2008年12月28日日曜日

日常生活動作4写真との非日常は続いた・・・佐藤文香

日常生活動作
写真との非日常は続いた

                       ・・・佐藤文香

写真が好きだ。今は撮るのより見るのが好きだ。カラーよりモノクロが好きで、デジタルより銀塩が好きだ。昨年末はアッジェの展覧会を見るために、一人でベルリンに行った。普段は書店で写真集を見たり、たまに写真展に行ったりしている。

先日、神保町の某古書店で見た、森山大道のオリジナルプリント「イノブタ」が忘れられない。町の妖しく澄んだ空気にざらりとした地面の黒、そこに浮き上がって見えるイノブタの、野生の眼差し、皮膚、毛並み。黒と白で、光と水で、目の前にあるものを写すことがここまで「表現」になるものかと感動した。

初霜や火事跡といふ黒きもの   鷹羽狩行

先ほど「今は撮るのより見るのが好きだ」と書いたが、もともとは撮るのが好きだった。中学高校のときは、行事のたびにインスタントカメラを持って行って友達とカシャカシャ撮り合っては、写るときに可笑しな顔をして笑い、できた写真を焼き増しして学校に持って行って見ては笑った(ここまで書いて写るのも好きなことに気付いた)。大学に入って、叔父さんに一眼レフのデジカメをもらい、オートフォーカスでよく写るので気に入って、どこにでも持って行って何でも撮った。そのうち私に何もかもできないような時期が訪れたのだが、そのときもカメラだけは持っていて、送ってもらった林檎や作ってもらった料理、酔っ払って歩いた夜道の灯、自分などを撮った。弱っていた私には日常身辺全てが刺激であり、一旦ファインダーを覗いて対象を間接的に捉えることで、世界(自分も含まれる)から自分を守っていたのだと思う。

永き日のはさみで切れる写真かな  五島高資

いろいろを諦めて実家にいた去年の6月、相変わらず徘徊しては花や山の写真を撮って近所の写真屋でプリントしてもらっていた。そこのお兄さんと仲良くなり、業務用フィルムをもらったり、安くしてもらった。撮った写真を褒められていい気になり、毎日通った。ついにはフィルムカメラ(RICOH GR1)をもらった。

そんなとき青山ブックセンターでホンマタカシのワークショップの募集を見つけて応募したら通過したので行ってみた。写真史と現代の幾らかの写真のレクチャーの後、「photograph」≠「写真」、日本における「写真(真を写す)」という概念を超えるにはどうすればよいかという課題を与えられ、3人の班で話し合い、作品を作って発表するというものだった。ワークショップ自体は2回しかなかったが、課題を制作する際、他にやることもなかったので、本気で写真のことを考えた。考えた内容はいずれまたどこかに書くとして、結果、私は写真を「見る」ことのできる人間かもしれないと自分に期待した。

異国語に身を売るときの雪崩音
   櫂未知子

そして、ある知り合いのカメラマンと久しぶりに会って、新宿四谷界隈の写真の自主ギャラリーに連れて行ってもらった。モノクロ銀塩写真が多く、全部同じように見えて困ったが、なんだか何かがあるという気がした。読むべき本や見るべき写真、他のギャラリーなども教えてもらい、それらを見て考えることが私の回復を助けた。卒業論文を書く気にもなれた。ギャラリーで若い作家に話しかけて友達になったり、新宿ゴールデン街でなんだか勝手に知り合いになったりして、俄か写真鑑賞者として話をすることで、一部の写真家たちの思うことや撮るものを知った。いろいろ見るうち尾仲浩二という写真家の作品をいいと思うようになり、彼と話す機会を得て、ついには写真展のパンフレットに文章を書かせてもらい、こういうことでどうにか食べていけるようになるまでがんばろうと考えた。そして卒業記念の初めての海外旅行は、アッジェのプリントを見るため一人でドイツに行くことに決めた。それが去年の暮のことだ。

そののち急に働くことになったりして、いろいろな写真展を思うままに見に行って人と会ったり、写真について書くことからは遠ざからざるを得なくなってしまった。しかし幸運なことに、写真を見る機会が減ったわけではない。
あれからちょうど一年、私は撮影の現場やフィルム、プリント、写真集や写真展ができるのを近くで見た。(私は句集を出し、仕事を辞めた。)写真家が写真に関わらない時間に困った。(私はバイトをすることにし、俳句をやめようと思った。)お金があれば何でもできそうだった。(私はバイトを1月で辞めて、2月からは実家に住むことに決めた。)前より写真が好きになった気がする。私は、俳句をやめるのをやめた。

非日常のような日々とおさらばして、来年はじっくり俳句を書いたり俳句のことを書いたり、ちょっとずつ写真のことを書いておこうと思っている。(これは写真家には秘密である。)

去年今年貫くパンのソーセージ   後藤貴子


森山大道のオリジナルプリント「イノブタ」=森山大道写真集『続にっぽん劇場 写真帖』(朝日ソノラマ)の表紙に使われたもの。(http://www.moriyamadaido.com/bibliography/pages/007.htm)

アッジェ=ジャン=ウジェーヌ・アジェ(Jean-Eugène Atget, 1857年2月12日 - 1927年8月4日)はフランスの写真家。近代写真の父と呼ばれる。20世紀前後のパリの建築物,室内家具など失われる古きパリのイメージを撮影。(Wikipediaより)

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■関連記事

日常生活動作(1)「バナナ」・・・佐藤文香   →読む

日常生活動作(2)「パソコンで聴く音楽」・・・佐藤文香   →読む

日常生活動作(3)「歩けば」・・・佐藤文香   →読む

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9 件のコメント:

高山れおな さんのコメント...

佐藤文香様

ご自分のブログで、スナップ写真を出しているのは拝見していましたが、こんなディープな写真好きとはびっくりしました。私は生業の方ではカメラマンと動き回っておりますし、写真展も見にゆきますが、どうも本当の写真好きではないようです。
ところで、写真を中ページに使った句集で、感心したようなものはありますか? 芝不器男賞の冨田拓也氏や杉山久子氏の句集は、写真を多用していましたがまだまだ改善の余地がありそうな印象。写俳の先生は、写も俳もどうかという感じですね。
江戸時代の俳画について少し調べたこともありますが、本当に成功しているのは蕪村と彼の二、三の弟子に限られるように思いました。易きに似て難いのが、俳句とビジュアルの組み合わせのようですね。佐藤さんにとっての写真と俳句は、今のところ完全に別の関心事項なのでしょうか、そこに興味を感じました。

さんのコメント...

写俳の先生は、写も俳もどうかという感じですね。」れおな


伊丹三樹彦氏のことですか?

そんナことないですよ。
もちろん好みの問題ですけれど。あれはあれでひとつの典型です。
写真自体は、シンボライズされていないし、風景からは内面も伺えない。ものたりないのはわかりますが。

観光写真か絵はがきのような出し方で、旅行者の視線と。恣意的に移される街の表情自体が、写真との表象性を示しているヨウデス。公子夫人の詩や俳句とのコラボレートなんかイイナア。美しいです。私は好きです。

佐藤文香 さんのコメント...

れおな様、吟様

まとまらないので適当に思っていることを書きます。

○私が見たなかでいいと思ったのは、去年出た沢渡梢句集「たひらかに」(蒼穹舎)くらいしかありません。写真家の沢渡朔さん(ごきょうだいだったかと)の写真です。ただ写真集の出版社なので、文字の割付などの面があと一歩かなと思いました。
あと、歌集ですが笹公人の「念力姫」(KKベストセラーズ)の表紙、これも沢渡朔さんの写真でした。

○写俳は、一時期「イケる!流行る!」と思ったのですが(たしかに流行っていると言っても間違いではないと思うのですが)、写俳を楽しむためには写真も俳句も「趣味」じゃないとうまくいかない。
どちらかに「プロ意識」があると、両方を極めないと納得できませんから、相当苦労します。

○「プロのカメラマン」ということばには、「カメラや機材を扱い対象を上手に撮る技術がある人」と、「作家」という、ふたつの意味があるのではないかと考えています。もちろん技術があれば「美しい」写真は撮れますから、いたるところにセミプロやレッスンプロがいます(なんだか俳句の話をしているみたいですね)。

句集に写真を入れるというときの写真は、たいがい出版社が“頼めば撮ってくれるカメラマン”に頼むでしょう。そこが問題なのでは。作家と作家が本気で作れば、かなりのものになる可能性はありますが。

○俳句の中でだけでも「ツキスギ」どうこう言われるのに、写真と俳句をあわせるとなると、やはり断片同士なので、また二者の距離を考えなければなりません。

○現在写真は俳句と逆で、一般の人にもわかりやすい路線(アイディア勝負系)に波がきています(梅佳代とか、浅田政志とか)。そろそろまた芸術系(というと語弊がありますが)が戻ってくるのでは、と思っています。

さんのコメント...

佐藤文香さま、貴女の文章のほうもいうべきでしたね。
句と地の文が緩い起伏のある地形のように進んでいって、読むのに疲れません。
どちらが前書きなのか、まとめのアフォリズムなのか。
森山大道の写真の感想などはいきいきいして快適です。モチーフが良いのかも知れませんが。

句の方をしずめて文章をつないでいくと、これも一つの散文世界で、句だけを採りだしてよむと。バラバラですが、ある種の「非日常」。ユニークな構成とむしろユニークな心理の展開。

写真を見るのは私も好きですが、ぼんやりみているのが良いですね。両親とか祖父の時代の赤茶けた家族写真が一番好きよ。何か一緒にそこにに入り込めそうなものがいいです。

入り込めないところがまたいいですね、写真て。

選句も気がきいてます。これ笑っちゃった。

去年今年貫くパンのソーセージ  後藤貴子

新しい才能・・。来年もご活躍ください。nonavuia

佐藤文香 さんのコメント...

あけましておめでとうございます。

吟様

再度のコメントありがとうございます。
昔の家族写真というのは今よりも特別で、撮影者も被写体もはっきりとした目的(記念に残す)を持っているのが、いいなぁと感じる理由ではないでしょうか。そのときの空気が伝わってきます。

茂根 さんのコメント...

佐藤文香様

写真とのご自身の邂逅、面白く読ませて頂きました。少し思い出したことがあるので
コメントさせて頂きます。

所謂平面を撮られる写真家の方に、ムーピーを撮っていただくという仕事はときどきあり、それこそ大物では十文字氏や海洋を撮る中村氏等とお仕事させていただいたこともありました。クライアントや代理店の理不尽な要求にも、いや、自分はそれはできない、自分の世界ではないから、とおっしゃいながら、ぎりぎりまで相手の譲歩を引き出しつつ、ご自分も歩み寄ってくださる、という姿勢は本当にプロそのものでした。女優の顔をもっと明るくとか、商品をもっとアップで、とか、
ご自身の世界を壊しかねない要求に、現場が硬直することも度々ですが、作家としての作品の一方で、こうした広告の仕事も最後まで
降りる、とは言わずに制約のなかで撮る方法を探ってくださいます。
「作家」としての自立は、「カメラや機材を扱い対象を上手に撮る技術がある人」として
フリーランスの仕事を日々こなしていかなければ成り立っていかないのです。
『月光浴』が売れる前の石川氏は、プロダクションにもご自分で営業に回られていましたし、現在ご活躍のニナミカさんがまだ最初のグランプリ取られたころに仕事でお会いしたときも、ご自身の世界を持ちながら仕事に対しては意欲的でした。完全に親から独立して、自分の収入だけでフリーランスとして生きていくには、ただ入ってくる仕事を待っているだけでは数ヶ月から一年で途切れてしまうのです。フリーとは厳しいものです。

写俳がどうかは私にはわかりませんが、
写真と俳句が、文香さんの両翼となっていくとよいですね。

佐藤文香 さんのコメント...

茂根様

おひさしぶりです。ご自身の経験に基づくコメント、ありがとうございます。

>「作家」としての自立は、「カメラや機材を扱い対象を上手に撮る技術がある人」としてフリーランスの仕事を日々こなしていかなければ成り立っていかないのです。

たしかに、そのとおりだと思います。
営業やお金を稼ぐための(自分の作りたいものとは別の写真の)仕事ができない写真家は、どんなに実力があっても、親がビッグネームとかヒモになるかパトロンがつかない限り、一人で食べていくことは不可能でしょう。
あとは、派遣社員だとかアルバイトで、写真以外の稼ぎをあてにするしかなさそうですね。


写真と俳句が両翼、ではなく、俳句が両翼でいきたいところです。
(写真は実際、好きなだけで、俳句以上に全く勉強不足です。)
しかし俳句となると、いい句を作って営業しても、なかなか稼げそうにありませんが・・・。

さんのコメント...

佐藤文香さま 
この場をかりて皆様
新年おめでとうございます。
話題が盛り上がっていますね、

文香さまからいただいた、ご感想、「家族写真」の「記念という目的意識」という分析。ありがとうございました。

「 昔の家族写真というのは今よりも特別で、撮影者も被写体もはっきりとした目的(記念に残す)を持っているのが、いいなぁと感じる理由ではないでしょうか。そのときの空気が伝わってきます。」(文香)

松山から帰ってきましたために、その正当性にじんときました。今年は、実家の関係の交流だけで、小西さんとも、川柳の方々とも、同級生たちとも逢えずに帰宅。

昔の祖父母たちの写真のよさ、は、おっしゃるような郷愁の反芻に役たちますものの、
しかし、私の言う「いいなあ」の感じとは少しちがいます。(つきつめればおなじかな?)
いわば固有の関係を再び反芻しながら、それらが、関係の固有性を越えて、まったくよその星の無関係な生活や人物の存在としておもえるからです。

造形的に処理された写真の方が、むしろ、被写体を所有しようとする作家の主張と同時代性を強く感じ取ります。

写真になった家族は、いわば、現在の動きとは無関係になった過去の時間を象徴しているので、「我と汝」の疎隔の方がむしろ強くなってくるのでございます。こういうのは私の嗜好でしょうね、映像の意味性は、言葉のように意味の郷背一がないので、ディテールをまさぐりながら、そう感じるように感じ取ればいいのですが。

でも、ちょっとした実感の由来を、一緒居寒がえてくださって感謝。

さんのコメント...

新年ことはじめ。
まちがいさがし。

「映像の意味性は、言葉のように意味の郷背一がないので、」

→ 意味の統一性。


「でも、ちょっとした実感の由来を、一緒居寒がえてくださって感謝。」
→ 一緒に考えてくださって
感謝。


おそまつでした、おなじまちがうなら、もっと独創的な(?)シュールなまちがい方をしたい、なあ。