2008年11月4日火曜日

「澤」2008年7月号を読む(6)月明に消ゆる―田中裕明第三句集『櫻姫譚』・・・中村安伸

「澤」2008年7月号を読む(6)
月明に消ゆる―田中裕明第三句集『櫻姫譚』

                       ・・・中村安伸

いわゆる「伝統俳句」と「前衛俳句」の違いというものは何か、さまざまな角度から考える必要があるのだが、たとえば「前衛」という言葉にまとわりついたニュアンスをどう処理するか……。今のわたしが書いているものを「前衛俳句」と呼ぶことに抵抗がないでもない。一方で新興俳句、前衛俳句という系譜の延長線上に自分を位置づけたいという思いも強くあるのである。「前衛俳句」に代わる語がさしあたって思い浮かばない以上、便宜的にこの語を使いづづけるほかないだろう。

1995年――阪神大震災につづいて地下鉄サリン事件が起きた年だったが――の春にはじめて句会というものに参加して以降、急速に俳句に惹きつけられた私にとって、岩波新書の二冊の句会本や、別冊宝島『楽しい俳句生活』など、小林恭二がプロデュース役をつとめた一連の俳句関連書籍は、バイブルにも等しいものであった。これらによって一方で夏石番矢、攝津幸彦、安井浩司、三橋敏雄を知り、他方で岸本尚毅、長谷川櫂、飯田龍太、それに田中裕明を知ったのである。

その頃の私は固定された句会仲間以外とのつきあいはあまりなかった。私とその句会との出会いはまったくの偶然ではあったが、それは休刊したばかりの「俳句空間」をベースに活動していた人々、言い換えれば攝津幸彦、夏石番矢、さらには金子兜太、高柳重信の系譜につらなる人々、つまりは前衛俳句陣営の人々を中心とした句会であったので、私は当然のごとく感化され、伝統俳句陣営の人々のことを悪逆非道な圧政者のように感じていた。グループの結束のために必要な仮想敵として、実態以上に敵視していたという事情もあったかもしれない。

そんな調子だったから、小林の本にとりあげられた句会で、伝統、前衛両陣営の代表選手がひとつの句座をかこむ姿を垣間見たときには、やや誇張気味に述べると、ベルリンの壁が崩壊したような衝撃があったような気がする。

ちなみにその句会は、とにかく詩的跳躍の大きさが第一の評価基準であり「つき過ぎ」という評言が頻繁に使用されていた。とりあわせの体裁をとっていない作品に対しても、内容的に飛躍が足りなければ「つき過ぎ」ということで否定されていたのだった。

さて、伝統俳句が有季定型と同一視されていることが少なからずあるようだ。有季定型をひとつの枠としてとらえるならば、それは建造物を建てるにあたって、敷地をある範囲に制限するということに似ている。有季定型のみを規範とするのであれば、区切られた範囲を踏み越えなければどんなに高く、あるいはいびつな建造物を建ててもかまわないということになる。

ただ、あまりに高い建物は不安定となり、崩れる危険性が高くなる、というのが一般的な考え方であろう。

「伝統俳句」は難解さを嫌い、平明さを尊ぶ傾向がある。すなわち高くて崩れそうな建造物は基本的に好まれず、平屋や二階建て程度の単純で安定感のある建物が好まれるということであろう。

もちろん私は高層ビルが平屋よりもすぐれているなどと言いたいわけではない、都庁と桂離宮を比べてどちらがすぐれているか、ということは軽々しく言えることではないだろう。

ある俳句作品について失敗作であると評する言葉を聞くことがある。また、前衛俳句というものはほとんどが失敗作であったという言い方もよく聞かれることである。それは上述の比喩に即せば、建物がうまく建てられなかったり崩れてしまったりすることを言うのであろう。しかし、ここで注意しなくてはいけないのが、俳句作品そのものが建造物ではないということである。俳句作品ははいわば設計図であり、実際に建造物を建てるのはあくまでも読者の側であるということだ。

つまり、作品の失敗、成功は、読者の側の力量に拠るところが大きいのであり、そのことを無視して評価することは許されないはずである。

前衛俳句は、おおまかに言うと競って高い建造物を作ろうとしてきたような気がする。そのために「有季定型」という敷地が狭すぎる場合は、そこからはみだしてしまうこともあったのだろう。一方で、伝統俳句は高さよりもその土台の範囲内で、いかに安定して、美しい建造物を作るかという方向を徹底していたのではないだろうか。

いづれにしても、前衛、伝統の最も着目しなければいけない差異は、その建築様式の違いであり、有季定型を墨守するか、無季を容認するかというのは本質的なことではない。従来の前衛、伝統の間の論争が、季語の有無というところに拘泥してきたことは、ほとんど無駄としか思えないのである。

ちなみに私は俳句一般にとって季語は必要であり、重要なものであると考えている。但し個別の俳句作品は別のレベルの問題であり、季語の無い俳句作品を否定するものではない。

田中裕明や岸本尚毅らは、この前衛俳句の建築様式を、伝統俳句に取り入れることを試み、ある程度の成功をおさめたのであり、それ以降の有力で意識的な「伝統」俳人たちの多くが、程度の差こそあれ、そのような試みを自然に行っているという気がする。今回の拙文においてとりあげる裕明の第三句集『櫻姫譚』は、特にそのような傾向の強いものであった。

 *  *

話はそれるが、小川軽舟の『現代俳句の海図』について、前回の「俳句空間―豈weekly」で高山れおなが「「番矢なし」が俳句の五十五年体制の肝?/小川軽舟句集『手帖』及び『現代俳句の海図 昭和三十年世代俳人たちの行方』を読む」と題し、以下のように書いている。

あらゆる美点にもかかわらず、本書は欠陥品であると評者は考える。簡単明瞭な話である。「昭和三十年世代俳人」という枠でくくりながら、そこに夏石番矢がいない。このような人選に正統性を認めることができるだろうか。

上記は、この書にとりあげた俳人たちの人選について、小川が以下のように書いている部分を受けたものである。

今日の俳句において伝統と前衛という区分はまだ意味を持っているのだろうか。前衛という立場は、開拓すべきフロンティア、すなわちそれまでの表現者が対象としなかった未知の表現領域があってこそ成り立つものだろう。ところが昭和三十年世代には、皆で競って開拓できるような目に見えるフロンティアが残されていなかった。

これに対して高山はさらに以下のように述べている。

もし、小川が伝統と前衛の区分に意義を認めないのなら、なおさら彼は本書で夏石をとりあげるべきだった。夏石を除外する唯一正当な根拠があるとすればそれは、本書がこの世代における伝統派の「全体像を俯瞰すること」を目的としており、したがって前衛派の夏石は対象外なのだというものであろうからだ。ところがその区分には意味がないと小川自身が言っている。語るに落ちたというべきではないか。


小川の文の意図は、「伝統、前衛の区分に意義が無い」ということにあるのではなく、「昭和三十年世代にとって、前衛という姿勢をとる意義は無い」ということにあるようだ。そう考えれば、夏石をはじめとして前衛俳句の流れを汲む俳人が誰ひとり扱われていないことは理屈に適っているともいえる。

私がむしろ問題だと思うのは、小川の文の後半部分であり、「目に見える」「みなで競って」などというディスクレーマーを置いているものの、現在において「未知の表現領域」が存在しないかのような言いかたには、非常にひっかかりを覚える。

もしそうであれば、昭和三十年世代の俳人たちは、既知の、すでに開拓された領域のみを対象として表現活動をしているということなのだろうか?

俳句はものをいえない、ものをいわない文芸であるというのはよく言われていることだが、それは比較的そうであるという話であって、決して表現する内容がゼロであるわけではない。ゼロであることを理想する言説を見かけることもあるが、現実には不可能であることに変わりはない。もしゼロを表現することに成功したとしてもそれは「ゼロ」という未踏の領域を表現したことになるのみだろう。

確かに新興俳句、前衛俳句の盛んであった頃、みなが競って開拓できる共通の「未知の領域」がひろがっているように思えたのかもしれない。それらが現在においては見えにくく、個別的なものになったとしても、やはり表現したいものは、既知のものでなく未知のものであるということには変わりがないはずである。そこに前衛、伝統の区別はない。もし既知の領域のみで作品をつくってゆくということであれば、類想というものを否定する根拠はなくなるだろう。

ともかく、ベストテンを選ぶのでなく彼等の世代を俯瞰するための人選であるということならば、選ばれた十人と異なるベクトルの活動を行っている夏石らを除外したことが不適当であるということについては高山と同意見である。

 *  *

さて、『櫻姫譚』は、私がはじめて読んだ田中裕明の句集である。

十年ほど前、まだインターネットが今ほど一般に普及しておらず、パソコン通信でのコミュニケーションがまだまだ盛んであった。ニフティーサーブという当時日本最大のパソコン通信プロバイダには、俳句専門の会議室も用意されていた。そのなかの「現代俳句の部屋」という掲示板において、正岡豊さん等とともに、句集別五句選という短い句集評をやろうと思い立った。そのときとりあげた五冊が、夏石番矢の『猟常記』『メトロポリティック』『真空律』『神々のフーガ』と並んで田中裕明の『櫻姫譚』であった。

前述したとおり、その当時の私には、今よりもずっとはっきりと前衛対伝統という対立構図の存在を意識していたし、自分自身の立ち位置を明確に前衛側に置いていた。そうした立場から夏石の句集をとりあげるのは自然であったとして、その次にとりあげたのが裕明の句集であったことは、バランスをとろうとしたというようなことではなく、この句集に純粋に強く関心を惹かれていたからであることは間違いない。その要因のひとつは、伝統俳句の若手のプリンスという立場だった裕明の句集から、自分の作ろうとしている俳句に共通する匂いを嗅ぎ取ったということであったのは間違いないだろう。

そのとき私が選んだ『櫻姫譚』集中の五句と、評文の全体を引用してみることにする。

遠ければ女人とおもふ桐の花

水涸れて思ひもかけぬ繪にあひぬ

蔓のびてゐたるところの夜は長し

牡丹は最もおそく揺るるもの

如月の大礼服といふを着る

田中裕明氏は、この句集に附された略歴によると、昭和34(1959)年生まれ、昭和52(1977)年に波多野爽波に師事したということです。そして『櫻姫譚』は『山信』『花間一壷』に続く第三句集で、平成4(1992)年にふらんす堂から発行されたものです。

「俳壇の貴公子」と呼ばれるだけあって、実に端正な伝統俳句の外見を持った作品群だと思います。岸本尚毅、長谷川櫂、小沢實といった人々に比較されることが多いのではないかと思いますが、中でも同門の岸本尚毅に似ているのは、独特の美意識によって言葉が巧みに選ばれている点です。
ただ、工芸品のように確かな印象をもった映像をつくる岸本尚毅の職人テイストな作品に対して、田中裕明の作品はしばしば幻想的で、曖昧な輪郭をもった句が多いように思いました。

僕が選んだ句は、結果として一句一章のものが多くなりました。

いづれの句も、幻想的な主観や古典的な美意識が前面に押し出されていると思います。

この種の句は決して読み慣れてないとは言えないのですが、選句ということになるとあまり経験がなく、戸惑いを感じないわけではなかったです。

結局は好き嫌いで選ばせていただきました。

1998/07/26 Nifty Serve「俳句フォーラム」より


お恥ずかしいかぎりではあるが、岸本と裕明との作風を比較したところなどは今も考えは変わっていない。選んだ句については、著名句を避けたという面もあるが、今だったら違った作品を選ぶだろう。

私が「この種の句は決して読み慣れてないとは言えないのですが、選句ということになるとあまり経験がなく」と述べているのは、前述のような句会しか経験していなかった自分が、詩的跳躍ばかりを句の評価の尺度とするわけにはいかない作品群について、どのように振舞って良いかわからなくなってしまったことを、正直に吐露したものだったと思う。

ふりかえってその頃自分がどのように俳句を読んでいたか思い返してみると、「切れ」あるいは「とりあわせ」の意識に違いがあったように思う。たとえば上記の五句のうちふたつめに挙げている〈水涸れて思ひもかけぬ繪にあひぬ〉であるが、当時の私はこれを、水が涸れることによって、溜池などの底があらわれ、その底に皹などが走っている様子のことを「思ひもかけぬ繪」というようように表現したものであると読んでいた。それを否定すべき誤読であるとは思わないものの、今の私はこれを、展覧会などで「思ひもかけぬ繪」に出会ったという内容と、「水涸る」という季語のとりあわせであるというようにまずは読む。そのうえで前述の溜池の底を絵と見立てたという読みもまた、ひとつの連想として考えるのである。

このような「切れ」や「とりあわせ」に対する意識の変化は、私が頻繁に伝統俳句系の句会に参加するようになってからのことであったように思う。

それまでは「とりあわせ」を意識する以上に、自分の中での語の恣意的なつながりを優先する読みをしていたのではないかと思う。

 *  *

さて「澤」の田中裕明特集では、この句集『櫻姫譚』について、村上鞆彦、池田瑠那という二人の若手のほか、生前の裕明と親しかった四ツ谷龍が句集評を書いている。

村上鞆彦はこの句集について〈安易な読解を拒むような、奥行きの知れない茫洋とした広がりが存在している。〉として、謙虚にも自身の解釈の力の及ばぬことを宣言している。そのことは好ましいともいえるが、たとえば〈七草のまだ人中にある思ひ〉という句の解釈に迷いながら〈再考するうちに、新たに次のような解を得た。〉などとしているところを見ると、数式を解くようにして俳句を読もうとしているのではないかと感じる。「七草」というと七草粥を食べていなければならないかのような固定観念はともかくとして、そのような読み方ならば、特定の解を得られぬ句については、すべてが〈茫洋とした〉ものと感じられることだろう。もちろんそのような頑なな姿勢もまた貴重なものかもしれない。

一方で、村上が自らの眼の及ぶ範囲でとりあげた作品の鑑賞は、信頼できる堅実なものであるといえるだろう。句集全体にわたって散見される諧謔味を指摘した点、また〈君乗せむかな枯野馬車たびぐらし〉という句の軽快にして切ないリズムに着目した点など、興味深い点が少なくないのである。

池田瑠那の論は、おそらくは普段から彼女の関心の中心にあるらしいジェンダーについての考察に、大きく引き寄せるようにして書かれている。〈水涸れて天才少女とはかなし〉や、〈櫻姫とは月明に消ゆるもの〉といった句の鑑賞から出発した随想としては興味深いものだが『櫻姫譚』という句集について語ったものとしては、いかにも断片的であり物足りなさが残る。

ただ〈いま置いて十年前の蕨籠〉〈水仙のすでに重さのなかりけり〉などといった抽象的表現が特徴的な作品をとりあげていることは興味深い。実のところ裕明の句業における『櫻姫譚』の特異性をあらわすのがが、これらの作品だと私は考えている。裕明における前衛俳句の影響ということを再三述べて来たが、それが最も生なかたちで噴出したのがこれらの句であり、『櫻姫譚』以前にも、以後にもあまりみられないものなのである。残念ながら池田の鑑賞はそのような部分に触れてはこないのであるが……。

四ッ谷龍の論は、リアルタイムでこの句集を読んだときの印象と、彼の死後になって読んだうえでの印象の差を述べている部分は興味深いものである。〈七草のまだ人中にある思ひ〉という、村上が解釈に困っていた句について〈この句では「人中にあった時間」と「一人になって、しかしまだ人中にあるような気がしている時間」の二つの異なる時間層がダブるように描かれている。〉と明快に解読している。

四ッ谷の時間層の多重化という指摘については、『山信』でのソフトフォーカス的な対象のとらえかた、あるいは『花間一壺』にみられたような時代や空間を越えたモンタージュのように、可能な限り大きな世界を一句のなかにとりいれようとする裕明の傾向のひとつの反映ととらえられるのではないだろうか。

池田がとりあげていた〈いま置いて十年前の蕨籠〉や、十年前に私がとりあげた〈蔓のびてゐたるところの夜は長し〉などもこのような時間層の操作を主題にした句であろう。また例をさがせば〈煙突がすこしむかしの春の山〉〈鮎の瀬にふたたび時の流れだし〉というような作品を発見することができる。

時間層ということのみならず『櫻姫譚』には、現代詩の一節のような、ややナンセンスだったりシュールレアリスティックだったりするフレーズが散見されるのである。

他にも四ッ谷のとりあげている句は非常に興味深いものが多い。

巨き人の寝顔のごとき夕凪か

春の海魚と鳥と寝るならば

陶片の原型おもひさみだるる


これらを前衛俳句の作品といっても不自然ではなく、そのなかでも殊に良質なものと感じられる。いづれもこの時代の裕明の実験精神の旺盛さを示すと同時に、その繊細微妙な感受性を示しているだろう。

一句めの大きな詩的跳躍をふくんだ直喩、二句めのゆたかな想像力と大胆な省略による多義的な仕立て、三句めは「原型」という概念的な語彙を思い切った使用を、とりあわせの見事さによって成立させている。

伝統という価値観からみると、上記のような大きい飛躍は高橋睦郎が言うように「乱れ」なのかもしれない。しかし、乱れながらも決して崩れない端正な句姿は、裕明生来のバランス感覚に基づくものであろう。

やや曖昧なカテゴライズではあるが、前衛俳句的な傾向をしめす作品をさがすなら、以下のようなものをあげられるだろう。

春風にからだほどけてゆく紐か

小鳥またくぐるこの世のほかの門

糸つけて空にあげみむ秋の人

空に網打つたる春の雪げむり

洗ひたる障子に瀬音憑くごとく


この句集について、主に前衛俳句との関係という側面から述べて来たのであるが、そのような見方に固執することは、句集の全体像を見誤ることになるだろう。当然、写生や取り合わせなど、伝統俳句としての技法にすぐれた作品も当然多数存在している。以下に私の気に入った作品をあげておくことにする。

夢はじめ松葉を匂ふほど積みて

西行忌あふはねむたきひとばかり

夏めくや卓布にふるる膝がしら

遅き日の手にうつくしき海の草

舞殿の屋根を滑りて夏落葉

落鮎はむらさきの木のなかをゆく

大寺の障子を洗ふ唯一人

池二つ涸れてその色異なれる

遊ぶことばかりかんがへ春の泥

推敲すいくども浮寝鳥の句を

眼前にある花の句とその花と

月の客瓢を舟とするはなし

竹生島へ妻子を送り秋昼寝

木と別れ水をはなれて雪解風

牡丹は最もおそく揺るるもの

昼寝して等高線の粗に密に

ノーリツ号といふ自転車や盆の風

ねそべりて京都ながむる鳰

墓みちの筍みちと出会ひけり

鮎の魚籠つよきみどりのまじりけり


このように選んでみると、前衛俳句的、伝統俳句的というのは程度の差でしかないという気がする。もちろんこれは田中裕明の『櫻姫譚』というたった一冊の句集の範囲内のみを対象とした考察であって、これを俳句一般に適用すべきかどうかは保留しなければならない。

前衛俳句も伝統俳句も俳句のアナロジーに過ぎないということは、高山れおなが当ブログ第7号のあとがきで湊圭史の「俳句〈詩〉性批判試論」にからめて述べているのであるが、それについての検討を深めることは別の機会に行うこととしたい。

 *  *

さて、この句集のタイトルともなっている「櫻姫」であるが、櫻の精のようなものと考えても良いだろうが、歌舞伎の『櫻姫東文章』の主役である櫻姫を想定することももちろん可能である。もちろんこのタイトルは以下の作品から採られたものであろう。

櫻姫とは月明に消ゆるもの

私はこの句の「櫻姫」を歌舞伎のそれであると読みたいのである。歌舞伎の姫というものの特異な存在感を手がかりにしてこそ、この句が薄っぺらなファンタジーとなってしまうことを避け得ると考えるからである。もちろん、どのような読み方も読者にゆだねられているのであるから、多面体のひとつの面、連想の一つのひろがりとしてとらえれば良いのだとは思う。

さて、歌舞伎における「姫」の代表格はなんといっても「赤姫」であろう。赤姫という役があるわけではなく、主に人形浄瑠璃から移入された時代狂言において、主役級の武家の姫君のことを、その着用する真っ赤な振袖にちなんでそう呼ぶのである。これらの姫君は、その親、恋人(許婚)に対する純粋強烈な忠誠心から、ついには神通力を獲得するにいたる。たとえば『本朝廿四孝』の八重垣姫は、諏訪法性の兜と白狐の霊力を借りて、許婚である武田勝頼にその危機を知らせるため諏訪湖を渡ってゆくのだし、『祇園祭礼信仰記』の雪姫は、櫻の花びらを集め、足先で描いた鼠に自らを縛める綱を食い切らせるのである。

赤姫を演じるのは通常、一座の立女形であり、私が歌舞伎を見始めた二十年前であれば、六世中村歌右衛門、七世尾上梅幸といった役者が演じるべきものであった。当時すでに老人であり容姿の衰えた歌右衛門や梅幸が十代の姫君になるのは、非常な芸の力が必要なのである。逆に、このような人間ばなれした姫君を演じるためには、容姿ではなく芸の力こそが必要とされるとも言えるだろう。

赤姫たちの濃密な情念は現代の感覚からすると異常とも感じられるが、姫だけがそのような情念を背負うわけではなく、登場人物すべてが一種の熱病のように義やら情やらにうかされているのが時代狂言の世界である。たとえば『妹背山婦女庭訓』の吉野川の場における「首の祝言」や『菅原伝授手習鑑』の「寺子屋」における「いろは送り」などは、そうした熱病が最も美しくかつグロテスクなかたちで結実した場面だと思う。

『櫻姫東文章』は、赤姫たちよりも後の時代の作品で、『東海道四谷怪談』などで高名な江戸時代末期の作者、四世鶴屋南北の筆によるものである。その主役が櫻姫という武家の姫君なのである。

櫻姫という名前からこじつけると、赤姫よりは色素の薄い存在ということになるだろうか。実際、高貴にして物狂おしい情念をそなえた赤姫たちに比べると、情夫の言いなりとなって大名の姫君から遊女へと身を落とす櫻姫の行状は、ずいぶんと受身であり、現世的であり、インモラルである。

この狂言が現代において人気を得ることになったのは、当代板東玉三郎が櫻姫を演じるようになってからのことであろう。芸の力以上にリアリティのある玉三郎の美貌があってはじめて、この役を魅力的に感じることができたのである。

歌舞伎は江戸時代を通じて、完全な大衆芸能であり、当時の観客である民衆の欲望を直接的に投影したものであった。その主役が赤姫から櫻姫に移るにあたっては、江戸時代中期から後期にかけての時代状況の変化もあっただろう。そのような状況において、赤姫に対するパロディー的なキャラクターとして「櫻姫」が造形された。また、もっと身も蓋もない言い方をすると、「姫」は大衆の欲望の対象であり、超人的アイドルだった赤姫を、手の届くところ――ならずものの情婦で娼婦――まで引きずりおろしたのが「櫻姫」という存在なのである。

江戸時代はその文化がもたらしたきらびやかな印象から、明るく自由な時代であったというイメージで語られることが増えてきたように思うが、それでも庶民が圧政を受けていた時代であったことは動かしがたく、ことに言論や倫理といった面での締め付けは激烈なものがあった。

江戸の民衆たちの押さえつけられた欲望は、闇の中でのみ顕在化する。そのことを象徴的にあらわすのが歌舞伎の「だんまり」という演出である。闇の中という態で、財布や宝物をさぐりあう所作を、台詞なしに見せるという趣向であり、明るい舞台上で行われる舞踊劇であり、重要なモノが人から人に渡る、奪われるというような場面で多く行われる演出である。

闇の中にうごめく、江戸の大衆たちのたくさんの手、そのすぐ上を綱渡りするように歩んでゆく櫻姫。それは月明というわずかな明りがさしただけでも消えてしまうようなはかない幻想として描かれている。

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5 件のコメント:

高山れおな さんのコメント...

中村安伸様
正倉院展はご覧になれましたか?
御力稿拝読、いささか胸が熱くなりました。中村さんの実人生の時間、それと少しは絡んでいる小生の実人生の時間、裕明作品の読みを通じて現れた日本人の情念をめぐる長い時間、俳句表現史におけるさまざまな人と言葉の時間、いろんな時間が錯綜して迫ってきたことでした。
建築を比喩としての伝統/前衛考、すこぶる面白い。便宜的にこれらのタームを簡単には破棄できないとしても、実際はなし崩し的になっていることを改めて実感しました。軽舟氏の『手帖』は、特に若い人たちに好評のようですが、ある意味、田中裕明的手法をより穏当にした表現という一面がありますからね。じつは裕明俳句がよく判らない(あるいは判りたくない)小生に、軽舟俳句にぴんと来ない部分があるのは当然かも知れません。
最後の「櫻姫」をめぐる読みは、芸能通としての中村さんの本領発揮で、堪能しました。俳句の読みとはかくあらねばならないと思います。大いに刺激されました。

さんのコメント...

「れおな。安伸」の問題意識が呼応しあって、俳句の重要なテーマが洗い出されてくるようで。よむのがたのしみです。中村さんの腰の据わった書き込みは貴重だと思いました。
 さて、俳人田中裕明の俳句は、気になりながら、時間的なこともありじゅうぶんに読み込めていません。「前衛俳句」の方をさきに読んでしまって、「伝統俳句」が後回しになる悪癖からぬけだせません。
 でも、これは、読まないというのではなく、静かになりたいとか、一人でふっと手持ちぶさたを感じるときに、手にとって開いたところをその一句だけ読む、と言うことなのです。こういっても、彼らには失礼な言い方にはならないとはおもうのですが、批評しなくても良い時間が欲しいときに、子規、虚子、をよみます。
 故田中裕明氏の抑制がきいていながらのびのびした風景の抒情、これも新鮮な伝統感覚でいいですね。こないだ「澤」特別号で『山信』の復刻(?)を目にしてとても感動しました。

我知らぬ人より母が柿もらひ 
境内に大根懸けし楓あり
日のあたる机に柘榴割れてあり
末枯れに屈みゐる人大きな穴
         裕明 『山信』

 なんてことない句ですけれど、たちのぼってくる風景が良いのです。
 
「境内に大根懸けし楓あり
 日のあたる机に柘榴割れてあり」
などの客観写生の風景には、そういう人にいわゆる「知」とは違う別の世界認識の方法のあることを知らせます。
 こういう突飛な場所のキッチュな風景を発見するセンスは、明らかに今の時代ならではのものです。
 貴方が言うように。裕明氏を前衛から学んだ「伝統派」とするならば、観たままのことを言うためのスポットの発見が面白い。いわゆる伝統派とは違う場所に目の付け所がいっている、そう思いました。

 いわれるような傾向は、『櫻姫譚』あたりから全面に出ているように思われますね。
 櫻姫とは月明に消ゆるもの  裕明
この妖しさは、「櫻姫」がはらむ時間からくるもの、ここに、赤姫、など芸能の美意識をかぶせたのは正しいよみかただとおもいます。櫻の花が夜明けの月の中でしだいにもとの樹の花になってゆく、こういうありさま、はドラマチックです。

なお 本論では掬いにくいかもしれませんが、私はこういうのもすきです。
 
東京に亀鳴くといふ日向かな 裕明)櫻姫譚

時間というような虚の美をかききれるスケールのある俳人であった、のでしょう。

断片的な感想ですが、つづきをたのしみに、

 

冨田拓也 さんのコメント...

「花間一壷」と「櫻姫譚」はもしかしたら、飯田龍太、森澄雄の影響があるのではないか、ということを思いました。
龍太、澄雄ともに、前衛から学んだ「伝統派」だった、というようなことを矢島渚男さんが以前どこかで書いておられました。
「田中裕明全句集」を何度も読んで、「花間一壷」と「櫻姫譚」は他の句集と比べてどうしてこんなに難しいのだろう、といった印象を持っていたのですが、龍太、澄雄の影響ではないかと考えるとやや腑に落ちるものがありました。しっかりと検証はしていないので間違っているかもしれません。いい加減なことを書いて申し訳ございません。
次回は「先生から手紙」ということになるのでしょうか。いまから拝読できるのを楽しみにしております。

中村安伸 さんのコメント...

みなさまコメントありがとうございます。

文化の日に正倉院展、ならびに興福寺の国宝特別公開を見てまいりました。詳しい感想は別途書くかもしれませんが、堪能しました。

今回の記事は高山さんの前号に触発されたこともあり、たまたま『櫻姫譚』について書くべき順番でもあったので、裕明における前衛俳句の影響を書こうと思い立ったのですが、結局明確な指摘を行うところまではいたりませんでした。

作品を個別に見れば〈眼前にある花の句とその花と〉には加藤郁乎の〈花に花ふれぬ二つの句を考へ〉が投影されている、などと指摘してゆくこともできたでしょうが。
このテーマについてはさらに熟考する必要があると思っています。

吟さんがあげておられる〈東京に亀鳴くといふ日向かな〉ですが、このような虚をかかえたユーモラスさは〈糸つけて空にあげみむ秋の人〉などにも通じるかもしれませんね。

冨田さんのご指摘があるまで、龍太や澄雄の影響ということを特に意識しませんでしたが、確かにそれはあるかもしれません。『櫻姫譚』からわかりやすい例でいうと〈牡丹を大きな水輪かと思ふ〉〈牡丹は最もおそく揺るるもの〉の二句は、森澄雄の〈ぼうたんの百のゆるるは湯のやうに〉が下敷きになっているものでしょう。「ゆう」でも先人の句を読むことを強く推奨していたということですから、裕明自身熱心な俳句読者であったと思われます。

裕明のみならず伝統俳句への前衛俳句の影響ということは、これまであまり体系的には論じられてこなかったと思うのですが、私にとって重要なテーマとなりつつあります。これを考えることなくして、伝統、前衛の揚棄へいたることは不可能なのではないでしょうか。

さんのコメント...

(いわゆる「伝統俳句」と「前衛俳句」の違いというものは何か、さまざまな角度から考える必要があるのだが、たとえば「前衛」という言葉にまとわりついたニュアンスをどう処理するか……。今のわたしが書いているものを「前衛俳句」と呼ぶことに抵抗がないでもない。一方で新興俳句、前衛俳句という系譜の延長線上に自分を位置づけたいという思いも強くあるのである。「前衛俳句」に代わる語がさしあたって思い浮かばない以上、便宜的にこの語を使いづづけるほかないだろう。)yasunobu
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八木三日女さんがあるときおっしゃった言葉。

「私達は「俳句」をつくっているので、「前衛俳句」をつくってきているのではない、」


鈴木六林男さんもこうおっしゃいました、

「儂は、社会性俳句、と言うたことはない」

どちらも口頭で私が直接聞いたことなのです。

 にもかかわらず、われわれはあえてこの言葉でいちおう彼らの姿勢や作品をたしかめてきました。このような時代的なにおいのまつわる「概念化」や、流通するニュアンスをあらい流さないと駄目だと思う。

 前衛俳句も、伝統の問題にぶつかったのです。安井浩司さんなどを読まねばならないような気がしています。

 裕明の句のある部分は、筑紫磐井の「野干」に似た虚のつくりものの美しさがありますね。