■身体俳句曼陀羅
【第一回】 人体/髪/口
・・・江里昭彦
〔はじめに〕
俳句において、〈芯となる言葉〉としてのキーワードを提唱したのは、夏石番矢である。彼の『現代俳句キーワード辞典』(一九九〇年 立風書房)は、245項目のキーワードのもとに1400の句が編集されており、俳句分類の新たな枠組みを提示したものであった。その構想の巨きさ、文章の明晰さによって、この書は画期的なアンソロジーとなるはずであったが、そうならなかった。秀句として蒐められた作品のなかに、夏石番矢の句が頻出するからである。この鉄面皮な態度とむきだしの権力欲をみせつけられて、多くの読者はげんなりし、そっぽをむいた。こうした重大な欠陥をもっているが、私は『現代俳句キーワード辞典』の画期的意義をいまも信じている。
さて、以下の連載は、夏石の構想を私流にうけつぎつつ、しかしながら〈身体〉のキーワードにのみ特定して、俳句の可能性を考察したものである。「こうしたキーワードの照明をあてると、俳句の風景がちがって見えますよ」という試みである。
この試みに刺激されて、俺もやってみようと、キーワードの概説と秀句の蒐集に着手する俳人が現れるなら、この連載の目的は達っせられたことになる。
1 人体
からだ・身・身体・体軀・全身・病身・老身
人体は、ひとが空間を理解し測定するための尺度である。人体を基準的単位として、家具・家屋が設計されるのだし、さらには、道具・機械・船・城塞・教会・広場・モニュメント・橋などが造られてきたのである。もし、人体が鼠あるいは象のサイズだったら、人間をとりまく空間はまるで異なる規模のものとなったであろうことを、スウィフト『ガリバー旅行記』は私たちに教える。
人体は、また、ひとが時間を渡っていくための器である。加齢に伴い、成長・成熟・老化・病気などの諸現象が人体に生じる。それらは、洋の東西を問わず、文学と美術に格好の題材を提供してきた。レオナルド・ダ・ヴィンチが解剖学的な視線のもとに描いた人体の素描は、一級の美術品となっている。
さらに、ひとは、時間と空間の両軸が交差するおのれの身体を起点にして、存在論的考察へと進んでゆき、哲学の領野を切り開く。ときには、舞踊の恍惚を介して、身体は神との合一をも体験する。ニジンスキーのすばらしい跳躍は、二十世紀が生んだ官能的伝説のひとつだ。
〔例句〕
十方にこがらし女身錐揉に 三橋鷹女
尿の出て身の存続す麥の秋 永田耕衣
わが背丈以上は空や初雲雀 中村草田男
末枯や身に百千の注射痕 日野草城
星流る身後のわれの何ならむ 山口誓子
稲を刈る夜はしらたまの女体にて 平畑静塔
窓の雪女体にて湯をあふれしむ 桂信子
万緑や泳ぐすがたの病臥身 岸田稚魚
長短の兵の痩身秋風裡 鈴木六林男
身を出でて杉菜に跼む暗きもの 河原枇杷男
体内の水減らしつつ潮干狩 齋藤愼爾
淋しさを許せばからだに当る鯛 攝津幸彦
春を寝て等身大をはみ出せり 内田正美
2 髪
黒髪・白髪・金髪・銀髪・頭髪・長髪・遺髪・散髪・洗髪
日本の古代歌謡には身体のいろんな部位が登場するが、古今集以後なぜか身体表現は回避され、唯一「髪」だけが素材として残った。髪には、とりわけ女性の恋慕と怨情が託され、数々の名吟を生んだ。和泉式部の「黒髪の乱れも知らずうち臥せばまづかきやりし人ぞ恋しき」と藤原定家の「かきやりしその黒髪の筋ごとにうち臥すほどは面影ぞたつ」とは、時を隔てて呼応する二大絶唱である。
髪に恋愛感情をこめる伝統は、近代以降も、与謝野晶子『みだれ髪』から中島みゆき「髪」まで一貫して続いている。オムニバス映画『怪談』中の「黒髪」では、帰宅した不実な夫に、すでに亡骸と化した妻の黒髪が襲いかかる場面がある。
英語のhairは、現在では頭髪のみならず性毛をも含意する。ヌード写真にからんで「ヘア」という語がとびかうのは、そのためだ。ちなみに、ボッティチェリ描く「ヴィーナスの誕生」において、全裸の女神は股間をおのれの長い頭髪で隠している。
〔例句〕
なまなまと白紙の遺髪秋の風 飯田蛇笏
七夕や髪ぬれしまま人に逢ふ 橋本多佳子
緑蔭に刈落されし髪のこる 西東三鬼
黄泉に来てまだ髪梳くは寂しけれ 中村苑子
一本の白髪おそろし冬の鵙 桂信子
桜咲く我が黒髪の忌なりけり 中尾壽美子
星の尾に磁気はらむわが死髪あり 佐藤鬼房
蛇のこゑ髪はあかるくなりにけり 飯島晴子
梳く髪の絡みからみて稲びかり 鷲谷七菜子
椿落つ母の白髪こそ地平 齋藤愼爾
荒馬の西部を許し神もたてがみ 攝津幸彦
欲望の沖へ 髪を濡らして 上野ちづこ
髪切りてどこかにひとつめの蓮華 正木ゆう子
くさはらにさんたまりやの白髪降る 夏石番矢
3 口
唇・紅唇・大口・口先
ひとが口を使って行う最も重要な活動は、会話と摂食である。ひとは時に、口を性器として用いることもある。これらの活動は、舌と歯を駆使して、口腔において行われる。
では、唇の役目は何か。唇は、まずほほえむためにある。モナリザの謎めいた微笑からルノアールの愛くるしい口もとに至るまで、泰西絵画は、ほほえみの魅力的な表現に努力を傾けてきた。
次に、唇は接吻するためにある。今井正監督の『また逢う日まで』では、恋人たちが窓ガラスをはさんで接吻し、戦争を生き延びた青年層に鮮烈な感銘を与えた。イタリア映画『ニュー・シネマ・パラダイス』のラストでは、往年の名画のなかのキス・シーンの数々が、急流のように再現される。
そして、唇は口笛を吹くのにも用いる。ペルー映画『砂のミラージュ』では、葡萄摘み労働者がつまみ食い防止のため、作業中は口笛を吹きつづけるよう地主から命じられる。その命令を逆手にとって、いつしか「インターナショナル」の大合奏が湧きおこる。
〔例句〕
恋しさも暑さもつのれば口開けて 中村草田男
冬ざれのくちびるを吸ふ別れかな 日野草城
刈田光即身佛は口ひらく 秋元不死男
暗闇の下山くちびるをぶ厚くし 金子兜太
雪いちにちの口腔に朱を溜める 林田紀音夫
たのみなき唇のつめたさ虹また虹 赤尾兜子
紅一点とは唇のこと霧山中 鷹羽狩行
すでに猥歌の唇朽つ雨中の墓地巡り 大沼正明
蜜柑むくくちびるといふ血の袋 大関靖博
唄ふ唇が/夜空に/老いて/老いゆく世紀 林桂
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