2008年9月27日土曜日

時評風に(安土多架志/作品番号6)・・・筑紫磐井

時評風に(安土多架志/作品番号6)

                    ・・・筑紫磐井

『二水』や『蜃気楼』の出る少し前に安土多架志(あづちたかし)の第一句集『未来』が刊行されている。安土の句集も、第一で終わっているが、猪村や武藤とは少し事情が違っていた。上梓直後、安土はなくなっていたからである。句集の紹介に入る前に安土がどんな作家だったかを語っておこう。

安土多架志、本名は小田至臣。見るからに信長のイメージを芬々とさせる本名と筆名だ。昭和21年11月8日、京都に生まれ、高槻高校を経て(このとき同学年に攝津幸彦がいる。国語の教師は茨城和生)、同志社大学神学部に入学、70年安保の闘争に参加する。大学卒業後、香料会社に勤務するが、その会社で組合を組織し、組合不信を抱きつつ勝利のない闘争に邁進する。昭和58年、ガンが見つかり、不屈の精神力で闘病するも昭和59年8月23日帰天。享年38歳であった。彼の精神力がいかにすさまじかったかは、組合活動の理論化のために中央大学法学部通信教育課程で学習を始めていたのだが、闘病中に、熱に浮かされながらも400字詰め150枚の「生産管理の合法性」という卒論をまとめていたことだ。

こうした硬派の歩みを取りながらも、不思議な脇道をたどる。昭和50年からサンケイ学園蒲田教室の加藤楸邨の俳句教室に通いはじめるのだ。さらに、短歌、俳句作品を多くの雑誌・新聞投稿欄に投稿する、少し古い作家(私と同世代)ならば高柳重信編集「俳句研究」の50句競作に安土の名前を見たことを記憶する人も多いはずだ。昭和59年8月にはこれらを、歌集『壮年』(書肆季節社)、句集『未来』(皆美社)としてまとめている。学生闘争、組合運動、カルチャー教室、新聞投稿作家。何とも形容の難しい作家であった。

陽炎へばわれに未来のある如し
しづかなるゆふべのいのりいととんぼ
花野行きて道失せしとき赤電話
百科事典ほど静まれり夏の森
ひらかなでわが名呼ばるる浴衣かな
女学生集まりをれり毛虫ちぢむ


第1句は句集巻頭にあるが、意味はよく考えなければならない。我々は誰もみな自分に未来があるはずだと思っている。したがってこの句のような「如し」の使用は虚字であり、オーバーであり、初心者の陥りやすい甘い句と見えてしまう。しかし、安土は昭和58年2月に不治の病の宣告を受けており、様々な治療を試みつつあった、その最後に近い時期に詠まれたのがこの句であった。4ヶ月後に安土はなくなる。だから安土に未来はないのであり、それゆえに陽炎という幻惑の素によって「未来のある如」く感じられたことに対して素朴に驚きを感じたのである。

なくなる1ヶ月前に、安土はその伴侶と句集の相談をし、句集名を『未来』と決め、巻頭にこの句をおいた。あとがきで安土は、句集上梓に当たって仲間の好意の結集によってこの本が出来たことを喜びつつ「この好意に対して今の私は、何ひとつ報いることができないが、いつの日か報いることのできる日が来ることを念じてゐる」と書いた。二人の視線も、読者のそれも、未来を向いている。たぶん、あり得ない未来を。

      *      *

これに対して、歌集『壮年』はもっと直接的である。昭和54年から58年までの入選歌800首からえらばれた586首は安土の思想そのものであるといってよいであろう。

止まりたる時計の如き思想とも言はば言へわれは「今」を肯(うべな)はぬ
暴力を美(は)しとも思ふ夕映の映ゆくわれはつねに負けゐて
悲しみの腹より湧く日マルクスをわが読みゐたり強くなりたい
キスしてもいいか氷雨の降り続く街は淋しい息絶えんほど
きらきらと雨の雫の落つる窓寒き光と思ひて見をり
厚き皮膚持ちて滅びざるもの疎ましシーラカンスもホモ・サピエンスも


しかし安土の最も有名な歌はこの歌集本編には載っていない。最後の後記にひっそりと書かれている。

グリューネヴァルト磔刑の基督(キリスト)を見をり末期癌(ステージ・フォー)われも磔刑

   ――――何、負けるものか。きつとよくなる。

安土は短歌、俳句に先立って詩を書いていたらしいから(膨大な作品群があったというが散逸してしまった)、こうした思想性のある短歌への移行はまだそれほど不思議ではないかも知れない。歌集『壮年』1巻を読んだ印象は、詩集を読んだ印象とそう遠くないのだ。しかし、俳句はそうはいかないように思える。『未来』の読後感が、『壮年』と重なるのはその夭折への哀惜だけではないか。そんな危惧に対して、安土は次のように答える。安土の最後の文章(「HEALER」)であり、その中に俳句と短歌が詠み込まれている。

あたたかき冬芽にふれて旅心
異国人われの上にも聖夜の灯
HEALERの屋根に蝶舞ふ冬の朝
待降やポインセチアに遊ぶ蝶
生きて戻る可能性無きにあらずと言ふ汝に肯(うなず)き再入院す
早朝の聖鐘響く松の町密かに祈り心湧きをり
HEALERの助手と少しの会話せりこの国のインフレのことなど
HEALERの祈りの中のわれの名をややときめきて聴いてをりけり


「昨年はつらい年だったけれども、考へてみるとまた不思議な経験の連続でもあった。
2月に腸閉塞といふことで手術をしたら、実はとんでもない病気であることがわかり、しかも手遅れであった。
「手当」といふ言葉のもともとの意味が手を当てるといふことであり、また「手術」といふ言葉は手の術と書くのだという単純なことを身をもって思い知ることになったのは、まさしく近代医療から見放されたお蔭であった。」


安土はフィリピンで、麻酔も消毒もせず器具も使わす手だけで手術をするHEALERの施術を受けるのである。私の手元には「今治療のためにフィリピンに来てゐます。ここBagioはフィリピンで一番寒いところださうですが、クリスマス・シーズンでも春の陽気で蝶々が飛んでゐます。」という、フィリピンから来た安土の明るいグリーティングカードが残っている。

「今、ぼくはこのまま回復に向かふかどうかわからないけれども、殆ど不可能と思はれてゐた新年を迎へることが出来たことがうれしい。ここまで延命することが出来たのは勿論、ぼくの力ではない。とても報ひることの出来ない多くの力を多くの人から戴いたのだと感じてゐる。わづかな経験であったかも知れないが、この世界もまた人の心といる世界も、以前のぼくが知ってゐたよりもはるかに大きくて、驚くべき事がいっぱいあるのだと思った。」

短歌と俳句と安土の生活がだんだん収束して行く様がうかがえるように思う。亡くなるまで、あと6ヶ月である。

安土の資料が現在入手可能かをネットで調べてみた。歌集『壮年』は古書店でも若干扱われているようだが、句集『未来』はこんな本があることすら知られていない。そんな調べをしているうちに不思議な雑誌に目がとまった。「虚無思想研究」第6号(昭和60年6月)に「小特集・安土多架志遺稿」が組まれていた。安土の追悼特集はたぶんこの雑誌が唯一ではなかったか。「「反戦」について少々」という文章と「ミネルヴァの梟」と題した短歌50首なのだが、なんといっても虚無思想研究とは安土の追悼特集にふさわしい場であった。(9.24)

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