2008年9月13日土曜日

『鑑賞 女性俳句の世界』第一巻を読む・・・高山れおな

『鑑賞 女性俳句の世界』第一巻を読む

                    ・・・高山れおな

第六巻を論じてから少し間があいたが、ひきつづき『鑑賞 女性俳句の世界』(角川学芸出版)を読んでゆくことにする。こんどは最初に返って、第一巻である。この巻で扱われるのは、元禄時代から杉田久女まで。対象となる期間は全六巻中で最も長いが、俳句にかかわる女性が少なかった時代のこととて、必然的に作者の層も薄く、俳人と称するにははばかられるような人たちもラインナップに入っている。また、作品及び資料の不足のため単独では項を立てられず、複数作者で一項となっているケースもある。先に目次を示そう。

第一巻
元禄期の女性俳人  堀切実
機知のひらめきと求道の心 捨女  金田房子
蕉門の代表的女流俳人 園女  東聖子
「女流」の眼差し 秋色 永田英理
北陸の地に勁く慎ましやかに生きた女性 千代女  藤原マリ子
滲み出る孤愁の思い 諸九尼  深沢了子
奇蹟の星 星布  井上弘美
自由闊達な文人尼 菊舎尼  清登典子
陸奥の女流 市原多代女 多代女  中野沙惠
明治開化期の女性俳人  越後敬子
百万石の光彩、そして闇 中川富女  松井貴子
強さと哀しさと 本田あふひ  本井英
俠気と寂寞 金子せん女  松岡ひでたか
火と水のひと 久保より江  櫂未知子
兄いもうと 渡辺つゆ女  片山由美子
寂しさをあるじとして 籾山梓雪  仙田洋子
望郷の月 スコット沼蘋女  山田閏子
ナイーブな感性を貫いて 岡崎莉花女  福神規子
ひたすらなる写生 阿部みどり女  西山睦
激しく瞬時を生きて 竹下しづの女  寺井谷子
秋の天地 長谷川かな女  山下知津子
信仰を支えに 玉木愛子  柴田奈美
主情家 室積波那女 室積波那女  黒川悦子
京女の多面性 松尾静子  三村純也
美と格調 杉田久女  坂本宮尾
近世女性俳句年表  岡田麗編


俳人と称するにははばかられるというのは、中川富女、渡辺つゆ女、籾山梓雪ら。富女は金沢の人で、娘時代、彼女の家に子規門下の四高生・竹村秋竹が下宿したことが機縁となって俳句に手を染め、後には子規の病床を見舞ったりもした人。明治三十年前後としては清新な句を詠んだとはいえ作句期間は二年程に過ぎなかった。つゆ女は渡辺水巴の妹で、高浜虚子の『進むべき俳句の道』にも、〈けれども其家庭は平和であり乍ら普通の家庭とは稍〃異つて居て、今日は慈母を亡くし一人の妹君と父君の膝下を離れて淋しく暮して居る。(中略)今でも独身である水巴君は妹君の大切な愛護者であり、妹君は又水巴君の唯一の慰藉者である。〉として登場している。そうした環境から俳句の嗜みはあったが、作者としての野心や自覚があった人ではなかった。

籾山梓雪は、十九歳で婿養子に取った夫が旧派から出て子規門に移った籾山梓月であるが、本人が俳句を始めたのは三十四歳と遅く、しかも三十八歳で病没したため作句期間はやはり短い。もちろんキャリアの長さばかりが重要なわけではないが、彼女よりさらに十年短命だった芝不器男が見せたような作家的燃焼が見られないまま終始したのは事実である。梓雪の鑑賞を担当する仙田洋子は、〈さやさやとさやさやと咲く野萩かな〉の句について、

「さやさやと」というのは当たり前といえば当たり前の形容で、それを二度も繰り返すなどというのは、現代の俳人ならば躊躇するかもしれない。確かに、新しさを求め先人の気づかなかった表現を発見するのは作句の醍醐味だが、こうした素朴な句が人を惹きつけるのもまた真実である。奇抜な新しさはいずれ飽きられるが、はからいのなさは人を疲れさせず、飽きさせない。掲出句は、平凡なようでいて決してそうではない。

と弁護に必死であるが、僅々二十余句を引いて鑑賞するのにこの程度の句が挙がってくるところがつらいところだ。とはいえ、富女、つゆ女、梓雪たちがラインナップに入っているのが悪いと言いたいわけではなく、例えばつゆ女を担当した片山由美子の鑑賞などは、〈「水巴の妹」に徹した生涯〉を哀切に叙した好随筆となっている。この時期の女性の俳句を作品史だけで語るのはやはり無理があるのであって、社会史的に見れば彼女たちの人生も俳句とのかかわりようも興味深いものだ。そもそも作品史に特化した場合、この人たちに限らず、明治開化期の女性俳人たちや、本田あふひ、金子せん女、久保より江、スコット沼蘋女などが登場する必要性もなくなってしまうだろう。

一方、男性の一流俳人に伍して勝るとも劣らない多力者としては、江戸中期の星布(せいふ)、幕末の多代女(たよめ)、それから近代のしづの女、かな女、久女らがいる。つまりはおなじみの顔ぶれということになるが、いくつか思いつくままに綴っておくと、多代女については俳人の没後評価の問題を考えさせられる。ずいぶん以前、昭和初期くらいに出たとある俳句の入門書を買ったところ、そこに多代女について何の説明もないまま作品がたくさん引かれていた。知らぬ名前であったが、その引用の仕方からして余程有名な人なのだろうという見当はついた。その後、幕末に大活躍した人で、明治・大正期までは一般にも大家としての名声が伝わっていたことを知った。本書にもその辺りの事情は書いてあるが、それが昭和戦前を境にほとんど忘れられた俳人になってしまうのである。

生前多少の盛名を得ても没後すぐに忘れられるのがまず大方の俳人の運命という中で、没後半世紀以上も大家として記憶されながら、その後になって忘れ去られることもあるのだ。岩波の日本古典文學大系『近世俳句俳文集』は昭和三十九年に出た本であるが、芭蕉・蕪村・一茶を除く江戸時代の俳諧師一〇五名からなるこのアンソロジーには、蒼虬、鳳朗、梅室はもとより菊舎さえ入集しているのに多代女の名は無い。こんどの本で菊舎と多代女を比べると、俳人としての達成ではあきらかに多代女の方が上である。それなのにこんにち菊舎の方が知名度が高いのは、菊舎には俳句のみならず漢詩・和歌・絵画・書・茶・琴にまで及ぶ総合的な文化人(そして旅する人)としての顔があり、しかも、

山門を出れば日本ぞ茶摘うた

という、宇治・万福寺での究極の高名句があるためであろう。多代女は句づくりも巧妙であるし、幅の広さにいたっては驚く程であるが、決定的な“この一句”を欠いているのが致命的だった。さらに、その幅広さについて一言すれば、それを可能にしているのがさまざまな直接的あるいは間接的な本歌取りである点をどう見るか。例えば、

万歳の仕舞つてきくや米相場

茸狩や白きは馬の骨か何

は、どことなく芭蕉出座の付合の面影があるし、

負うて来て投出す鹿や榾明り

は、蕪村であろうし、

大寺や蝶の舞ひ込む台所

は、あきらかに丈草の、はたまた、

夏の月味噌汁匂ふ市の中

は、凡兆の換骨奪胎であるし、

雪解や門に子供の作り川

小むしろに這習ふ子や花の蔭

名月や川霧のぼる椽の上

は、一茶の作としても通りそうだ。こうして見ると、多代女には江戸俳諧の終幕にあたってのポストモダン的状況を生きた作家という面があるように思うのだがどうだろうか。しかも彼女はそのシュミレーショニズムを、月並調と呼ばれるような風流趣味の方向に展開させるのではなく、自らの生活実感のうちに的確に生かしえているのだ。多代女の表現史的重要性は、もっと評価されてよいと評者には思える。

しづの女、久女については、評者のような物知らずでもさすがに一通りのことは承知しているが、かな女についてはほんとうに何も知らなかった。作品としては、

切凧の敵地へ落ちて鳴りやまず

羽子板の重きが嬉し突かで立つ

西鶴の女みな死ぬ夜の秋

を記憶していたくらいである。原石鼎に〈あるじよりかな女が見たし濃山吹〉の、久女に〈虚子ぎらひかな女嫌ひのひとへ帯〉があるせいもあって、俳壇史上の逸話的登場人物という印象が先行するのは、かな女にとっては心外な話に違いない。また、四Tの列に入らず、『進むべき俳句の道』に紹介される一方で山本健吉の『現代俳句』に立項されていないことが、彼女に近代俳句草創期の作者というイメージを必要以上に強く刻印する結果になった。ところが本書を読めば、かな女は昭和四十四年まで生きて、しかも晩年まで佳句をものしているではないか。アンソロジーというのは、時におそろしい影響力を発揮するものだと思わずにはいられない。

こんなわけで、本書で山下知津子が書いていることがかな女について知っている全てのようなありさまであるが、虚子門の高足・長谷川零余子の妻として「ホトトギス」婦人俳句会の幹事役を任されるところから出発したかな女が、昭和三年に夫を失ない、さらに火事で自宅を全焼するなどの災厄に見舞われながら、昭和五年には俳誌「水明」を創刊主宰し、作家的自覚を深めてゆく過程には率直に感銘した。日中戦争が始まった昭和十二年、長谷川時雨が主宰する雑誌「輝ク」に発表したという、

秋風や皆子を負へる兵の妻

よく濯ぐ兵士の家や秋風に

自活せんと云ふ婦に秋の風あらし

などの一連、また昭和十九年に「水明」に発表した、

呼子鳥武夫の母はかなしとふ(武夫は「ますらお」もしくは「もののふ」と読むのであろう)

といった句には、社会の奔流に動じることなく、見るべきものをしずかにしかも共感を持って見つめる視線が生動していて、これはかなり偉い人にしか出来ないことだ。それから前出の〈西鶴の女みな死ぬ夜の秋〉が、敗戦直前の夏の作であるというのも驚きだった。山下知津子はこの句の鑑賞において、

「みな死ぬ」について、石田波郷は「表現上の誇張と比喩が含みになつてゐる」(「現代名句評釈」)と述べ、「夜の秋」という季語については「死を以て不幸な恋を終つた女に対する憐憫、かよわい女をそこまで追ひつめた浮世の枷、その古い時代に生き死んで行つた同性の哀れさ、さういふものをひつくるめて『夜の秋』の気分に象徴させてゐる」と解説している。そして女らしい情調の艶美さと退廃の感傷が漂い、物語の女を借りて女のはかなさを詠んでいると指摘している。

と、波郷の所説を援用している。一句の言葉の上の解釈としてはこれで充分であろうが、制作時期をいちど知った上ではちょっと物足りない。山下自身が、

博(零余子・かな女夫妻が一歳の時から育てた親戚の子、養子。評者注)も応召してしまい、かな女はどこか開き直ったように死を覚悟していたのかもしれない。狂気のような現実の過酷さ、愚かしさを生きつつ、かな女は物語的世界のなかで覚醒していた。

と記す読みの方がずっと深い。この句は状況から独立した一句としても名句であろうが、特殊な状況下における特殊な心理が、しかもかかる整斉した普遍的表現を取り得るという点にやはり感動をおぼえる。

当ブログの第1号で本シリーズの第六巻を書評した際には、鑑賞文中の拙劣なるものについてだいぶ苦情を言わせてもらったが、有難いことに第一巻ではああしたへんてこな文章には出会わずにすんだ。一部の鑑賞者は、自句自解の類を安易に利用しすぎるようではあるが、用意の無い人がなまじ頑張るとどういうことになるかは第六巻で充分堪能したことだから、あまり批判する気になれない。ひとつだけ、高名な句についていかがかと思われる鑑賞があったので書いておく。秋色の、

しみじみと子は肌へつくみぞれ哉

に対する永田英理の鑑賞がそれ。永田は、

季語はみぞれ(冬)。『三上吟』(元禄13年〈一七〇〇〉刊)所収の吟で、当時秋色は三十二歳であった。霙が肌へと落ちてゆくと、背中の我が子はいっそうひしと体をくっつけてくる。凍えるような冷たさを感じながらも、母と子が互いのぬくもりを確かめ合い、ともに愛しさを募らせてゆく心の動きが、「しみじみ」という語に集約されている。

と述べ、さらに秋色が子福者であったことに言及する。この鑑賞で不審なのは、〈霙が肌へと落ちてゆくと、背中の我が子はいっそうひしと体をくっつけてくる。〉のところ。これではあたかもこの母子は屋外にあって霙に降り込められているかの如くであるが、そうした場合に人は〈しみじみと〉感慨にふけったりするものだろうか。あわてて家に戻ろうとするか、近くの軒下などに避難するのが普通ではあるまいか。また、〈ひしと体をくっつけ〉たからと言って、それがなぜ〈肌へつく〉と表現されるのであろう。なにしろ二人は綿入れを着ているはずなのだ。軒下などに避難して、手を握り合い温め合うということはあり得るが、その場合も〈肌へつく〉という表現はふさわしくない。この母子は是非屋内にいて、手先と手先というのではなく、もっと密に肌が触れ合うような体勢にあるのでなくてはならぬ。胸に抱いているか添い寝しているかはともかく、乳を含ませている場面などが考えられるだろう。あるいはただ母の胸元で甘えているだけかもしれない。いずれにせよ、そうしたところに外では霙が降り出した(さっきから降っているのでもよい)。その冷え冷えとしたわびしさが、子をして母の肌により強く密着しようとする動きをさせ、またその動きが母をして子の肌のやわらかさあたたかさに〈しみじみと〉した意識を向けさせることになるのである。この句は芭蕉の〈さまざまの事おもひ出す桜かな〉と同様、中七と下五の間に区切りを置いて読むべきなのに、そこを曖昧にして解釈したため上記のような鑑賞になってしまったものであろう。

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