2008年12月29日月曜日

「―俳句空間―豈」47号の俳句作品を読む(3)伊藤宇宙卵作品から連作、俳句朗読の可能性をさぐる―同人作品掲載順4・・・中村安伸

「―俳句空間―豈」47号の俳句作品を読む(3)
伊藤宇宙卵作品から連作、俳句朗読の可能性をさぐる―同人作品掲載順4

                       ・・・中村安伸

■伊藤宇宙卵「非場所/巣穴堀り編」(「非場所」に「ヘテロトピア」とルビ)

「―俳句空間―豈」47号に掲載された伊東宇宙卵の「非場所/巣穴堀り編」と題された20句の連作が話題になっている。当ブログにおいては「A子B子の匿名対談」の第一回でとりあげられている。また、関悦史氏もご自身のブログにてこの作品の鑑賞を書かれており、好意的に受け止められているようである。

さて、私はこの作品が俳句朗読のために作られたもののようだと感じた。会話――といっても自問自答だが――をそのまま移したような文体はもちろん、二十句に連作としての一体感が非常に強く、反面一句の独立性はほとんどないこともまた、その印象をもたらした要因である。
詩歌の作者には自作の朗読を好む人が少なくなく、俳人も例外ではない。結社や同人誌の大会で朗読が行われることも多く、俳句朗読に特化した定期的イベントも複数存在している。こうしたイベントに聴衆として数回参加しての印象だが、朗読者の自己満足に終わっていたり、俳句作品とは別の芸を見せることに主眼を置いてしまっている場合が少なくない気がする。

私の考えでは、俳句というものは朗読に適しているものではない。声に出して読むことに不適というわけではないが、朗読パフォーマンスのように「一人の演者が多くの聴衆に向けて読む」という形式と相性が悪い点があり、工夫しないと成立しないものである気がしている。自覚的であるかどうかは別として、経験豊かな朗読者たちは、みなそれぞれに創意をこらして、俳句朗読をパフォーマンスとして成立させるべく努力しているようである。

俳句が朗読に適していないことの理由をつきつめると、俳句作品の極端な短さという点にたどりつくことになる。

たとえば、ひとりの演者として聴衆の前にたったとき、聴衆は自然にある程度のパフォーマンスの質と量を期待し、演者はそれに応えようとするだろう。しかし俳句作品一句のみでは、質はともかく量については期待される最低限の目安にもはるかに届かないことだろう。

一句を繰り返し読むことや、複数の作品を読むことによってこの問題を解決することはできる。しかし、すぐに演者は別の問題に直面することになるだろう。朗読をひとつの演劇的なパフォーマンスとして構成しようと考えたとき、俳句作品というものはあまり使い勝手のよくないものなのである。
俳句作品もひとつの作品である以上「独立」していることを求められている。作品として独立しているとは、あえて言うなら、ひとつの小宇宙を形成しているということである。つまり演者がランダムに自分の作品を二十句拾ってきてそれを読んだとすると、聴衆は二十個の小宇宙がつぎつぎとあらわれる様子を目の当たりにしなければならない。テキストを自分のペースで読むことのできる読者ならともかく、混乱しないほうが難しいだろう。

小宇宙と書いたが、完全に閉ざされた、何にも依存せず何からも干渉されない無疵の球体のようなものを想定しているわけではない。私が想定している小宇宙とは、独立しながらも他と連携することができるものであり、より大きな小宇宙に包含されることができるものである。つまり「作品」という小宇宙を、「連作」というひとつ上の階層に属する小宇宙に包含させることにより、多様でバラバラの宇宙が聴衆の前にたちあらわれてしまうという問題については、ひとまず解決することができるだろう。

それでも、聴衆を作品宇宙に導くにはどうすればよいかという問題は依然として残る。そして、演者それぞれの工夫のほとんどは、この部分を解決するために行われているのだといっても過言ではない。
小宇宙を提示さえすれば、聴衆がその中へすんなりと入ってきてくれるということはありえない。演劇などの場合。小宇宙に観客をひきこむため念入りに導入部を作るのが当然であるが、わずか十七音前後の音数においてそのような導入部を構築することが可能だとは思えない。また、そうした部分を極力省略し、本題のみを提示するのが俳句の特性でもある。

たとえば導入部分に代わるものとして「前書き」にあたるような散文を配置することもできるだろう。2006年に新宿のジャズバーサムライでおこなわれた「第13回俳句ライブ」においての谷雄介氏の朗読「21世紀挽歌」はそのような意図において構成されたものであった。この方法の問題点は、散文部と俳句部との接合が簡単ではないということである。。より伝達性にすぐれる散文部がメインであり、俳句部はその飾り程度に受け止められてしまう危険性がきわめて高いのである。

また、あるキャラクターを設定し、そのキャラクターが発した台詞として俳句作品を扱うという方法もある。代表的なものは宮崎二健氏による「天狗仮面」であろう。私が知る限り俳句ライブその他の俳句朗読の場に出演するときに二健氏は必ず天狗の扮装をして登場し、滑稽で奇矯なふるまいをしながらときどき思い出したように俳句を読むのである。この場合、作品という小宇宙の上位にある小宇宙は天狗仮面というキャラクターであるといえるだろう。

二健氏の天狗というキャラクターそのものが強烈なインパクトを持つものだし、演じ続けることによって作り上げられてきたものでもある。インパクトも魅力もあるキャラクターを作り上げることは一朝一夕には成し遂げられることではない。同じく俳句ライブにおいては常連であり、最高の人気を誇っているギネマ氏もまた、キャラクターを中心に据えたものである。こちらは狂気すれすれの情念を演技力によって表現するものであり、ますますもって誰にでもできることではないだろう。
生野毅氏の方法もまた独特である。句の読み方に緩急をつけたり声調を工夫することによって、一種の音楽性をとりいれている。これもまた作品の外部に設けた仕掛けによって散らばろうとする多くの小宇宙たちにまとまりをもたらすための方策である。

その他にも他の演者とのコラボレーションなど、さまざまな方法が模索されているが、成功ばかりではなく失敗も多い。また聴衆にウケたことで一見成功したようにみえても、実は俳句作品自体とは関係の無いところが評価されたに過ぎないかもしれないのである。

上記のような構成上の要請と同時に、文体上の要請というものも大きい。俳句はその短さゆえに大胆な省略が行われることが多い。そして、極端な省略の副産物としてあらわれる多義性が、俳句に独特の詩的興趣を加えていることも少なくない。

また、切れ字をはじめとする文語由来の語法や、切れを強調したとりあわせの文体、それに同音異義が多発する漢熟語の多用など、聴衆が作品を正確に享受することを妨げる要因が多くある。これは前述のような演者と聴衆の関係性の問題ではなく、音声によるコミュニケーションの問題である。
伊東宇宙卵作品における語法が、音声による伝達しやすさを念頭において書かれていることは明らかだと思う。

伊東作品はまた、通常の連作とはかなり趣を異にするものである。作品という小宇宙について部屋のようなものでもある。窓もあり、扉もあるが、それらを閉ざせば密室となる。それに対し、伊東の作品は窓や扉を閉ざすことができないものである。いわばパーティションで区切られたスペースといった程度のもので、連作単位ではじめて小宇宙が構成されるといってよい。

一方で、この連作をひとつの詩のように読めるかというと、それもまた不可能である。連作中の句は独立した小宇宙を形成していないものの他の句とは断絶させられている。この断絶の程度を考えると、作品が別の作品として自立するレベルの断絶よりはやや弱く、作品内での改行よりはかなり強いものであるといえるだろう。

伊東の連作の文体上の特徴は上記のようなところにある。それと同時に内容面でも非常に興味深いものである。ともかくもそのような穴を掘る習性をもつ小動物――最初私は土竜だと思ったが、巣穴掘りというタイトルから考えると狸や鼬といったものかもしれない――に憑依してみせ、生々しい緊迫感を描出してみせたこの作品は注目に値するものだ。

しかしもちろん言葉を使って自らの状況を省み、自問自答してみせる時点で、これは動物そのものではなく、人間である作者の投影であることを免れない。

俳句は一句として独立していなければならないというのは、ほとんど誰も疑問を呈することが無かったという点では、有季や定型以上に強いくびきであると言える。また、それが信じてこられたのは、合理的であると思われたからだろうし、私もそのように漠然と考えてきた。しかし今回の伊藤宇宙卵作品は、そのような先入観に風穴を開けるだけのインパクトを持つものである。正直に言えば、これまで私は俳句の朗読が一句の独立性を犠牲にする方向に向かう可能性があることを危惧する考えであった。しかし、伊東氏が朗読を実践されているのかどうかはわからないが、これほど価値のある連作を提示されてしまった以上、必ずしも一句として小宇宙を為さない連作も、俳句の可能性のひとつであることを認めるほかないだろう。

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1 件のコメント:

野村麻実 さんのコメント...

待っておりましたら、読めるようになって嬉しいです(>▽<)!!!

朗読!そうですね!素敵です。
似合いそうな気がします。
(作者ご本人は無自覚なのでいらっしゃるのでは?という気がしますけれども)

コトコト笑いたいなぁと思います(笑)。