■「澤」2008年7月号を読む(3)
静かな場所―指導者田中裕明の「詩情」
・・・中村安伸
「澤」2008年七月号の田中裕明特集は、裕明の指導者としての側面、すなわち「ゆう」という結社の主宰としての彼の姿にもスポットライトを当てている。
五年間「ゆう」の編集に携わり、そのはじめから終わりまでを裕明とともに体感した山口昭男と、直接裕明の指導を受けることで俳人として開花していった対中いづみがそれぞれ記事を寄せている。これは指導者田中裕明を語るうえで最もふさわしい人選なのだろうと思う。
高山れおなは当ブログの「創刊のことば」に〈そもそも結社誌なる存在にしてからが、主宰者を主体にした刊行物という見せかけのもと、多数の小口の出資者が共同でひとりの読み手を雇っていると考えた方が実態に近いだろう。〉と書いているのだが、私としてもその意見に近い考えを持っており、現代におけるリアルな俳句結社主宰というのは、つまりプロフェッショナルの俳句読者である、ということを思っている。
結社におけるコミュニケーションのあり方は、会員・同人の俳句作品を主宰が読み、主宰からの選や評言を会員、同人が受け取るというかたちが中心になっている。しかし本来は、主宰の作品を会員・同人が読み、あるいは会員・同人が相互に作品を読むといったこともバランス良く行われてゆくことが理想であろう。
その意味で、俳句作者として最も人気の高い一人であった田中裕明が結社をつくることに対して、上記のような理想に近いコミュニケーションの場が生まれるのではないかという期待があったと思われる。また、実際にそのような双方向のコミュニケーションがもたらす熱い空気が、山口、対中両氏の記事から伝わってくるのである。
*
さて、この連載の第一回に、私自身「ゆう」に所属することを考えたこともあると書いたのであるが、あまり個人的なことを書きすぎても読者には退屈であろう。ただ、裕明と歩みをともにした立場からのみならず、関心を抱きながらもその輪に加わることのなかったものの発言もまた、指導者田中裕明の一面を照らすものになる可能性はあるだろう。
「ゆう」への参加を考えた頃の私は、主宰である裕明の作品に惹かれていたことはもちろんだが、それと同じ程度に主要同人の一人である岸本尚毅に魅力を感じていた。ともに波多野爽波門であり、年齢も近く、若い頃から俊英として「青」の、ひいては伝統俳句の将来を担うライバルと目されてきた二人が、主宰として、あるいは同人として携わる結社は、非常に輝かしいものと感じられた。
実力、人気から言って当然のことながら、岸本は数ある同人の一人としてではなく、言わば客分という扱いだったのだろう。私から見ると、この二人の存在感は同じ程度と感じられた。形としては師弟ということになるのかもしれないが、むしろ二頭体制であり「ゆう」はこの二つの極をめぐる楕円として私には見えていたのである。
山口の記事中に「ゆう」第一号、第二号の巻頭句に対する裕明の評言が引用されているが、いずれも句の作者は岸本である。このようなところにも田中=岸本体制の実質的な有効性が見てとれる。
客分としての岸本をもてなすために彼を巻頭にしたというような意図はもちろん皆無だろう。そうであれば二回続けるようなことはしないはずだ。また岸本の作品が飛びぬけて優れていたということも理由のひとつかもしれないが、それだけではないだろう。「ゆう」での同人の序列システムを知らないので不正確なことを書いてしまっているかもしれないが、私はここに明確な意図が込められていたと考える。
対中の記事中にもあるように、裕明は自句自解をほとんどしなかったということである。しかし「ゆう」の立ち上げにあたっては、その理想をぜひとも具体的な作品として示す必要があった。もちろん裕明自身の作品も掲載されていたわけだから、それ自体が雄弁に語っているだろう。しかし、作品によるコミュニケーションを成立させるためには、作品を読むための力を共通理解として醸成してゆく必要があり、特に場がまだ熟していない場合には散文による補助を必要とするのである。
古今の名句などをとりあげながら解説を行うことも有効だろうが、会員・同人たちにとっても、仲間である同人の作品がその道しるべになるというのは、場を活性化させ、同じ方を向いて熟成してゆくうえで有効だっただろうと思うのである。
裕明は、岸本の作品のレベルの高さはもちろん、そこに自分と同じ理想がわかちもたれていることを感じ、信頼していたのだろう。
また、岸本の側から見ると、彼が切磋琢磨のための相手としてついに同世代の同伴者を選んだということが興味深く感じられるのである。『無敵の俳句生活』(俳筋力の会編、2002年、ナナ・コーポレートコミュニケーション)という本でのインタビューに答えて、岸本尚毅は以下のように述べている。
俳句の師は、その人をとおして師系に連なる奥行きを見られる人を選ぶべきでしょう。ぼくは爽波をとおして虚子や高野素十や中村草田男など、ホトトギス黄金時代の俳句のきらめきを見ることができた。
爽波の「青」に参加する前に、前衛俳句系である赤尾兜子主宰の「渦」に参加していた岸本は次のようにも答えている。
彼らをライバルとして伝統俳句をやっていくためには、まず前衛のよさを把握しようと思ったんです。だから仲間になるというよりは、むしろ前衛俳句に対抗しようと思って『渦』を選んだんですよ(笑)
次に爽波から学ぼうと思ったのは伝統俳句の技法『写生』ですね。前衛俳句はアイデアや意匠はすばらしい。でもぼくはやっぱり伝統俳句で勝負したかったから、彼らに俳句の生産技術で挑もう、というわけ。
これほどまでに師を、そして場を選ぶことに戦略的な岸本が、友人の誼というだけで裕明の結社に参加したりはしないだろう。彼は田中裕明という俳人から貪欲に何かを学び、吸収しようとしていたはずである。二人が示し合わせて計画を練り上げたのか、それとも阿吽の呼吸だったのかはわからないが、二人の利害の一致があって「ゆう」という場が生まれたのだと思う。
*
さて「澤」の裕明特集に戻り、裕明の指導を受けた二人の実感あふれる記事に耳を傾けることにしよう。
対中の記事は「おだやかな声 ―指導者としての田中裕明」と題されている。謦咳に触れるという言い方があるように、人が人に接したという実感を強く持つのは、その人の肉体から直接発せられた声、言葉を、直接自らの耳によって受け止めた時であろう。
指導者と門人としてというより、人と人とのつながりの体験として「ゆう」の場と時間をとらえようとしていると感じた。
裕明が強調したという指導の言葉は、活字にしてしまうと非常にオーソドックスであり、陳腐とすら感じられることがある。しかし指導の場では、常識的なことであっても繰り返し言い続けることが必要となるのだろう。また、それらの言葉に力を与えるのが、その言葉を発した裕明自身の俳句作品なのである。その作品を生み出した同じ肉体が発している声であるという、きわめてフィジカルな実感が、強い説得力を生み、人を育ててゆくのであろう。
さて、対中の記事には〈大峯あきら氏が「平明と平凡とを感じ分けるということに選者としての虚子は誰よりも敏感であった」(「俳句研究」二〇〇三年八月号)と述べておられるが、これは優れた読み手には共通するものだろう。〉とある。
裕明の師の波多野爽波といえば「俳句スポーツ説」であり「多作多捨」である。
「多作多捨」の「多作」のほうに軸足を置いた解釈が巷には多い気もするが、どちらかとえいば「多捨」のほうが重要なのであり「どれを捨てどれを残すか」という自選能力こそ俳人の能力の基礎であるとするものなのである。自作を読み、捨てる能力と他者の作品を選ぶ能力に根本的な違いはないはずである。
さて、山口の記事は「詩への架橋 ―「ゆう」とは何であったか」と題されている。この「詩」という語もまた、裕明の俳句論にとって重要なキーワードである。
この記事の冒頭に引用されている裕明による「ゆう」創刊の言葉に、次のようなくだりがある〈そこで大切にしたいのは詩情ということ。孤独な創作の産物である俳句が、人に伝わるのも詩情がそこにあるからです。〉これは対中の記事中にも引用されているのであるが、これを裏返して読めば、裕明が「ゆう」という場によって成し遂げようとしたのは俳句作品の「詩情」によるコミュニケーションであったということになるだろう。
さらにこれも山口の記事からの孫引きだが、裕明は2002年1月号の対談記事で次のように述べている<「青」の雰囲気をそのまま「ゆう」の雰囲気にしたいとは思っていません。「青」の方以外の新しい作り方をしている方がいらっしゃいましたらそういうのを生かして、何年かしたら「ゆう」の俳句ができればいいなあという感じですね〉 「ゆう」の俳句ができるということは、言い換えれば「ゆう」という場において、独自な「詩情」によるコミュニケーションが成立するということである。
「ゆう」の俳句が認知されるということは、醸成された「詩情」が、外部へと広まってゆくことを意味している。そのようにして時間、空間を越えた「詩情」によるコミュニケーションを成立させてゆくことをこそ、裕明は期待していたのではないだろうか。
*
さて、山口、対中両氏のプロフィールを「澤」で確認してみると、二人とも「静かな場所」という同人誌に所属されていることがわかる。この名は〈小鳥来るここに静かな場所がある〉という裕明の句に拠るのだろう。
大江健三郎の『宙返り』(講談社文庫)に「静かな女たち」という、教祖の転向後も共同生活をつづけ、祈りの日々を重ねる集団が描かれており、その印象に通じる名でもある。
静かな場所に人が集まる。人が集まってもなおその静寂を保ち続ける場所には、徐々に無言の熱が積もってゆく。内圧が高まればいつか容器は爆発するだろう。炎に包まれた「場所」から鳥たちがいっせいに飛び立つ日にむけて、今はただ祈りのように、声にならない言葉が整然と重ねられている。
「静かな場所」というのは、そのようなことを想像させる名だ。
「ゆう」とは「裕明」を有職読みした「ゆうめい」の音をふまえているのはもちろん、やや気恥ずかしいが「友」であり「You」であり「優」でもあるのだろう。 裕明が仲間たちに託した「詩情」が噴火するときがいつか来るのであれば、私が「ゆう」に加わる判断を下せなかったことへの評価は、その日まで保留しておこうと思う。
※追記「澤」2008年7月号には押野裕が「静かな場所はここに ―田中裕明門の人々」という記事を寄せている。上述の「静かな場所」の紹介を中心とした記事であるため今回は触れなかった。
--------------------------------------------------
■関連記事
「澤」2008年7月号を読む(1)
空へゆく階段―技術者田中裕明について・・・中村安伸 →読む
「澤」2008年7月号を読む(2)
俳句の神に愛されて―田中裕明と夭折者たち・・・中村安伸 →読む
■関連書籍を以下より購入できます。
0 件のコメント:
コメントを投稿