2008年10月11日土曜日

失われた風景(1)ハンバーガーと詩人魂・・・青山茂根

失われた風景(1)
ハンバーガーと詩人魂

                       ・・・青山茂根

「時間」というものの、その働きの致し方のなさ、それがまったく人の業というものの変形と変容を、私の一句一句に、私のひとつひとつの思いを強いた。「時間」という風景が、絶対に流れて在って、きびしい。
               (『現代俳句全集 五』 「自作ノート」  阿部完市)

『アメリカの影』という映画があった。ジョン・カサヴェテス、1959年。制作当時から遥かに年月が経ちながら、今の我々が見ても混沌の中の力を感じる。

今時の日本の子供は○ック(注:関東以北における○ク○ナ○ドの略称。関西方面では○クドとなる。アクセントに注意)を食べない、と先日あるところに書いた(食物アレルギーにより食べられない子も少なからずいる)。豊かになりすぎた今の小学生や幼児は、ポテトはかろうじて食べるが、○ックのハンバーガーを残すのだ。我々は、上からも下からも、「あなたたちのような世代とは感受性が違う」と言われる分際に成り果ててしまったようだ。

誰にでもある人間の原点というものは、その人間の全生涯にわたる思考を決定し、それ以上に支配してしまうものであるということだった。 

                  (『私の風景』 「解説にかえて」  中村苑子)
    
9・11において、アメリカが失ったものはあの巨大なビルと、多くの尊い人命だけではない、今までそこにあると信じられていたアメリカの威信も、ビルと多くの命とともに崩壊したのだ。一部の人々にしか見えていなかったアメリカの実態が、衆目の前にさらけ出されてしまった。あの、中央が空洞になっていたビルのように、アメリカが裸の王様であるということに(そして、あの事件が、高層建築の構造的欠陥を顕わにした意義は大きい。あれ以後、建築史は変わるのだろうか)。

牛肉による変異型ヤコブ病問題や、環境ホルモンの人体への影響など、現代アメリカの抱える病巣は実は大きく深い(しかしそういった現象と全く無関係なように生息し続けるアーミッシュといった人々がいるのもその国の奥深さだ)。かの国の巨大スーパーで売られている牛乳パックには、ある日突然失踪したわが子を探す親からのメッセージが、広告欄に刷られているという。米国全土で日々少なくない数の子供たちが、失踪したまま戻ってこないという現実からしてみれば、子供を捜すために藁にもすがりたい親の思いと、慈善事業を行いたい企業の思惑が一致してということだろうが、そんな牛乳を平常心で籠に放り込むことが出来るのだろうか。手に取った途端、胸しめつけられる思いに駆られることはないのか、行方不明の子供の写真が載った飲み終わりのパックをゴミ箱あるいはリサイクルボックスに躊躇せず投げ込めるのか。それがハンバーガーを日常とする感受性なのだろうか。

「サバービア俳句」について、榮猿丸氏が上田信治氏やさいばら天気氏らと語っていた記事を読んだ。(『週刊俳句』2007年9月9日号、「サバービア俳句について〔1〕」、他)そのときは、素材における趣味嗜好、あるいは瑣末主義に近いものという印象を受けたのだが(実際そんな発言を上田氏に酒の席でぶつけたような。すみません)、今、思うのは、「サバービア」という言葉がそもそも米国における郊外とその発展を示すものであったというのなら、「サバービア俳句」とはアメリカ的大量消費社会の終焉と痕跡に郷愁や美を感じるがゆえのものなのだろう。実際、それらを題材にした(と私が思い浮かぶ句は必ずしも上記の人々が提示する句と一致しない)俳句に自分自身何となく惹かれるのも確かだ。アメリカ的なるものへの憧憬、その時代を過ぎて我々はすでにそれが書割の看板のように空虚なものであるのを知っているがゆえに(「サバービア俳句」には、絶対的な物差しは設定しなくともよいと私は思う。句集を広げて、それぞれが考える「サバービア俳句探し」をするのも楽しいかも)。
 
強いアメリカと、夢のような社会は実は存在しない(レイモンド・カーヴァーの小説の魅力もそこにある)。「いま・ここ・われ」を詠めと言われても、いまや芭蕉ゆかりの地象潟でさえ、

ムムム、何あれ?一番眺めの良い処に、なんと「ガスト」と「コンビニ」とその利用者の為の駐車場が千坪ほど広がっていたのである。

        (『銀化』七月号 銀化集秀句評「ヨット記念日」 中原道夫)

という有様。花鳥諷詠を、自然を詠めと言われても現実はこんな体たらくだ。

  それからの昨日の丘に集合す      小湊こぎく   句集『爽』
  アロハシャツ青年の肉びつしりと    仙田洋子    句集『子の翼』
  夏向かふペプシの缶を振りながら    櫂未知子    句集『貴族』 

そんなアメリカの幻影の中にも、繰り返し見てしまった9・11の映像がフラッシュバックしてしまう我々は、もう戻れないのだ。

詩業とは、所詮は自然のなかに書きこまれた言葉を読むことにすぎないのかも知れない。 
            (『現代俳句全集 五』 「自作ノート」   河原枇杷男)

一つの仮定に過ぎないが、主題というものが対象の中にあるのだとしたら、どこを掘ればその原石はあるのだろう?伝統的な風景がフレームを限定しなければ存在せず、新しい筈の都市生活が実は空虚なものだとしたら、我々は何を詠めばよいというのだ。その違和感が、虚ろな日々が実は俳句を産むことに気付かずに。それらにあえて背を向けた、絵空事のような句が賞賛される時代ながら。その映画のように、深い影の中だが、時折の光に照らされつつ。

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■「週刊俳句」より、「サバービア俳句」関連記事     →読む

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8 件のコメント:

高山れおな さんのコメント...

青山茂根様

小湊・仙田・櫂各氏の句が引用されていますが、このあたりが茂根さんが考えるサバービア俳句ということでしょうか? 中では小湊こぎく氏の〈それからの昨日の丘に集合す〉には驚きました。この句、アニ本誌での初出は、ちょっと句形が違うのですよね。

さんのコメント...

このエッセイ面白かったですよ。
れおなさんの指摘のようなことはわたしも考えましたが、短い句(特に多義性を胎んだ俳句は)が、いくつかの理由ある誤読をうみだすことで、その原句自身を成熟させ発展させて行くところがある・・この考え方は、ひところ坪内稔典さんの過去のエッセイによくみかけました。

こぎくさんの句の解釈は、れおなさんの疑問のほうただしいとはおもいましたが、9・11と連結させる、茂根さんの光の粒のような印象派的直感力、解釈の独創性が愉快でした。
原句の趣旨は正しく把握しなければいけませんが、ここでは「それから」「昨日の丘」も「集合す」も内包している風景)状況は、あんがい深い、このキャンバスにいろんな絵が描ける、そんな一句なのではないでしょうか?

只、こういうのは、云われている「俳句」とは違うようですが。

青山茂根 さんのコメント...

吟さま、れおなさま
コメントありがとうございます。
ここにあげた句が、サバービア俳句と考えているわけではありませんが、小湊さんの句はどんな状況の上にも帰着できる可能性を含んだ句ですね。なんでこの句集アマゾンにないのでしょう?
吟さま、印象派的、というのは私の名前から拡大解釈していただいたようで、申し訳ないみたいです。よく親が絵が好きでその名前つけたんでしょう?と聞かれるのですが、男の子の名前しか考えてなかった親が姓名判断でもらった字をあわてて組み合わせてつけただけなんで、そんな美しい話ではなく・・・。

高山れおな さんのコメント...

吟様
小生の?は別に疑問というのではなく、単なる確認でした。小湊さんの句は、アニ本誌45号が初出のようですが、そこでは、

それから昨日の丘に集合す

になっています。もちろん句集収録形の方が断然良いわけですが。

さんのコメント...

青山茂根 さん。
あなたのお名前、本名なのですか?ますますステキ!美しい姓名も、言葉の風景のひとつです。ご両親に感謝しなきゃあ。
このウェブのおかげで、俳句言葉の周辺に散っているプラスアルファーの光の粒の存在がみえてくるようですね。

青山茂根 さんのコメント...

いえ、あの、中国の方によると、「超変な名前でかわいそう」なんだそうです。漢字の国の方から見るとなんかヤバイ意味があるらしく。

さんのコメント...

モネ(茂根)さま

????。けっこう複雑なんですね。
ま、いいじゃありませんか。

楽しい方にかんがえましょう。

青山茂根 さんのコメント...

はい、そういう変なとこを生かして句を書いています。
『攝津幸彦選集』の「インタビューⅠ」の中で、「夜汽車」の句の読みについて、攝津さんも中国の姓について語っていますよね。面白がってもらえたかも。