2008年8月23日土曜日

時評風に(伊藤白潮/作品番号1) ・・・筑紫磐井

時評風に(伊藤白潮/作品番号1)

                    ・・・筑紫磐井

お祝いというのもおかしいが、「―俳句空間―豈weekly」が出るというので、本家「―俳句空間―豈」から一言申しておくべきかと思う。「―俳句空間―豈weekly」が「―俳句空間―豈」の付属のように思われると困る、それぞれ独立のアミーバーのようなものであり、どちらも命のある限り分裂再生を繰り返して行く。ただ遺伝子が酷似しているのだけは否めないと思う。のみならず「―俳句空間―豈」が年に2回出るかどうか分からないのに(以前は3年に1回出た)、「―俳句空間―豈weekly」は約束通り毎週出るのなら十分意義のあることだろうと思う。どちらが先に48号を超すか(現在「―俳句空間―豈」は創刊28年目を迎えて、第47号の編集中である、特集テーマは「青年の主張」。48号が出るのは来年の夏だろう)競い合いたいと思う。

    *    *

8月15日、ファックスが舞い込んでいた。「鴫」主宰の伊藤白潮氏が亡くなったというのだ。亡くなったのは12日と云うから、親しい人にはもっと早く知らされていたかも知れない。今年の12月に、「鴫」の500号記念号を刊行する予定であったと云うから、ご本人には無念であったことと思われる。記念号は「鴫」の人達によって予定通り出されるらしい、執筆予定者の私にもその意味でまず一報を頂いたものらしい。

白潮氏が、ご夫人を亡くされた後、体調がすぐれないことは折々伺っていたが、なくなる直前まで病勢が進んでいたとは驚きだった。直前の「鴫」8月号を見ると、入院に至る状況が詠まれ感慨を禁じ得ない。

悔いてをり梅の漬けどき逃せしを
扇風機出すエコロジー論さかん
見舞客初蝉のこと語り出す
梅雨に病めば人に手紙派面会派
七月へ身の蝶番締め直す
三伏のもうこれ以上痩せられず
七月へずれ込む検査に次ぐ検査
峰雲の育つ始終を見尽くせり
水無月減る一方の体重も
のうぜんの家留守にしてもう月余

これだけ読んでいたら驚かなかったろう、たくさん来る俳誌をいかにまめに読んでいなかったかという証拠で恥ずかしい限りだが、高山れおながいう「俳句は読まれない」状況がいかにぴったりだったかということだ。

ところで、日頃、俳人は結局亡くなるときは俳句を詠まなくなった瞬間だと俳人のしぶとさを半分揶揄しながら書いても来たが、白潮さんの訃報と近作はますますそれを確信させてくれた。

「悔いてをり」は今になればもう来年はないのだから永遠の悔いになってしまった(ご当人はその時は思ってもいなかったろう)、「扇風機」は闘病生活の合間に挟まった洞爺湖サミットの俗っぽい報道ぶりを揶揄しているようで元気さが驚きだ、「見舞客」「梅雨に病めば」も軽い雑談のように見えながら白潮氏が入院で見舞いを喜ぶ人であったことが逆にうかがえ微妙に心を揺する(病人にも見舞いを喜ぶ人と、嫌がる人もいるのだ)、「三伏の」は白潮さんのあの巨体がどこまで痩せたのかとぎょっとする、「七月へ」は淡々としているようだが、症状→検査→入院と進んで行く最後の一ヶ月が切り取られたようにうかがえる、「のうぜんの」は最近某所で講演をしたばかりの(白潮さんも親しかった)福永耕二の最後の句〈侘助や生徒に会はぬ五十日〉にやけに似ていた。

一方で、今読んだこの感想は、訃報を受けた直後、なくなる直前の限られた作品を読んだもので、この後、次号に絶句が公表されれば読み方は全く変わってしまうものかも知れない。今この一瞬の読みであり感想でもあるという、特殊な状況なのだ。しかし、雑誌の俳句とは常にそういう限られた読みであるのだろう。普遍的な鑑賞はあり得そうでないものに違いない。文台引き下ろせばすべて反故、の気持ちは批評でも当てはまるものなのだ。

白潮さんは、結社の主宰らしい主宰者として初めてお目にかかった。なぜなら、私のいた「沖」の能村登四郎はちっとも主宰者らしくなかったからだ。句会の指導はまるで国語の授業を聞いているようだったし、句会後の雑談は生徒に対する進路指導のような感じがした、酒を飲まずコーヒーで話をするのだから当然だ。登四郎と同じ千葉に住み、「鴫」を主宰していたから白潮さんとはよくあった(何かの大会の特賞で白潮さんの色紙をもらってもいるのだ)が、豪放磊落、大会の後の二次会三次会四次会五次会を新宿で夜明けまで連れ歩いてくれた。東京の空の下で、毎夜こうした消費的営みをしている秘密結社があることを実感したのであった。享年81歳、ご冥福を祈りたい。(8.16)

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