■身体俳句曼陀羅
【第七回】指/骨/血/肉・肉体
五指・十指・親指・人差し指・中指・
薬指・小指・爪・指紋
指は精妙な機械だ。指なくして、人間の意思と願望を的確になし遂げることは不可能だろう。つかむという最も基本的・単純な動作から、愛撫なる高度な感情表現までを、指は演じる。摘果(労働)から楽器演奏(文化)までの活動の拡がりに、ことごとく指は関与する。更には、指弾(人差し指)から化粧(紅差し指)まで、ひとは五指それぞれに多様な役割と機能をもたせてきた。X線が初めて透過した人体の部位は、指である。
指相撲、指人形の事例が示すように、強弱さまざまな力を発揮しうるこの人体の先端は、手話という別種のコミュニケーションにも用いられている。また、仏像の印相は、指による宗教理念の象徴的表現として、観る者を黙想に誘う。
〔例句〕
死病得て爪うつくしき火桶かな 飯田蛇笏
遠足の疲れの指を二本咥へ 中村草田男
螢獲て少年の指みどりなり 山口誓子
手袋に五指を分ちて意を決す 桂信子
きりぎりす胸に組まれる死者の指 大井雅人
秋風やひとさし指は誰の墓 寺山修司
牡丹や指を噛まれている午後を 鳴戸奈菜
突き指の月に残りし指の粉 谷口慎也
20 骨
骸骨・どくろ・白骨・遺骨・肋
人間の骨は、つまり内骨格であるから、肉眼で視ることができない。死体の焼却または腐敗ののち、内骨格ははじめて外気に露出する。それゆえ骨は、死者、ひいては死そのものの象徴となりやすい。戦乱・疫病・飢餓に脅かされた中世末から近代初頭の欧州では、「死の舞踏」「死の勝利」など、骸骨の跳梁する絵が描かれた。人々は忍び寄る死の影に怯えたのである。こうした図像表現に影響された私たちの眼には、どくろを杯に用いた古代世界の行為は、死者を冒瀆する唾棄すべき蛮習と映らざるをえない。
日本で、骸骨を露悪的に示しつつ、生が死と隣りあわせであることを説いたのが一休宗純。斎藤茂吉は「死にたまふ母」の連作において、火葬後の母の遺骨を詠い、浄化された骨のイメージを提示した。対して、中原中也は「ホラホラ、これが僕の骨だ」と自虐的におどける。
〔例句〕
秋の暮大魚の骨を海が引く 西東三鬼
わが骨を見てゐる鷹と思ひけり 秋元不死男
夏布団ふはりとかかる骨の上 日野草城
草蓬あまりにかろく骨置かる 加藤楸邨
苜蓿や肋骨欠如感すべなし 石田波郷
死にし骨は海に捨つべし沢庵噛む 金子兜太
木莵の杜白骨となるまで人を焼く 赤尾兜子
ひと漕ぎの白骨となり空の途中 折笠美秋
白骨兵の頬を蟻ゆく往きてかえれぬ 大沼正明
酢のように絶える血すじや骨さわぐ 大井恒行
君の一瞥/清冽に/わが胸骨を/軋ましむ 横山康夫
降る雪や野には舌持つ髑髏 夏石番矢
21 血
血液・鮮血・吐血・喀血・下血・生血・
静脈・動脈・血管・血糊・出血・流血
現代では、血液の採取も分析も保存も輸血も容易となったにもかかわらず、血の神秘はたいして減じていないようだ。血液型と人格との影響関係を云々する言説は、相変わらず盛んだ。人類の半分、つまり女性は、月経というかたちで、身体に不思議な周期を内蔵している。
また、血を、怪奇や恐怖を強調する格好の道具につかう趣向は、文学・演劇・映画・ビデオなどで、一向に衰えを見せない。西洋に発達をみて、日本に育たなかったものの一つに、吸血鬼伝説がある。反面、この国では、合戦絵巻以来の鮮血描写に巧みな伝統が、幕末に至って、「血みどろ絵」なる畸形の芸術を生みだした。
出産の際、血まみれで生れる人間は、血に対する畏怖と恍惚の念から終生逃れられないだろう。
〔例句〕
咳かすかかすか喀血とくとくと 川端茅舎
雪の夜を 血みどろのもの生れけり 富澤赤黄男
喀血の蚊帳波うつてはづされぬ 中尾白雨
螢火や疾風のごとき母の脈 石田波郷
鰹負へりその血が染める人の肩 田川飛旅子
血を喀くや梅雨の畳に爪をたて 石原八束
何処か血を垂らす青田に立ち上り 三橋敏雄
滴る血尽きたる猪を吊るしおく 津田清子
母を脱ぐ//血を浴びて/いまだ名もなし 高柳重信
橙やうすれうすれし隼人の血 福永耕二
22 肉・肉体
裸・全裸・半裸・裸体・ししむら・
筋肉・肉づき・肉欲
人体は肉体と言い換えられる。『ヴェニスの商人』の有名な判決「人肉一ポンドは与えよう。が、血は一滴たりともまかりならぬ」を持ちだすまでもなく、人体は、肉・血・骨・皮膚・体液などを不可欠かつ不可分の構成要素としてできあがっているのに、なぜ「肉」のみが際だって優位に立つのだろうか。
理由は、まず、肉が力と美を具現するからだ。首を欠いてもトルソーが官能的であるように、人格や精神を抜きにしても、裸体は力強く美しい。それゆえ、肉体を露わすか隠すか、ひいては肉欲を是認するか抑制するか、をめぐって、一つの文化の内にあっても、諸文化間においても、対立と衝突、影響と浸透が繰り返された。
次に、肉は、精神あるいは霊魂の対立概念として、宗教(そして哲学)の言説を基礎づけているからだ。霊肉二言論において、肉が劣位に置かれる。そうした教説に抗って、民衆は、肉体・肉欲を肯定的に理解しようと努めてきたのではないか。その結果、二十世紀はエロスで水浸しにされてしまった! 肉体を通じての世俗性の増大(増長?)という観点から近現代史を眺めることも可能だ。「肉」という命題は、このように途方もないスペクトルを孕む。
〔例句〕
かたつむりつるめば肉の食い入るや 永田耕衣
伸びる肉ちぢまる肉や稼ぐ裸 中村草田男
冷じき黄裸なるとき孤りなり 石田波郷
さよならを言ふには遠き裸かな 石原八束
大紅梅人間二人肉重ね 金子兜太
如月や着替へるたびに肉落ちて 桑原三郎
抱きしめて春の帆となる裸身かな 藤原月彦
水より高きに/肉を/量りて/暮春かな 林桂
鷹の眼に寂しき肉として歩む 渡辺鮎太
湯上りの裸つつたち葡萄食ふ 和田耕三郎
-------------------------------------------------
【第七回】指/骨/血/肉・肉体
・・・江里昭彦
19 指五指・十指・親指・人差し指・中指・
薬指・小指・爪・指紋
指は精妙な機械だ。指なくして、人間の意思と願望を的確になし遂げることは不可能だろう。つかむという最も基本的・単純な動作から、愛撫なる高度な感情表現までを、指は演じる。摘果(労働)から楽器演奏(文化)までの活動の拡がりに、ことごとく指は関与する。更には、指弾(人差し指)から化粧(紅差し指)まで、ひとは五指それぞれに多様な役割と機能をもたせてきた。X線が初めて透過した人体の部位は、指である。
指相撲、指人形の事例が示すように、強弱さまざまな力を発揮しうるこの人体の先端は、手話という別種のコミュニケーションにも用いられている。また、仏像の印相は、指による宗教理念の象徴的表現として、観る者を黙想に誘う。
〔例句〕
死病得て爪うつくしき火桶かな 飯田蛇笏
遠足の疲れの指を二本咥へ 中村草田男
螢獲て少年の指みどりなり 山口誓子
手袋に五指を分ちて意を決す 桂信子
きりぎりす胸に組まれる死者の指 大井雅人
秋風やひとさし指は誰の墓 寺山修司
牡丹や指を噛まれている午後を 鳴戸奈菜
突き指の月に残りし指の粉 谷口慎也
20 骨
骸骨・どくろ・白骨・遺骨・肋
人間の骨は、つまり内骨格であるから、肉眼で視ることができない。死体の焼却または腐敗ののち、内骨格ははじめて外気に露出する。それゆえ骨は、死者、ひいては死そのものの象徴となりやすい。戦乱・疫病・飢餓に脅かされた中世末から近代初頭の欧州では、「死の舞踏」「死の勝利」など、骸骨の跳梁する絵が描かれた。人々は忍び寄る死の影に怯えたのである。こうした図像表現に影響された私たちの眼には、どくろを杯に用いた古代世界の行為は、死者を冒瀆する唾棄すべき蛮習と映らざるをえない。
日本で、骸骨を露悪的に示しつつ、生が死と隣りあわせであることを説いたのが一休宗純。斎藤茂吉は「死にたまふ母」の連作において、火葬後の母の遺骨を詠い、浄化された骨のイメージを提示した。対して、中原中也は「ホラホラ、これが僕の骨だ」と自虐的におどける。
〔例句〕
秋の暮大魚の骨を海が引く 西東三鬼
わが骨を見てゐる鷹と思ひけり 秋元不死男
夏布団ふはりとかかる骨の上 日野草城
草蓬あまりにかろく骨置かる 加藤楸邨
苜蓿や肋骨欠如感すべなし 石田波郷
死にし骨は海に捨つべし沢庵噛む 金子兜太
木莵の杜白骨となるまで人を焼く 赤尾兜子
ひと漕ぎの白骨となり空の途中 折笠美秋
白骨兵の頬を蟻ゆく往きてかえれぬ 大沼正明
酢のように絶える血すじや骨さわぐ 大井恒行
君の一瞥/清冽に/わが胸骨を/軋ましむ 横山康夫
降る雪や野には舌持つ髑髏 夏石番矢
21 血
血液・鮮血・吐血・喀血・下血・生血・
静脈・動脈・血管・血糊・出血・流血
現代では、血液の採取も分析も保存も輸血も容易となったにもかかわらず、血の神秘はたいして減じていないようだ。血液型と人格との影響関係を云々する言説は、相変わらず盛んだ。人類の半分、つまり女性は、月経というかたちで、身体に不思議な周期を内蔵している。
また、血を、怪奇や恐怖を強調する格好の道具につかう趣向は、文学・演劇・映画・ビデオなどで、一向に衰えを見せない。西洋に発達をみて、日本に育たなかったものの一つに、吸血鬼伝説がある。反面、この国では、合戦絵巻以来の鮮血描写に巧みな伝統が、幕末に至って、「血みどろ絵」なる畸形の芸術を生みだした。
出産の際、血まみれで生れる人間は、血に対する畏怖と恍惚の念から終生逃れられないだろう。
〔例句〕
咳かすかかすか喀血とくとくと 川端茅舎
雪の夜を 血みどろのもの生れけり 富澤赤黄男
喀血の蚊帳波うつてはづされぬ 中尾白雨
螢火や疾風のごとき母の脈 石田波郷
鰹負へりその血が染める人の肩 田川飛旅子
血を喀くや梅雨の畳に爪をたて 石原八束
何処か血を垂らす青田に立ち上り 三橋敏雄
滴る血尽きたる猪を吊るしおく 津田清子
母を脱ぐ//血を浴びて/いまだ名もなし 高柳重信
橙やうすれうすれし隼人の血 福永耕二
22 肉・肉体
裸・全裸・半裸・裸体・ししむら・
筋肉・肉づき・肉欲
人体は肉体と言い換えられる。『ヴェニスの商人』の有名な判決「人肉一ポンドは与えよう。が、血は一滴たりともまかりならぬ」を持ちだすまでもなく、人体は、肉・血・骨・皮膚・体液などを不可欠かつ不可分の構成要素としてできあがっているのに、なぜ「肉」のみが際だって優位に立つのだろうか。
理由は、まず、肉が力と美を具現するからだ。首を欠いてもトルソーが官能的であるように、人格や精神を抜きにしても、裸体は力強く美しい。それゆえ、肉体を露わすか隠すか、ひいては肉欲を是認するか抑制するか、をめぐって、一つの文化の内にあっても、諸文化間においても、対立と衝突、影響と浸透が繰り返された。
次に、肉は、精神あるいは霊魂の対立概念として、宗教(そして哲学)の言説を基礎づけているからだ。霊肉二言論において、肉が劣位に置かれる。そうした教説に抗って、民衆は、肉体・肉欲を肯定的に理解しようと努めてきたのではないか。その結果、二十世紀はエロスで水浸しにされてしまった! 肉体を通じての世俗性の増大(増長?)という観点から近現代史を眺めることも可能だ。「肉」という命題は、このように途方もないスペクトルを孕む。
〔例句〕
かたつむりつるめば肉の食い入るや 永田耕衣
伸びる肉ちぢまる肉や稼ぐ裸 中村草田男
冷じき黄裸なるとき孤りなり 石田波郷
さよならを言ふには遠き裸かな 石原八束
大紅梅人間二人肉重ね 金子兜太
如月や着替へるたびに肉落ちて 桑原三郎
抱きしめて春の帆となる裸身かな 藤原月彦
水より高きに/肉を/量りて/暮春かな 林桂
鷹の眼に寂しき肉として歩む 渡辺鮎太
湯上りの裸つつたち葡萄食ふ 和田耕三郎
--------------------------------------------------
身体俳句曼陀羅 【第一回】人体/髪/口・・・江里昭彦 →読む
身体俳句曼陀羅 【第二回】ひげ/舌/喉・・・江里昭彦 →読む
身体俳句曼陀羅 【第三回】頭/鼻/耳・・・江里昭彦 →読む
身体俳句曼陀羅 【第四回】胸/腹/ほと・・・江里昭彦 →読む
身体俳句曼陀羅 【第五回】目・眼・瞳/ペニス・魔羅/尻・肛門・・・江里昭彦 →読む
身体俳句曼陀羅 【第六回】顔/手/足・・・江里昭彦 →読む
-------------------------------------------------
■関連書籍を以下より購入できます。
2 件のコメント:
江里昭彦さま
「身体俳句曼荼羅」、毎回興味深く拝読しております。今回はまた一段と凄味があります。読んでいて、表象文化の粋、ここにありだなあ、という感想をつよくもちました。なんていっても、骨と血ですから。
江里さんの冷徹な格調高い文章と、目配りの尋常ならず広い例句があいまって近代俳句のみごとな詞華集になっていますね。これがタダでよめるのはありがたいことです。でも挿絵入りの美麗単行本になることを夢見ています。まだ一度もお目にかかったことございませんが、いつかごあいさつできるのを楽しみにしております。恩田侑布子
江里昭彦様
「身体俳句曼荼羅」の連載、お疲れ様でした。
江里さんは「ネイキッド」という概念について以前どこかで書いておられましたが、それがここに纏められたことをお喜び申し上げます。
これだけの例句を選ぶのは実に大変な作業だったことと思います。
そして、その選句の幅の広さにも敬服いたしました。作者名だけを見ても大変多彩ですね。こういったバランス感覚を有している方は現在では稀なのではないかと思いました。
そしてそこから江里さんの「鬣」6号での「理想のアンソロジーは見果てぬ夢なのだろうか。」という言葉を思い出しました。
江里さんは今後も文章を書いてくださるのでしょうか。江里さんの動向に注目いたしております。
コメントを投稿