象は鎖に
・・・青山茂根
私のなかにまず何らかの思いがなければ、どんな景色を見ても何も起らないということも経験した。景色によって思いが喚起されるには、その下地に別の思いがなければならないようである。
(『飯島晴子読本』 「私の内部の景色」 飯島晴子)
詩人のS氏の別荘へ伺ったのは、いつだったか覚えていない。夏の間、知り合いから別荘を借りて軽井沢にいるからいらっしゃい、と呼ばれた中に私もいた。一夏で二回、だったか二夏で二回だったか、一度は別に宿を取って夕食と句会のために別荘へお邪魔して、次のときは空いている(か無理やり空けて下さったか)部屋へ一晩泊めて頂いた。
どんなに美しく整った風景を眼前にしても何の感興も湧かないこともあれば、何もとり立てて眺めるものもない風景の前で立ち去りかねているというのも、その人の魂がその風景と出会ったか、出会わないかの相違なのではあるまいか。 (『俳句自在』 「ふるさと」考 中村苑子)
何故だか私のような何の力もない者の句を面白がってくれて(楽しみのための句会に切れだの定型だの御託を述べる輩は必要なかったからだろう)、出版社や新聞社のお仲間と開いている句会の隅に、私も寄せてもらった。その頃勤めを辞めて、昼間は庭の草花をいじり、週末の昼夜やウィークデーの夜は度々句会のハシゴをしていた私だった。家からそう遠くない三軒茶屋で、ある女子大の社会人向け講座に、そのS氏の詩のクラスがあるのを見つけ、どうせ時間が余っているなら、とそちらへも通った。といっても三学期分くらいであったか。そこで知り合ったS氏を囲むアマチュア詩人たちと、お仲間の句会の面々で軽井沢へ伺って句会をしたのが一度、もう一人俳句で名の知られた方と泊めていただいたのが二度目だったような気がする。
そのあたりに来たのは幼い頃両親に連れられて沓掛から霧積温泉を旅したとき以来で、おぼろげな記憶のある軽井沢でS氏夫妻おすすめの店や美術館に連れて行ってもらった。霧のための湿気や、暖炉の煙突にスズメバチが巣を作ったとか、S氏夫妻はその地を好んでばかりいたわけではなかったようだが、私はぼんやりと霧に霞む木立や家々に惹かれた。
その頃の軽井沢は静かで、まれに土地の人が通るだけの街道もしろじろとして、車も人影もなく、脇みちに入ってゆくと、草原には霧が白く流れて、この世のたたずまいとも思えないほどだった。
(『私の風景』 「追分」 中村苑子)
先日、それから10年ぶりくらいで、軽井沢の中心地を歩いた。M句会の吟行は、2年前も追分の某企業の保養所で、そのときは中軽から追分あたりを回っただけだったので、商店街のある通りを歩いたのが本当に久しぶりだったのだ。あまりの変貌ぶりに声も出ないといった有様だった。本当にここが?と誰かに問い質したくなるほどの、あの幼い日の、夏の終わりの閉まりかけた店ばかりの、かろうじて紀伊国屋があと数日して閉めますという8月の終わりの風景、S氏夫妻に連れられてきた、まだ梅雨があけて10日もしない頃の活気もあるが節度もある商店街風景、とは打って変わって、醜悪な、全国どこのターミナル駅付近にでもありそうな、けばけばしい街並みになっていた。9月の最後の週末、とは思えないほどの人手で、本当に新幹線がここを通ったのは正しかったか?と高き天を仰ぎたくなるほどの。
「あれが暴れ出したら大変だな。」
浅間山はこんもりと象のように跼んで、どこか遠方で鎖がつないであるような気がした。煙は上州へながれているので見えなかった。軽井沢の町もすぐ眼の下に見えた。
(『魚眠洞随筆』 「碓氷山上之月」 室生犀星)
いつかまた、浅間山が噴火したとしたら、(その幼い日に見た鬼押出しの光景は鮮明に記憶に残っている。子供って怖いもの、奇妙なものばかり覚えているものだ)これら全てが、ポンペイの遺跡のように、溶岩流の下に沈むのだろう。この人並みを、秩序のかけらもない店舗を、掘り出した後世の人はどう思うのだろう。
不謹慎な発想だが、昔ながらの広い敷地に立つ別荘がどんどん切り売りされて、せせこましい集合住宅が次々建てられて辺りが様変わりしていく中で、あの方舟だけはそのまま、溶岩の下に眠るがいい、と思った。
別荘地とは初茸の明るさに 茂根
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