■俳句九十九折(1)
前口上 インターネットで何が可能か
・・・冨田拓也
A 今回から始まりました新連載です。このサイトと同様私自身も何の準備もないままの見切り発車ということで、どこまで続くかわかりませんが、どうぞよろしくお願いいたします。
B なんとも大変なことになりましたね。
A 現代のヒールたる「豈」が俳句界に新風(荒波?)を起こさんとウェブサイトに登場ということで、私のような者にもお声がかかったという次第です。しかしながら髙山れおなさんの評論のおそろしいこと。こういった批評がリアルタイムでコンスタントに展開されていくのなら俳句の世界にとってもこれはなかなか重要な試行が始まったのではないかという気がします。あの高水準の評論と並んで何かを発言しなければならないのですから、私にとっては随分と厳しいことです。
B しかし、その髙山さんの最初の「創刊のことば」はなんとも苦々しい認識から始めなければならないものでしたね。のっけから「俳句など誰も読んではいない」なのですから。
A 俳人の大方は結局、自分とせいぜいその周辺の仲間にしか興味がないんでしょうね。俳句関係のホームページやブログなどを見ても自分と仲間のことばかりというものが目立ちます。それはそれでその人たちにとっては幸せなことなのかもしれませんが、そういった惰性的な状況が続くとなると当然ながら俳句のクオリティの問題に関わってくるわけです。
B 現在の俳句界は「無風状態」といわれています。どの総合誌をみてもどちらかというと全体的に中途半端で穏当な作品が目につきます。無論、穏当な作品が単純にいけないというわけではありませんし、いつの時代であっても優れた作品の数というものは限られているものなのでしょうが、こういった云わば「無難」ともいうべき作品傾向は、現在の作者が他の作品や批判の脅威に晒される機会が乏しいため、作品の質がこれまでの表現水準を下回るのみの繰り返しに陥っている可能性も考えられそうです。俳句というものは言ってしまえばどこまでも「易きに付きやすい」文芸ですから、自堕落と非常に相性がいいわけです。ゆえにそれを戒めるためにそれこそ検非違使のような厳しい批評を要するわけですが、なかなかその役目を担うことができる人物が見当たらない。ある程度力量のある人がいたとしてもあまり注目されずに無視されるというか、そもそも総合誌などに登用さえされず誰の目にも触れられないという状況が続いているような気がします。さらにいうならば、現在の状況ではそういった辛辣な批評自体があまり求められていないのかもしれません。髙山さんの「誰も俳句など読んではいない」に加えておそらく「誰も俳論など読んではいない」のでしょうから。
A 草間時彦はそういった批評の不在の原因を、俳人が俳論を読まなくなったことと併せて「俳人同士が仲良くなりすぎてしまった」結果ではないかと発言していました。あと、「論争をするよりも、円満に、妥協してしまった方が、なんとなくよろしいという雰囲気が俳壇全体にある」「要するに、俳人が大人になり俳壇が円満になったのである」。さらには、「若い人が出てこなければいけないのだが、このごろの若い人は、利口で、俳壇の秩序に従順で、それを乱そうとしない。」とも。
B 結局、本音をいわない方が無難なんですよね。「みんなと一緒」だとどこまでも安全で安心です。しかしそのぬるま湯のような状況では、批評がその本来の機能を発揮しないし、作品も自家中毒に陥ってしまいます。やはりそういった状況を揺さぶる「悪役」を誰かがやらざるをえないわけです。どこで読んだか「批判をするとこちらもある程度の手傷を負うことを覚悟しなければならない。」といったようなことを誰かが書いていました。こういった覚悟や気概を持っている人が少ないということでしょう。
A 批評や批判というものは自分にそのまま跳ね返ってくるものでもありますからね。相当な力量を有していないと危険なものでもあります。
B 俳人が他者の作品に関心を示さないという問題なのですが、こういった現状だと当然ながら作品の評価や位置づけもまともに行われないわけです。優れた作品や重要な試行があっても読まれないため見過ごされ、時間の経過と共に埋もれてしまう可能性が大きい。それに対して現在の俳句批評は果たして如何ほどの役割を果たし得ているのかという問題があるわけです。総合誌、俳誌などを瞥見すると毎月様々な作品を評価していますが、例えばある俳誌の巻頭作品などを読んでみても、俳句の百年にもおよぶ歴史の堆積の中でどれほどの価値を有しているのか非常に疑わしい。添えられた鑑賞文だけを読むとその作品は俳句史に残る句であってもおかしくはないように書かれてあるのですが、作品を見るとやはり首をかしげざるを得ないといったケースが多い。ここにも批評の不在があるのではないかと思うのです。
A やはり現在の俳人の多くが俳句を「書く」上でも「読む」上でもパースペクティブな視座を有していないのでしょうね。これまでの俳句の歴史をあまり背負い込んでいないというか。テキストがあまりにも多すぎるという問題もありますが、やはり最低限押さえておかなければならない基礎的な知識というものはあるはずだと思います。俳句の「読み」については佐々木六戈さんが「俳句を読むという行為は三百年くらいの「読み」の集積に無知であっては成しがたいものだ。」と書いておられました。
はっきりいって私自身もけっしてこのように偉そうなことを発言できる人間ではないのですが、私自身も含め現在多くの俳人がこれまでの俳句の様々な達成を不問にして句作や批評を行っている可能性は否定できないでしょう。根気のいる作業となりそうですが、やはり誰かがしっかりとこれまで作品や評論を精査、評価して誰もが容易にその全貌をある程度見渡せるように交通整理したものを提示する必要があると思います。その上で俳句の新しい可能性が探求されなければならないのではないでしょうか。
B さて、このような現在の俳句界の閉塞状況を多少なりとも打開もしくは好転させる可能性がインターネットにはあるかもしれないというのが現在の状況です。相子智恵さんが「澤」(2007年7月号)で次のように書いておられます。「(インターネットの発達によるいちばんの変化は)発表・批評の舞台がもはや大きな箱に頼らなくてもよい、お金をかけなくてもよい、思いついたその日のうちにできるということだ。これは大きなプロデュースなしに、口コミ的に、ある日突然、スター俳人や、重要な批評が生まれる可能性を秘めている」。
A あと、インターネットだと作品や評論を発表してからのリアクションが総合誌などに比べると格段に早いでしょうね。総合誌などではどうしてもタイムラグが生じてしまいます。
B というわけで、このページでは過去の達成を踏まえた上で、これからの俳句の可能性や新しいエクリチュールのヒントとなりそうなものを探求することがテーマとなります。そこで私に何ができるのかと思い、いくつかの企画を考案してみました。
・俳句史を俯瞰できるアンソロジーの構想
俳句アンソロジーというどうしても商業的な配慮や紙幅による制限、選者の縁故関係や視野狭窄といった問題が必ず出てきてしまいます。そういったものを超克した俳人共有の財産としてのデータベースとなる俳人のための俳句アンソロジーは可能かという試み。
・いまだ評価されていない俳人や隠れた名句集の発掘、再評価
いままであまり評価されていない俳人、隠れた実力派の句集や作品の評価。「鬣」の林桂さんたちがこのような試みを続けておられますが(HPでも公開中)そういった成果をも踏まえた上での展開。
・俳論の歴史
過去の主要な俳論、評論集の一覧。
・俳人の言葉
俳人の名言集。
・現代百人一句
百人一首と同じように百句を選出。塚本邦雄『百句燦燦』、高橋睦郎『百人一句』、大岡信『百人百句』、安東次男『其句其人』、松井浩生『百人一句』あたりを意識して。
A うーん、随分大風呂敷を広げましたね。こうやって見るとどれも容易に実現できそうですが実際はそんなに生易しいものではありません。この時点で頭が痛くなってきました。基本的には作品と俳論の大系ですね。「現代百人一句」は必要でしょうか?
B まあ、とりあえず予告篇です。実現できなくても宣言するのはただですから。他にもいくつか案があります。これらの企画は私の力量では中途で頓挫する可能性が高そうなので、誰かが代わりに着手して下さったほうがありがたいかも。別に最初から私のみでなく他の方と共同で行うのもいいかもしれません。
では、とりあえず始めの一歩ということで「俳人の言葉」という企画の第一回をお送りしましょう。
「どんな人と出会うか、それも才能なんだよ、言葉もそうだ。同じように出会っているんだよ、だけど大体は気づかずに通りすぎていくんだ」
高柳重信 秦夕美『火棘 兜子憶へば』(平成七年 邑書林)より
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