■佐藤文香句集『海藻標本』を読む(2)
・・・中村安伸
佐藤文香の第一句集『海藻標本』には三つの章が立てられている。
その最初の章を「緑」と名づけたのは、海藻の一種である「緑藻類」からであろう。「緑」の章の冒頭、すなわち句集の最初に置かれたのは、次の句である。
少女みな紺の水着を絞りけり
冒頭に置かれたこの句こそが、句集に独立したひとつの作品としての纏まりをもたらすうえでの重要な仕掛けであると考える。
この作品の解釈はさほどブレることはないだろう。水泳の授業を終えてプールから上がった少女たちが、水をたっぷり吸った水着を絞るということ。そして、作中主体もまた、裸体となって水着を絞っている少女たちの一人である。
客観写生的に仕立てられた句であり、外見上作中主体は登場していないのだが、この句がフィクションであれそうでないのであれ、少女たちのなにげない行為を観察している眼の存在を、読者は無視することはできない。密室であり、外部の者の眼の届くことを拒否している場所――更衣室というこの句のシチュエーションを思えば、その眼の持ち主が少女たちのなかに含まれていないと考えることは不自然である。
ある瞬間観察者となった作中主体が、少女たちの集団から心情的に孤立している、という点に重点を置いた読みも可能なのではあるが……。
茹で上がったパスタのような少女たちの裸体は、くろぐろとした重さの布から絞り落とされる水の後景に過ぎず、なんらエロティックな連想を挟み込む余地はない。そして、水着を絞るという行為は、句集タイトルの『海藻標本』にこめられた「固定、保存のための乾燥」という想念に通底しているだろう。それぞれに或る一瞬を固定しようとするかに見える少女たちの群像のなかに作中主体である「彼女」はいる。
このようにして一人の健康な少女であり、鋭敏な観察者でもある作中主体を主人公と想定することから、読者は物語を読みはじめるかのように、この句集の世界にはいってゆくことができるのである。
すぐれた俳人の、すぐれた作品を数多くおさめた句集であっても、読んでいるうちに飽きてしまうものが少なくない。ある俳人が自らの方法を突き詰め、研ぎあげるように作品を生み出しているとして、その一振りは鋭い切れ味の太刀であっても、ガラスケースに何十本も並んでいたなら、それは「単調」であるという謗りを免れることはできない。また、バラエティーに富んだ、綺想にみちた作品群というものも、一定の軸がなければ疲れてしまう。
この句集を飽きるという感覚なく読むことができる理由は、多様な表現の方向性をそなえた作品群ながら、前述のとおりひとつの物語のように読むことができるからであると考える。ただし、物語といっても起承転結のはっきりしたドラマティックなものではなく、くりかえされる日常のなかのすこしの差異を、主人公である彼女に同化して、というより、彼女の背後から肩越しに覗き込むようにして体験するというような、詩的な映像作品を想わせるものなのである。
さて「緑」の章の最後に置かれている句。
停留所まで豆腐屋の打水は
これは物語にひとつの区切りをもたらすものである。
停留所とはバスが来て人を乗せ、あるいは降ろして去ってゆく場所。この句の主人公は、あるときそこからバスに乗って旅立ってゆく日を迎えることになるだろう。
日々の暮らしを象徴してもいるだろう豆腐屋と同じ平面に――飛び跳ねる水によって――接続されつつ、旅立ちの予感としての停留所が存在している。
こうして余韻を残しつつ、読者は次の章へと誘われるのである。
* *
ふたつめの「紅」の章は海藻の種類のひとつ「紅藻類」から名づけられている筈だと思うが、その冒頭に置かれた句は次のようなものだ。
かの朝のくれなゐの海苔父が炙る
前回私は、句集名に句集中の代表作から抜いたフレーズを使用しないという佐藤の方針に着目したのだったが、ここでは逆に章のタイトルを冒頭句から選んでいるようにも見える。もちろん、先に章の題名をつけたうえで、たまたまその語を含んでいたこの句を冒頭にもってきたのかもしれない。
ただ、海苔もまた海藻の一種である。句集名と章名の由来実はこの句にあるのかもしれない。いずれにしても、この句もまた句集を編む上でひとつの錘となったであろう重要な作品であることが伺えるのである。
さて、この句が独特なのは上五の〈かの朝の〉というフレーズである。つまりこの句は回想として語られているのである。今この瞬間、身近に父はおらず、炙られる海苔の鮮明な色彩とともに不在の父を懐かしく、恋しく感じているのだろう。次の頁に置かれた句は、父の不在というテーマをさらに明瞭に感じさせる。
くちなはは父の記憶を避けて進む
先の「緑」の章から継続する物語として読み進みながら、この「紅」の章を俯瞰してみると、作中主体の孤独感を色濃く感じる。「緑」の章をしめくくった旅立ちの予感が現実のものとなって、一人で暮らしはじめた少女が、内省的な時間を多くすごすうちに成熟してゆく様子を反映しているものと言っても差し支えはあるまい。
そしてこの章は重苦しい閉塞感を示す句でしめくくられている。
牡蠣噛めば窓なき部屋のごときかな
そういえば牡蠣は、打ちっぱなしのコンクリートのような色をしているのである。
ある物体の表面を破壊することによって、その内部を曝す様子を書いたものとして、池田澄子の〈ピーマン切って中を明るくしてあげた〉という句が思い浮ぶ。そして物体の内部を「部屋」に見立てたところは鷹羽狩行の〈胡桃割る胡桃の中に使はぬ部屋〉を連想させもするだろう。
この三句を比較すると、佐藤の「噛む」池田の「切る」鷹羽の「割る」がそれぞれ物体の質感、硬さに対応していて面白い。ともかく、池田、鷹羽の作品が、それぞれ物体の内部を空虚なものとして描いているのに対して、佐藤の作品の「牡蠣」はどろどろした内容物の詰まった物体を描いているというのは重要な差異であろう。
また、池田、鷹羽の各作品が「中を」「中の」という語を使って、物体の空虚な内部という主題を明確に示そうとするのに対して、佐藤の作品は直喩を用いながらその対象を省略することで、多義性を導入している。
試みに、この句の省略された語を補ってみると次のようなものとなる。
(私=作中主体が)牡蠣(を)噛めば(○○は)窓なき部屋のごときかな
つまり「窓なき部屋」とは牡蠣の比喩であるということを断定できない。「窓なき部屋」しかも「牡蠣」のようにどろどろとしたものを詰め込まれた部屋というものが、作中主体の内面の比喩であるという読み方をすることは当然可能なのである。「緑」の章から続けて主人公に寄り添うように読み進めてきた読者からすると「彼女」自身の閉塞感をここに感じとってしまうのはごく自然なことだろう。
付け加えると、先述の池田、鷹羽の各作品もまた、一句に示された景の全体を作中主体の内面の隠喩であると考えることが可能なのである。それは「寄物陳思」という伝統的な詩歌のテーマのバリエーションであって。佐藤の作品の場合、その喩がより直接的だということなのである。
袋小路に入ってしまったかのようにも見える「紅」の章のエンディングだが、次章の「褐」ではこれが思わぬ方向へと展開してゆくことになる。そのことは「紅」の章の最後から二つめ、ラス前に置かれた句によって予告されているのだ。
長恨歌のちにつめたき手となりぬ
この句をはじめとして「紅」の章の後半には、ある傾向の作品が散見されるようになってくるのであり、その傾向こそが「褐」の章においては基調をなしてくるのである。
さてこのブログは紙ではないので紙幅が尽きることはないが、私の力が尽きたので、次章「褐」については次号にて述べることとしたい。
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