2008年9月28日日曜日

俳句〈詩〉性批判試論(後)・・・湊圭史

俳句〈詩〉性批判試論(後)

                       ・・・湊圭史

静かなうしろ紙の木紙の木の林  阿部完市
 
人間探求派の句で季語が与えるイメージに比べると、「紙の木」「紙の木の林」はなんと薄いイメージだろう。いやむしろ、これはイメージの不在を指示しているのだ。先にとりあげた主体と世界の相互浸透が実存の直感を、対峙がカタルシスをもたらした句に比べると、ここでは句の成立する前提として、そうした二項対立はあらかじめ脱臼させられている。主体に対応するものがこの句にあるとしたらそれは、「うしろ」という方向指示が与える空疎な視点、「カミノキカミノキノハヤシ」というナンセンスすれすれの音が伝える「静かな」呟きでしかない。「身体性」や「内面」の解体されつくした風景、それは風景そのものの不可能と同義である。さて、この句の〈詩〉を、また〈俳〉の働きも同定することは難しい。一見、主観的な判断で〈詩〉を表示しているかに見える「静かな」のフレーズが〈俳〉を生み出しているのではないか、と私は考える。「うしろ」とは見えないことであり、そこにある不在はむしろ意識の中では巨大な穴として価値をもつだろう、それに対して静かだと言い切ってしまう覚悟。鳳作や三鬼の句にあった不在の宙吊り感がここでは全面化され無重力状態を生んでいる。そこで〈詩〉と〈俳〉の転倒が起こっているのではないか。

南国に死して御恩のみなみかぜ  攝津幸彦
 
危うい諧謔に遊んだ句であり、諧謔の語が「諧」によって俳諧に通じるように、一種、近世俳諧のパースペクティヴを思い起こさせる造作である。新興俳句・人間探求派の句に共通して感じられる性急さは見られず、大見栄を切るような悠揚たる響き(特に中七のごーん)とリズムで、実に読ませてくれる。〈俳〉の要素が前面に出る中で、しかし、倫理性が強く漂うのはなぜか。明瞭なコンテクストとして、第二次世界大戦での南島での戦死者を思い起こす、ということはある。にもかかわらず、その事実に対する倫理的判断をこの句は示してはいない。死者の怨念というかたちで自らの道徳性を投影することも注意深く避けられている。では反倫理としての倫理というポーズを私は読み取ったのか。繰り返し読んでいると、句の響きとリズムが伝える大らかさにこそ、不穏なものが漂うのを感じる。この句が描いているのは、戦争の死から遠く離れて、いかなる真剣さをもっても嘘くささを感じ/感じさせられてしまう私たちの視点だろう。ここでも諧謔=〈俳〉と〈詩〉の転倒があるように思われる。倫理的ポーズの不可能性の提示にこそ、単なる〈俳〉に堕さない〈詩〉がある。単純な〈俳〉が陥りがちな、不用意にもたれかかってしまったコンテクストを逆に強化してしまうことを、この〈詩〉こそが諧謔するのだ。ここまで来ると、近世俳諧の滑稽とこの句のそれがまったく異なる位相にあるものであるのは明瞭だ。

攝津の句に対して、次の池田澄子の句は強いコンテクストを一切欠いているように見える。代わりに、口語的な言い回しによって、現実的な主体が前面に押し出されている。

ピーマン切って中を明るくしてあげた  池田澄子

とは言え、ここで私たちが感じるのは、主体の限りない軽さに他ならない。「あげた」というのは一応、主体の決断だろうが、行為として現れるのはピーマンを切るという些細な所作、主体の存在を受け止めるイメージとしてもピーマンという頼りないものがいかにも頼りなく字余りで配置されているのみだ。「鰯雲人に告ぐべきことならず」に読まれるような、季語で示されるイメージの濃さと、それに対応して読者が読み込む(読み込んでしまう)「告ぐべきことならず」という判断の倫理的な深みに比べて、なんとも身も蓋もない。が一読のみであっても、どこか引っ掛かる句である。この引っ掛かりは、「切る」という暴力的な仕草と、「明るくしてあげた」というあっけらかんと投げっ放した言い回しのギャップから来る。読者は自分たちがどうしてもこの句に対して一読ほどこしてしまう軽い読みそのもののアレゴリーを、ここに感知するだろう。日常の安心感を梃子にして、一句の読みが私たちの視点をひっくり返すのである。この句を意外な発見の句であると〈詩〉の側からみるのは、その一面をしか見ないことである。その発見は「あげた」という擬人化によって〈俳〉を含み、日常に見られる〈詩〉という観念を解体する。〈詩〉と〈俳〉は私たちの読みの中で絡み合い、その対立性を脱臼させてゆく。

     *

俳句の〈詩〉と〈俳〉を巡って行ってきた考察であるが、最後にこの二つの概念を捨て去ることを提起してみたい。近世俳諧には不向きであり、現代の尖鋭な俳句においてもいささか綻びが見え始めた作業仮説である、思い切って別の方向へ踏み出すことが必要だろう。この論の始めに、「俳句は〈詩〉でも〈俳〉でもなく、〈俳〉による〈詩〉のアレゴリーだということに尽きる。別の言葉で言えば、〈詩〉は〈俳〉によるずらしの効果なくしては生まれず、また〈俳〉は〈詩〉に対するずらしの効果そのものとしてしか発現しないもの、ということだ」と書いた。この中で今私が強調したいのは、「アレゴリー」の一語である。少し理屈っぽくなるが、ワルター・ベンヤミンからポール・ド・マンに至る西洋の文芸批評で独特の意味合いを付されたこの語について解説したのち、より日本語としてこなれた表現へと移行を試みてみる。(次段落は文学理論を介した補足的解説になるので、不必要と思われる方は飛ばしていただいてかまわない。それでも重要な点は伝わるはずである。)

ロマン主義的思考に典型的な一つの普遍へと統合されるシンボル体系に対して、ベンヤミンがバロック悲劇に見出した「アレゴリー」の概念から見てみる。キリスト教の救済史という時間性を、堕落した現在時の空間において形象化すること、そうした世俗化のあらわれを大著『ドイツ悲劇の根源』のベンヤミンは神秘主義的思考と弁証法的思考の交錯点で「アレゴリー」としてとらえる。「アレゴリー」はシンボル体系のように統合的に全体を表示することがなく、絶えざるズレとして現れざるを得ない。それは絶対的救済という、通常考えられる直線時間とは異なった空間化不可能な時間性を敢えて空間化するという、不可能性自体の表示を同時に行っているからだ。ともあれ、ウェブ上にある山口裕之氏の論(注1)からいささか乱暴に抜き出させていただくと、ベンヤミンが捉えたのは「時間性の空間化としてのAllegorie」であるとまとめることが可能であろう。この「時間性」を「読むこと」の文脈に向けて、ある意味で一般化したのがポール・ド・マンである。土田知則氏によれば、ド・マンが「アレゴリー」(もしくは「読むことのアレゴリー」)と呼ぶのは、「ある一つのテクストのなかで、ある一つの比喩ないしは論理に基づいてなされる「読み」の行為が、その同じテクストに顔を覗かせるもう一つの別な比喩ないしは論理の働きによって根崩しにされ、脱構築されてしまうような「読み」のありよう」(注2)のことである。ある読みの期待が別の読みを誘発する要素によりなし崩しにされ、読みはそこで宙吊りにされる。ド・マンにとって重要なのは、この事態が言語表現にとって異常事態ではなくむしろ常態であり、本質的にレトリカルな領域である文学はこの事態をメインに据えた「読むことのアレゴリー」であるという点である。また、細見和之氏はベンヤミンの「アレゴリー」と、吉本隆明の言語論における「像」の類似性を指摘する(注3)。『言語において美とは何か』などで吉本が取り上げる言語の「像」とは、詩について通常語られる場合のある言葉があるイメージと結びつくことをではなく、むしろある言葉に対して個々人によって別々のイメージを思い浮かべてしまう事態を指す。別の言い方をすれば、言語が世界と背理的に成立することが生み出すズレであるわけだが、これは「アレゴリー」が多様な読みを喚起する、あるいは「読み」そのものであることと対応している。俳句におけるイメージとは、意味と不可分になったイメージがゆらぐことに他ならならず、これもまた「読むことのアレゴリー」に必然的な多重性のひとつの現われだろう。

和歌を純粋に「読む」ことから始めた連歌は、世界でも特殊性の高い文芸であろう。私はこれを、文学の(「読むことのアレゴリー」としての)不安定さを、共同的な場での「読む」という行為に回収しようとした試みとしてみたい。つまりそこでは個々の作品によって示されるか、あるいは批評として俯瞰して不安定さを捨象して記述されるところの「読み」を、「座」として実体化する。そのことで抽象・純粋化された美学(〈詩〉)を、「読み」(つまりレトリカルなもの=〈俳〉、現実的には修辞的に高度化し過ぎてしまった和歌)から救い出そうとする。ただしこの美学は実はレトリックの蓄積というそれ自体〈俳〉的なものに支えられており、実作としては絶えず招かざる「読み」を含まざるを得ない(発句において、初期連歌では「かな」切れが多用されたのに対し、次第に発句内での切れが、つまりレトリカルな重層化が図られたことを考えればよい)。蕉風俳諧は談林調として全面化した「読み」に対して、「俗語を正す」ことを目指すのだが、そこで現れたのは作品として示される「読み」そのものの高度化を進める方向である。発句がここに至って独立しうるようになったのは、和歌から連歌への過程で一度外在化された「読む」ことが再び内在化へと向かったからであろう。にもかかわらず、俳句形式の短さによって暗示、つまりアレゴリーとして示唆されるに留まり続ける。その結果、彼らの間では「読み」を実際の場面から抽象化し、場とは別に共有化されているように思える。(この辺り、不勉強なりにまとめようとしたが、実例での例証は力不足で省略せざるをえない。篤学の士のご批評・ご批判をいただければ幸いである。)

私としては、効果としての〈俳〉、構造としての「切れ」の問題は、俳句形式の短さのそれに、効果としての〈詩〉、俳句の外的・歴史的要件としての「切れ」の問題は、ここで示した「読み」のそれへと収斂させることができると考えたい。この視点は少なくとも、既成の枠組みを相対化し、また将来の俳句についての議論が本質主義的な信仰告白に堕するのを回避するのに役立つだろう。実を言えば、この一稿を書き始めたときに私が目論んでいたのは、二つの実践的結論を導き出すことであった。まず、俳句創作者にとっての作業仮説として、〈詩〉(外的価値体系の俳句内での写像)の歴史性を見極めつつ、その見極めを〈俳〉(俳句ジャンルの内在的・修辞的歴史)によってとらえ直す、というガイドラインを提示すること。もう一つは、将来の俳句の価値に関して、外的価値として扱われるものが、歴史(伝統)的な美的(あるいは真的)規範からどこまで一般化できるのかを測定することであった。しかしながら、この二点もまたアレゴリカルな関係にあり、相互に還元不可能でありながら、また同時に相互依存的である。特に前者について言えば、絶対的な一般化がなったところでは、価値は発生しない。とすれば、それに対する批評たる俳句の存在意義もなくなり、せいぜい泡沫的な幻想についての茶化しに堕するだろう。後者で考えていた一般化の度合いの測定は、ほぼ前者の枠組みを解体し、そのことによって価値についての問いそのものを解体する、そうした今現在を私たちは生きている以上、これらの「実践的結論」の射程はそれほど長くない・・・。ともあれ、俳句とはひとつの美を提示することではなく、絶えざる価値の脱臼を作品として図ることだと考えられるのだが、それがイメージできれば、これまでの論は私としては捨ててしまってもかまわない気がする。

注1 山口裕之「「弁証法的形象」としてのアレゴリー ――後期ベンヤミンの視点からの『ドイツ悲劇の根源』」1997年6月29日、阪神ドイツ文学会研究発表原稿
http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/yamaguci/publications/meetings/97/97_ben01.html
注2 土田知則「『読むことのアレゴリー』を読む」『千葉大学人文研究』第33号
http://mitizane.ll.chiba-u.jp/metadb/up/library1/jinbun_33_Tsuchida.PDF
注3 細見和之「吉本隆明とベンヤミン――言葉の〈根源〉をめざす、あてどなく突出したふたりの言語思想をめぐって」『現代思想 2008年8月臨時増刊号:総特集=吉本隆明 肯定の思想』(青土社、2008)pp.104-116.

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俳句〈詩〉性批判試論(前)・・・湊圭史   →読む

2 件のコメント:

さんのコメント...

湊さんの論考、たいへん興味深く拝見しました。
誤解を恐れずに言えば、文学の散文精神というのは、完全に外部(論理の枠づけ)から文学のもっとも内部(ほとんど肉体とふれあう観念領域ーカテゴリーの中心)に入ることの出来る批評の文体が必要なのではないでしょうか?(批評とはそういうものです)、それをさぐる文章化の過程は詩や俳句を(韻文)を作る創造の行為と、ほとんどおなじです。
そのようにスリリングな思考の存在のきざしを読ませていただきました。
れおなさんが、後書きにいうように、用語を理解するために特定の教養が必要になるので、「読み」についての貴下の文章を「読み」こなすことはなかなか辛いところがありますが、問題提起の現代性や重要さは承って自分の思索に取り入れる努力こそ、ぼけない秘訣だ、と思いました。寸感ですが、ひとこと。

湊圭史 さんのコメント...

吟さま
コメント、ありがとうございました。
そうですね。逆に言えば、詩・俳句作品には自閉的な実感やおざなりの修辞から打って出て、散文的論理にも対峙しさらには撹乱できるようなものを求めたい、というのが、普通の意味での読者としての実感でしょうか。近現代俳句には確かにそういう作品がある、と思うので興味をもっているのですが、それを語る語り口はもっと様々あってよいと感じております。
北の句会、今回は是非にと思っていたのですが、仕事のほうの研究会が同日に入り、叶いません。みなさんによろしくお伝えください。