2008年12月28日日曜日

中里夏彦句集

多行俳句の蒼空
中里夏彦句集『流寓のソナタ』を読む

                       ・・・高山れおな

以前、これは生業の方で、詩人の松本圭二にインタヴューしたことがある。松本が詩集『アストロノート』(二〇〇六年 「重力」編集会議)で萩原朔太郎賞を受賞して程もない頃だ。詩の話を聞きに行ったわけではなく、取材の目的は彼(というか彼の娘)が飼っているハムスターだったのだが。それでももちろん詩の話題も少しは出て、自分は詩をつくるよりも詩集をつくる方が好きなのかもしれないというようなことを松本が語っていたのは覚えている。松本の四冊目の詩集にあたる『アストロノート』は、新書サイズの白い表紙の本で、いまどきありえないような極小(八級? 九級?)のフォントで組まれた膨大な詩行(ほとんど中篇小説なみのネーム量の散文詩もある)が青いインクで青い本文用紙に刷られているという、悪夢のようなデザインであった。朔太郎賞の審査員のひとりである清水哲男が、講評で怨嗟の声をあげていたはずである。

こんなことを記したのは、評者も俳句をつくるよりも句集をつくる方が好きなクチらしいとの自覚が芽生えつつあるからで、財政難ゆえ第三句集以降の出版がいつになるかは皆目見当がつかないながら、あれこれ妄想だけは楽しんでいる。横組の句集、円形の句集、連作ごとに分冊になった句集などと共に、多行形式の句集も当然そのラインナップには入っている。とは言いながら、横書きの俳句はまだ作ったことがないし(縦のものを横にするのではなく、最初から横組を意図した作品でなくてはなるまい)、多行の俳句はいちど四十句ほどを作ったことがあるだけである。それはかの『重信表 私版高柳重信年表』(一九八〇年 俳句評論社)の編者・岩片仁次から『戦火想望集』という私家版の多行句集を恵まれた時で(同書の刊記に従うなら“後昭和十七年”のこと)、そこに収録された四十二句をひとつひとつパロディーに擬(もど)いて礼状にしたためたのであった。

多行形式についてかような軽佻の言辞を弄するのを、こんにちなお多行形式の試みを続けている少数の作者、あるいはまた自らそれを作らぬにせよ高柳重信の名と共に神聖視している人々は顰蹙するかも知れない。しかしまた、こうも言えるであろう。テクストとしての多行形式の普遍性がよし高柳の作品によってすでに証明されているとしても、方法としての多行形式の普遍性が証明されるには生身の高柳についていかなる思い入れも持たない、あえて言えば多行形式を神聖視しない作り手の登場が必要であろう、と。『重信表』によれば、俳句の多行表記自体は、早く昭和十年(一九三五)、吉岡禅寺洞が主宰誌「天の川」で試みた例があるのだという。また、昭和二十二年の高柳の多行形式への出発に際して野原正作・岡田利作という同行者があったことも知られる通りだ。だが、事実として、多行形式は高柳重信の形式として存在してきたのだし、方法論としては高柳の思い出と共に消滅の道をたどりつつあるようにしか見えないのは残念なことだ。

最新の多行俳句作品集ということになるのであろう、中里夏彦の第一句集『流寓のソナタ』(十一月十五日刊 鬣の会発行 風の花冠文庫5)もやはり、高柳重信の思い出と共にあるという点では、評者の手元にある既存の多行句集と異なるところはない。同書の「あとがき」によれば、國學院大學在学中の一九七七年、大学の俳句研究会に入って俳句をはじめた中里は、翌年、立風書房の『現代俳句全集』第三巻に載る高柳のポートレートを見て、〈「こんな目をしている俳人は見たことがない」〉と衝撃を受け、おりしも締め切りが近づいていた「俳句研究」の第六回五十句競作に応募したのだという。中里はこの時、佳作第二席に入賞し、以後、高柳存命中の第九回まで応募を続ける。

その年(第六回五十句競作の年……評者注)の晩秋だったかに入選者の集いが催され、僕はそこで初めて澤好摩、夏石番矢、藤原月彦、水島直之の諸氏と顔を合わせる。ところが場所を居酒屋にかえた二次会の席上、彼等は揃って退席。丁度その日はかつて「五十句競作」に登場した若手を中心とする新しい同人誌『未定』の発行準備会が催されるという。一斉に退席してゆく彼らを見送っていた僕に「本当は君もこの席に残っていないで、彼らと一緒に行くべきなんだよ」と話しかけたのは、なんと高柳重信その人であった。

「あとがき」にはこれに続いて、中里がその後、「未定」誌の同人、「俳句評論」誌の準同人として多くの出会いを重ねたこと、「未定」第二十五・二十六号の「実験・現代俳句」という企画への参加をきっかけに多行作品を書き始めたことなどが綴られ、さらに現時点での多行形式への思いが綴られている。

僕が未だに俳句形式に関わっている根拠、しかも多行の作品を書いている根拠、つまり僕の俳人としてのアイデンティティは今まですれ違った多くの方々との関係を抜きにしては語れない。特に高柳重信との出会いは大きかった。かといって僕自身が高柳重信のエピゴーネンであっていい理由はない。言えば、高柳重信が書かなかったものを多行で書いてみたいと念じている。

いかにも多行句集の後記に記されていそうなことが記されている、と言ったら皮肉に聞こえるかも知れないが、別にそんなつもりはない。しかし、こうした記述があかしだてるのは多行俳句の普遍性というよりは、特定の文化圏の産物である事実ではあるだろう、現在までのところ、という保留を付けるにしても。一方で、評者が知っている過去の多行句集に収める後記類に比べると、高柳に対するリスペクトに変わりはないにせよ、これでも温度が低いというか、全体として調子に冷静さがみとめられる。

引用をすると煩わしくなるのでやめておくが、例えば折笠美秋の多行句集『火傅書』(一九八九年 騎の会)に収められた「火傅ノ事」などは、多行形式と高柳をめぐってほとんど檄文と呼びたい激越さであったし、横山康夫句集『櫻灘(さくらなだ)』(二〇〇〇年 書肆麒麟)に所収の「火の傅はるや・・・――『火傅書』に思ふ――」もタイトルの通り折笠のアジテーションに応じての熱気に溢れていた。『銀の蝉』(一九九四年 ふらんす堂)および『風の國』(二〇〇四年 ふらんす堂)という二つの多行句集の後記における林桂の記述は物言いこそ分析的で穏やかだが、高柳の存在は中里における場合よりやはりはるかに重そうだ。さらに高原耕治句集『虡神(むなしがみ)』(一九九九年 沖積舎)の「覺書」にいたっては、これを読む場合、怨念にも似た情念の瘴気がしばらく身辺にたちこめるのを覚悟しなくてはならない。『戦火想望集』(二〇〇五年)、『冥球儀』(二〇〇七年)、『模糊集』(二〇〇七年)という、岩片仁次の三冊の私家版句集の後記はいっそ飄々たるものだが、前出『重信表』を編み、個人誌「夢幻航海」で高柳の未刊テキストの発掘を粛々と継続する岩片ならではの別格のふるまいと言うべきだろう。

これら先行の多行句集の後記類のことを思えば、先に引いた一節にもあきらかな通り、中里の『流寓のソナタ』の「あとがき」が纏う空気はごく明るく、ごく軽い。〈言えば、高柳重信が書かなかったものを多行で書いてみたいと念じている。〉という楽天的な発言は、折笠や林や高原にはついに無縁のものだったはずだ。その楽天性は、〈……今も多行で書いている。といっても高邁な方法論があるわけではない。〉というあっけない告白をすら可能にするほどだ。それが良いというつもりもないが、悪いというつもりもない。むしろこうした楽天性こそ、多行形式が待っていたものである可能性だってあるのだ。俳句作品といえどもその成否は結局のところ職人仕事に、つまりは手がどれだけ動くかに掛っている。そして実際、中里の手はかなりよく動いているのではないだろうか。

蒼穹の
末裔にして
仰ぐ
蒼穹
 ⇒総ルビ(以下同)「さうきゆう」「まつえい」「あふ」「さうきゆう」

『流寓のソナタ』は、全百七十四句を、二十二章に分かっている。掲句は冒頭の「蒼穹の末裔」の章の一句目、つまり巻頭句である。「晴朗な」といえば高柳重信の用法では、能天気や自己満足、あるいは端的に馬鹿を意味する形容であったが、この句はそんな持って廻った意味ではなく、本来の字義においての晴朗さに輝いていよう。もちろん、単に明るい句なのではない。「蒼穹の/末裔」という認識には世界との一体感と疎外感とがふたつながら表出されているのであり、ふり仰ぐ「蒼穹」の無限性がもたらす安らぎのうちには哀しみの亀裂が走ってもいる。「蒼穹の/末裔」という表現は一種の奇想ではあろうが、この句が湛えている感覚は案外、万人に親しいものではないだろうか。アウステルリッツの戦いで負傷したアンドレイ公爵が天空を見上げながら思いに耽る、トルストイの『戦争と平和』中の有名な一場面を想起してもいいだろう。ともあれこの句の開放感は多行俳句としては、どちらかといえば例外的なものでもあって、評者はそこにこの先を読み進むに当っての期待を覚えもした。参考までに、先ほど名のあがった多行句集から、巻頭句だけを以下に引いてみたい。

鬼  およそ
その背姿 は
桔梗  なり
  折笠美秋『火傅書』

榾燃ゆる

針葉樹林の中の
三叉路
  ⇒総ルビ「ほだ/も」「しんえふじゆりん」「なか」「さんさろ」
  横山康夫『櫻灘』

現し身父の

薄原
窪翳
  ⇒総ルビ「うつ」「み/ちち」「つつみ」「すすはら」「くぼかげり」
  林桂『風の國』

黙狂
滄溟

零の軍勢がのぼる
  ⇒「零」に「ゼロ」とルビ
  高原耕治句集『虡神』

やまいだれに
美!
  と書いて
廢墟と讀もう
  岩片仁次『冥球儀』

横山康夫の句の性格は少々曖昧であるが、他の作者の句は「鬼」であり「背姿」であり、「薄原」であり「窪翳」であり、「やまいだれ」であり「廢墟」なのだ。四句のうちでは評者は高原耕治の句に最も魅かれるが、同時にこの躁的な否定性にはやりきれないものを感じもする。はっきり言ってしまえば、ここには裏返った権力志向が潜んでいる。対するに、中里の巻頭句の素朴愛すべきこと、健全なることは言うを待たないだろう。

立てば
眩暈
虚空を昇りゆく
虚空
  ⇒「た」「げんうん」「こくう」「のぼ」「こくう」

「蒼穹の末裔」の章より。ご覧のように、言葉の表面上は先程の高原の句と似たところがなくもない。とはいえ、ここに歌われている自己消滅と自己開放が螺旋状に絡まりつつ「昇りゆく」かのようなイメージは、「黙狂」の闇から発した「零の軍勢」の世界破壊に逸りたつ精神とは、大きく異なっていることは明らかだ。この「虚空を昇りゆく」感覚は、中里の自己を投影した姿としては、「軍勢」などではなく「蕩児」あるいは「旅人」の形をとることが以下の句からわかる。

蕩児
わが天涯
不埒なる
真青
  ⇒「たうじ」「てんがい」「ふらち」「まさを」

旅人
われに
足下の層雲
頭上の波濤
  ⇒「たびびと」「そくか」「そううん」「づじやう」「はたう」

ところで中里の句を書き写しながら、やや後ろめたい思いをしている。当ブログの技術的制約と編集作業の最小化という方針からやむを得ないことだが、ルビを句の後に括り出しているからだ。俳句作品のルビは、一部修辞的なものを除き純然たる発音記号と考えてよく、その限りではこうした便宜的書式にも大して痛みを感じるものではないのだが、総ルビともなるとやや話が違ってくる。

俳句の言葉は視覚的に享受される。その際、一行棒書きの場合に働く垂直な力学に対し、多行の場合は垂直な力学に加え水平な力学が作用する。「読み」の瞬間に立ち上がる「言葉」とその意味に少し遅れ、旧かなのルビの効果によって「音の視覚化」が果たされる。その時間差が「読み」にさまざまな化学反応を引き起こすに違いないのだ。そして貧しいながら、いろいろなバリエーションを試した結果がこの句集である。

方法論に比較的恬淡とした中里にして、ルビついてはかなり意識的なのだ。もちろんそれは所詮は二義的なことではあるし、そもそも中里が期待している効果は幻想かも知れない、とは言えるだろう。林桂や横山康夫も採用している総ルビのスタイルは、高柳重信の最後の二冊の多行句集『山海集』(一九七六年 冥草舎)と『日本海軍』(一九七九年 立風書房)に淵源しているわけだが、始まりは偶然だったらしい。難読字にルビを振って欲しいという書肆側の要望があり、いろいろ試みた高柳だが、部分的にルビを振るとバランスがとれないと感じて総ルビにしたというのだから。現に折笠や高原、岩片も採用していないように、これは多行形式の本質とはいちおう別のものであるに違いないし、中里のいう「音の視覚化」など果たされているのか評者は疑問である。しかし、戦前の出版物(それもどちらかと言えば高級ではない)と形式を同じくすることでノスタルジーを喚起し、また本当のところは無用のものが現前する(それも過剰に)点でフェティシズムを満足させるというふたつの「化学反応」については、これを認めるのにやぶさかではない。ノスタルジーとフェティシズム。しかし、むしろこれこそが多行形式のこんにちまでの達成を覆っている特質ではないかと、評者は疑っているのだが。

塹壕の
亡父よ
とつくに
日は落ちた
  ⇒「ざんがう」「ちち」「ひ」「お」

露地ふかく
湯冷めの
亡父が佇む
ロヂツク
  ⇒「ろぢ」「ゆざ」「ちち」「たたず」

ノスタルジーとフェティシズムは、例えば「亡父のロヂツク」の章にあるこれらの句を濃厚に染め上げていないだろうか。一句目は、個人史と国家史が交錯する地点に掘られた「塹壕」に立て籠もる「亡父」の戦いを描き出す。「とつくに」落ちてしまっているがゆえに二度と落ちることがない夕陽が、突撃することも、帰還することも忘れた「亡父」の姿を永遠に照らしている。二句目、銭湯帰りの「亡父」「露地ふかく」「佇む」ことで「湯冷め」してしまったのは、誰か(もしくは何か)を待つためであったろう。だが、句は、彼がそうするのは或る「ロヂツク」のゆえであるという。頭韻(「ろぢ」に対する「ロヂツク」)によって呼び出された「ロヂツク」の語が、逆に句から理を剥ぎ取ってしまった。その「ロヂツク」は、ナンセンスでありながら、意味ではなく形式に属しているゆえに無謬性を保障されてもいる。この湯冷めした「亡父」の、なんと俳句的なたたずまいであることか。

旅人
還らず
少年を溢れる
雲の質量
  ⇒「たびびと」「かへ」「せうねん」「あふ」「くも」「しつりやう」

仰ぐ
少年
落下傘のみ
感光し
  ⇒「あふ」「せうねん」「らくかさん」「かんくわう」

「雲の質量」の章には、自らの、そしてまた一般化された少年性をロマンティックに歌い上げて佳趣に富む句が多い。李白の〈浮雲 遊子の意/落日 故人の情〉という詩句にみられるごとく、旅と雲が古くから強固な連想系をなしていることは言うまでもないが、一句目の「少年」「旅人」に憧れてはいても、いまだ旅に出る自由はないのであろう。その「少年」から旅心の象徴である「雲」が濛々と「溢れ」出ている。そんな幻想的なイメージの点睛となっているのが、「質量」の語だろう。この一語によって、「溢れる/雲」に輝くような白さが与えられた。

石川啄木の「飛行機」という詩に出てくる〈給仕づとめの少年〉、〈たまに非番の日曜日〉にも〈ひとりせつせとリイダアの独学をする〉ばかりであった。啄木がリフレインさせる、〈見よ、今日も、かの蒼空(あをぞら)に/飛行機の高く飛べるを。〉という呼びかけが少年に届いたのかはわからない。かたや中里の二句目の「少年」は、確実に蒼空を「仰ぐ」のであるが、彼の目に「感光」し、焼き付けられるのは「落下傘のみ」なのだという。ここには不吉な精神の急ぎのようなものが、現われていはしないだろうか。事実この「雲の質量」の章は、後半に向かうにつれ、キナ臭い気配を増してゆき、やがて次の二句へ至りつく。

極北を
飛ぶ
玉砕の
栄と蠅
  ⇒「きよくほく」「と」「ぎよくさい」「はえ」「はへ」

天を航く
帆の影
天は
鳥の死に充ち
  ⇒「てん」「ゆ」「ほ」「かげ」「てん」「とり」「し」「み」

一句目。昭和十八年五月のアッツ島守備隊の全滅は、北方の地における「玉砕」の実例であるが、もちろんこの場合の「極北」は地理的なものではなく、物事の極限を意味する語ととってもよいわけである。仮名遣いは違うものの同音の「栄」「蠅」は、「玉砕」の語に二重性を与えることになる。前者につけば文字通り砕け散った玉の破片が「飛ぶ」のであり、後者では累々たる死屍にたかるハエが「飛ぶ」のである。それらがきらめき飛びまがう位相こそが存在の「極北」ではないかと、一句は問うている。

二句目。「天」とは「鳥の死に充ち」た場所なのだという。これは文飾ではない。矢に射られ、銃弾に貫かれて鳥たちは飛びながら死ぬのだし、小鳥は猛禽の爪の間で死を迎える。また、飛行機と衝突したり、ジェットエンジンに吸い込まれて死ぬ鳥もはなはだ多いらしい。むしろリアリズムとすべき「天は/鳥の死に充ち」を夢幻の光景に変えてしまうのは、もちろん「天を航く/帆の影」のフレーズである。空中で死んだ鳥たちといえども、死骸は地上に落ちてくる。しかし、暗示された「天を航く」船の存在は、天を海のような実体に変え、死んだ鳥たちを彼らの“記憶”の高さに浮かべておくことになるだろう。

春風
前衛
遺骸・幾歳
攝津幸彦
  ⇒「はるかぜ」「ぜんゑい」「ゐがい」「いくとせ」「せつつゆきひこ」

秋風・喘鳴
印度哲学
空海
家路
  ⇒「あきかぜ」「ぜんめい」「いんどてつがく」「くうかい」「いへぢ」

これまでに挙げた句は、高柳重信の『罪囚植民地』(一九五六年 琅玕洞)以後の四行形式に準じた文体で書かれていたが、「形而上的機関車」「風景」「曜」「色即是空」の四章で中里は、高柳最晩年の『日本海軍・補遺』(一九八二~八三年)に倣う試みもしている。助詞・助動詞および用言抜き、ほぼ漢字表記の名詞だけを尻取りで羅列することで詩を浮上させる手法であり、上記二句はその例である。ちなみに攝津幸彦のためには別に「帰巣天外 悼 攝津幸彦」の章も設けられており、やはり漢字表記の名詞のみで構成された六句を収めている。

南国的
貝殻一顆
恩寵的
汽笛
  ⇒「なんごくてき」「かいがら/いつか」「おんちようてき」「きてき」

この句はもちろん、攝津幸彦の初期の代表作である〈南国に死して御恩のみなみかぜ〉と、後記の代表作である〈露地裏を夜汽車と思ふ金魚かな〉の両句を踏まえている。

瞑想的
霊前一献
冥海的
酩酊
  ⇒「めいそうてき」「れいぜん/いつこん」「めいかいてき」「めいてい」

後半二行の「冥海的/酩酊」は、哀しみの酒による酩酊であると共に、攝津本人の酩酊ぶりにふさわしい修辞でもあるだろう。

航海的
回顧一瞬
感電的
喝采
  ⇒「かうかいてき」「かいこ/いつしゆん」「かんでんてき」「かつさい」

これらの句は尻取りにはなっていないが、いずれも一行目末と三行目末に「的」字を置き、二行目三字目に「一」字を置くなどはなはだ技巧を凝らした作りが目立つ。二句目、三句目の頭韻も効果的である。このように故人に一章を捧げたのは攝津幸彦の場合だけでなく、他に「夏野の凱歌 悼 高屋窓秋」の章がある。また、「頭韻矢の如し」「豊饒の海」「水の真髄」の三章では、存命の知友二十二人を句に詠んでいる。

外界の再現的な描写を排し、書きつけられた言葉だけが自立する俳句を目指した高柳重信によって展開された多行俳句は、もともと修辞が過剰になり易い性質を持っていた。あるいはそれは形式本来の性質ではないのかも知れないが、ともかく高柳や高柳の追従者によって専ら担われてきた以上、多行形式がそのような性質を強くしたのは当然のなりゆきだった。『流寓のソナタ』にしても、頭韻・尻取・リフレイン・対句等、多彩なレトリックに彩られていることは、これまでに引いたわずかな例からだけでもわかるだろう。こうした過剰な修辞を、単なる言葉遊びとして空転させないための最も有効な武器として、これまた過剰なまでのノスタルジーが多行形式に導入されたのだった。高柳や林における地名や、岩片における戦争といったモティーフが、そのための回路となった。中里の場合はつまり、生者死者を問わない友人たちがその回路なのである。先に引いた「あとがき」の一節にあった、〈多行の作品を書いている根拠、つまり僕の俳人としてのアイデンティティは今まですれ違った多くの方々との関係を抜きにしては語れない。〉という述懐は、以下に見る通り文字通りのものであった。

 林桂に
早馬の
死は
かくあらむ
面構え
  ⇒「はやうま」「し」「つらがま」

 高原耕治に
玉敷の
河原
交霊
自慰・歯垢
  ⇒「たましき」「かはら」「かうれい」「じゐ」「しこう」

「頭韻矢の如し」の章からの二句。「早馬」のハヤ、「死は」のシ、「かくあらむ」のカ、「面構え」のツラを結ぶとハヤシカツラの名が、「玉敷の」のタ、「河原」のカハラ、「交霊」のカウ、「自慰・歯垢」のジを結べばタカハラカウジの名が、浮かび上がる仕掛けである。超絶技巧と言ってよいが、一方、句の内容が林・高原それぞれの人となりをそれらしく描き出している点を見落としてはなるまい。さらに、「豊饒の海」と「水の真髄」の章では、同様の趣向が音ではなく、漢字の字面によって凝らされている。

 研生英午に
研ぎ磨ぐ
生漆
英霊ならむ
午ならば日霊
  ⇒「と」「と」「きうるし」「えいれい」「ひる」「ひる」

 後藤貴子に
後朝の
藤波
貴し
子の目に眩し
  ⇒「きぬぎぬ」「ふじなみ」「たふと」「こ」「め」「まぶ」

研生英午は高原耕治の盟友で、だいぶ昔になるが手書きの俳句を画廊に飾って発表し、それを句集出版に換えたことがあったと記憶する(評者は見に行っていないが)。さらにそれ以前、『水の痕』(一九九〇年 沖積舎)という句集も出している。〈水流に水の音淡し千年の枕邊〉という美しい作品があった。磨き上げられた漆の質感や、「英霊」「日霊」といった単語が醸し出すエキセントリックな雰囲気は、この俳人に全然無縁のものではない。後藤貴子については、当ブログ第6号の「あとがき」で、手紙を掲出させて貰った。〈昇天するまで噛みおらん初氷〉など、性愛をモティーフにした作品を多く収める句集『Frau』(一九九二年 冬青社)がある。「後朝」の語が呼び出される所以である。

最後になったが、『流寓のソナタ』という集名の由来となった一句を紹介しておこう。

流寓の
ソナタか
われの
破綻調
  ⇒「りうぐう」「はたんてう」

「破綻調」ならぬハ短調のソナタとして最も有名なのは、ベートーベンのピアノ・ソナタ第八番「悲愴」であろうか。しかし、「流寓」をかこち、「破綻」を自嘲するかに見えて、ここにはどうも“悲愴”の気配は薄いようだ。中里夏彦が奏でる楽曲に似合うのはやはり、〈浮雲 遊子の意〉の気ままさと裏腹のさびしみの方ではあるまいか。それは決して暗澹たる孤独地獄などではなく、アクロバティックな狂言綺語の楽しみと、〈落日 故人の情〉になつかしく耀(かがよ)う世界なのだ。この句集は、語彙・主題・音律などの面で、まだまだ高柳重信の圏域を脱してはいない。ただ、脱出へ向けてのかすかな萌芽、あるいはヒントを感じたとだけ今は記しておこう。

*今回、中里の句集に刺激され、いくつかの多行句集を読み返して、意外なほど感興を覚えた。本稿は書評という制約に加え、重要と目される林桂のある論文の入手が間に合わなかったこともあって、多行形式論に踏み込むことはしなかった。これについては、他日を期しての宿題ということにしたいと思う。

*中里夏彦句集『流寓のソナタ』は、著者より贈呈を受けました。記して感謝します。

3 件のコメント:

野村麻実 さんのコメント...

面白く拝見しました(^^)。
つきつめていけば、上級な詩人(俳人)は「山」と「川」で会話が終わってしまうわけです。

無駄のムダをそぎ落とし究極の形となるとそうなるのだろうと。
ただ一般大衆はそこまでついて行きません。
芸術の難しきところでしょうね。

大衆性を保持しつつ、いかに文学性・芸術性(?)を保持していくか。これは「一般」の「専門外の声」が大きくなってきた現代(芸術に限らず、どの分野でも同じです。裁判に理不尽なは裁判崩壊が、医療には医療崩壊が、さまざまな技術職には技術職なりの崩壊がありまして)において、俳諧でも同じであろうな、と感じるのみです。

人生は長いのですから、道に迷うてあちこち頭をぶつけるような惑いの句集でも詩集でも出していただきとうございます。
楽しみにしております(^^)。

高山れおな さんのコメント...

野村麻実様

いろんなものが崩壊してゆきます。それも土崩瓦解ではなく、真綿で首を絞めるように。歌人の岡井隆さん(ご存じでしょうが、元お医者さんです。何十年か前には野村さんのように忙しかったはず)は、そういう時代を“トナカイ時代”と名づけました。俳句が崩壊するとしても、医療崩壊のような重大事ではないとも言えますが、ある次元では医療崩壊よりも重大事かも知れません。なぜなら医療は崩壊しても必ず手当てがなされるのに対して(それは絶対に必要なものですから)、俳句は崩壊したらそれきりでしょう。わたしの俳句は常に惑っておりますので、その点はご安心願います。二十年もやっていて如何なる技術的安心立命の感覚も得られておりません。アホですな。

さんのコメント...

れおなさま
年末、水仕事手を拭きつつ、さっと読んだだけですが、この論考おもしろかったです。

多行詩が一行詩、一行俳句にかわってゆく成り行きを見るには、加藤郁乎の軌跡がいいモデルです、
一行俳句(詩)の変転が、多行を経てまた一行にもどる高柳重信。
大岡頌司。志摩聰、これらの古典的になったパイオニアについてはすこしわかります。

高原耕治。林桂、横山康夫、この人たちに流れてきた関心は、今のところまだわかりにくいですね。

中里さんの句はかつて未定でよくみかけました、このところ関心外でしたが
こういうことなら、拝見してみようと思います。

一行の俳句世界を立体構造と捉えたら、多行の必然性はなんとなくわkってきます。評論でも何でも、言葉を平面で読まねばならないのはときに苦痛です。