2009年6月13日土曜日

遷子を読む(12)

遷子を読む〔12〕

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井


雛の眼のいづこを見つつ流さるる
    『山河』所収

原:初出は「馬酔木」昭和49年5月号。この49年は遷子に死をもたらすことになる発病の年です。「馬酔木」には毎月7句発表されていますが、体調不良を示す部分を順を追って抜き出してみますと、

6月号 春一番狂へりわが胃また狂ふ
7月号 (題「手術前」)癌病めばもの見ゆる筈夕がすみ
8月号 欠詠
9月号 (題「病間抄」)

とつづき、8月号以外に欠詠はありません。投句時期と号数はズレますから4月の胃摘出手術がこの時だったのでしょう。大手術、しかも予後かんばしからぬ状態だったことを思えば、欠詠がたった1回というのには頭が下がります。

掲出句は胃に変調を来す少し前に詠まれたもののようです。流し雛の句では森澄雄の

明るくてまだ冷たくて流し雛

が絶品(!)で、この句があれば他にはいらないというほどだったのですが遷子の句を知ってからは、もう一つ加えてもいいと思うようになりました。澄雄の句からはこの季節の空気を感じますが、遷子は流し雛そのものを詠んでいます。「いづこを見つつ」のフレーズは主情的であると同時に、人のかたちをしながら生命を持たぬ雛というものを過不足なく著わした揺るがない把握ではないでしょうか。

中西:それにしても、雛の句で写生句というのは珍しいですね。原さんはよく調べられたなとおどろいたのですが、それによりますと、4月に大手術で、予後が芳しくないということで、この句は、そんな状態になるたった1ヶ月前ぐらいに作られたのですね。それが分かると句の解釈が雛だけのことでは済まなくなりますね。

峡の子の数淋しさよ流し雛

が1句まえにありますから、吟行に行ったのですね。多分これが最後の吟行だったのでしょうか。2句ともに、どこか淋しさが漂っているように感じました。原さんがご指摘の、「主情的」というのにはまったく同感で、どこに流されるかも知れず、舟に乗っている雛のうつろな眼が暗示的で、句集を読み進めていきますと、どうしても、この雛がそれ以後の遷子の運命と重なって見えてきます。遷子自身この時、すでに胃に変調を感じていたとも考えられますね。胃がおかしいと思いながら数日過ごしていたのかも知れません。

胃の調子はというと、昭和37年作に、

寒うらら危機感はわが胃のみに  『雪嶺』

という句があり、痩身で、あまり丈夫ではなかった様子が色々な句から分かります。胃は大分前から調子が悪かったのですね。この句は癌が発見される12年前ということになります。

胃の不調は遷子にとって、一番悩ましいことだったのではないでしょうか。物事に対して、欲がなく、清潔で淡々として見えるのは、このような健康状態からくるものもあったのではないかと、思い当たりました。

一見写生句ですが、気持ちの深い句なのですね。「流さるる」は「流るる」とは違って、哀れに美しいですね。

深谷:小康期を挟む、遷子の長い闘病生活が始まる直前の句ですね。

原さんが御指摘されたように、生命を持たない筈の雛人形に感情移入し、まるで生命ある者の如く「いづこを見つつ」と謳い上げた点がこの句のポイントだと思います。その意味では、存在する多くの事物に遍く暖かい眼差しを注がずにはいられない遷子らしい句と言えるかもしれません。あるいは、その直前に置かれた、「峡の子の数淋しさよ流し雛」にある、山間の寒村の子供たちの姿が、何がしかの影響を与えていたのかもしれません。

そして、小康を得られたごく短い期間の若干の例外を除けば、(句集を見る限り)この作品のあとに書かれたのは大半が闘病俳句になります。そうした意味では、遷子の句業の一つの「到達点」を示す作品と位置づけられるかもしれません。

窪田:信州では南佐久郡北相木村の流し雛が有名です。「かなんばれ」と呼ばれ、3月3日に古くなった雛とお汁粉の材料を持って子供達が川原に集まります。女の子は、さんだわら(俵の両側に付ける藁で作った円形の蓋)に雛を乗せ川に流します。男の子は「かなんばれ」と言って夜まで遊びます。『信濃歳時記』(昭和59年 長野県俳人協会編 信濃毎日新聞社発行)には、句集『山河』で掲句の直前に置かれている「峽の子の数淋しさよ流し雛 遷子」が例句として載っています。

原さんの書かれました、遷子の「馬酔木」への投句状況から見るとおそらくこの年の3月、北相木村で流し雛を見たのでしょう。その時、遷子は自分の体調不良の原因を推測できていたのではないでしょうか。人は限りある命のことを思う時、一際自然の美しさに惹かれるのでしょう。掲句の7句後に、

わが山河まだ見盡さず花辛夷

が置かれています。

この時期、北相木村辺りでは草木もまだ芽生えず、一面の枯れ景色です。わずかに日の光のみが春の訪れを感じさせてくれます。その淡い光を纏って流されていく雛の眼と遷子の命を思う心が重なり合ったのではないでしょうか。

筑紫:原さんのクロニクルは遷子の側から見た記録ですが、客観的な事実は違っていたようです。

昭和49年3月に遷子が胃の異常を自覚し、横浜の友人医師による診断を受けたとき、すでに悪性の癌は第4期にまで進行しており、不治となっていました。本人には癌の疑いのある潰瘍と説明され、4月に入院手術が行われます。カルテ・写真などを要求した遷子に医師は書き改めたカルテなどを示しました。遷子は、癌の疑いを捨て回生の希望を持ちます(「梅に問ふ癌ならずとふ医師の言」があります)。縫合の失敗などから退院が長引いたものの、秋には体力もやや回復、最後の吟行に出られるまでになりました。しかし、50年夏、癌は肝臓に転移し、遷子には輸血による肝炎とその悪化との診断が伝えられます。専門医として自己の病状に不審を抱きながらも、栄養さえ摂ることができれば、肝硬変は治癒しないまでも悪化は食い止めることが出来ると説明され、再度の入院を決意します。(以上は「俳句」昭和51年4月号、矢島渚男氏の「山河50句抄」付記より)

       *       *       *

さて、原さんの、遷子の側から見たクロニクルを続けて書いてみます。

昭和50年の8月まで、遷子は「病間抄」として比較的静かな作品を発表しています。突然変わるのが、9月号に発表される「肝炎再燃」という題の作品(「夏蜜柑肝臓燃ゆる口に合ふ」ほか7句)で、時期から言えば6月頃のこととなると思われます。以下「露涼し」(10月)「秋簾」(11月)「露煌く」(12月)「秋風」(1月)「わが山河」(2月)となり、「冬麗」(3月)を持って絶筆となります(「昼ながく夜またながし寒の入り」が最後の句です)【注】

遷子の追悼号で多くの人が、直前の遷子の言葉を記録しているので再録しましょう。

「肝臓が今頃悪くなるとは思っていなかったので少々がっかりしています。まあ、しかし出来るだけがんばって何とか長持ちさせたいと存じます」(8月5日 古賀まり子宛書簡)

「小生の病気は肝炎といっても、性質が悪く、急速に肝硬変に移行して了いましたので参りました。あとは何とか出来るだけ長く持たせるしか方法がありません。何年持ちますか。色々、これからと思っていたのに残念です。」(8月18日 古賀まり子宛書簡)

「なんとか出来るだけ長生きして、馬酔木のお役に立ちたいと思っています。両親の年齢まで20年は生きるつもりでしたが、少々残念ですが止むを得ません」(9月2日 古賀まり子宛書簡)

「私の病気はどうもたちがよくありませんので、治る事など望めず、あとは只、頑張って長持ちさせるだけですが、出来るだけ努力する積りです」(10月24日 古賀まり子宛)

「昨年までは80数歳まで長生きする積りでした。血圧も低く、動脈硬化が眼底検査で〇度ですので、癌にさへならなければといふ訳です。ところが思ひがけない肝炎から肝硬変になってしまひました。自分には全く縁のないと思ってゐた病気です。肝硬変も徐々に来たのは10年以上も生きる人もありますが、私のは全く急速になったので、性質が悪いのです。どうもかういふ時に医者はいけません。余命の統計もちゃんと出てゐますので覚悟だけはしてゐる積りです。やりたいこと沢山あり、旅行など、長男が帰って来ましたので、これから出来る筈だったのに甚だ残念です。・・・・水原先生には肝硬変と申し上げておりません。慢性肝炎といふことにしてあります。」(不明 渡辺千枝子宛書簡)

「すでに覚悟を決めた」「貴地へ旅行したいと思っていたのに果たせなくて残念である」(11月2日 大島民郎宛書簡要旨)

堀口「調子は如何ですか」相馬「どうも思わしくありません」(11月3日 堀口星眠と面談)

「手遅れでした。もう少し早めに入院すべきでした。」「このことは堀口さんとあなたにしか話してありません。」「このことは先生にもお手紙をさし上げましたが、あなたからついでの時に申し上げて下さい」(11月16日 福永耕二宛電話要旨)

「大失敗をしました」「この前胃癌の疑いで手術をしたが、その疑いが晴れて、絶対に長生きできると信じていたのですよ。僕は血圧も心臓も全く異常がないから安心していて手当てが遅れてしまいました。大失敗をしてしまいました」(12月3日 福永耕二、黒坂紫陽子、市村究一郎と面談)

「この間の状態では、今年までは、もつまいと思ったのですが、輸血などをしてもらって、楽になりました」「これ(「冬麗の微塵となりて去らんとす」11月26日の作品)は僕の辞世の句です。もうこの時は本当にダメだと思っていました」(1月2日 堀口星眠、福永耕二と面談)

医師が自らの症状について本当に騙されるづけるものであるかどうか、素人である私にはよく分かりません。しかし、上に見たように縁のある人が語る遷子の言葉は一貫しており、肝硬変であると信じ切っていたようです。矢島渚男氏は、「氏が自己の病気をはっきり癌であると知っておられたとすれば、最後の作品群はかなり違ったものとなったに違いない」と述べられています。

確かに、例えば、もし知っていたら

死病とは思ひ思はず夏深む

のような句は生まれなかったに違いありません。しかし、こうした期待も自ら消してゆくようになります。それは、手紙などと照らし合わせて、

思ひいますさまじければすぐ返す(10月18日)

頃ではなかったかと思うのです。以後遷子は死にむけてまっしぐらに俳句を詠んでゆくのです。その意味では以降の句は、矢島氏が言っている、「はっきり癌であると知っておられたとすれば」に相当する作品ではないかと思われるのです。病気が何であろうと、遷子は死の覚悟をした時期以降、遷子らしい最後の句を発表し始めるのです。

掲出の句はそれよりはるかに前の句ではあります。しかし雛の冷徹な目を考えると、それ以降の遷子のクロニクルのすべてが雛の眼には浮かび上がっていたようにも見えます。遷子は肝硬変と思っていたかも知れませんが、この雛はじつは何もかも知っていたのではないでしょうか。

その意味で、窪田さんの「遷子は自分の体調不良の原因を推測できていたのではないでしょうか」を納得したく思うのです。じっさい、入院直後の句に、

癌病めばもの見ゆる筈花辛夷

があるからです。もちろんこれは後付けの鑑賞なのですが、伝説の人にはこうした解釈も許されるように思うのです。

【注】この他遷子は精力的に文章を書いており闘病中の人の半年とは思えないほどです。

「馬酔木」1月号 「水原秋桜子俳句と随筆集をめぐって」(座談会)
「馬酔木」6月 特別作品誌上合評
「俳句」7月~9月 現代俳句月評
「馬酔木」9月 「桂郎さんの近作」
「馬酔木」9月~12月 馬酔木集評

馬酔木集(ホトトギスの雑詠に相当)の選後評は、もともと秋桜子が自ら「選後に」を執筆していましたが、病後の秋桜子の負担を軽減するため堀口星眠が代わって「馬酔木集評」として行っていました。しかし事情により、この月から遷子がかわったものです。遷子の入院により51年1月号は欠稿となり、2月号は1・2月号分として星眠が行い、3月号から秋桜子が「選後に」を復活しました。その意味では、遷子が馬酔木のために命を削ってした貢献がこの選評であったのです。

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2 件のコメント:

高山れおな さんのコメント...

中西さんの御発言に、〈痩身で、あまり丈夫ではなかった様子が〉云々とありました。先日、新聞に四十歳で少し太り気味の人と痩せた人では、太り気味の人の方が平均余命は長いとありまして、メタボ系不惑の小生としては意を強くしておりましたが、遷子は痩せていたのですねえ。いや、わやくちゃな感想で申し訳ございません。

いつも楽しませていただいておりますが、今回も信州の流し雛の様子など目に浮かぶようでした。それにしても考えてみれば小生など、流し雛など参加したこともないのはもちろん、見たこともないわけです。

「あとがき」にも記しましたが、「遷子を読む」はもはや、貴重な抑圧的機能を果たす重要連載と化しております。コメントが余りつかないのは、その抑圧の強さを物語るものでしょう。シリアスドラマを、固唾を呑んで読み耽るサイレント・マジョリティの存在を確信しております。今後とも楽しみにしております。

Unknown さんのコメント...

遷子読書会の皆様、おもしろく拝見していますよ。お互いにコメントをつけあっていらっしゃる感があるので、それもたのしいです。

雛流しは、甲斐の山中の川にもあるのですね、海にまでながされてゆくのでしょうか?こちらは和歌山市加太の淡嶋神社の流し雛が有名です。
境内に、
 明るさに顔耐えている流し雛
          榎本冬一郎
の句碑があります。
 相馬遷子の句柄に巧まざる社会性と言うべき心情が出ていて、そう言うのは、好もしく感じます。
 私は、この欄では、社会性俳句に傾いて山口誓子に叱られていたらしい(鈴木六林男氏談)榎本冬一郎のことをよくおもいうかべます。この人は、「馬酔木」を退会して誓子についてゆき、「天狼」創刊に加わった人ですが、やがて労働組合の専従だった藤井冨美子などと和歌山の「群峰」に隠ってしまった人なのです。「馬酔木」の人たちが会得しているらしい、自然と共に生きる人間の生活、そういう社会観がつながているのでは?と感じることがよくあります。
 しれは、ひじょうに日本的な、農民と山人の心を抱え込んだ社会性です。(不思議ですが、津田清子にも感じます)。それが浮き彫りにされて行くので、遷子に同時に関心をもちます、


ところでれおなさん。貴兄(弟)曰く

「あとがき」にも記しましたが、「遷子を読む」はもはや、貴重な抑圧的機能を果たす重要連載と化しております。コメントが余りつかないのは、その抑圧の強さを物語るものでしょう。シリアスドラマを、固唾を呑んで読み耽るサイレント・マジョリティの存在を確信しております。今後とも楽しみにしております。(れおな)

「コメントがつかないぐらい」の「俳壇への抑圧機能」って、まあ大胆な毒舌。れおなさんのわかりにくさは、何処かで書かれていた「学歴うんぬん」や「博識」が、幸いかわざわいしているのではなく、こういう屈折した毒舌が誰に向けられているのかが俄かにはわからない、と言う、感受性の重層性のところにあるのでしょうか?ちょっとペダンティックな口調ですが、思い当たる人も居るかと思います。

◎ 相馬遷子が、病気の重さに死期を感じて行くくだり、辞世の句や文をのこそうとするところ、手紙の文面、いつのまにか攝津さんのそのころと重ねて読んでおりました。シリアスドラマ、とはなるほど。(あるサイレント・マジョリティより)