2008年10月12日日曜日

「澤」2008年7月号を読む(4) みづうみ白く―田中裕明手書きの第一句集『山信』・・・中村安伸

「澤」2008年7月号を読む(4)
みづうみ白く
―田中裕明手書きの第一句集『山信』

                       ・・・中村安伸

今回4回目を迎える「澤」の田中裕明特集に関する連載であるが、全体の構成というものをまったく考えず、書きたいトピックを順不同で取り上げているような次第である。手直しする機会があれば、順序を含めて再考する必要があるだろう。

そういう意味では、今回とりあげる内容は、本来なら第一回でやっておくべきことだったかもしれない。

「澤」田中裕明特集号の冒頭には、彼のスナップ写真や遺墨、直筆の葉書、句稿などが掲載されている。掲載順序との整合性をとろうというわけではないが、「澤」の編集者がこれらを同誌冒頭に置いたことと、私がこれを最初にとりあげるべきだったと考えることの理由はおそらく共通しているだろう。

写真はもちろんだが、文字というものは、それを書いた人物の像を直接に表示、伝達するものである。ここで言うのは表記される言葉ではなく、文字そのもののことである。

昨今、仕事や日常生活で他人の直筆文字を見る機会が減ってしまったが、句会によく出る俳人なら、清記などで他の俳人の文字を目にすることが多いだろう。そうした場において文字は、どうしても書いた人物と結びつけて記憶されてしまう。さらには、その人物の性格、作品の印象などが上乗せされてゆくのである。だからこそ句会には清記というプロセスが必要だとも言える。

また一方で、これは個人的な事柄でまことに恐縮だが、妻を目の前にして、直接会話などをしているとき以上に、彼女が書いた文字をふと目にしたとき、息苦しいような恋慕の情にかられて狼狽してしまったことがある。「以上に」という言い方には語弊があるかもしれないが、ともかく、書かれた文字を見ることによって、その人と直接に相対するのとは異なる純粋さで、思わずも本性に触れてしまうということがあるのではないだろうか。

そこに書かれている「言葉」には関係なく、むしろ投函を頼まれた手紙の宛名書や、買い物メモなどのような、どうでも良いような内容の文字においてこそ、そのようなことが起こりやすい気もする。

話はとぶがコンピュータの場合、日本語の文字は2バイト、すなわち16桁の二進数であらわされる。そのように小さなデータで文字の姿が表現できるわけではない。文字形のデータは別に保管されており、それを呼び出すためのコードの長さが2バイトということである。すなわち2の16乗、約6万種類の文字を呼び出すことができるというわけである。

入力や日本語変換などにはまた別のアルゴリズムが用意されているのであるが、文字の表示という点については、手作業で選ぶかコンピュータが自動的に選ぶかの違いで、原理は印刷の活字と同じである。

活字が普及することによって、文字は誰が書いたものでも「同じ」であるという概念が浸透したのかもしれない。欧米にはタイプライターが古くから普及しており、やや違った事情があったかもしれないが、私の幼い頃、日常生活において活字は現在ほど一般化されたものではなかった。もちろん読む文字はほとんどが活字だが、書く文字として活字を用いるということは珍しかったのである。

ちなみに私の家には和文タイプライターというものがあった。まな板くらいの平面にびっしりと敷き詰められた細かな文字を、小さな銃眼のようなものでひとつひとつ選びとってゆく。そしてレバーを押して印字するのだが、それにもコツが必要だった。今思うとアレを操るのは凄い労力だったと思う。

小学校の文集はボールペンでガリ版みたいな原紙に手書きしたものを、藁半紙に印刷した謄写版だったし、高校の文芸部の冊子に自分の小説やら詩やら俳句(!)が活字で掲載されたときの気持は、なんとも言いようのない気持ちよさと気持ち悪さだった。

その頃にはNECのPC9800シリーズと一太郎というワープロソフト、あるいはシャープの書院や富士通のオアシスといったワープロ専用機が普及してきており、一般家庭の日常的な場面にも活字が浸透しはじめていたのではあるが。

手書きの文字というものは、同じ字であっても書き手によって全く違う姿形があり、太さ、大きさ、筆圧など個別の差異がある。それだけですさまじい情報量なので、読むときにはそれらの過大な情報に気をとられず、書かれている言葉のほうに集中する必要があるのだ。逆に言うと活字による文章は、手書き文字が持つ豊かな表現力を放棄するかわりに、本来の情報伝達という目的には近道なのである。

 *  *

さて話題を「澤」7月号に戻すが、裕明の直筆はがきに続いて掲載されいているのが、この特集のなかでも特に目玉といえる、田中裕明第一句集『山信』の復刻版である。まず「復刻 句集『山信』」と印刷された扉のページがあり、それを開くと右側のページに、刊行年月日や、サイズ、用紙等に関する詳細なデータが紹介されている。

そこで、この句集が、裕明二十歳の誕生日を祝って書かれたこと、そしてわずか十部が印刷、刊行されたということなどがわかる。田中裕明の第一句集が京大生協のコピー機でわずか十部印刷されたものであったというのはよく知られた伝説だが、その実物がどのようなものだったか、ほぼ忠実に復元されたものを見ることが出来るという、実に貴重なものであある。

その左側のページに印刷されているのが、復刻された『山信』の表紙である。題字が四角い罫線で囲まれているのは、実際には厚紙の表紙に別の紙を貼り付けたものであったようだ。

文字はすべて、俳句作品のみならず、題字、目次からあとがき、奥付にいたるまで、ページ番号を含めてすべて毛筆によって書かれている。奥付を囲む罫線は、定規を使って毛筆でひかれたもののようだ。

底本となったのは、小澤實に贈られたもので「限定十部ノ内第十番」という文字が奥付にある。

さて、この復刻版を読んでの第一印象は「読みにくい」ということである。作品や体裁の良し悪しを言うのではなく、まずは直筆の句集そのものの宿命ということであろう。手書き文字にまとわりついている情報量は、さまざまな伝説的逸話や、多くの作品、さらにそれらについてのさまざまな論評などによってふくれあがってしまている。それらをかきわけて、作品そのものにたどり着くには、それなりの集中力を求められるのである。

もちろん、手書き文字によって与えられるさまざまなニュアンスを楽しむことが出来るという意味では、豊かな読書体験を与えてくれるとも言うことができるのではある。

裕明の文字の印象は、いわゆる「達筆」というのではないが、バランスがとれていて整っている。とくに『山信』の文字は全体的に曲線的で、女性的、可憐な印象がある。幼さを感じさせるところもあるが、乱れは無い。はじめのほうには毛筆に慣れない感じがあるが、書いているうちに徐々にこなれていく感じが見て取れる。作品もまた年代別に並べられていて、俳句をはじめた裕明がすみやかにその形式になじんでゆく様子とシンクロしているようでもある。

それは、師の爽波が「若くして老成」と言ったという、みずみずしく新鮮でありながら、一切の乱れや崩れを孕まない裕明俳句の特徴とも通じ合うものであろう。

 *  *

「澤」誌上にてこの『山信』について論評しているのが、青蛙の号で若年の頃から裕明と行をともにしてきた上田善紀、そして私同様田中裕明とは面識がないと思われる、若手の日下野由季、藤田哲史という三人である。それぞれの稿に沿いつつ、『山信』の世界を巡ってみよう。

上田の『山信』評は、やや不器用ではあるが、当時の裕明の言や句集に収められなかった若い頃の佳作を拾うなど、同行者としての責務を果たそうとする誠実さを感じるものである。

この橋は父が作りし蟬しぐれ

この句をめぐっての、裕明とのやりとりなどは興味深いものである。

「この句、ほんま(実話)」と訊く私に少しく自慢げな表情で「そうです」と彼はこたえました。

橋という精緻な構造物を手ずから作った父を誇りに思う気持ち、またそのような気質、才能を自らも受け継いでいることへの自負、後の〈空へゆく階段のなし稲の花〉などの句へとつながる技術への関心が見て取れる。

一方、上田は〈峰雲や熊野は海の大鴉〉という当時の句を裕明が封印したことについて憾みに思っているようである。しかしこの句の姿は実に立派なものではあるが、裕明の作品としてはやや観念的な比喩によりかかったものであり、抹消されて当然であっただろう。


日下野由季はどちらかというと「ポエミー」な感受性を発揮し、若き裕明の繊細な詩的表現に共鳴している。

「見者」という概念を持ち出し、裕明にあてはめようとしているのだが、その説明が十分であるとは言い難い。また、おのおのの作品についての読解も、ふわりとした印象を決まり文句にはめ込んだものが多くて、自分が獲得した言葉で語るということが、いまひとつ徹底されていないと感じる。

作品を選び取る力――秀吟などと言わず「好きな句」と呼ぶところに好感――や、作品の醸し出す空気に共感する力がすぐれているだけに、もうすこし力強い批評の言葉があれば、と思うのだが。

そんな彼女が「集中の白眉」と賞賛するのが

夏の旅みづうみ白くあらはれし

である。この句について日下野は以下のように書いている。

なによりもこの「みづうみ」が現実の風景でありながらも、作者の心象をも象徴しているのが大きな魅力である。

確かにそうなのだろう。たとえば高屋窓秋の〈頭の中で白い夏野となつてゐる〉をイメージしても良いが、この句の「白く」という措辞は、光の過剰が一瞬、すべての感覚を奪ってしまうというような様子をとらえていると思う。しかしそれは一瞬の出来事であり、かるい麻痺の余韻を残しながらも、旅はつづく。


藤田哲史は『山信』発刊当時の裕明との年齢、境遇の近さ――二人とも十代で俳句に手を染めており、裕明は京大、藤田は東大のそれぞれ自然科学系の学部に在籍している(いた)――もあり、共感以上の気持ちを抱いているように見える。

藤田は次のように記している。

なぜ『山信』の俳句がこんなにも親しくまた懐かしいのか、と思いを巡らせれば、それは同じ大学生の目で、私よりもずっと世界を捉えているから。

藤田が裕明に対して「私よりもずっと世界を捉えている」と感じたとしたら、それは両者の資質がその性格を異にするからであろう。また藤田は『山信』のもつ空気を「ゆったりとした生活を送る大学生の空気」ととらえる。それはやはり彼ならではの把握なのだろう。

裕明の世界を見る目、対象を凝視する目について藤田は次のように書いている。

執拗に対象の真意を抜き出そうと対象を追っていくのではなく、あくまで少し距離を置き、対象とその対象の存在する周囲の世界を捉えようとする。

確かに裕明の把握は、つねにソフトフォーカスの傾向があり『山信』においてもその傾向はあきらかである。

藤田は「特に気になる句」として以下をあげている、これは日下野も「夏の旅」と並んで重んじているものである。

大学も葵祭のきのふけふ

藤田はこの句について〈ここに物はない。しかし「大学」「葵祭」を観念的な言葉と呼ぶには、広がりと穏やかさがある。〉と記している。広がりのある観念、穏やかな観念というものもあるだろうが、それはともかく、「写生」という言葉からは、輪郭のくっきりした、手で触れることのできる「モノ」を描くことをイメージしがちであって、この句に描かれているような広大な空間、長めの時間は、そのスケールの大きさゆえにモノではなく観念、概念に近いものとして感じ取られてしまうだろう。「大学」も「葵祭」も物と観念の中間のような語ではある。

この句に書かれているのは――「きのふけふ」と書いてはいるが――いわば一瞬の「気分」であり、ぼんやりしているとすぐに消え去ってしまうような揮発性の心象なのだ。

さて藤田もすこしばかり触れている『山信』の印象的なあとがきであるが。その後半は以下のようなものだ。

山だより。
山ごころ。海ごころ。
集名は秋暁の夢にありました。


ここに『山信』という、謎めいた句集名について書かれている。「信」は手紙のことであり、裕明は「山だより」と解題しているのであるが、それは山において書かれた手紙だというのだろうか。

裕明はこの語を夢から拾ってきたものだとして、あくまで朦朧とさせるのであるが、それは奇妙に説得力のある説明でもある。この態度は、裕明がモノを見るときのソフトフォーカスにも通じているだろう。

後年磨かれてゆく独自のとりあわせの技法にも感じられることであるが、裕明の作品には、俳句という小さな容量の言葉を用いて、巨大な空間を現出させようという意図が感じられものが多い。

裕明本人の意識にはなかったことだろうが、『山信』を山からの手紙として、自身を「山」に投影していると思うのは、無理すぎる解釈だろうか?

『山信』を読みながら感じるのは、おさめられた作品たちが、未熟でありながら完成している、という矛盾である。これは爽波の「若くして老成」という評言の矛盾に通じるものであろう。かれの手書き文字の印象がまた、それを傍証しているのでもある。そして、その拠るところは彼のすぐれたバランス感覚であると、まずは言えるかもしれない。

さきに私は彼の文字を「女性的」としたが、むしろ中性的というか、性別という特殊性を超越した文字であるともいえる。

バランス感覚とひと口に言っても、バランスをとる対象の狭さ、広さがあり、たとえば文字で言うなら一文字のバランス、一行のバランス、紙全体のバランス、さらには書物全体のバランスというレベルがあるだろう。

裕明のバランス感覚は狭いレベルから非常に広いレベルまでを包含するものであり、そのあたりが彼の作品の「巨大な平明さ」を生み出してゆく源泉となったのかもしれない。

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