2008年10月18日土曜日

予告編風に(番外) 筑紫磐井

予告編風に(番外)

                       ・・・筑紫磐井

豈weeklyの開始に当り、高山れおな氏は、現在、俳句は読まれないと言った。しかし、俳句に関する評論は、更に読まれないはずだ、読まれないことを前提に書かれるとは何かを考えるべきだろう。高山氏は以前、読まれないということについて私の『近代定型の論理』を引いて、筑紫はなかば読まれないためにこそ書いている(「図書新聞」2004年5月1日号)といっているが、彼の言うとおり読まれない評論があるとすれば、その実践者である私にも一言述べる資格がありそうだ。

「豈」という雑誌も、読まれるために刊行されている雑誌ではないようだ。聞くところによると、「豈」を丹念に読んでいる同人は少ないらしい。かつて同人だった橋本七尾子氏は、こうした同人を評して、「豈」の光景はパチンコ屋の眺めに似ている、隣の人には目もくれず、台に向かって一心不乱、眼を血走らせて孤独な作業に励む一匹狼の群れである、と評した(「豈」15号。「豈」同人だった人が言うのだから正しいだろう)。この状態が攝津亡き後の現在、どれほど変わっているであろうか。とすれば、読まれないことを前提に書かれるとは「豈」の伝統であるようだ。

翻って考えると、<同人誌>自身が、読まれないことを前提に書かれた雑誌であるはずだ。結社誌育ちの軟弱な作家や評論家と違うことは、確実に読まれないと確信しつつ、不撓不屈の精神(どこかの相撲取りが使っていたような言葉だが)で書く人々であることが同人誌同人の特性である。この空しい作業に堪えられるのはなまなかなことではない、しかし同人誌に入った以上それは宿命であるのだ、同人雑誌に淡い期待を持つ読者には心していただきたい。従って豈weeklyは読まれなくても続いて行く。

こんな前提の下に、私は次号(次々号?)で読まれることのない評論を書いてみようと思う。当然のことながら、参照文献は読まれざる3部作『定型詩学の原理』『近代定型の論理』『詩の起源』。(10.16)

●追伸雑報「見たことも聞いたこともない宇都宮連句について」
知らないうちに私の俳句を使って連句が巻かれていた。ここに転載していいのかどうか分からないが、同罪だと思うので載せておく。別に怒っているわけではない、こんな時代となったのかと思う。

脇起歌仙「宇都宮」 会場

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2 件のコメント:

さんのコメント...

磐井様。
●豈に関わることは。
 私はきちんと「読んで」行くつもりです。(読まれないはずの孤独な労作ならなおさら)。俳句は、氾濫する雑誌や句集からでもまだよめます。理論書ももちろんわたしなどは、まだ、活字からでないと頭に入りませんが、ここでは小さな反応のコメントが可能でしょ?共通のアイディアノートになります、利用価値が大きいですよ。架空喫茶店での議論風な掛け合い風な臨場感、迅速感もありあますし。● このウエブ、れおなさん達が有意義なことをはじめてくださいました。



豈が同人にも読まれない、というのは反語でしょう。もちろん、傾向の違った作品が多すぎて(しかも同人以外に寄稿者幅が広がり)、編集者しか全体が見わたせないところがあります。しかし、内容を読む人はちゃんとその号のポイントをおさえています。ご心配はいらないのでは?また、冊子はいまや一応市販でしょう?このウエブも定着すれば、複合的なメディアになってゆきますから。とんでもないところに関心が、飛び火していったりするのかも。


なお、「豈」の一匹狼振りは若い方々の反応をみていると以前とは違ってきているのはたしか。
近頃、ジャンルも広がりそれぞれの個人活動のネットワークが複雑化してきましたから、文学気質もが変わってきましたね。一頃の、ここ一誌に、才能自負や義理や意地をかける、という壮士風文士の気概をもったひとがすくなくなりましたね。しかたないでしょう。


しかし、関西若手の行動力で、「俳句空間ー豈」のバックナンバーの読み会も始まりましたから、徐々に貴下のエディトリアルコーディネートに潜在している文学メディアの構想の現代性が理解されてゆくとおもいます。(といっても、関西は、一種の別空間ののところがありますので、気質ものんびりしていますし。私はそれでいいと思うのです。現実の意識変革が早急に変わるもではありません。書きのこしておけば、それは、当分は逃げませんから。)


ただ、たとえば磐井氏の大著については、わたしは、『飯田龍太の彼方へ』、以来のファンですから、ここをはずさないで読んだら、だいたいの構想の流れをみおとさないないだろう、と言うことが直感的に分かるのですが、最初の感動がないまま、また、抽象論の議論に慣れていない、国文学史のターム主流の俳句論の中で読んできている人には「読ませる」のがむづかしい著作とはいえるでしょう。
でも、こちらの読書会の人でも、さんざん批判めいたことを云っていた方でも、一部は引用していたり取り入れたりしているのをみるので、あれあれ、理論の浸透はこういうものかな、とおもいます。
言わずもがなのことですが、勇気を持って読まれない「大論」を追究していただきたいものです。

 ということで・・・。
 
 爽やかなにちようび。寺山修司にならって。
「書を捨てよ、ウエブの旅へ」とか。。嘘です。里山のほうへ散歩にゆきます。(堀本吟)

筑紫磐井 さんのコメント...

吟様、ありがとうございます。
本編では反応がまったくなくて、予告編だとあるのは愉快です。
   *
最近豈を読んでいない同人がいるのかどうかは確認していませんが、豈が出たのを知らない同人がいたようです(当然届いています)。
豈とウエッブは、同じようで別なので(実は別です)、私も気軽に書いています。
   *
豈が読まれているかどうかと関係なく仕事をする同人がいてほしいと思います。
昔、「黄金海岸」という雑誌で、摂津幸彦という男は「与野情話」という作品群を、坪内ネンテンという人は「正岡子規」という評論を、馬場善樹は「川島芳子の肖像」を書き次ぎました(宮石火呂次と大本義幸の評論は中断)。
前二者はそれらの仕事を完成しました。もう一人は・・・・分かりません(ただ表題を聞くだけでも面白そうであります。今なら川島芳子は結構ブームになっていますが、あの当時目をつけていたとはなかなかなものだと思います)。
同人誌という場はそんなところなのではないですか。
   *
関西の若手は元気であり、東京の同人とぜんぜん別種の勉強振りと感じています。うまく、歯車がかみ合えば、このウエッブにつないでほしいものです。
   *
私も次回うんざりするものをお見せしたいと思います。今日、大体書き終わりました。本人もうんざりしています。
   *
11.22.の忘年句会でお会いできれば幸いです。
(筑紫磐井)