2009年11月15日日曜日

俳句九十九折(57) 七曜俳句クロニクル Ⅹ・・・冨田拓也

俳句九十九折(57)
七曜俳句クロニクル Ⅹ

                       ・・・冨田拓也

11月8日 日曜日


このところやはり俳句の状況というものは、徐々にではあるが変わりつつあるというべきであろうか。今月(11月)下旬から末日に刊行が予定されている若手の作品のアンソロジー『新撰21』の出版、そして、その後に控えている、第3回芝不器男俳句新人賞(締切 2009年 11月30日)や、総合誌『俳句界』における新人賞としての「北斗賞」の創設(締切 2010年 3月31日)など、こういった流れや、ここ数年の俳句をめぐる様々な状況の変化(インターネットの普及、俳壇の高齢化、俳句ブームの終焉など)といったものを併せて考えてみると、やはり何かしらの時代の転換を予感させる兆候のようなものが割合感じられるところがあるように思われる。

果してこういった流れが、今後の俳句の世界における新しい潮流を生じさせる結果へと繋がるのかどうか。いずれにせよ、なにかしらの流れというものが生じなければ、俳句という文芸は新たな活力を得られないばかりでなく、ひとつのジャンルとして存続を続けることすら困難になる可能性が高いという事実については、いまさらながら言うまでもないことであろう。


11月9日 月曜日

「俳句入門or再入門」といった考えを、ふと思い付く。

「俳句入門or再入門」といっても、思えば、そもそもこの「俳句九十九折」という連載自体が、その最初から「自分自身のための俳句の再入門」とでもいったような意図も含んだかたちで開始したものでもあったのではあるが。

ともあれ、「俳句入門or再入門」に適うであろうと思われるような文章を、ここに引用してみたいと思う。

「定期券買ひ新しき燕の巣」という某氏の作を、堀井は僕ならこうすると言って、「巣燕を見て定期券ひるがへす」としたとき、私は突と、一種頓悟に近いものを覚えました。言葉の用い方についての配慮といったものが、すっと溜飲を下ろすようにわかった気がしたのです。(…)言ってみれば、季語の発する放射能の中から、アナロジー(類比)をもって事や物を鋭く選択することで、たしかな一句の構造性を築くことができるという、俳句の秘密を嗅ぎとったように思えたのです。

上の文章は、上田五千石の「俳句入門 俳句―ある会得」から引用した。文中の「堀井」は「天狼」の俳人であった堀井春一郎のことである。

平凡な内容の句から、「巣燕」と「定期券」の翻る様によるアナロジーの関係性の発見、そしてそういった発見を作品の内部において生動させる方向へと変転させる卓抜な表現技法。

このように俳句というものは、作品を比較して読んだ場合、その差異によって巧拙などの多くのことが感得できる側面があるようである。また「師」と「弟子」の作品をそれぞれ読み比べてみると、様々な発見があることが少なくないように思われる。


11月12日 木曜日

堀井春一郎の改作は「燕」と「定期券」の関係による「アナロジー(類比)」であったが、俳句形式の内部においてこの「アナロジー(類比)」というものは、「取り合わせ」の手法によって生み出される例が少なくない。

落花枝にかへると見れば胡蝶かな  守武(「武在」の作ともいわれている)

ほととぎす大竹藪を漏る月夜  芭蕉

木枕の垢や伊吹に残る雪  丈草

古典の作品の中からアナロジーということで思い出すことができたのは、上記の作品であった。「落花」と「胡蝶」、「ほととぎす」の鳴き声と洩れくる「月」の光、「木枕の垢」と「伊吹に残る雪」といった言葉の関係性にアナロジー(類比)を見出すことができよう。

蟾蜍長子家去る由もなし  中村草田男『長子』より

初蝶や吾三十の袖袂   石田波郷『風切』より

近代に入ってからは、「人間探求派」の作者がこのような「取り合わせによるアナロジー」とでもいった手法を用い始めたようである。わざわざ解説する必要もないであろうが、これらの作品では「蟾蜍」と「長子」、「初蝶」と「袖袂」の関係性が取り合わせによる類比、類縁を表しているということになる。

縄の玉ごろと地にある柚子の家  波多野爽波『湯呑』より

繃帯の喉にゆるやか卯浪寄せ    〃   〃

柏餅の太い葉脈メス煮られ     〃  『骰子』より

毛虫樹々に満てり散髪後の少年   〃   〃

悲鳴にも似たり夜食の食べこぼし  〃 『一筆』以後より

鮎落ちて引出物にはがつかりす   〃   〃

白孔雀尾をしぼり宵ひくき瀧    竹中宏『アナモルフォーズ』より

地球抱(だ)けばかすみの奥の癇癪玉  〃   〃

感光紙の反故をまるめた蟇       〃   〃

鳥雲に滑るはづみにひとは跳び     〃   〃

うすぐもり瞰(み)れば京都は鮃臥す  〃   〃

口笛や沈む木に蝌蚪のりてゐし  田中裕明『山信』より

穴惑ばらの刺繍を身につけて    〃  『花間一壷』より

人間の大きな頭木の実降る     〃  『先生から手紙』より

一身に心がひとつ烏瓜       〃  『夜の客人』より

詩の神のやはらかな指秋の水    〃     〃

「人間探求派」以降の作者たちの作品から取り上げてみた。波多野爽波は虚子の弟子であるが、草田男からの影響も少なくない作者であり、竹中宏は草田男門の作者で爽波とも親交があった。田中裕明については爽波の弟子ということになる。

3名とも当然ながらこのようなアナロジーによる作品ばかりを主要とする作者というわけではないが、こういった作品の存在がいくつか確認できるところを見ると、取り合わせによるアナロジーの手法の影響というのは、これらの作者たちにとって小さなものではなかったというべきであろうか。

これらの作品の中のものをいくつか簡単に解説をしておくと、爽波の「柏餅」の句は、「柏餅」の葉の葉脈と消毒のために熱されている「メス」の関係性から人間の「血管」が連想されることとなり、「毛虫」の句は「毛虫」と「散髪後の少年」の切られた髪がアナロジーとなっている。竹中宏の「白孔雀」の句は、「白孔雀」の「尾」の形状と「瀧」の形状がアナロジーとなっており、「鮃」の句については「うすぐもり」と「鮃」の形状によるアナロジーということになる。田中裕明の「口笛や」の句は、「口笛」と「蝌蚪」の関係性からおそらく「音符」を読者に連想させようとしているのではないかと思われる。

アナロジーとは関係ないことではあるが、今回波多野爽波の作品にいくつか目を通したのだが、傍から見ると波多野爽波の作品というものは、それこそあまり何も考えずに書かれているような印象が抱いていたのだが、よく読んでみるとその作品は、今回の「取り合わせ」も含めて他に、時間性の操作、擬音の多用、破調、リフレイン、打消しなどの多数の技法が駆使されており、その作品表現には思った以上に手が込んでいるように見受けられ、やや意外な思いがするところがあった。

永遠はコンクリートを混ぜる音か  阿部青鞋

時間とはともあれ重いキャベツのこと 〃

わがにぎりこぶしは流星にはあらず  〃

阿部青鞋もまたアナロジーによる言葉の関係性を追求した作者であるが、その作風は、切れ字をあまり用いず、所謂俳句らしい形状をとらない、きわめて散文に近い文体を意図的に指向したものであった。また、無季の句も多く、それゆえ言葉による独自の関係性をその作品の内部において自由に組み合わせ、展開させることが可能であったように思われる。

キリストの顔に似ている時計かな

機関車が涙のように思われて

砂掘れば肉の如くにぬれて居り

水鳥にどこか似てゐるくすりゆび

劇場のごとくしづかに牛蒡あり

トランプのダイヤに似たる夏ごころ

くちびるをむすべる如き夏の空

こわれ物の如き幼稚園運動会


この阿部青鞋に影響を与えたと思われる西脇順三郎の評論「ばせをの芸術」に〈詩や俳句で新しいものを作るということは、新しくもの自体を創造してみせるのではなく、ものとものの新しい関係をつかむことであり、芭蕉は俳句の中で新しい関係を作ろうとした〉といった言葉があり、また他にも同じく西脇順三郎の『詩学』においては〈新しい関係を発見することが詩作の目的である。ポエジイということは新しい関係を発見するよろこびの感情である。〉〈私のいう「すぐれた新しい関係」というものは思考としての表現では言えないものを感じさせる。それは一つの幻想であって、それは「無限」とか「永遠」というようなものを象徴してくれるように思われる。〉といった言葉が存在する。


11月13日 金曜日

「本」というキーワードが、ふと思い浮かぶ。

行春の書に萌黄の栞かな  高田蝶衣『蝶衣俳句全集』より

本買へば表紙が匂ふ雪の暮  大野林火『海門』より

かもめ来よ天金の書をひらくたび  三橋敏雄『まぼろしの鱶』より

鶴の本読むヒマラヤ杉にシャツを干し  金子兜太『蜿蜿』より

海に出て眠る書物とかがやく指     〃  『金子兜太句集』より

愛の書がかさなっている水のなか  阿部青鞋『火門集』より

群衆のごとく書店の書よ崩れよ    〃

本開けしほどのまぶしさ花八つ手  波多野爽波『湯呑』

愛の書の背革いためり星祭  星野石雀『薔薇館』より

軒燕古書売りし日は海へ行く  寺山修司『花粉航海』より

本を売り心の隅に鎌鼬   赤尾兜子『玄玄』より

枯れきって図書ことごとくイエスの色  武田真二

この家に絵本の消えし春の月  正木浩一『正木浩一句集』より

本あけて文字の少なき木槿かな   岸本尚毅『蕣』より

詩を売つて本買ひにけり年の暮  田中裕明『田中裕明全句集』より

この「本」というテーマから、本の「書名」による俳句作品というものいくつも存在することに気が付いた。

あはれさやしぐるるころの山家集  山口素堂

窓に蝶来るや読みあく湖月抄   村上蚋魚

薔薇呉れて聖書かしたる女かな  高浜虚子『五百句』より

遺品あり岩波文庫『阿部一族』  鈴木六林男『荒天』より

胡桃割る聖書の万の字をとざし  平畑静塔『月下の俘虜』より

青酸漿著くづれて栄花物語  星野石雀『薔薇館』より

蝶はさみ祈る手あわす楚囚篇  寺山修司『花粉航海』より

五月雨や机上に古りし俳愚伝  長谷川草々

花神なお目覚めぬ播磨風土記かな  橋間石『和栲』より

秋風や史記読むならば刺客伝  矢島渚男

詩篇あり東京巣鴨の食堂に  攝津幸彦『陸々集』より

「つの かる と」鹿鳴集の分ち書き  藤井富士男 『苦艾』より

「書名」の句については、世の中には膨大な数の本とそのタイトルが存在し、それゆえそういった「書名」を扱った俳句作品というものも数多く存在するのであろうが、いまひとつ思い出すことができなかった。


11月14日 土曜日

今週もまた「七曜」というわけにはいかなかった。今後こういった状況が常態化するような予感がするが、それでもなんとか一応継続だけはしてゆきたいところである。

というわけで、また来週にお目にかかりましょう。

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