が少なくないのだが、それらの多くがどことなく孤独への傾きを示していると感じる。自分自身を客観的にとらえるということは、当然他者をも突き放す姿勢につながるのである。(某首相もそのようなことが言いたかったのかな、と思わないでもない。)

友に友と思はれてをる端居かな

この句は互いに友であると思っている作中主体と他者との関係を、どこか突き放した視線で見ている。友情とはもちろん大切にしたいものであるが、佐藤の場合、その思いによって主体と客体とが溶融し癒着してゆくようなことは、少なくとも表現された作品中には見られないのである。「端居」というとりあわせは、友情がつねに含有している不安定さを、はっきりと示しすぎている嫌いがあるほどだ。

・過剰な行動

ときおり衝動にまかせて、ついつい過剰な行為をおこなってしまう作中主体を発見することがある。

祭りまで駆けて祭りを駆け抜けて

晩夏のキネマ氏名をありつたけ流し

後者は作中主体の行為そのものではないが、その情動の照り返しと見ることも可能だと思う。

・異界への交通

前回見たとおり、とくに「褐」の章においては、異界との交通が頻繁に描かれているのだが、よりリアルな世界をモチーフにした作品においては、つねに安定した視座を持つことができる佐藤が、異界を描こうとするとき、ともすれば異界の側の「ことば」や、自身の幻想に飲み込まれてしまうように見えることがあるのはどうしたわけだろう。溶け残ったカレールウがダマになったような感じで、異界のノイズが作品世界のなかに消化しきれずに残っているような印象を受けることがある。

長恨歌のちにつめたき手となりぬ

この句をとりあわせと考えても、上五の内容を中七下五で捉え直していると考えてみても、不安定な感じがするのである。これは「長恨歌」がじゅうぶんに消化されていないからかもしれない。一方でこの句に関しては、不安定ゆえの美というものもある気はするのである。

異界をとりいれた作品のなかでも安定感のあるものを挙げると、以下のような季語を中心に据えたものということになる。

初夢に見る上代の魚市場

世阿弥忌の姿見の位置変へにけり

・性的欲望

恋愛や性を直接的に描いた作品は句集中にあまり多くない。

後朝を扇の鳥は羽搏かず

という句などは、恋愛を描いたというよりは、むしろ王朝文学のモチーフと、新古典派(?)的な俳句の技巧を取り入れた習作めいたものと映る。そんななかで前回もとりあげたように、、

乗ることのなき馬の背を冷やしけり 

といった作品に、間接的なエロスの表現を濃密に感じるのである。そして、同じく馬をテーマにした作品で「褐」の冒頭六句に加えられていないものがある。

待たされて美しくなる春の馬

板東寛治撮影の猫の写真に、青嶋ひろの選による恋愛を基調とした俳句、川柳を組み合わせた写真集『誰かいませんか』(ソフトバンク文庫)にとりあげられている作品である。

「乗ることのなき」の馬が異性を思わせるとすると、こちらの馬は作者自身を投影しているように思える。どちらの作品にも、かなえられない欲望こそがより純粋であり、より美しいという考え方が反映されているように思う。

このように並べてみると、一対の句であるかのようにも見えるふたつの作品ではあるが、句集中では離して配置されている。この二句が離れて置かれているということよりも、「待たされて」が前述の馬六句にふくまれず、独立して置かれていることにこそ着目したい。佐藤にとってこの句がそれだけ重要であるということだろう。

馬の美しさは、獣であるがゆえの美しさであり、走るという本能を外部から押しとどめられ「待たされる」ことによって、溜められた力が内部で盛り上がり、外側に染み出すようにして、その美は極点に近づくのだろう。走ろうとする「意志」があるのではない。獣には本能があるのみであって、穢らわしい意志や、醜い自我を持たないがゆえに美しいのである。たとえば次のような文章においても、私はやはり獣の美しさが表現されていることを感じる。

〈雷雲は濃い紫色に静まりかえり、そして地表にひっそりと漂うほの明るさの中を馬たちは一心に逃げまどい、柵ひとつない広がりの中でしだいに狭い輪の中へ追いこまれていく。そして私は馬たちの恐怖を思いやる。空に向かってなだらかにもり上がるこの高原の上では、彼らはどこへ走ろうと、どんなに群の中へ紛れこもうと、どうしようとこうしようと、それぞれ天と地との境目を、この怯えきった体で形づくってしまうのだ。〉 古井由吉「先導獣の話」 講談社文芸文庫『木犀の日』所収

人間の情動の底にあるものは、性的欲望と死への恐怖。それは獣の本能と同じものでは無いが、基盤にある動物としてのメカニズムは共通している。自らの欲望や恐怖を描こうとするとき、獣に仮託するというのは決して斬新なアプローチとは言えないのだが……。

さて、次号はいよいよ最終回。さらにいくつかの作品に触れたのち、池田澄子による序文と作者のあとがきをとりあげる。

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