2008年12月28日日曜日

俳句九十九折(18) 俳人ファイル Ⅹ 火渡周平・・・冨田拓也

俳句九十九折(18) 
俳人ファイル Ⅹ 火渡周平

                       ・・・冨田拓也

火渡周平 15句
 
月と守宮似て非なるもの何々ぞ
 
セレベスに女捨てきし畳かな
 
東西に南北に人歩きをり

雨となり水の執念終りたる

水泡より美しき旅了りしや

傘干すや雨も未来のものの一つ

猫走り瓦礫ばかりを残しけり

燃ゆる火の浦島太郎大昔

石の上又石の上歩きをり

飛行機が扉をとざし飛行せり

天才の十一歳を駈くるなり

悪霊の如し兎の箱の如し

黒い瞳の鶉の千夜一夜かな

結末は鰐見てをりし波がしら

扨て星のひとつが落ちて兄おとと

 


略年譜

火渡周平(ひわたり しゅうへい)

明治45年(1912) 大阪生まれ

昭和6年(1931)頃より句作を始め、「早春」「旗艦」「火星」「寒雷」「万緑」「雲母」「金剛」「太陽系」等、俳誌遍歴を重ねる

応召 南部仏印、比島、セレベスを経る

昭和20年(1945) 終戦

昭和21年(1946) 復員

昭和22年(1947) 「現代俳句」に「花鳥昇天」50句を送り、石田波郷に絶賛される その後「花鳥昇天」を「現代俳句」「俳句研究」「俳句界」「金剛」に次々と発表

昭和26年(1951) 『俳句研究』6月号に「悪霊」50句

昭和31年(1956) 『俳句研究』1月号 に「戦争論」66句

昭和34年(1959) 『俳句研究』6月号に「燈台噴煙す」50句

昭和51年(1976) 「広軌」参加 この頃俳句へ復帰? この後「俳句研究」「俳句公論」などにも作品発表

昭和53年(1978) 句集『匠魂歌』(深夜叢書社)

 

没年不詳
 

A 今年ももう終わりです。

B 今年もなんにもしませんでしたね。

A そうですね。せいぜいこの連載くらいでしょうか。

B 思えば、この「―俳句空間―豈weekly」が始まったのが今年の8月ですから、早くも4か月ほどが経過していることになります。

A この連載については、どこまで続けられるのだろうかと思いましたが、意外なことに現在までまだ続いていますね・

B 今回で18回目です。

A この連載のタイトルを「俳句九十九折」としたのは99回を目標としようとしていたためでもあったような気もします。現在となってはそういった記憶も最早有耶無耶になっておりますが。

B 99回まではあと81回です。その日までこの連載は続いているのでしょうか。

A どうなのでしょうね。最低でもそこまではなんとか続けたいものです。

B そして、この「俳人ファイル」が始まってからは、今回で10回目です。

A ということは今回で10人目ということになりますね。第10回目である今回は火渡周平を取り上げることにします。

B 従来の規範的な俳句の世界からどんどん離れていって、段々とマニアックな方向に進んでいるような気がしますが……。

A どうも自分でも次に誰が来るのかわからないというか、人選をコントロールできないようなところがありますね。どういうわけか予定していた作者が様々な理由で変更になってしまうというケースがよくあります。

B 火渡周平が活躍したのは戦後直ぐ、ということで、前回の神生彩史と関連性があるといえばいえそうですが。

A そうですね。この2人はともに「旗艦」「太陽系」に所属していましたし、年齢が近いことなど共通項がいくつもあります。そういったところから神生彩史と火渡周平は、どちらかというとライバル的な関係にあったといえるのかもしれません。

B この火渡周平という作者についてですが、現在はそれほど有名な存在ではないでしょうね。

A そうだと思います。俳誌などでも極くたまにその名が登場する程度ではないでしょうか。

B その略歴だけを見ても随分と特異なところがあります。

A 昭和6年から俳句を始め、「早春」「旗艦」「火星」「寒雷」「万緑」「雲母」「金剛」「太陽系」等、俳誌遍歴を重ねていたとのことです。

B 「旗艦」は日野草城、「火星」は岡本圭岳、「寒雷」は加藤楸邨、「万緑」は中村草田男、「雲母」は飯田蛇笏、「金剛」は下村槐太ですからやはりどうも普通ではないですね。

A 戦後直ぐの「花鳥昇天」という作品での活躍を経て、その後途中で俳壇から姿を見せなくなっているようです。昭和50年代にまた復帰するようですが、没年などいまだにこの作者については謎の部分が多いです。

B 1991年ごろにはまだ作品を発表していたそうで、そのころの年齢はおよそ80歳であったはずです。その後のこの作者の消息については私は知りません。宇多喜代子さんあたりに窺えば詳しいことがわかるかもしれませんが。

A では、とりあえず作品を見ていきましょうか。

B まず〈月と守宮似て非なるもの何々ぞ〉です。

A この作者は昭和53年に句集『匠魂歌』を纏めています。この句集は全部で5連から構成されていて、この句は始めの「青空供養」という章におさめられています。

B その「青空昇天」の冒頭に〈南部仏印、比島、セレベスを経て 復員〉という言葉があり、この句も戦地をモチーフにした作品であるようです。

A この「青空供養」には総計107句がおさめられています。

B 「青空供養」の最後あたりは敗戦を詠んだ句もありますから、この章の107句についてはやはりすべてが戦地における作であると考えてよさそうです。

A この作者は昭和6年から句作を始めているわけですが、戦前の句は句集にはおさめられていないようですね。

B おそらくこの戦中の作以前にも作品は存在するはずだと思いますが、火渡周平にとって俳句作者としての本当の出発点はこの戦中の作品群からであるという意識があったのかもしれません。

A 〈セレベスに女捨てきし畳かな〉という句も当然戦争に関連した句であると考えられます。

B ただ、この句は句集の第2章「花鳥昇天」の冒頭に置かれています。初出はわからないのですが、戦地の作のみで構成された「青空供養」と峻別されているという事実から推測すると、この句は戦後の作であるということになるのかもしれません。

A そう考えると、この句は日本に戻ってきて、セレベスでの出来事を回想している句である可能性が高そうですね。

B この句はこの火渡周平の代表作として喧伝されているわけですが、いまひとつ意味が明瞭でないところがあります。

A 「セレベス」は当然ながら、インドネシアの島です。そこに果たして畳など存在したのでしょうか。

B 当時はインドネシアに様々なものが輸送されていたはずで、その中には畳もあったのかもしれませんが、やはり詳しいことはよくわかりません。

A まあ、句になっているということでそういう事実があったと考えていいのでしょう。ともあれ「セレベス」と、「畳」から連想される「日本」という世界的な距離の隔たり、そして、戦争という世界規模の状況下での男女の関係性が壮大なドラマ性を感じさせます。

B この句を含む「花鳥昇天」という一連の作で戦後、火渡周平は一躍注目を集めることになったそうです。

A 当時について本人の述懐によると〈戦後という特異な時代の副産物として、「花鳥昇天」は脚光を浴びたのだが、それは昭和22年の私の作句活動のすべてであった。無季俳句は、当然、単一性を要求した。無季の体質がそうあらしめたのか、嵐のような興奮がその作句の過程にあった〉とのことです。

B この「花鳥昇天」という題された作品は昭和22年に『俳句研究』『現代俳句』『俳句界』『金剛』などに次々と発表されたようです。

A 『俳句研究』昭和22年7・8月号では、西東三鬼の推薦で「新人俳句」という欄に「花鳥昇天」10句が掲載されており、その第1句目がこの〈セレベスに女捨てきし畳かな〉となっています。

B 石田波郷が編集していた総合誌『現代俳句』昭和22年5月号ではやはり「花鳥昇天」という題で55句が掲載されています。

A 本人によると〈有季固執の石田波郷氏が、近来にない快作と絶賛してくれたこと、その時の感激はいまだに忘れることが出来ない。〉とのことです。こういった経緯を経て『現代俳句』に作品が掲載されることになったようです。

B この「花鳥昇天」という作品はおよそ200句ほどの数があり『現代俳句』に発表された作品は下村槐太が選をしたものであるそうです。

A しかしながら、句集には80句しか採録されていません。

B この「花鳥昇天」がやはりこの作者におけるピークということとなると思うのですが、そう考えると80句しか採録されていないのは残念な気がします。

A 今回私が選んだ15句の内の10句までもが「花鳥昇天」からのものです。

B では、その「花鳥昇天」の先ほどの「セレベス」の句以外の作品について少し見ていきましょう。

A まず〈東西に南北に人歩きをり〉です。『金剛』昭和22年3・4月号の「花鳥昇天」所載の句です。

B 三橋敏雄の〈雪降れり人のゆきかひ十字なす〉虚子の〈初空や東西南北其下に〉そして誓子の〈空ゆけば枯野東西南北に〉を思い起こさせるところがあります。

A 周平の句は当たり前の事実を句にしているに過ぎないのですが、壮大な景観が目に浮かびます。

B おそらく十字路なのでしょうね。東と西、北と南へとそれぞれに続く道を遥か彼方まで見渡す迫真力があります。

A 無季なのですが、表現の骨法がしっかりとしているため無季の弱さを感じさせないところがあります。

B 続いて『金剛』昭和22年3・4月号所載の〈雨となり水の執念終りたる〉です。

A なんだか妙な句ですね。おそらく「水の執念」という言葉がそのように感じさせるのだと思います。

B 水は個体、液体、気体となってこの地球上を巡っています。水の気体が上空で冷やされて雲となり、さらには雨となるわけですが、そこに「執念」という語を持ってきたところに異様な迫力があります。

A それこそ「情念」といった言葉も思い浮かびますね。ただ、その「水の執念」が「終った」ということは一体どういう意味なのでしょうね。

B その点についてはいまひとつ判然としないところがありますが、水が雨となって地へ向かうということで、天そのものの絶対的な境地、もしくは天そのものへと化す願望が成就しなかった、ということであるのかもしれません。

A そう考えるとややかなしい句ですね。水は永劫にこの運動を繰り返すわけですから。

B なんとなく「輪廻」という言葉も浮かんできます。

A また、もしかしたら水が気体から雨という液体となることで、もう一度姿を得ることが可能になったという一種の回生をテーマとした句であるのかもしれません。

B そう考えると、水の蘇生、復活ともいうべき内容の句なのでしょうか。また、そのように読んでも「輪廻」のイメージが思い浮かぶところがありますね。

A 続いて〈傘干すや雨も未来のものの一つ〉です。昭和22年7月の『金剛』の「花鳥昇天」所載の句です。

B なんだか先ほどの句と似ていますね。

A 「未来」という言葉がやや明るい印象を齎しますが、そこに「雨」というやや重たい印象の出来事の到来を予見しています。

B 何となく林田紀音夫の〈青ぞらのけふあり昨日菊捨てし〉を思い出します。この句は未来の出来事を詠み込んだ周平とは逆に、わざわざ過去の出来事を句に詠み込んでいます。

A こういったやや迂遠ともいうべき表現は下村槐太譲りのものであるのかもしれません。

B そういえば林田紀音夫も槐太の弟子でした。作品を見ると、やはり共通する手法が感じられますね。例を挙げると、

死にたれば人来て大根煮きはじむ  下村槐太

鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ  林田紀音夫

自転車に乗らざる綿を売りにゆく  金子明彦

などということになります。

A 火渡周平には下村槐太の影響というものが小さくなかったのではないかという気もします。

B 次に〈猫走り瓦礫ばかりを残しけり〉です。『俳句研究』昭和22年7・8月号の「花鳥昇天」より。

A 昭和22年ですから、やはり戦後直ぐの時代状況が思い浮かびますね。そういった状況でも猫は動物的な本能から食餌を求めて疾駆するということでしょうか。

B 猫が走ったあとにどんどん建物が崩壊していくようなまるで漫画ともいうべきイメージもあるようです。

A あと、富澤赤黄男の〈あはれこの瓦礫の都 冬の虹〉も連想させるところがあります。

B 続いて〈燃ゆる火の浦島太郎大昔〉です。『俳句研究』昭和22年7・8月号「花鳥昇天」より。

A なんだか妙な句ですね。あまり俳句に「浦島太郎」は登場しません。

B 「浦島太郎」は昔話の登場人物ですから、当然「大昔」であるわけですが、なぜ「燃ゆる火」という表現が出てくるのかよくわからないところがありますね。

A どこかしら散文的な意味性を斥けているところがあるというべきでしょうか。

B 「燃ゆる火の」ですから、もしかしたら「浦島太郎」が亡くなった時の句なのかもしれません。

A そのように考えると、「浦島太郎」は「玉手箱」を開けておじいさんになってしまったわけですから、白髪と白い髭が火の中において燃えているイメージが思い浮かんできて、なんともおそろしい句であるようにも思われます。

B 「浦島太郎」といえばその名前と物語から「海」、そして「水」がイメージされますから、それがまるで「火」のイメージと相克しているようにすら感じられるところがあります。

A あと、「大昔」という表現もよく考えると「浦島太郎」ですから時間が重層的な構造になっていて、作者の昔話に対するアイロニカルな視点が窺われるようです。

B 続いて〈石の上又石の上歩きをり〉です。『現代俳句』昭和23年9月号「ロマン派」所載の句です。

A この句は無季ですね。それに加えて、この作品には意味内容がほとんど存在しないといった感があります。

B それでも、あまりにシンプルな内容ゆえでしょうか、一読忘れ難いものがあります。様々な意味性を剥ぎ取って、石の質感そのものがそのまま直に伝わってくるようです。

A 同じ「ロマン派」の〈飛行機が扉をとざし飛行せり〉という句にもそういった印象が感じられますね。

B たしかに、この句も剥き出しの物質感のみが感じられます。この句も無季の句です。

A 「飛行機」そのものしか存在していないところが、なんというか、途轍もなく異様です。

B なんだか、小林秀雄が〈彼が往来した砂漠の様に無味乾燥〉と評した詩人ランボーの砂漠からの書簡を思わせるようなところがありますね。

A そういえば、ランボーの書簡を作品として読むという研究が詩人の鈴村和成さんにあります。詩を捨てたと思われていたランボーが、砂漠の国で自らの裸の眼に映った事象のみをそのまま文字にして作品にしたのではないかといった内容のものです。

B 火渡周平は俳句における「砂漠のランボー」だったのかもしれませんね。

A もしかしたら、ある意味ではこれらの句は、俳句性というものを突き詰めた末にある表現の極北であるようにも思われてきます。

B それこそ様々な付加物を剥ぎ取って、俳句形式における「骨格」だけが残されているような感じですね。最低限の言葉のみで構成されているというか。本当にぎりぎりのところで成立しているような凄絶さがあるようです。

A 林田紀音夫は当時「花鳥昇天」の作品に対して〈その実体はむしろレアルに徹せんとする意欲である。〉と評したそうですが、この言葉は、「花鳥昇天」の作品の中でも、特にこれら作品に相応しいものであるように感じられます。

B しかしながら、どうしてこのような徹底的に無内容な作品が生み出されたのでしょうね。

A 当時の本人の言葉では昭和21年頃の戦地から復員してきた当時について〈無為徒食のあけくれであったが、その年の秋に天辻鋼珠KKに復職できた。敗戦によってすべての権威が失われ、半ば虚脱状態にあったその頃の精神の空白を、なんとか俳句で埋めることに努めたが、しかし、それも伝承された俳句ではなしに――と、その突破口に創作意欲は飢えていた〉という発言があります。

B 敗戦による価値観の崩落というものはやはり作者を含む当時の人々にとってあまりにも大きなものであったようですね。

A 他にも〈当時の私は、虚無(ニヒル)とは何であるか、この課題が作句の要諦でもあった。虚無の極限を追求してやまなかった。虚無の形骸すらもとどめない俳句を、五、七、五、に希求し、実践した。〉という言葉もあります。

B なるほど。これらの句は、そういった戦後の「虚無」的な心情に端を発する「虚無の極限を追求」した結果として生み出されたものであったということになるようですね。

A あと、無季の句が多い理由として、赤道直下の南方従事中の作句体験から、自然と超季の立場を志向するようになったそうです。

B この無季への志向もこれらの作品を「虚無」たらしめている大きな要因であるように感じられます。

A しかしながら、「虚無」もここまで来るとある種の「鬼気」すら感じるようなところがありますね。

B これらの句が掲載されている「ロマン派」というタイトルも、そう考えると随分と皮肉なタイトルです。

A たしかに大変逆説的なタイトルですね。その作品は所謂「ロマン性」を徹底的に忌避しているようにすら思えてきます。

B 続いて〈天才の十一歳を駈くるなり〉です。この句も『現代俳句』昭和23年9月号「ロマン派」所載の句です。

A この作品も意味性が剥ぎ取られ拒絶されているところがあります。先の句と同様おそらくこの作品もまた「虚無」の心情に根差したものであるのでしょうね。

B しかしながら先の2句ではまだその作品の意味内容が理解できたのに対し、この句ではすでに意味内容すらも作品の埒外に放擲されているかのようです。

A たしかに散文的な意味では、もはやこの作品を理解できないところがありますね。

B それでも「天才」、「十一歳」、「駈くる」という言葉の連なりとその関係性からは、なにかしら魅力的なポエジーの躍動が感じられるところがあります。

A たしかに「天才」の超絶性と「十一歳」の溌剌とした生命、そしてそれらが「駈くる」という表現に集約され、疾走感を伴う爽快な表現として生動しているように感じられます。

B この作者には妙なエピソードがいくつか存在して、そのひとつに、俳句の五、七、五を別々に作成し、くじ引きの要領で別々に選出し句を成していた、という話があります。

A 火渡周平の作品には確かにそのような手法で成されたとおぼしき句がいくつか見受けられるようなところがあります。江戸時代には「天狗俳諧」というものがあって、これは別々の人がそれぞれ五、七、五を作り任意に組み合わせるといったものであったそうなのですが、それに近いものがありますね。いうなれば「一人天狗俳諧」とでもいうべきでしょうか。

B この句も、もしかしたらそういった手法で成された句であるのかも知れません。

A 言葉の連なりがどちらかというと意図してできたものであるというよりも、そういった偶然性が関与しているようにも思えるところも確かにありますね。実際のところはどうであったのかわかりませんが、こういった表現のみを見ると、この火渡周平という作者はまるで「早すぎた攝津幸彦」のような感じもします。

B そうですね。言葉がシャッフルされて組み合わせられたような表現に近しいものが感じられます。そして、それだけでなく、先ほどの句と併せて考えてみるならば、もしかしたら、むしろこの作者の存在は、攝津幸彦のみにとどまらず「加藤郁乎」における作品表現をも髣髴とさせるところがあり、そして実際のところ加藤郁乎への影響も小さくはなかったのではないかという気すらします。

A そういう風に考えると先ほどの〈石の上又石の上歩きをり〉〈飛行機が扉をとざし飛行せり〉あたりの作品は、加藤郁乎の〈サイダーをサイダー瓶に入れ難し〉〈冬の波冬の波止場に来て返す〉の本歌であるように思われるところがあります。

B やはり並べてみると手法がそっくりですね。特にリフレインのところなどはそのままといった感じです。加藤郁乎の源流はもしかしたらここに求めることができるのかもしれません。加藤郁乎には、この火渡周平を評した「現代花鳥諷詠の二句」という短文も存在します。

A そう考えると、加藤郁乎の第1句集である『球体感覚』(1959)への影響もこの火渡周平に負うところが少なくないのかもしれませんね。

B ただ、実際に『球体感覚』をみると、その作品世界の内側にあるものは少し一瞥しただけでも大変多岐に渡っていて、けっして火渡周平の要素だけで成り立っているというわけでもなさそうではありますが。

A 続いて〈悪霊の如し兎の箱の如し〉を鑑賞しましょう。『俳句研究』昭和26年6月号「悪霊」からの句です。

B 火渡周平の作品はこの頃から一字あけなどの試みがあらわれ、その作風については徐々に変化してくるようです。

A しかしながら、この句においてもその無意味性への志向には変わりがないようです。

B たしかに何が書いてあるのか判然としませんね。「悪霊」と「兎の箱」、双方の近似性を有するものとは一体どういったものであるのか見当が付きかねるところがあります。

A ただ言葉の関係生の面白さのようなものは感じられると思います。

B たしかに俳句形式の中で「悪霊」と「兎の箱」という単語と、それらに伴う「ごとし」という比喩の表現が2度繰り返されるところに、ランダムアクセスによって択ばれた言葉の組み合わせによるやや不可解な化学反応が生じているようです。

A 続いて〈結末は鰐見てをりし波がしら〉です。この句も『俳句研究』昭和26年6月号「悪霊」の作品です。

B あまり俳句に「鰐」が出てくることはありませんね。その点だけでもなかなか異色です。

A この句の舞台は動物園なのでしょうか。「結末」という言葉から映画や小説のラストを連想させるところがあります。

B 「結末」という言葉から連想されるようにやはりこの句にもこれまでの他の句と同じくどこかしら「虚無」の影を揺曳しているようです。

A しかしながら物語の「結末」に「鰐」が出てくるというのは相当異様ですね。

B 鰐といえばその凶暴性がまず想起されるところですが、この「鰐」は動物園か何かで飼われているため、もしかしたらぐったりしてあまり動かないでいるのかもしれません。

A そう考えるとやはりこの句からは、ややものうい雰囲気が感じられるようですね。

B この句の発表は先ほどにも記したように『俳句研究』昭和26年6月号でした。その後この作者は『俳句研究』昭和31年1月号 に「戦争論」、『俳句研究』昭和34年6月号に「燈台噴煙す」を発表といった具合に間欠的に作品を発表しますが、その後長く沈黙してしまうようです。

A そして、その後昭和50年代になってから「広軌」に加わり再び作品の発表を始めるようです。

B 最後に〈扨て星のひとつが落ちて兄おとと〉を鑑賞しましょう。

A この句は俳句に復帰した昭和50年代頃の句ではないかと思われます。

B やや耽美的な雰囲気の句ですね。「虚無」を志向し続けてきた火渡周平にしては、やや異色の作だと思います。

A この頃の、つまり火渡周平が俳句に復帰した後に発表された作品のいくつかについては、一応目を通しましたが、私はどちらかというとあまり興味を引かれるところが少なかったというのが正直な感想です。

B さて、火渡周平の作品について見てきました。

A 今回その作品を読んでみて、これまでこの作者のことを一種の「キワモノ」的な存在なのではないかと思っていたのですが、よく読んでみると単純にそうとは言い切れない部分があるということがわかりました。

B 雑駁で出鱈目な句も多いのですが、それだけでなく意外にもその作品の裏側には割合に高い水準での確固とした俳句技量が確かに存在しているように思われました。

A これまでは、なぜあの石田波郷が当時、この火渡周平の「花鳥昇天」を絶賛したのか大いに疑問だったのですが、波郷はこの作者の内側にある確固とした俳諧精神の存在を認めたためであるということが、今回ようやくわかりました。

B 先ほども少し触れましたが、火渡周平のその俳諧精神には下村槐太という存在とその影響も小さくないのではないかという気がします。

A そうですね。〈東西に南北に人歩きをり〉〈傘干すや雨も未来のものの一つ〉などの俳諧的な手法を思わせる表現にはやはり下村槐太の影響を見ることができるはずだと思います。

B 同じ時代の林田紀音夫への影響も甚大なものがありますから、下村槐太という作者の存在の大きさがここからも感じられます。

A 火渡周平のアルチザン的要素と実験精神の相克から生み出された、絶対的な「虚無」そのものを志向した作品世界は、現在においてもその圧倒的なまでの無内容性において、いまだにその作品の価値を減じていないところがあるのではないかという気がします。
 

選句余滴

火渡周平

大夏野来たるべき日の来つつあり
舷かしぐ夜光虫数を尽すとき

蜥蜴美味貝の珍味や皿いちまい

西ひがしバナナ林相尽しける

父母妻子祖父祖母の顔竹落葉

蜻蛉宙日は暮るる鉄兜の山

山川や赤茄子熟るる全きまで

天の色娶らざる日の遂に来し

中心に生殖器あり毬投ぐる

小波のうらがへりたる柩かな

女子誕生鳥居彼方にも此方にも

啄木の歌の愚も亦昔かな

翡翠の彼方此方もなかりけり

遠く又近く雨降る恋の極

荒魂のごとくに購ひし玩具かな

雨の糸垂るる大阪恋ふべしや

星あふぐ何か忘れし一大事

一語一語博士に飢餓はありにけり

白皙のわれ恋ひ旅にやつれし女

ああ婚礼悉く地の起伏せる

仏来よ首振り人形吾子の手に

ものの種子吐くや家並と夜空のみ

何か盗まれたる弥勒菩薩かな

追つてくる人間一人杖つける

つよきいろ天の鴉と言ふべしや

一燈に我に男の力ある

野面にほふ君も公爵の果てなるか

鶏卵や睡眠われに許さるる

破れ靴鳶が鷹生むことあらん

帆前船河寸前と言ふところ

頭蓋骨 世に葡萄の木ひかるばかり

百千の折鶴が舞ふ祈禱かな

おしなべて黒き航跡かたつむり

土色の土色の雨鮒を獲し

体臭の真只中の百合一握

漆黒の窓の確かさ螢の夜

でで虫に指頭あらはな美術館

むらさきの煙ひとすじ免罪符

うすれゆく鳶尾草なれば地に坐す神


 

俳人の言葉

ひとは何と見るか、わたくしは、あの作品群の底に脈々と流れる火渡周平の烈しい祈を買つた。信じてそこに安住するものに祈はない。信ぜずして願ふものは不幸である。火渡周平は信じて願ふがゆえに、祈の表現を持つことができた。

下村槐太 「花鳥昇天の祈」より

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3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

火渡周平については名前と〈セレベスに女捨てきし畳かな〉の一句を知っていたに過ぎませんが、実に面白い作者ですね。前号の神生彩史よりずっとインパクトがあります。〈セレベスに〉の解釈では、冨田さんは女を畳の上に置いてきたかのように読んでおられますが、これは中七下五の間で区切ってもよいのではないでしょうか。すると、畳は女を捨てて日本に帰って来た男の居る場所、男の状況を象徴する事物ということになります。もちろんセレベスにも畳の二枚や三枚は輸出されていたでしょうが(笑)、別にそれを考慮に入れる必要もないかと。

〈雨となり水の執念終りたる〉には、大原テルカズの〈天を発つはじめの雪の群必死〉を連想しませんか? 年齢は一回り以上、大原の方が下ですが、時代が共有する気分を感じます。林田紀音夫の、〈その実体はむしろレアルに徹せんとする意欲である。〉という評言を引いておられますが、至言でありましょう。〈リアリズムは未だに「現実の再現」以上に考えられていない傾向があるが、言うまでもなくその本来の精神は現実の否定である。現実を否定することによってそれをより強く生かす思想である。〉(小野十三郎)というような意味においてのリアリズムを、火渡・大原の両者に感じたことです。〈啄木の歌の愚も亦昔かな〉などという句も、啄木の短歌がそもそもロマン主義の少年詩人が破産した結果のリアリズムの産物とも言えるわけなので、啄木に耽溺した昔を振り返っての「愚」の一語のニュアンスもじつは否定の否定といった感じの愛の表現なのだろうと思います。

〈燃ゆる火の浦島太郎大昔〉は、なんで全然有名でないのでしょうね。私が無知なだけでしょうか。内容からしても、口誦性からしてもこれは名句の格じゃわいと感服した次第です。焚き火などして火に見入った時のえも言われぬ魅力を詠いきった句だと思いました。同時に、老人になってしまった浦島子は、遠からず死んで荼毘に付されもしたでしょうから、その火葬の火とも考えられるわけです。ところでこの句などの存在から推理すると、〈結末は鰐見てをりし波がしら〉の句は、大国主命と因幡の白兎の神話を詠んだものである可能性はないでしょうか?

〈中心に生殖器あり毬投ぐる〉なんていうのも傑作ですね。現在に直接生かせる要素がいろいろありそうな作者ではないかと感じました。大いに勉強になりました。来年もどうぞよろしく!

Unknown さんのコメント...

冨田さん新年おめでとう。

おおすごい火渡周平がこんなところで読めるなんて。


セレベスに女捨てきし畳かな


この句は、俳句初心の時におぼえました。

旗艦
太陽系、の大事さもともにきおくにのこり。

若いあなたが、戦後の始まりの「虚無」について語っておられるのには感慨を持ちましたよ。


雨となり水の執念終りたる
水泡より美しき旅了りしや
傘干すや雨も未来のものの一つ
天才の十一歳を駈くるなり

などなど はかないものの実体性を良い留めるところが悲しくすごいですね。天才もじつははかない人種です。ことしも、うつくしい過去をよびだしてください。

匿名 さんのコメント...

新年明けましておめでとうございます。

髙山れおな様

懇切なコメントをいただきましてありがとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

〈セレベス〉の句については、私も髙山さんとほぼ同じ解釈だったのですが、本文ではすこし言葉が足りませんでしたね。やはり「畳」はセレベスから持って帰ってきたものであるということになるのだと思います。船で海を越え、港からリアカーか何かで大阪まではるばる持って帰ってきた畳。当時は日本の畳も多くが戦火で焼けてしまっていたと思います。戦地から持ち帰った畳は貴重なものであったのかもしれません。

大原テルカズは火渡周平ほど話題にならなかった作者かもしれません。たしかに同じような時代の空気を纏っている点では共通していますね。大原テルカズについては近いうちに取り上げることにしたいと思います。

小野十三郎の言葉は凄い言葉ですね。現実というものに対する認識の刷新というか、現実を直接把握しようとする志向の凄まじさというか。

〈結末は鰐見てをりし波がしら〉の句について大国主命と因幡の白兎の神話を連想されたとのことですが、たしかにそのようにも読めますね。「鰐鮫」が出てくるわけですから、そう考えると「波がしら」という言葉も無意味ではないという感じがします。しかしながら、それでもこの句の意味するところはいまひとつよくわからないところがまだありますね。


堀本吟様

コメントありがとうございます。
戦後の「虚無」については私には想像するしかない部分ですね。
やはり、現代詩の「荒地」や石原吉郎、短歌の塚本邦雄、俳句の鈴木六林男などの作品について考えると、どうしても「戦争」の存在については避けて通れないところがあります。

あと、「うつくしい過去」という言葉。
なるほど。
とても印象深い言葉をいただき感謝いたます。


あと、いくつかお知らせです。

俳句総合誌「俳句」(角川書店)平成21年1月号において、髙山れおなさんが、橋本榮冶、対馬康子、神野紗希の各氏と共に座談会「俳句の未来予想図」で発言を行っておられます。

また、俳句総合誌「俳句四季」1月号で筑紫磐井さんが俳句時評において、俳句の前衛性と伝統性、虚子の前衛性などについて論じておられます。「前衛短歌」と「前衛俳句」の関係性、「前衛俳句」と名付けたのは寺山修司であった、など興味深い内容です。

あと、出版社「ふらんす堂」から、山岡喜美子さんと「鷹」の髙柳克弘さんの尽力で、「昼寝の国の人 田中裕明全句集を読む ふらんす堂通信別冊2」が刊行されました。31人の現代詩、短歌、俳句の若手作者(俳人…高柳克弘、神野紗希、中村夕衣、冨田拓也、相子智恵、鴇田智哉、村上鞆彦、小田涼子、マブソン青眼、日下野由季、庄田宏文、如月真菜、彌榮弘樹、佐藤成之、田中亜美、佐藤郁良、鬼野海渡、橋本直、杉浦圭祐 歌人…黒瀬珂瀾、小島なお、斉藤斎藤、永田紅、石川美南、永田淳 詩人…杉本徹、手塚敦史、中尾太一、小笠原鳥類、佐原怜、藤原安紀子)が田中裕明作品について言及した一冊で、そこに田中裕明さんの俳誌「ゆう」での短いエッセイ59篇が収録されたものが本書の内容です。