■俳句九十九折(5)
1970年代から1980年代前半
・・・冨田拓也
A 前回、昭和40年代の「龍太・澄雄の時代」、「存在の時代」(安井浩司、飯島晴子、阿部完市、河原枇杷男、折笠美秋など)から昭和50年代あたりに「高柳重信の影響下に出発したニューウェーヴ」(坪内稔典、攝津幸彦、沢好摩、宇多喜代子、仁平勝、夏石番矢、林桂)の登場という流れをみてきました。
B その前回の内容について髙山れおなさんからなかなか厳しいお達しというか、課題を頂戴しました。〈重信サイドからばかりでなく、角川書店なども含め包括的な記述がなされなくてはならないと思います。〉とのことで、当然、俳句史を炙り出すなら様々な角度からの偏りのない視座が必要となりますね。あと、坪内稔典、攝津幸彦、沢好摩、宇多喜代子、仁平勝、夏石番矢、林桂、江里昭彦あたりの軌跡や成果、そしてその役割などについても今後しっかりと検討される必要があるでしょう。
A しかしながら、多くの資料を博捜、渉猟し、読み込み、そこから重要と思われる裁断すべき箇所を摘出し、客観的に検討、再構成を行うという作業はちょっと一朝一夕には不可能ですね。資料の有無といった点だけでも個人ではどうしても限界があります。そういった深い部分への踏み込みの不備は今後に残された課題となりそうです。
B とりあえずここでは、あくまでも俳句史の「あらすじ」を辿っていくということになります。その上で今後、必要に応じて適宜、修正や補填を加えていくことにしましょう。
A では、前回の続きです。
B 現代詩手帖特集版『飯田龍太の時代』(思潮社)所載の坪内稔典さんの「龍太との距離」に〈敗戦直後には、第二芸術と呼ばれて蔑まれた俳句だったが、高度経済成長期を経たころ、俳句は空前のブームになった。ことに、多くの女性たちが俳句を作るようになった。男ばかりで、やや穀潰しの集まりみたいだった俳句界が急に明るく華やかになった。その時代の大スターが龍太であった〉という文章があります。
A この「龍太・澄雄の時代」といわれる時期というのは随分長いみたいですが、どれくらい続くのですか?
B これがよくわかりません。平成4年(1992)の「雲母」終刊までなのか。平成19年(2007)に龍太が亡くなるまでなのか。それとも現在もまだ「飯田龍太の時代」なのでしょうか。齋藤慎爾さんに『飯田龍太の時代』で〈「飯田龍太の時代」と個人名が使われて話題になった例は俳句史ではあまりないですね。「4Sの時代」だとか、「人間探求派の時代」だとかは言われましたが。でも七〇年くらいからか個人名が使われて「飯田龍太の時代」と喧伝されました。だから一人の俳人の名前でその時代が象徴されるということは、大変な意味があると思う。龍太さんが亡くなったときも、他ジャンルからの反応が大きかった。詩人の中村稔さんなんかは「毎日新聞」に「巨星去る」とコメントされた。一つの時代の終わりだと岡井隆さんも言っていました。〉という発言があります。
A 1978年(昭和53)に角川書店から『飯田龍太読本』が刊行(ちなみに1979年には『森澄雄読本』が刊行)されていますし、『新編飯田龍太読本』(角川書店)が1990年(平成2年)にも刊行され、最近の2006年には『飯田龍太全集』(角川書店)が、そして、2007年6月にも現代詩手帖特集版『飯田龍太の時代』が刊行されているわけですから長きにわたって飯田龍太が多くの人々の関心を集めてきたということは間違いのないところでしょう。
B 「鬣」の24号に林桂さんの「僕らは「飯田龍太の時代」の子だろうか」という題で〈正直に言って、戦後俳句を、そして自分の生きている俳句状況を「飯田龍太の時代」だと思ったことは一度もない。〉〈消された「飯田蛇笏の時代」を俳句の中央に呼び戻すという意味では龍太の仕事は必要であると思うが、龍太が同時代において俳句表現の開拓者であったとは思ったことがないからだ。この時代の俳句の言葉は、社会幻想に根ざす金子兜太と個人幻想に根ざす高柳重信の言葉の降り幅に収まってしまい、飯田龍太や森澄雄の言葉も例外ではないと考えている。〉という文章を書いておられます。
A 滅多に出てこない意見でしょうね。誰も口にしないというか。できないというか。林さんのこの意見を単純に肯ってしまっていいのか私にはわかりませんが、筑紫磐井さんにも1994年に『飯田龍太の彼方へ』(深夜叢書社)があり、龍太作品についてはそれを神格化してしまうのではなく、作品そのものへの直截な批評、検討がもっとなされてもいいはずだと思います。
B ただ龍太も澄雄も前衛俳句の影響を受けていたことは作品をみれば間違いのないところでしょう。龍太の〈きさらぎは薄闇を去る眼のごとし〉や澄雄の〈磧にて白桃むけば水過ぎゆく〉などは単なる伝統的な技法のみに拠って生み出された句ではないはずです。
A もっとすごい意見があって、小西甚一は『俳句の世界』(講談社学術文庫 1995年)で、加藤楸邨、中村草田男、石田波郷を昭和15年(1940)においてすでに将来を確実に期待される花形であったという事実を述べた上で、〈四十年間にわたり、右の三人に比べられる程度の新人が、ひとりも出なかった〉と書いています。
B こういった意見はどこまで真に受けていいんでしょうね。昭和15年(1940)から40年ということは昭和55年(1980)までということです。小西甚一は去年2007年に逝去。おそらくこの考えは終生変わらなかったのではないでしょうか。これをそのまま信じるなら、昭和15年(1940)から現在の平成20年(2008)まで68年間もの長きにわたって俳句の世界には新人が出なかったということになります。
A 正直なところ、私にはなんともいえませんね。この68年もの間、俳句には何もなかったとはさすがに思えませんが。
B まあ、それはさておき(でいいのでしょうか?)、その「龍太・澄雄の時代」といわれるようになった高度経済成長期あたりから俳句界を牽引してきた「戦後派俳人」たちの展開力が徐々に失われてくるようです。これは有馬朗人さんのいうところによると世界的な状況とリンクしているとのこと。〈この高度発展社会における自我の主張は、やがて世界的な大学紛争へ導いた。一九六〇年代の終わりは不思議な時代であった。アメリカはヴェトナム戦争、中国は文化大革命等それぞれ固有の原因を持ちながら、殆ど同じ頃世界中で若者の反乱が起った。そしてすべての国でこの反乱は何等の改革を生み出さず、それを契機として保守化が行われた、その動きに追い打ちを掛けたのが一九七三年のオイルショックであった。
赤尾兜子の句集「玄玄」は一九七四,五年の「液雨」から始まる。その始めの五句は、
唇疲れては炎の肩を衝く
二巨船の間をとびて老ゆ夏鴉
颱風に線路越えゆく犬ばかり
穂芒は少女の腋に靡きつつ
狗も眼を細め精霊蜻蛉とぶ
である。第一句を除いては有季定型である。一方、一九七四年に刊行された金子兜太氏の「早春展墓」も、
あおい熊釧路裏街立ちん坊
で始まるあおい熊五句、
骨の鮭アイヌ三人水わたる
で始まる五句が巻頭にあり、どれも有季定型である。この年、兜太氏五十五歳で日本銀行を定年退職、赤尾兜子氏は四十九歳で鬱病症に悩まされていた。
さてこのような二人の有季定型回帰をどう見たらよいであろうか。年齢のせいであろうか。私はそうは思わない。上述のように世界的保守化の影響であったのである。この流れは今日に至るまで続いていて、この二人のみならずきわめて多くの俳人、詩人の伝統への回帰現象が見られるのである。〉「ファッションとしての前衛」(1986年)
A うーん、なんとなくこの文章から小澤實さんの
さらしくぢら人類すでに黄昏れて
という句を思い出してしまいますね。すでに「なにか」が終わってしまった感じというか。「近代」そのものがすでに行き詰ってしまった感じというか。ちなみに小澤さんのこの句は昭和52年~昭和54年ごろの作です。
B この時代の雰囲気を的確に言い止めた虚無的な句なのかもしれません。
A 飯島晴子も『現代俳句を学ぶ』(有斐閣 昭和53年)で〈俳壇では、最近の二十年間にほとんど何事も起こらなかったし、当分、起こる見込みもないということになる。〉〈結局、何らかの理由で、何となく生き残った人たちが、これからの俳壇を構成することになるのだろう。そのような状況だと、生き残るには才能よりも、むしろ他の事情が大きくはたらく。俳壇的に生き残ってそれ相当の待遇をうけ、倦まずたゆまず俳句をつくって長生きすれば、時には良い俳句がつくれる――俳句形式にはそのような一面もあるらしいのである。〉と、なんとも身も蓋もないことを書いています。
B うーん……。
A この世界的な保守化の中で、赤尾兜子や金子兜太だけでなく、鈴木六林男も
天上も淋しからんに燕子花
といった日本的な美意識に近い虚無的な句を書き、高柳重信も「山川蝉夫」という変名で、
山は即ち水と思へば蟬時雨
というようなそれまでの多行形式ではない一行形式の句を書き始め、橋間石も『和栲』あたりから前衛的な手法が影をひそめ、理解しやすい内容になってゆきます。
B 小林恭二さんも当時のことを〈僕が俳句を主に書いたのは、昭和五十年代のはじめだったが、何によらず前衛の書き方の方が高度で、お手本になった覚えがある。
それが、五十年半ばあたりから様相がかわってくる。成熟期に入ったはずの前衛俳句が動脈硬化をおこす。理由は分からない。強いて探せば、当初のフロンティアが開拓されつくされた結果、新たな句材の発見が困難になったことが挙げられようか。〉と『実用青春俳句講座』(ちくま文庫)に書いておられます。
A 前衛的な俳句だけでなく、伝統派の飯田龍太にしても昭和44年作の〈一月の川一月の谷の中〉について、坪内稔典さんに「俳句の原型」(1982年)で〈形式の力だけで成立した句、つまり俳句の原型だけを示した句〉であり、〈<戦後俳句>を担ってきた俳人たちが、形式の原型を志向するようになったとき、<戦後俳句>の未知への展開力は消えた〉と厳しく指摘されます。
B 単に龍太のみではなく〈戦後俳句を担ってきた俳人たち〉への批判ですね。
A そういった状況の中で赤尾兜子が1981年(昭和56年)に亡くなります。鉄道事故でしたが、自殺なのか事故なのか、いまだにその真相はよくわからないそうです。
B しかしながら、この赤尾兜子の「伝統回帰」といわれた時期の句集である『歳華集』、そして『玄玄』には俳句表現を突き詰めていった結果獲得するに到った単なる時流を超えた普遍性が生起しているような気がします。現在これらの句を読んでも示唆されるところは少なくないのではないでしょうか。単なる「伝統」でも「前衛」でもない、そういった偏頗な枠組みを超越した、裸の詩魂の閃きと独自で強靭なポエジーの発露がここには認められると思います。現在の俳人の作にはおよそみられない精神の実存への厳しい肉迫を印象付けるこれらの作品はいまこそ読み返される必要があるのではないでしょうか。この作者にはもう少し生き存えて作品を書き継いでもらいたかったという思いにさせられます。
春疾風万の昆虫のかがやく針
花から雪へ砧うち合う境なし
軍の影鯛焼しぐれてゆくごとし
帰り花鶴折るうちに折り殺す
神々いつより生肉嫌う桃の花
数々のものに離れて額の花
ぬれ髪のまま寝てゆめの通草かな
鞍馬夕月花著莪に佇つつらき人
空鬱々さくらは白く走るかな
大雷雨鬱王と会うあさの夢
葛掘れば荒宅まぼろしの中にあり
春雷や千年を組む像の指
雲の上に雲流れゐむ残り菊
狼のごとく消えにし昔かな
さしいれて手足つめたき花野かな
絵馬の馬うしろに懸る春の月
さらばこそ雪中の鳰として
心中にひらく雪景また鬼景
ゆめ二つ全く違ふ蕗のたう
A こういった作品を見ると、「動脈硬化」といわれた「前衛俳句」にも別の「出口」があったのではないかという気もします。単純な「伝統」の価値観に回収されてしまうことなく、「前衛」の八方破れにも陥らない方向性というか。
B まあ、永田耕衣、鈴木六林男、佐藤鬼房、三橋敏雄、橋間石、安井浩司あたりはそういった方向でそれぞれの成果をあげたとはいえるでしょう。
A そしてその後の1983年、前回に見たように草田男、修司、重信が亡くなるわけです。このあたりの時代を年表にすると、
1972年(昭和47年) 山頭火ブーム 『定本山頭火全集』全7巻 角川書店『現代俳句大系』全12巻刊行開始 飯島晴子『蕨手』 福永耕二『鳥語』 飯田龍太『無数の眼』 金子兜太『暗緑地誌』 三橋鷹女没
1973年(昭和48年) オイルショック 「俳句研究」で「五十句競作」開始 牧羊社から総合誌「俳句とエッセイ」創刊 『定本高浜虚子全集』刊行開始 草間時彦『伝統の終末』 森澄雄『浮鷗』 三橋敏雄『真神』 富安風生『年の花』 中谷寛章没 句集刊行ブーム 論争不毛の時代といわれる
1974年(昭和49年) 細見綾子『伎芸天』 阿部完市『にもつは絵馬』 安井浩司『阿父學』 川崎展宏『高浜虚子』 高柳重信『バベルの塔』
1975年(昭和50年) 角川源義没 角川春樹が角川書店を継承 飯田龍太『山の木』 『金子兜太全句集』 赤尾兜子『歳華集』 鈴木六林男『桜島』 寺山修
司『花粉航海』 中村苑子『水妖詞館』 『渡辺白泉句集』 俳人が増加し俳句人口一千万人とも
1976年(昭和51年) 高野素十没 堀井春一郎没 攝津幸彦『鳥子』 飯島晴子『朱田』 稲畑汀子『汀子句集』 坪内稔典「現代俳句」創刊
1977年(昭和52年) 秋元不死男没 森澄雄『鯉素』 飯田龍太『涼夜』 立風書房より『現代俳句全集』全6巻刊行開始
1978年(昭和53年) 沢好摩「未定」創刊 『飯田龍太読本』(角川書店) 坪内稔典『過渡の詩』 村山古郷『明治俳壇史』 三谷昭没 「狩」創刊
「軽み」論
1979年(昭和54年) 『森澄雄読本』(角川書店) 三橋敏雄『鷓鴣』 高柳重信『日本海軍』 斎藤玄『雁道』 高浜年尾没 富安風生没 京極杞陽没
1980年(昭和55年) 福永耕二没 齋藤玄没 攝津幸彦「豈」創刊 福永耕二『踏歌』 宇多喜代子『りらの木』 飯島晴子『春の蔵』 『高浜虚子全俳句
集』全2巻 村山古郷『大正俳壇史』 角川書店『現代俳句大系』増補版
1981年(昭和56年) 赤尾兜子没 水原秋櫻子没 河出書房『現代俳句集成』全19巻刊行開始 角川春樹『カエサルの地』
1982年(昭和57年) 大野林火没 田中裕明角川俳句賞受賞 角川春樹『信長の首』
1983年(昭和58年) 寺山修司没 中村草田男没 高柳重信没 橋間石『和栲』 平畑静塔『俳人格』角川春樹『流され王』 夏石番矢『猟常記』『俳句のポエティック』 和田耕三郎『水瓶座』
1984年(昭和59年) 四季出版から総合誌「俳句四季」創刊 本阿弥書店から総合誌「俳壇」創刊 朝日文庫『現代俳句の世界』全16巻刊行開始 草間時彦『私説・現代俳句』 折笠美秋『虎嘯記』 角川春樹『補陀落の径』 坪内稔典『落花落日』 辻桃子『桃』 林桂『黄昏の薔薇』 今井聖『北限』 皆吉司『火事物語』 星野立子没 「晨」創刊
1985年(昭和60年) 「俳句研究」が売却され休刊 11月角川グループの富士見書房より「俳句研究」創刊 長谷川櫂『古志』 田中裕明『花間一壷』 大木あまり『火のいろに』 角川春樹『猿田彦』 村山古郷『昭和俳壇史』
ということになるわけです。俄拵えのため色々と不備な点が多いでしょうが。こういった年表は今後もう少し拡大して作成したいと思います。
B まさしくいままで見てきた「龍太・澄雄の時代」、「存在の時代」、「ニューウェーブの登場」といった感じですね。やはりこの年表を見るとこの時代には種々様々な俳句が存在していたことがわかります。まさしく俳句の多様化の時代です。
A あと、これをみると、虚子の再評価の気運が高まってくるのもこの時期のようです。1973年(昭和48年)の『定本高浜虚子全集』、1980年(昭和55年)の『高浜虚子全俳句集』、1974年(昭和49年)の川崎展宏『高浜虚子』、そして藤田湘子が1978年(昭和53年)の「俳句」に評論「愚昧論ノート」を、1981年(昭和56年)に同じく「俳句」で「愚昧論ノート」の続編とも言える「俳句以前のこと」を連載し虚子俳句の再評価を行います。
B 1975年(昭和50年)あたりから「俳句人口一千万人」説があるということは「俳句ブーム」の兆しがすでにこのあたりから始まっているようです。1980年代後半ごろから1990年代初頭が「バブル経済」といわれますからこの流れをみていると高度経済成長からバブルという狂乱へとまっしぐらに向かっていく感がありますね。このあたりから俳句はさらにブームとなり大衆化されてゆくようです。1984年の「俳句四季」、「俳壇」の創刊といった総合誌の増加がそのことを物語っています。
A 藤田湘子が「俳句」平成10年(1998)10月号の「俳句ブームは終わった」という座談会で、「俳句ブーム」について〈ブームの先走り、前駆的な事柄、事象は、やはり家庭電化だと思うのです。ブームの主役はみんな女性でしたからね。口火を切ったのは家庭電化でしょう。〉〈女性が男性より多くなってきたのが四十年代ですよ。四十年代の初めに第二次電化ブームが来る。〉〈そして決定的に増えるのは五十年代に入ってからのカルチャーブームです。〉と発言しています。こうみると電化製品の普及により家事から解放された女性たちの存在が俳句ブームに大きく関与しているようです、
B 俳句は経済と深い関係にあるんですね。
A 正木ゆう子さんも〈社会的には、三十年代の終わりに〉〈豊かさと便利さが当然のこととなり、〉〈便利さは家庭の主婦たちの余暇を作り出したので、俳句人口が女性を中心に増大した。四十五年に、「杉」「草苑」「沖」の三誌の創刊が重なっているのは象徴的だ。
以前、角川俳句賞の歴代の受賞作を通読していて、ちょうど四十五年あたりで、作品の風といったものが変化しているのを感じたことがある。つまり、それまで労働を詠んだせっぱつまったと言っていい作の多かった受賞作に、作品主義の優雅さが混じり始めたのである。〉と書いておられます。
B 江里昭彦さんは俳句ブームについて〈角川書店の「俳句」年鑑のバックナンバーの厚みを逐年的に観察すれば一目瞭然である。七〇年代まではまだ薄かった年鑑が、八〇年代に入ると徐々に分厚くなっていく。俳句ブームが喧伝されるのはその頃である。〉〈八〇年代、俳句はビジネスになった。もちろんそれ以前からビジネスの性格をもってはいたが、市場の規模(つまり読者層)が比較的小さかったので、文芸という別の性格に覆われて、かかる側面がさほど目立たなかったのである。
だが、ブームの到来で空前の変動が押し寄せ、俳壇をゆさぶり、それまでの流儀をおおきく変えてゆく。角川の「俳句」と重信の「俳句研究」とが対抗的に競うというわかりやすい構図は終わりを告げた。俳句商業誌がいくつか創刊され、積極的に自費出版で句集をだす動きが加速し、新聞の俳句欄はますます投句で賑わうようになっ
た。
それだけではない、結社の記念行事、俳句団体の大会、各種の祝賀会などは高級ホテルで開催するのが通例となり、しかも回数が増えたので、俳句ビジネスの裾野のひ
ろがりはこうした領域にも及んでいったのである。〉と書いておられます。
A 結局「俳句ブーム」というのは高度経済成長期である1970年代から藤田湘子が〈俳句ブームは終わった〉と宣言した1998年あたりまでということになるのでしょうか。
B こういったものは期間が何時から何時までとははっきりと明示できないものなのでしょう。ただ、藤田湘子が〈俳句ブームは終わった〉と発言したのはバブルの崩壊後ですから、一応「俳句ブーム」はおおよそこの期間内の現象ということになるのではないでしょうか。
A 筑紫磐井さんがこのころについて「天為」200号で〈私が俳句を始めたのは、昭和四十六,七年〉〈昔の時代に俳句に入って、それから、大きく変わってきたところを、自分たちの目で見ているような世代に当たるんじゃないか〉〈たとえばその後、キャッチフレーズになった「結社の時代」とかですね、「俳句って楽しい」とか、そういうフレーズができてくる前の時代に我々は俳句を始めたという気がしています。〉〈大衆化と、ある俳句の本質論みたいなところとすれ違っていくような時代を実体験した〉とし、〈俳句の見方、スタンダード〉が変わってきたのは〈昭和五十年代から五十五年くらいが、その潮目がよく現れた時期〉ではないかと発言されています。また筑紫磐井さんは『大西時夫句集』(2001年 邑書林)の栞文「本意崩し」で〈俳句が文学的可能性を持たなくなり始めたのは昭和五十年年代後半に入ってからである。着々とその傾向は実践され、今日俳句の文学性をいう作家は影をひそめた。〉と書いておられます。どうやらこの時期に俳句の質的な転換が起こったようです。
B そしてこのあたりの時期に角川春樹が登場します。驚くべきことに昭和58年(1981)の第一句集『カエサルの地』から毎年句集を刊行しています。
A 坪内稔典さんが『現代俳句ハンドブック』で〈春樹の急激な俳壇への登場は「事件」であった。山本健吉などの熱烈な支持、雑誌「俳句研究」の角川書店による買収、相次ぐ句集の刊行などが、それまでの俳壇的常識を越えており、事件として好奇的に見られたのだ。〉と書いておられます。
B 小林恭二さんも『実用青春俳句講座』で〈昭和五十年代の俳壇において、メルクマークな事項を二つあげるならば、前衛俳句の後退と角川春樹の登場だった。〉〈五十年代半ばあたりから〉〈成熟期に入ったはずの前衛俳句が動脈硬化をおこす。〉〈角川春樹が登場したのはこのころである。〉〈俳壇は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。それは彼の登場の仕方がショッキングだったことにもよるが、それよりも何よりも彼が近代俳句が忘れていた言霊の力を、なんら装飾することなく提示したからに他ならない。それは多くの俳人にとって、ほとんど恐怖をよびおこすほどのインパクトだった。〉と書いておられます。
A 角川春樹の作品を第一句集の『カエサルの地』から『猿田彦』までをみてみましょう。
カエサルの地 1981年
黒き蝶ゴッホの耳を殺ぎに来る
晩夏光ナイフとなりて家を出づ
信長の首 1982年
瞑れば紅梅墨を滴らす
向日葵や信長の首斬り落とす
流され王 1983年
歳晩やかりがね色の佛たち
流されてたましひ鳥となり帰る
いにしへの花の奈落の中に坐す
十一の一面くらき炎天下
補陀落の径 1984年
雁過ぎて田のがらあきに湖の國
睡りても大音響の櫻かな
猿田彦 1985年
末枯れて鏡ひとつの祠かな
高千穂の春田の中に猿田彦
B 平井照敏は『現代の俳句』(1993年 講談社学術文庫)の「現代俳句の行方」に〈俳壇に突如登場し、新しい爆弾を破裂させるかと期待させた角川春樹が、毎年刊行した句集の一冊ごとに急速に伝統俳句化し、観衆をあっけにとらせた〉と書いておられます。
A 確かにだんだん伝統的になっていくようですね。あと先ほどの小林恭二さんの文章は1987,1988年の時に書かれたものなので、いくつかの部分についてはある程度客観的に読んだ方がいいのかもしれません。
B また小林恭二さんは〈角川春樹の登場は俳壇に新鮮な衝撃を与えたが、意外なことに彼の跡を継ぐ俳人はあらわれなかった。理由としては、彼の句風が何よりもその強力な個性に与るところ大であり、真似るに真似られるものではなかったことによろう。〉と書いておられます。
A そしてこの時期に、岸本尚毅、長谷川櫂、小澤實、田中裕明あたりの若者たちが登場を始めるわけですね。再び小林恭二さんの文章を引きましょう。
そして昭和六十年代。若手俳人が一斉に台頭した。
彼等はいわば、真空状態に登場した。
B 以下、次回に続きます。
俳人の言葉 第5回
結果的には兜子選の最後の句の中の一句「見尽くして花野は花のまぼろしか」に喜んで下さりながらも「こんな句を書いてゆくと貴女もしんどいよ」と心配して下さった。その頃兜子の宿阿の病が進んでいる時でもあった。この兜子の言葉にこれから書いてゆくであろう自分の俳句に対する覚悟を決めたのである。
昭和五十六年春、いつも通り教室のあとでお茶を飲み、阪急の改札口で別れた兜子は、その後二度と私達の前にあの淋しそうな笑顔を見せることはなかった。
柿本多映 「兜子との出会い」より
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■関連記事
俳句九十九折(1)・・・冨田拓也 →読む
俳句九十九折(2)・・・冨田拓也 →読む
俳句九十九折(3)・・・冨田拓也 →読む
俳句九十九折(4)・・・冨田拓也 →読む
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2 件のコメント:
はじめまして、毎週腰を据えて読ませていただいております。久留島と申します。こちらの記事はどれも刺激的で面白いのですが、なかでも冨田さんの連載の問題意識が私自身と重なっていて興味深く思っております。
特に、先週はドキリとしました。実は先日、高柳重信について書けと依頼され、50句競作を中心に書いてしまったのです。私は小林恭二の著作でこの企画について知って興味を覚えたのですが、草稿執筆時には前後の俳句研究と重信全集しか読んでいなかったので、今、慌てて手直しさせてもらっています。
諸事情により雑誌掲載は遅れるということでしたので何とかこちらと重複しないようにしたいのですが。
いや、それにしても比較的年齢の近い冨田さんが、同様に「編集長」重信の影響に興味を抱かれていることを知り、心強い限りです。今後とも連載楽しませていただきますので、ご教示願えれば幸いですm(_ _)m。
久留島さん
コメントありがとうございます。
私と年齢の近い方と問題意識が重なっているとのことで嬉しく思いました。
いまでも高柳重信について書くように依頼するような俳誌があるんですね。
私の文章は重信の一面を捉えたものでしかありません。
内容は別にある程度重複してもかまわないと思いますよ。
久留島さんの文章が俳誌が掲載されたら、こちらに転載されるといいかもしれません。
是非、拝読したいところです。
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