■俳句〈詩〉性批判試論(前)
・・・湊圭史
俳句についてその詩性を云々する批評がある。曰く「詩の要素が強過ぎて俳句にならない」、また曰く「詩性に欠けるので俳句ではない」。この評価軸の両極を、「俳句は詩ではない」と、「俳句は詩である」という二つの断言が支えている。ここで私が問いたいのは、こうした評言において、〈詩〉として曖昧に、敢えて言あげすれば、悪しき抽象をもって語られている事態とは何なのか、というのがひとつ。もうひとつは、〈詩〉から分離して項目立てられている俳句、あるいは要素としての〈俳〉とは何なのか、これである。
言い換えれば、〈俳〉と〈詩〉の価値の分離はどこから出てくるか、をその根拠から問うことであり、俳句本来の価値(〈俳〉の場合は俳句独自の価値、〈詩〉の場合は詩ジャンル一般に共通する価値)なるものが存在するという誤謬を明らかにすることである。最後の点が、にも関わらず、「俳句は詩である」という一方の極の見解には決して至らないことを指摘することも重要となろう。
結論を先行してまとめておくと、俳句は〈詩〉でも〈俳〉でもなく、〈俳〉による〈詩〉のアレゴリーだということに尽きる。別の言葉で言えば、〈詩〉は〈俳〉によるずらしの効果なくしては生まれず、また〈俳〉は〈詩〉に対するずらしの効果そのものとしてしか顕現しない。〈詩〉と〈俳〉はそもそも相互依存において語られる他ないのである。このことを踏まえつつ、近代俳句には確かに有効性をもつこの二概念による批評の射程を検証することが本稿の目的である。
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まず前提として、近世俳諧と正岡子規による俳句革新を検討してみよう。ただし歴史的起源という意味では、ここに何ら〈詩〉を問う必然性がないことを明らかにするためである。むろん、近世俳諧であっても子規らの初期近代俳句であっても、そこに〈詩〉の所在をレトロスペクティヴに確認することは出来る。ただし、〈詩〉を近代以降の輸入概念として、そこから除外して考えることも等しく可能であり、近世俳諧独自の豊かさはそうしてこそ見える部分が大きいのは明らかだ。
鴬の身をさかさまに初音かな 宝井其角
ここに近代以降の〈詩〉を感取することは、かなりの無理を伴う。この句の価値は和歌から引き継いだ美学を転倒することをまさに美学的対象の最たるものである鶯の形象を通じて実現していることにあるし、またそれが分かれば〈詩〉がなくとも私たちの心は(何らかの意味で)動かされる。また、こうした観点から近世俳諧の豊かさ(あるいは貧しさ)を近代俳句に対して説く論者もあるかも知れないが、この「豊かさ(貧しさ)」は近代俳句に対して立てられた価値に過ぎない。端的に言えば、〈詩〉概念の隠された、アナクロニスティックな適用なのだ。また、近世俳諧の「貧しさ」からの脱却を狙ったかに見える子規の「客観写生」の教説も、〈詩〉という価値をもってこなければ理解不能なものではない。もっとも子規の連句からの発句の切り離しに、俳句を「文学」化しようというモチーフがあることは次のような一節に明示されている。
俳句は文学なり.連俳は文学に非ず,ゆえに論ぜざるのみ.連俳もとより文学の分子を有せざるに非らずといえども文学以外の分子をも併有するなり.しこうしてその文学の分子のみを論ぜんには発句をもって足れりとなす。(正岡子規「芭蕉雑談(明治二十八年)」)
だが、ここでの近代化=西洋化の一般化をコンテクストとして、子規の言う「文学」を〈詩〉と解することにも飛躍があろう。子規が俳句改革を目指したのは何よりもそこに〈詩〉一般に解消しえない価値を見出したからであろうし、それはまた一般的な「文学」に〈詩〉を(あるいはその逆に〈詩〉に「文学」を)還元することの不可能を理解していたことを意味している。いつの時代に対しても、〈詩〉や〈俳〉を云々することは個人的鑑賞のレベルでは自由であろう。ただし批評として必要とされるのは個々の句に感得される〈詩〉がいかなる歴史的文脈によるものかを検討すること、そして〈俳〉が〈詩〉に対していかなる戦略として立ち現れているかを問うことだ、とひとまずは言えるだろう。
ここであえてアナクロニスティックに〈詩〉概念を、時系列を遡って中世和歌から連歌、俳諧連歌を経ての俳句(俳諧)の成立に適用して見よう(一冊の本にも収まらないような大きな論点だが、ここでの主題ではないので簡略に記す)。連歌の始まりと興隆は、新古今和歌集周辺の和歌の美学の固定化と修辞の洗練の極において起こった。これを〈詩〉の過剰による和歌の解体と捉えてみる。一句の表現にかけられた過剰な〈詩〉の圧迫は、表現主体の極度の緊張を要する。後鳥羽上皇の周辺において、しきりに連歌が楽しまれたというのも、和歌が強いる〈詩〉をときほぐすことが必要だったからに違いない。そこでは一つの趣向を成立させるのに、「読み」の契機が導入される。いわゆる「付ける」と呼ばれる前後二句感の関係は、和歌の〈詩〉が「読み」として明示されたものである。ただし、この二句で示される趣向は「読み」によって、〈詩〉からのズレも孕み、さらなる書き継ぎを要請する。二句のみの短連歌が長大化する必然である。以降の連歌の様式の洗練は、「読み」の洗練であるが、ここで重要なのは、「読み」とは何か、である。この論の最後に扱う「アレゴリー」の概念にも関連するが、「読む」こととは書かれたテクストへのずらしの過程に他ならない。洗練化はしたがって、同じ〈詩〉のソースを用いる以上、そのジャンル内で「読み」のズレの価値を減ずる方向に働く。そこに連歌の歴史に常に伏在し、俳諧の連歌として顕示されるにいたった〈俳〉の要素への糸口がある。中世和歌美学、またそれを引き継いだ連歌の美学の捉え直し、読み直しが〈俳〉としてある種の転倒をもって結晶化したのである。しかし〈詩〉と〈俳〉は対立的に置かれるものではない。漢詩的教養を俗語として持ち込んだ松尾芭蕉や与謝蕪村にまで至れば、彼らの〈俳〉はむしろ、〈詩(和歌・連歌の美学)〉と〈詩(漢詩の美学)〉の間に発生する。
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では、俳句における、現在言われるような〈詩〉を現実的に問えるようになるのはいつからかとなると、「客観写生」と「花鳥諷詠」の癒着が成立した後、と答えてみたい。
甘草の芽のとびとびのひとならび 高野素十
この句と水原秋桜子による批判については、数え切れない論考が書かれてきただろうし、新しい観点をここで付け加える気はないが、論点を明確にするために私的にまとめて利用させていただく。秋桜子は「理想」を求める立場、あるいは「理想」と「写生」を二項対立的に見る立場からこの句とその背景にある「客観写生」への盲従を批判する。彼の言う「理想」に一般的な〈詩〉のイメージを見るのに無理はないだろう。また、この二項対立が立てられながら、それが素十の句に当てはめられるときに奇妙なねじれを発生させる点も注意に値する。多くの論者が指摘しているように、素十の句の価値は一見無造作な写生に見えながら、「と」と「の」の音をリズムよく配置し、甘草の芽の並び具合を感得させる点にある。秋桜子にとっては描かれる意味から〈詩〉が捉えられていたのに対して、素十の句では内在的な音価として〈詩〉が実現されているというに過ぎない。あえてここで〈詩〉と呼んでみたのは、秋桜子にしろ素十にしろ、俳句が他の価値体系とのアレゴリカルな関係を抜きにして、純粋価値を生むということを疑がっていないからだ。ここでの論に必要なのもほぼその一点につきる。そこで、その根拠は何かと考えてみると、俳句的な「歳時記」の成立という現実的な事情があろう。これが、俳句が俳句のみで価値をなす幻想を抱き始める瞬間である。そこにおいて近代俳句における俳句的価値なるものが抽象され、〈俳〉と〈詩〉という問いが生み出されたのだ。
秋桜子はそこから「歳時記」的価値へ撤退する道しか見いだせなかったが、「歳時記」がそれを抽象化可能なまでに実現した俳句の〈詩〉的価値を実現する方向として、新興俳句と呼ばれるムーヴメントが立ち上がる。無季俳句を一つの旗印として、次のような句によって切り開かれた地平とはどのようなものか。
しんしんと肺碧きまで海のたび 篠原鳳作
広島や卵食ふ時口ひらく 西東三鬼
これらの句が印象的なのは、何よりもまずその身体感覚の鮮やかさによる。生と死の暗示もまたその通用性に寄与しているだろう。肺という内部と海という外部が感性的に結び付けられる「しんしんと」の句はもちろん、広島が示唆する圧倒的な死のエネルギーを、卵を食う口という映像的メタファーでもって生へと取り返す三鬼の力技も、実存的にして一般的な身体の発見に支えられなければ意義をもたない。身体という視座、生という価値の不安定さそのものがこれらの句の魅力であるように思える。
頭の中で白い夏野となつてゐる 高屋窓秋
となると、身体は徹底的に抽象化され、外界と等価な自己内面の実現、「夏野となる」ことのバックグラウンドに定着しているかに見える。しかしこの句の面白味はむしろ、身体は絶対的根拠ではなく、その欠如のアレゴリーでしかありえないことの示唆、それが生み出す宙吊り感覚にあることを見なければならない。以上三句に登場する身体は、「内」と「外」の関係そのものであり、そこにこれらの句の魅力である実存的不安が生じる余地が生まれる。「内」にも「外」にも還元できない差異性を句として成り立たせることが、実存的な手触りとしての世界(〈詩〉)への通路を開きつつ、それをいわゆる世界へと固着しないことを可能にしているのだ。〈俳〉と〈詩〉が一句のうちで渾然一体となった、危うい境地をここに見ることができる。
一方、「歳時記」的価値を抽象化の方向ではなく、リテラルな(唯名論的[ノミナル]な、というべきだろうか)方向へと展開したのが、人間探求派として括られる俳人たちの作品であろう。彼らに最も顕著な手法は、季語と独白を無媒介(俳句というメディア、を除いてであるが)に結合することである。
「歳時記」的価値を体現した季語に、近代的自我の煩悶をぶつけることで、いかなる意味でも対応のない二項のあいだに関係が生まれる。あるいは、そのように見える。しかし、ヒキガエルの形象や生態が、家父長制と近代主義との軋轢によって生まれる一家の長男の煩悶のメタファーになりうるとしても、その読みは「歳時記」的価値によって支えられる上五と、以降の中七・下五の俳句という定型によって促されるものに他ならない。このパターンが近世俳諧にはないものであることに留意して、次の句を見てみよう。
鰯雲人に告ぐべきことならず 加藤楸邨
一見、告白の不可能を表現しているようで、まさに告白という近代的な制度を告白することに成功している。「告ぐべきことならず」によって、上五に据えられた「鰯雲」とこの独白の関係を問うことを読者はあらかじめ禁じられる。しかしこの禁止によってこそ、読者は「告ぐべき」ではないことの内容ではなく、その理由のみを無根拠に納得させられてしまう仕組みになっている。草田男の句にも共通だが、新興俳句と違って、人間探求派の〈詩〉は句そのものの措辞の中には現れない。むしろ現れないことによって、「読むことのアレゴリー」を成立せしむる点に特異性があるのだ。もう一人の人間探求派である波郷作品はどうだろう。
たばしるや鵙叫喚す胸形変 石田波郷
「胸形変」の造語が印象的、かつ、句の構造としても前の二句とは比べものにならないほど複雑である。「たばしるや」と投げ出された、何を形容するのか分からない主観的把握は、新興俳句的な不安定な身体性の提示も含んでいるように見える。しかしながら秋の季語「鵙」と、切迫した病状の個性的把握を結びつけるのは、右に述べた「読むことのアレゴリー」のパターンであろう。三句ともに、詩性(内面)と季題(外面)の差を一挙に埋めるパフォーマティヴな配列にこれらの句の与えるカタルシスの鍵がある、とまとめて、次にこの技法の歴史性を考えてみよう。一つには、季語・季題がそれ自体価値として認められる一種の「内面化」を経たことがあり、また一方では「内面」が広く共有されたという近代主義的前提がある。読者はこれらの句に対面して、近代俳句イデオロギーの前提に基づいて、自分がまさに読みつつあることを「告白」という形で受け入れるのである。
私見では、これら新興俳句と人間探求派の二傾向が近現代俳句のオーソドクシーを成しているように思われる。またそのことが俳句を豊かにしてきた、近代という時代性に対して俳句形式が持ち得る視座を十分に生かし切っていると信頼してよいように思われる。しかしそれはこの二傾向が普遍的な俳句の姿である、ということでは決してない。新興俳句と人間探求派が相互に還元することが不可能なかたちで並立し、現代の読み手にも相等しく意義を持ち続けているということ自体、状況に対する戦略としての手法がひとつの時代においてさえ単一のものに規定できるわけではないことを告げている。今の時点から顧みてどちらかを選ぶのは自由だが、それは個人的嗜好の域を出ない。先ほど、「近代という時代性」ということを言った。これは言語表現においては、身体性にせよ、精神的内面性にせよ、個人を基準として捉える枠組みの中にあると言えるだろう。社会的軋轢によって個人が圧迫されている場合でも変わらない、というよりも、個人は外界との対によってのみ基準点の意味をもちうるものだ。見解の様々な違いはあれ、社会あるいは自然と関係する普遍的個人というイデオロギーが文芸における近代である。新興俳句・人間探求派について、その近代性を否定することは不可能だろう。
(次号につづく)
1 件のコメント:
湊圭史様
〈俳句を書くということが何かについての「読み」としてしか成立しないということであり、またその読みを「アレゴリー」として示す運命にある、ということである。幾重にも折りたたまれた「読み」が一句としてまず成り立った後にしか、構造的な「切れ」にしろ、“詩”と“俳”という属性にしろ、俳句的問題として読みとられることはない。〉――俳句を「書く」ことをめぐってのこの颯爽たる裁断、とりわけ「アレゴリー」の概念は難解ですが、その点はその概念の説明がある後編にゆずるとして、こうした視点に立っての其角・素十以下の具体的な作品の読みの鋭さをまず堪能しました。俳人による読み解きとは全く異なる抽象度の高い、それでいてきっちり作品に即してもいるこのような鑑賞ははじめて読みます。安井浩司の『声前一句』ともまた違うし……。
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