中村苑子「炎天下貌失しなひて戻りけり」
・・・大井恒行
中村苑子(1913〈大2〉・3・25~‘01〈平13〉・1・5)の平成の自信作5句は、以下。
俗名と戒名睦む小春かな 「俳句」平元・1月号
梁(うつばり)に紐垂れてをりさくらの夜 「俳句」同・6月号
余命とは暮春に似たり遠眼鏡 「俳句芸術」同・11月号
黒衣着てわが忌に侍せり春の夢 「俳句研究」平2・5月号
炎天下貌失しなひて戻りけり 「俳句」同・9月号
一句鑑賞者は、現「紫」主宰・「豈」同人の山﨑十生(当時は十死生)。その一文には、平成2年の夏は暑く、長かったことを述べながら「それにしても奇妙な一句である。平明に書いてあるようで、決して平明ではないのだ。一句一章でも読めるし、二句一章でも読める。悪い意味での三段切れでも読める。二句一章でも上五で切れる場合と中七で切れる場合もあるので、四通りに読むことは不可能ではない。おそらく作者もその点は十分承知の上で書いているに違いない。読者は四通りの読みのどれを選択しようと自由である。別に一つの読みに限定することなく、自分なりに二通りでも、三通りでも自由なのである。作者も読者も一つの読みでしか解し得ないような作品は月並みということなのであろう。(中略)四通りの読みのうち、一通りくらいは、そうであっても別に恥かしいことではない。他の読みもできるのだから、そのあたりに主眼を置いてみれば、失なった貌も、戻ってきたものも見えてくるであろう」と記している。
僕が中村苑子に最初に会ったのは、僕が上京してまもなく、たぶん21歳のことだ。代々木上原での「俳句評論」の句会に初めて出席し、その帰り道、澤好摩、横山康夫(当時は孤子)に誘われ連れて行かれたのが、句会場から近くにあった「俳句評論」発行所、つまり高柳重信と中村苑子の家であった。それから、句会の度に何度か同行させてもらった。そこで折笠美秋、寺田澄史、三橋敏雄、三橋孝子、高柳蕗子、山本紫黄、松崎豊、鳥海多佳男、福田葉子、津沢マサ子、太田紫苑、松岡貞子など、多くの方々に会った。
若かった僕は、いつも、ほとんど何もしゃべらなかったが、様々なことを聞くだけで十分であった。それでも、僕の未熟を顧みず、先行する俳句作品や、句会での俳句評論調とでもいう作風に不満を募らせていた。ほどなく僕は、句会にも参加せず、意識的に数年間俳句を書かずに過ごすことになった。従って、中村苑子に再会するのも、高柳重信に再び会うのも、十四、五年後、高柳重信の晩年になっていた。
そして、高柳重信の死後、「俳句研究」での編集後記を纏めた『俳句の海』の出版許可を得るべく、世田谷区大蔵にあった中村苑子宅に出向いた折に(福田葉子さんに案内していただき)、「俳句研究」の編集後記集の出版は快諾するが、高柳重信が読売新聞に連載した「俳句時評」集も貴重なもので、是非出版したいとの意向を示され、スクラップブックに保存されていた新聞の切抜を見せられた。
ともあれ、『俳句の海で 「俳句研究」編集後記集-‘68.4~‘83.8』〈1995(平成7)年刊〉はワイズ出版から出ることになった(弘栄堂書店は出版部門を閉鎖したので)。その元原稿となったのは、高橋龍が‘93(平成5)年に高柳重信没後10年を期してのち、9月から11月まで、毎日、原稿用紙に向かい、1日3冊分を筆写することを自らに課し完成させたものが在る、というのを僕が聞きつけて拝借したものである。
当時、高橋龍は「集成にはコピー機という便利な道具があるので、それを用いれば簡単なのだが、なぜか私は前時代的な筆写という方法にこだわったのだ。筆写という体感によって、高柳さんの文体を学び、かつ、その時間に高柳さんとの対話ができると思ったからである」(『俳句の海』/「遂にの人生―『あとがき』に代えて」)と述べ、高柳重信の戦略眼として、「俳句研究」(昭和45年7月号・普通号)の編集後記を引用することを忘れなかった。「俳壇の歴史をふりかえってみても、いつも、俳句表現の新しい魅力は、新しい作家の登場によってもたらされてきた。そして、その新しい魅力も、同じような作風が、五年十年と歳月を重ねるたびに、次第に古びてゆき、やがては、新しい何かを待たれるようになる。そこに、また、新しい作家が、新しい作風をもって登場してくる機会が生まれた。このような更新が、しごく自然に行なわれていれば、俳句形式は、いつまでも古びることはない」。
中村苑子は最晩年、句集『花隠れ』刊行後、「花隠れ」を宣言して作品を発表しなかった。
凧(いかのぼり)なにもて死なむあがるべし 『水妖詞館』
黄泉に来てまだ髪梳くは寂しけれ 同
桃の中の別の昔が夕焼けて 『花狩』
わが墓を止まり木とせよ春の鳥 『中村苑子句集』
* * *
管理人より
掲出の句について読者より、送り仮名が誤っているのではないかとの指摘を受けました。「貌失しなひて」ではなく、「貌失なひて」ではないのかというのです。たしかに、中村苑子句集『吟遊』(一九九三年 角川書店)では、掲句は、
炎天下貌失なひて戻りけり
の形で収載されています。しかし、本連載は、「俳句空間」№15における特集「平成百人一句鑑賞」をベースにしたものであり、同特集に「纏わるあれこれ」について回顧するものです。掲句を含め作品の表記はすべて、同特集の編集に際して同誌編集部が各作者から募った、「平成の自信作5句」の自筆原稿にもとづいております。初出誌である「俳句」一九九〇年九月号には当たっておりませんが、連載の趣旨(詳しくは連載第1回をお読み願います)からしまして、そもそもその必要はないと思います。ご指摘有難うございました。(高山記 '09.06.15)
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