2008年10月25日土曜日

日常生活動作(2)パソコンで聴く音楽・・・佐藤文香

日常生活動作(2)
パソコンで聴く音楽

                       ・・・佐藤文香

  水着脱ぐにも音楽の要る若者達  横山白虹

紺の水着を脱いで絞っていたあの時に音楽が流れていた覚えはないが、小学校の水泳の授業中、体育の男の先生が流行歌をメドレー風にして流していたのを思い出した。給食の時間にも、リクエストされた曲を放送委員の子たちが放送していた。飯を食うにも音楽の要る私達、である。

音楽のない生活は、私にとって、バナナのない生活よりだいぶ辛い。俳句との付き合いも10年になるが音楽との付き合いはその倍だ。ピアノを10年以上習い続けたり(小学6年のときが一番まともに弾けたがソナチネ程度)、臨時部員としてコーラス部に入ったり(出ない中音域はクチパク)、才能がないなりにどうにかして音楽との親和を保っていた。今思えば、自分が演奏するためにではなく、音楽を聴くためにピアノやらコーラスやらをやっていたのかもしれない。音楽の内側に居る感覚というのは「酔う」に近く、一度味わうとやめられない。そういえば高校生のときに「ハーモニーは麻薬だ」というタイトルの作文を書いて「麻薬はちょっとなぁ…」と先生にたしなめられた。

  音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢  赤尾兜子

音楽を好きでよく聴くといってもクラッシックやジャズなどではなく、もっぱら日本の歌謡曲。ゆえに現在の私の音楽との接点はと言えば、皆さんおなじみのYou tubeである。もっと高尚な音楽を高音質で聴くのが本来だとの見方はあるだろうが、いつでも音楽を、しかも声の個性やアレンジに加えて歌詞までを楽しみたい私にとって、洗濯物を畳みながらパソコンでユニコーンを聴く夕暮などは、他に代えがたい。

  表は工事中 いやでも目がさめる 平日に昼まで 寝てる僕が悪いんだけど
  駅前の道路が 良くなるのはいいけど マシンガンのようだね
  まるでどっかの国に来たみたい 暑い 夏は暑い
  ジリジリジリジリ 日本が焦げる ユラユラユラユラ 地球が揺れる
  あの人はひたすら 道を掘ってる
  そして僕は気が遠くなる やめろなんて いえる?
  カンガルーがいる それにしても暑い

           ユニコーン「サマーな男」(作詞/作曲 奥田民生)より

奥田民生の歌詞は、古くなった安いTシャツのようなところがある。色褪せてビロビロになったTシャツはダサいには違いないのだが、うまくいくと味が出て、しかもそれが本当に似合う人というのがいて、その場合着ている人間の実(ジツ)を、個性的なファッションや鍛えた裸なんか以上によく表す。“煩悩の塊の輝き”とでも言うべき民生が、じんとするほど伝わってくるのだ。

「サマーな男」の歌詞で言えば、「いやでも目がさめる」「暑い」「気が遠くなる」など、そんな不満はわざわざ歌にしないでくれと思うが、「平日に昼まで 寝てる僕が悪いんだけど」「やめろなんて いえる?」からは、日本人らしい消極性が読み取れて面白い。「あの人はひたすら 道を掘ってる」と、掘る人には憤慨も同情もしないのも効いている。また「ジリジリ」「ユラユラ」の擬態語や工事の音が「マシンガンのよう」の喩えは至極平凡であり、「どっかの国」もまったくどういう国か見当がつかないが、「気が遠くな」った後「カンガルーがいる」との断言には驚かされる。気が遠くなって知らない国に来たかのようだ、カンガルーもいるかもしれない、程度ではない。

なんだか嬉しくなってしまった、この唐突さは俳句のようだ!と。そしてすぐに恥ずかしくなった、自分が忌むところの<俳人的な何か>に冒されている!と。関係のないものの唐突な登場が素晴らしい効果をもたらすのは、俳句に限ったことではない。

  道路ほど寂しきは無し羽抜鶏  永田耕衣

話は変わるが、志村正彦は奥田民生に憧れて音楽を始めた。その志村がボーカルを務めるフジファブリックというロックバンド、メジャーデビューシングルは2004年4月発売の「桜の季節‐春盤‐」というタイトルである。続いて7月に「陽炎‐夏盤‐」、9月に「赤黄色の金木犀‐秋盤‐」、2005年2月に「銀河‐冬盤‐」が続く。

初めてそれを知ったとき、おお、曲名が全部季語じゃん!と嬉しくなってしまった。そしてすぐに後悔した。これらは、俳句だけのものではない。単なる季節の言葉である。やはり<俳人的な何か>に冒されている!

フジファブリックには他に「虹」「打上げ花火」「蜃気楼」などの曲もあり、昔を思い出すふうな歌詞の曲からは、季節設定がいい効果を生んでいると感じられるが、

 右手に握った電話を使って壁に穴を掘る
 ようなやつに会ったら 君ならどうする?

        フジファブリック「Day Dripper」(作詞/作曲 志村正彦)より

のような珍妙な発想こそが一番の魅力であり、はちゃめちゃな歌詞にしろ叙情的なのにしろ、既成の言い回しや浅はかな心情表現にとらわれない作詞に好感が持てる。コード進行や旋律の似た曲が少なく、安心できない(スピッツやMr.Childrenのように固定ファンを得るのは難しいだろう)代わりに、あまり飽きない。

それにしても前述の「赤黄色の金木犀」という曲名、「赤黄色(あかきいろ)」というのは橙色のことだろうが、いい造語だとは言いがたい。そもそも金木犀の「金」こそが橙色を表している。しかし妙に忘れられない曲で、その上<俳人的な何か>によってあの人のことを思い出してしまい、「赤黄、色の、きーんもーくせーいのー」と口ずさみながら、あの人の全句集をめくることになって、ため息をついた。

  秋の壁白ければ目で鳥を描く  富沢赤黄男


フジファブリック「赤黄色の金木犀」


参考:「うたまっぷ.com」http://www.utamap.com/indexkasi.html

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■関連記事

日常生活動作(1)「バナナ」・・・佐藤文香   →読む

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5 件のコメント:

高山れおな さんのコメント...

佐藤文香様
話題が音楽だからというのでもないでしょうが、今回は文章のリズムいよいよ快調にて、楽しませていただきました。「あとがき」ではああ書きましたが、「俳人的な何か」に冒されていないなどとは真っ赤な嘘偽り。それは、この道の角に咲いている白い花の名は(?)とか、この赤い実の生っている樹の名前は(?)等など、専ら脅迫的に襲って来るものなので、出来れば避けて通りたい何かなのですが。さて、耕衣・赤黄男の句の引用、絶妙ですが、とりわけ耕衣の方は記憶にも無かった句でした。これはなかなかにバサラな、芭蕉に対する挨拶と読むべきでしょうか?

青山茂根 さんのコメント...

佐藤文香さま

ユニコーンいいですよね。

解散直前くらいの武道館、女友達と行きましたよ。仕事関係の方にチケット取ってもらって。そうでもしないと全く取れないくらい人気ありました。
確かこの曲が入ったアルバムあったはず、とこの2日ほど家の中探してるのですが見つからず。私のじゃないので(家人はビートルズからクラプトン、ハードロックへ流れてますが)。
「雪が降る街」(だったかな)の歌詞もよいです。

赤黄男、旧保内町の方ですね。確かに反骨の気風のとこでした。

「何を見ても何かを思いだす」(I Guess Everything Reminds You of Something)by Hemingwayだとすれば、「何を見ても俳句を思いだす」のが俳人なんでしょうね。私はそうでもないです。

佐藤文香 さんのコメント...

れおなさま

さきに申しておきますと、私は俳句を覚えられません。先日も、俳句をやっている人間が私しかいない中で、「ほら、芭蕉の、雄大な、天の川の句、教科書にも載ってる、なんでしたっけ」と言って、人に思い出してもらいました。自分の句すら思い出せません。
なのでいつも、よさそうな句を適当に選んで書いているだけなのです。俳句を読んでいないのだと思います、見ているだけで。これは本を読むのも同じで、読んだ本の内容が「いい話やったよ」としか思い出せないことが多いです。これについてもどこかに書きたいと思っているのですが。
そこで、大変恐縮ですが、芭蕉のなんという句に対しての挨拶とお考えですか?教えてください。

茂根さま
私、「雪が降る街」「すばらしい日々」が好きです。ベタですが。

>「何を見ても俳句を思いだす」のが俳人なんでしょうね。

<俳人的な何か>とは書きましたが、「俳人」というのが、何なのか、まだわかりません。しかし、何も知らず、<俳人的な>のは、ダサイのです。私は俳句の何を聞かれても答えられません。

高山れおな さんのコメント...

文香様
俳句の世界でもっともらしく「道」が出てきた場合、「俳人的な何か」に自動的にスイッチが入り、「ほら、芭蕉の、通行人がいない、道の句、教科書にも載ってる、あれ、あれ」といった感じで、

此道や行く人なしに秋の暮

が想起されるキマリでございます(ほんとか?)。御稿中の耕衣の句なんかもちろん微妙なんですが、芭蕉のストイックな秋の道を、羽抜鶏がばたばたやっているギラギラの夏の道に転じて見せたと読めないことはないかな、と。一種の茶化しということになりますが。
俳句の若手も、トミタクとかタカカツとか(さいばら天気に倣ってこう呼びましょう)、ブッキッシュな博覧強記系が牛耳を取る面も強かろうと思いますが、文香さんはどうぞ俳句を「読む」ではなく「見る」路線で突っ走ってください。『海藻標本』によって、その「道」の稔り多からんことはすでに証明されております。「道」は何本もある、まっことそう思います。

佐藤文香 さんのコメント...

れおなさま

>此道や行く人なしに秋の暮
ああ、その句!なるほど!(遅い!)
ぜんぜん、挨拶と思いませんでした。

道というのは一人歩きが基本ですから、寂しくないとはじまりませんね。道路となると行き来するものは多いですが、今ここを歩くのは結局一人ですね。

すすむべき道よりも歩いてきた道よりも、歩くことが面白いですね。