2008年10月19日日曜日

「澤」2008年7月号を読む(5)見えてゐる水の音―田中裕明第二句集『花間一壺』・・・中村安伸

「澤」2008年7月号を読む(5)
見えてゐる水の音
―田中裕明第二句集『花間一壺』

                       ・・・中村安伸

田中裕明の第二句集のタイトル『花間一壺』は「かかんいつこ」と読む。集中におさめられた作品からとられたものではなく、李白の詩「月下獨酌」の「花間一壺酒」から来ている。句集の題を記した扉をめくると、ページ下方に小さな活字で詩の全文が印刷されているのだから、それは明らかなことなのだ。

しかし、「花間一壺酒」と「花間一壺」は全く違うものである。前者が表示するものはあくまで「酒」であり、「一壺」は、一杯、一掬というのと同様、壺にいっぱいという酒の量をあらわすものであるが、後者は「酒」の一文字を省くことによってモノとしての壺がクローズアップされている。

花、といっても唐の時代の中国であるから、桜ではなく桃や李であろうか。盛りの花の間にまぎれるようにして一つの壺が置かれているという景の幻惑的な美しさ。酒の一文字を切り離すことで、どっしりとした存在感のあるタイトルを作り出した裕明の見事な言語感覚を想う。

鳥の戀本の名を決めかねてゐる

という句の「本」がこの句集をさすのかどうかはわからないが、そのように逡巡しながら句集名を考えたのだろうか、などと想像するのも楽しい。上五の「鳥の戀」という語は大屋達治の句集『繍鸞』(昭和57年)や『絢鸞』(昭和60年)の「鸞」の字を思わせもするのだが。「澤」2008年7月号の田中裕明特集においては、この『花間一壺』について、田中亜美、森下秋露という二人の評者がとりあげている。

「天上の一献 ―田中裕明『花間一壺』を読む」というタイトルでこの句集を論評している田中亜美も、この題名には拘りを持っているようだ。彼女は記事中にこの李白の詩を、石川忠久氏の解題を引くかたちで紹介している。そして同じ「酒のみ」としての共感を李白を通して裕明に感じているようだ。しかしながら私は、月と影を友にして一人で酒を飲むという詩人の姿から、同特集の島田牙城氏の記事中にあった「裕明の一人プロレス」という、奇怪にしてほほえましくもあるエピソードを連想してしまった。

この句集を読んでみて感じるのは、非常に多様な傾向の試みが行われていることである。それでいて作為というか、試行の痕が表に出てくる感じがなく、どの句も完成度の高いものと感じられるのである。

このような多様な挑戦への意欲は、俳句形式への慣れによる余裕からくるものであろうか、あるいは最年少で受賞した「角川俳句賞」による自信から来るものであろうか?

先週とりあげた第一句集『山信』では、裕明が急速に俳句形式に「慣れて」ゆく様子を見て取ることができたが、この『花間一壺』では、その形式を十分に乗りこなしていると同時に、乗りこなすことへの喜びに満ち溢れているという感じがする。どの作品からも、形式と作者が一体となって躍動していることが感じられる。

賞について言えば、これは俳人には限るまいが、芸術表現を行うものは、自分の進んでいる方向に関しての疑念とつねに戦っているのではないか。結社にいれば主宰を師として信仰することによって、その疑念から解消されることもできるだろうし、読者からの評価などもまた、疑念をやわらげてくれる一助となるに違いない。

権威ある賞を、しかも誰よりも若く受賞したということは、自分の才能と努力の方向性についての確信とともに、俳句の主流という大きな流れのなかに自分自身が存在することを確固として認識することにもなるだろう。

 *

さて、いささか表面的な見方だが『花間一壺』にあらわれた多様な試みの例としては、以下のようなものがあると感じた。

1.異世界(過去、古い時代)への移行、遡行

2.自在な音韻の構成

3.新奇な比喩の活用

4.独特な造語や古語の挿入

5.本歌取り

6.とりあわせ

これらについて、以下に例をあげながら『花間一壺』の世界を俯瞰してみたい。

1.の例としては次の句があげられるだろうか。

夕東風につれだちてくる佛師たち

これは2.の音韻の問題にもかかかわってくるのだが「夕東風」「つれだち」「佛師たち」という脚韻のように
「ち」音を重ねて、たゆたうような優しい調べが生まれている。裕明の認識が空間を越えたひろがりを持つことは、たとえば『山信』では〈大学も葵祭のきのふけふ〉があり『花間一壺』では〈渚にて金澤のこと菊のこと〉があるが、「夕東風に」の句において、裕明の想像力は時代を超え、幻想の翼をひろげているのである。

ちなみに「渚にて」の句であるが、波打ち際における回想的な会話を断片としてとらえたものであろう。「菊」という音が「聞く」あるいは「聴く」に通じること、そして渚に打ち寄せる波のリズムを感じることで、話
者たちのなにげない情感を、言外に漂わせている。


2.については、この特集において中岡毅雄が「十七音の錬金術師 ―田中裕明と波多野爽波」という記事で詳述しているところである。また、田中亜美や森下秋露も『花間一壺』にみられているいくつかの事例に触れている。私もいくつか例をあげてみたい。

逢ふときはいつも雨なる青胡桃

見えてゐる水の音を聞く実梅かな

餅搗や燃えつきし枝もちあるく


これらは、中岡の文中に引かれている四ッ谷龍の言葉によると「句頭韻」の顕著な例である。ことに三句めは、上五の「もちつき」の音が、中七に「も」え「つき」、下五に「もち」あるく、というかたちでちりばめられているという、見事なアクロバット句なのである。それゆえに、この句の内容には若干の無理を生じているともいえる。

「燃えつきし枝」というのは灰になってしまった枝であろうが、その形をとどめたまま「もちあるく」ことはできない。しかし、この矛盾しているともとれるフレーズが、不思議な詩的感興をもたらすことも事実なのだ。そのナンセンスな感覚は前衛俳句のそれに近いと思われる。裕明もこの感覚を面白いと感じたからこそこれを句集に収めたのであろう。

裕明にせよ、岸本尚毅、大屋達治、長谷川櫂といった人たちにせよ「ニューウェーブ」に数えられた伝統俳句系の俳人たちはみな、前衛俳句の影響を色濃く受けているようである。

前衛俳句の影響という点で言うなら、一句全体が作者の内面世界の隠喩になっている作品として、次の句がことに印象的である。

この入江もつとも暗き踊の夜

「踊」の明るさと「入江」の暗さのコントラストが明快すぎると言えばいえるだろうが、単に海などとせず「入江」という語から、岬によって大切なもののようにかき抱かれている漆黒の海水面を想起させる。


3.についても驚かされる例が少なくない。

葡萄いろの空とおもひし貝割菜

薄闇へ湯をこぼしゆく櫻かな


シュールレアリスム的な幻想のように受け取れるが、どちらも写生の手法を基盤にしてたどりついたものなのだろう。手法はともかく、このような詩情へ到達するためには、裕明自身の生来の繊細さに加え、伝統俳句、前衛俳句双方の過去の作品たちによって開拓された言語感覚の豊富さを必要とするだろう。


4.についてはそれほど多くはないが以下を例としてあげてよいだろうか。

葭切のむかしごゑなる没日かな

この句の「むかしごゑ」は、造語といえるかどうかは微妙であるが、すくなくとも一般的な語ではない。しかし、この作品のなかにおいては「葭切」「没日」という二つの確固とした背景をもつ語に支えられ、安定している。


5.の「本歌取り」についても例は多いとはいえないが、以下のようなものがある。

茶の花のほろと夕日や人も惜し

これは言うまでもなく「百人一首」におさめられている後鳥羽院の〈人もをし人もうらめしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は〉の本歌取りである。閑寂とした景と淡い人恋しさを述べながら、昔の為政者の悲憤をも遠く連想させるという、見事なポリフォニーである。


6.の「とりあわせ」は、単なる試みということではなく、この句集以降の裕明を特徴付ける最も重要な要素となるものなのである。

集中の白眉としてのみならず、田中裕明の、ひいては現代俳句作品史上に残る名品として人口に膾炙しつづけている以下の二句はその代表例であろう。

雪舟は多くのこらず秋螢

悉く全集にあり衣被


どちらの作品も下五に季語をとりあわせているのだが、上五、中七で断言的に述べられている概念を形象化するようなベクトルの取り合わせとなっている。上五中七の概念そのものが力強く美しいことはもちろんだが、とりあわせられた二者の関係が、交換不可能なほど絶妙であるにもかかわらず、その接続が意識上になく無意識の経路をたどっているため、説明不可能なのである。

この、交換不可能にして説明不可能なとりあわせの感覚こそ、裕明の獲得したトレードマークであり、それはこの句集において顕著なものなのである。

他にも例をあげると、

青芒月光村をひろくせり

これはどちらかというと実景に納まるとりあわせだと思うが、中七下五の展開が魅力的である。

鋭きものを恐るる病ひ更衣

こちらは現代的なオブセッションを古典的世界につながりのある語ととりあわせるという、やや図式の勝った詩的実験とも考えられる。

とりあわせの句と言えるかどうか微妙だが、現代的感性と古典的美意識の融合ということについては、以下が秀逸であろう。

転居後のひとりあるきの良夜かな

田中亜美も記事中にて『花間一壺』におけるとりあわせに着目している。彼女は私が「比喩」の項目でとりあげた「葡萄いろの空」の句とともに、以下の句をとりあげている。

穴惑ばらの刺繍を身につけて

この句を田中亜美は〈蛇の網目模様をばらの刺繍とする繊細な形容〉としている。この鑑賞は非常に面白いのだが、やはり一次的な解釈としては「ばらの刺繍」を身につけているのは作中主体、もしくは作中主体が目の前にしている女性ということになるだろう。その上で彼女の解釈を連想として取り入れるのが、私には適当と思われる。

裕明のとりあわせはなんらかのフレーズを、季語ととりあわせるという形がほとんどである。一個の強いフレーズに一語で対応するためには、豊富な連想力をそなえた季語が適切であるということであろう。ただし、読者の季語に対する認識の程度によって、句の読みが深くも浅くもなってしまうという問題点がある。裕明が「ゆう」という結社を主宰し、仲間を育ててゆこうとした理由のひとつは、このようなところにあったのかもしれない、と思った。

さてこの特集では、裕明の「とりあわせ」について、仁平勝が「「写生」神話の終焉 ―田中裕明俳句の史的意義」と題した記事のテーマとして取り扱っている。

ここで仁平は「写生」というものを信仰の対象、あるいはイデオロギーであるとし、それを「取合せ」によって打破したことが、田中裕明の俳句の「史的意義」であるとしている。

しかしながら裕明は、結社の指導者として「写生」ということを非常に重要視していた。虚子にしても爽波にしても、指導のための言葉と、自身の作句態度との間に矛盾があるというのは珍しいことでもないが、裕明の場合は自身の作句においても写生を基盤にしていたように思える。

「写生」というものについての検討は、まだ十分にはなされていないと思う。仁平の記事中にあるうような「写生至上主義者」と呼べるような人たちにとっての写生と、裕明の考えていた「写生」には明らかなズレがあると感じる。

私は先日、佐藤文香句集『海藻標本』を読むというシリーズにおいて、次のように書いた。

たとえば「客観写生」を私はつぎのような手法であると解釈している。
対象を――まるで主体と切り離されたものであるかのように――凝視する。そのようにして対象が主体の内面世界とシンクロする瞬間を待ち、言語を用いて固定するのである。


上記は私の解釈であるが、写生の出発点に「対象を見つめる」ということがあるのは一般的な共通認識としてよいであろう。問題はそれをいかにして作品に定着させるか、ということである。

「写生至上主義者」たちは、作品が対象の範囲を超えることを容認しないように思える。つまり作品を対象に従属させるという姿勢なのであるが、それは本末転倒であり、作品が主で対象が従でなければならない。つまり対象は作品の材料として利用され、出来あがった作品が結果として事実を裏切っていたとしてもかまわないと思う。

対象を見つめるうちに、自分の側にある常識や先入観をとりはらう、という過程こそ写生という手法の肝なのであり、そのようにしてあらわれた「物のみえたる光」を、そのまま一句へと昇華させることも可能であろうし、別の光ととりあわせることによって、複雑な反射面をもつ多面体を仕上げることも可能であるはずだ。おそらく裕明にとっての「写生」とは、あらゆる手法の基盤となるものだったのだろう。

仁平は以下のように述べている。

わたしたちはもう「写生」というイデオロギー用語を捨てて、こんどは取合せという俳諧的技法による効果を、新しい批評用語で語らなければならない。

後半部分に異存はないものの「写生」もまた、捨てるべき概念ではなく、新しい批評用語で語りなおすことにより、その本来の姿を再認識してゆく必要があるものだと思う。

 *

当特集で森下秋露は「壺の中の清水 ―句集『花間一壺』を読む」と題して、裕明の集中の作品に水に関連しているものが多いことを指摘し、以下のように記事を結んでいる。

裕明の『花間一壺』には、こんこんと湧き出る清水が湛えられていた。この清水は、裕明のあふれる才能であり、作品世界であり、裕明そのものであった。

『易経』では流れる水を「水」とし、とどまる水を「澤」として区別しているのであるが『花間一壺』の裕明の句にとりあつかわれている水は、圧倒的に流れる「水」が多い。

森下の挙げている中から殊に印象深い句をあげてみる。

覚めてすぐ近き水音をとこへし

見えてゐる水の音を聴く実梅かな


どちらも流れる水の音を描いている。二句目は句頭韻の代表例としてもとりあげたものである。水を見ながらその音を聴くということは、一見当たり前の行為のように思えるが、この句を読んでいて、見えている水と聞こえている水は同じものなのだろうか、という問いがふと頭をよぎった。同じであるという答えと同じでないという答えがせめぎあいながらいつしか水音のように心地よい調べとなって、流れさってしまった。

田中裕明という人は水のような柔軟さと豊かさをそなえつつ、やや性急に流れ去ってしまったのかもしれないが、その清らかな水をふんだんに掬い取っておさめたもののひとつが、この『花間一壺』という、どっしりとした、それでいて可憐な風情の壺であることを思う。

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