2008年10月26日日曜日

少年はいつもそう大本義幸句集『硝子器に春の影みち』を読む・・・高山れおな

少年はいつもそう
大本義幸句集『硝子器に春の影みち』を読む

                       ・・・高山れおな

「豈」創刊同人のひとり、大本義幸の句集『硝子器に春の影みち』(十月三十日刊 沖積舎)を紹介しようと思うのだが、本稿にはかなり強いバイアスがかかっていることを、あらかじめお断りしておくべきだろう。所属誌の創刊同人だから気を遣って、などということはもちろんない。そうではなくて、端的にこの句集に感動しているということなのだ。書評の対象である本に感動していて何が悪い、そんなふうにいぶかしがられそうだ。悪いわけがない。ただ、「あとがき」に、〈わたしの全部で五章、三百七十七句は、高校二年から、六十三歳のいままでの四十五年間の休みやすみの、ほぼ全句集である。〉とあるように、この句集は大本義幸という生きることにあまり器用でない男の人生そのものから差し出されている。評者が大本と会ったのは後にも先にも十年前、攝津幸彦の三回忌法要の折りの一度きりに過ぎないのだが、それでもやや冷静になりきれない部分がある。とはいえ、評者は大本の作品自体の力を疑っているわけではない。むしろ、作品の予想以上の強さ(普遍性と言い換えても良い)に不意打ちされた思い、それが上述の感動の半ばを占めてはいるのであるが。

月へ向かう姿勢で射たれた鴨落ちる
刃物研いで顔写してみる母の留守
ひとりで歩くと闇がつめよる思春期の
ドラム缶を楯に泣く僕に緑の故郷だが
都会へ去る男ら  朝顔破船で咲き
密漁船待つ母子  海光瞳を射る朝
くらがりへ少年流すあけぼの列車
青蛾翔てば廃屋とならん夜の秩序
爪切って凶のかたちに鯛群れる
青林檎ふぐりを風の渡りおえ
匙なめて少年の日をくもらせる
階段の鳩の半身ひぐれている
半鐘の鳴る島に生まれし雲と蛇
ひまわりのカーンと咲きたる孤島かな
死のうかと思った赤いカンナも咲いて
翔ぶ鳥の翼のさきのほそい群島

第一章「非(あらず)」より。この章は、大本が二十八歳の時、日時計叢書シリーズの一冊として刊行された第一句集『非』(一九七三年 青銅社)から、旧友である「子規新報」の小西昭夫が選んだ六十句からなる。今回の句集の栞文で坪内稔典は、〈密漁船待つ母子 海光瞳を射る朝〉〈ひとりで歩くと闇がつめよる思春期の〉の二句について、〈私の記憶では、これらは俳句雑誌「青玄」の十代俳人特集に出たのではなかったか。〉と記している。じつは坪内と大本は同郷、瀬戸内海と宇和海とを分かつ佐田岬半島に位置する愛媛県西宇和郡伊方町の生まれである。県立川之石高校の同窓でもあり、一緒に文芸部を作って「きのめ・くさのめ」という部誌を出す文学仲間だった。

私や大本は詩が好きだった。それもいわゆる現代詩で、私は「現代詩手帖」を愛読していた。郵便振替で送金して購読していた。もしかしたら、大本が私のところへ来るようになったのはその「現代詩手帖」を読むためだったかもしれない。私は大本の一学年上であり、日常的には付き合いがなかった。詩を媒介とするだけの付き合いが彼と生じていた。ついでに言えば、彼の家は海に近い平地に、私の家は海が庭先に見える山腹にあった。互いの家の距離は徒歩十分。

句集所収の年譜によれば、大本は高校入学の年の秋、詩集『黄色い犬歯』を出している。書誌の記述が無いためどんな本なのか見当がつかないが、仮に手作りのガリ版詩集のようなものだったとしても、以って大本の早熟ぶりはうかがえよう。ちなみに坪内は、高校一年の時に『人間不信』、三年の時には『石斧の音』なる詩集を出したという。坪内の現代詩との付き合いがその後も長く続いたことは彼自身がエッセイなどにしばしば記すところだが、大本は大本で後年、坪内や攝津と共に拠った伝説の同人誌「黄金海岸」に「球形恐怖譚あるいは卵形へ―『吉岡実』とその周辺〔1〕」と題する評論を発表している(〔2〕以降は書かれなかったようだ)。現代詩に心酔するこの二人の高校生は一方で、文芸部顧問で「青玄」風の俳句を書く和田良誉の影響もあって同誌への投句を始め、その流れで十代俳人特集で紹介されることにもなった。

上に引いた十六句のうち、「密漁船」「ひとりで歩くと」の句以外のどれが高校時代の作で、どれがそれ以後の作かは評者にはわからない。わからないながらに、そこに一本筋の通った感受性の存在が感じ取れるし、ひとつの人生の輪郭を読み取ることも難しくないように思われる。しかしそのように言われることは、これらの句を書いていた当時の大本にとってはあるいは心外である可能性もある。

攝津幸彦俳句のいちばんの特質は、生活の翳を言葉が直接的に受けていないことにある、と思える。(中略)言葉が行為をおしすすめるのではなく、行為そのものが言葉を育てるという自明のことに気付いているためか、言葉は日常的意味性から切り放たれた場所でこすれあい、重なりあって、非日常的であるから日常的言語よりもリアリティをもつという言語自身の輝きを置く、そういう彼の俳句を私は好きだ。

これは先に触れた『非』と同年に、おなじく日時計叢書の一冊として出た攝津幸彦の第一句集『姉にアネモネ』に大本が寄せた「攝津幸彦賛」の一節。攝津の初期作品の読みとして的確であると共に、ここにはやはり大本が抱いていた俳句についての理想が述べられていると考えてもよいのだろう。また、大井恒行を聞き手とした「豈」本誌第三十五号(二〇〇二年十月)におけるインタヴュー「『黄金海岸』始末」で大本は、〈当時のぼくら(攝津と大本……評者注)は理解されないのがいい作品だと思っていたから。分からない作品の方がいいんだという思い込みがあったんだな。〉とも語っている。この理想=思い込みは、攝津作品においてより強い度合いで実現し、大本作品でより弱くしか実現しなかったと言ってしまえばそれまでだが、大本義幸十代・二十代作品を現時点で読む限り、「理解されない」ものでも、「生活の翳を言葉が直接的に受けていない」ものでもないようだ。

これらの句を読んでまず感じられるのは、大本が俳句とは何かとか、俳句とはかくあらねばならないといった、形式についての自覚とはおよそ無関係に書き始めていることだ。現代詩に加えていわゆる「青玄」調の影響はあるにしても(五句目・六句目の一字アケ表記は見やすいところ)、自らの思いをそのまま俳句にしてしまうことへのためらいのなさに驚く。別の言い方をすれば、当時の大本には、なぜ俳句なのか、という問いはいまだ訪れていなかったということだ。五七五律をともすればないがしろにするかのような散文的な叙述、季語に対する無頓着――それらの要素もしかしこの場合、自由律俳句や新興無季俳句のそれのような定型との意識的な格闘を意味してはおらず、ごく自然にそのように書かれてしまっている、としか言いようがない。俳句でなくともよいのだが、たまたま俳句があった、これらの句が浮かべている表情はそのようなものだろう。評者は批判的な気持ちからかく記しているわけではない。むしろ、俳句とはこんなふうに書いてもよいのだという当然の事実に、あらためて感じ入っている。もしかすると我々は、ここ四半世紀かあるいはそれ以上の年月、俳句とは何か、俳句とはかくあらねばならないといった、定型への思いに煮詰まった俳句を作り過ぎ、読み過ぎたのかもしれないのだ。

モティーフの面からこれらの若書きを眺めると、その多くに強烈なふるさと意識が内在することはあきらかだ。〈刃物研いで顔写してみる母の留守〉〈密漁船待つ母子 海光瞳を射る朝〉といった親子の関係性を軸とした句も、ふるさと意識の中で読み取ることができるだろう。故郷への屈折した思いを詠んだ俳句は、草田男や鬼房や兜太や龍太などに見られるように、人間探求派から戦後俳句にかけての文脈では珍しくもなかったのが、こんにちではほぼ地を払ったような按配である。現在だって田舎を捨てて東京へ出る人間も、東京へ出ることができずに田舎で鬱屈している人間も、実体としては昔と変わらず存在しているはずなのに、どうやら我々は「故郷喪失」という心性の型をこそ“喪失”してしまったものらしい。逆に言えば大本の句は、故郷喪失という発想のスタイルにおいて、現在の読者にとってあらかじめなつかしいものなのだ。

故郷喪失の主題を、最も端的に示しているのが〈都会へ去る男ら 朝顔破船で咲き〉の句。近い将来、自分もまた「都会へ去る男ら」のひとりとなることを予感している少年の目に、「破船」に象徴される人々の貧しさと「朝顔」に代表される自然の輝かしさが互いを際立たせている。なかなか巧み、でもちょっと図式的な把握という印象も否めない。それに比べて、〈ドラム缶を楯に泣く僕に緑の故郷だが〉は着想・文体ともにいちだんとすぐれていよう。「緑の故郷」にあって「僕」が泣くのは、「僕」が故郷を捨て去ろうとしているから、では必ずしもない。自分が生まれ育ったその場所を「緑の故郷」とする認識そのものが「僕」を泣かしめるのであり、これこそが故郷喪失の本意であろう。このような哀しみ――ただ自分が“在る”がゆえにやって来る哀しみに、「楯」となり得るものなどない。「楯」たり得ぬ「楯」として「ドラム缶」はいかにもふさわしい選択だった。このいわば存在論的な悲哀感とでも呼ぶべき感情と同種の意識は、他の作品、例えば〈ひとりで歩くと闇がつめよる思春期の〉にも流れている。ただその感情を「故郷」との関係性ではなく、「思春期」という自らの生理の問題として把握している違いがあるばかりである。この句、「闇がつめよる」という大胆な表現がみごと。しかし、さらにみごとなのは下五を「思春期の」とした倒置法の切なさであろう。

〈爪切って凶のかたちに鯛群れる〉〈半鐘の鳴る島に生まれし雲と蛇〉といった作品からは、当時の「俳句評論」系の俳句についての“知識”が大本の句作りのプロセスに入り込みつつあったことがうかがえる。だとしても、言葉を空転させないセンスがこの若い作者にはあって、「凶のかたちに」「半鐘の鳴る島」などといかにも時代風の強引な表現をしながら、ぎりぎりのところでリアリティを手放していない。とりわけ後の句が見せる、切迫感をはらんだ空間性の魅力は大きい。

〈翔ぶ鳥の翼のさきのほそい群島〉は、この時期の大本の表現の完成型と見るべきもの。「鳥」や「群島」といった語彙は慣れ親しんだ故郷の情景に根拠を持つが、ドラム缶の句や思春期の句のような感情の直叙は影をひそめ、主観の展開がイメージの展開の中に完全に融解している。この句は「翔ぶ鳥」と同じ高さに視座を据え、かなたに芥子粒のように散らばった「群島」を見ているととりあえず解釈できるが、しかしそのような視覚描写の水準のうちで安定することなく観念の水準にスライドしてゆく印象がある。「ほそい」の語の働きがカギであって、それは「翼のさき」の形容であると同時に「群島」の形状(島々の配置)の形容でもあり、あたかもダリの絵画におけるように、二つの異質なイメージをなめらかに接合している。この繋ぎ合わせが、さらに視覚と観念の関係にも及んでいるとが評者のいちおうの解釈である。吉田一穂に、

あゝ麗はしい距離、  ⇒「距離」に「デスタンス」とルビ
つねに遠のいてゆく風景……

という高名の詩句(「母」)があるが、大本のこの句に詠まれているのも或る「距離」であり、「遠のいてゆく風景」であろう。しかも、〈悲しみの彼方、母への、/捜り打つ夜半の最弱音(ピアニツシモ)。〉と、ほの暗い下降感覚に収斂する吉田の詩に対して、大本の句のなんと晴朗にして沈着なことか。

大本は、一九六四年に高校を卒業して、大阪の設計会社に就職した。しかし、間も無く上京し、ビール会社の配送の仕事などに就いたがそれも長続きせず、こんどは札幌へ渡って洋酒喫茶(などというものがあったのだ)のバーテンダーになる。岡山から大阪へ、大阪から東京へ、東京から札幌へ――〈くらがりへ少年流すあけぼの列車〉という秀抜な表現には、大本少年の実体験の裏打ちがあったことは間違いあるまい。最初の就職先は設計会社だというのだから大本がそれに乗ったということはあるまいが、一九五四年から一九七五年まで運行されたいわゆる集団就職列車の存在も思い合わされる。「あけぼの列車」なる美しい造語は、大本個人の経験を超え、農漁村の親元を離れ、東京・大阪という大海原へ泳いでいった高度成長時代の無数の稚魚たちの夢と不安に捧げられているのである。

さて、やがて東京に戻った大本は、東中野に住んで駅近くのバー「八甲田」のバーテンダーとなる。変わったバーテンダーで、月に一度、休業日の店を若い俳人たちに開放し、交流の場とした。この「八甲田」や大本のアパートを舞台にして、攝津幸彦・大井恒行・藤原月彦(龍一郎)・澤好摩・山﨑十死生(十生)・大屋達治・長岡裕一郎らの俳人、また沖積舎を興したばかりの沖山隆久らの出会いがあった。夏石番矢や林桂が顔を見せることもあった。また、ゲストとして桑原三郎・折笠美秋・永島靖子・石井辰彦らが招かれたという。一方で大本は、一九七二年に坪内稔典の第二次「日時計」に同人参加、七四年には坪内・攝津らと共に「黄金海岸」を創刊した。七六年から坪内が始めた「現代俳句」についても、ある時期には編集作業を手伝っている。「黄金海岸」の後継誌のひとつ「豈」の創刊は一九八〇年。俳人・大本義幸の活動が、最もさかんだった時期である。句集の第二章「朝の邦」にまとめられているのは、この「現代俳句」の第一集(一九七六年)から第二十集(一九八五年)までの発表作のうち、「豈」編集人・大井恒行が選んだ八十句である。そこから八句を引く。

泥土に生まれて母かやわらかき唇をもつ
熱き尿放つ京浜工業地帯の夜の農奴よ
飽食の島よ傷んだ虹を国ともよんだ
少女と逢う陰茎のやや美しき美術館
硝子器に風は充ちてよこの国に死なむ
八月の広島に入る。声を、冷やして、ね
友よ。まだ犬のふぐりとポーとおまえだ
樹と竝てば肋骨に水が流れているね。

二番目の句など、上作とは言えないとしても、「熱き尿」に加えて「夜の」と限定することで、一句はかろうじて物質感の獲得に成功している。自らや仲間たちを「農奴」と自嘲しかつ主張しているわけだが、その「農奴」の側にも「工業地帯」の背後にある資本の側にもともかく元気のあった時代の句であり、熱く暗くそしてまぶしい。六番目の句では、「声を、冷やして、ね」という修辞の破格さがまず目につくが、声を冷やすという感覚の背後には大本のはにかみながらの倫理の表明があるのだ。「八月の広島」という、最も言葉の空転しがちな、最も言葉をむなしいものにしてしまうトポスに、声を冷やすというかかわり方でかかわろうとするこの人物の心はもちろん冷たくはない。濃やかで、温かいのだ。最後の句。樹と肋骨の類比・連想はごく穏当なものであろうが、「水が流れているね。」の飛躍にはとにかく驚かされる。この感覚の冴えは尋常ではなかろう。五番目の〈硝子器に風は充ちてよこの国に死なむ〉は一句としても魅力的だが句集名ともかかわる点でも重要。第一章の〈硝子戸をわたりて蛇や秋ひゆる〉から第五章の〈硝子器に春の影さすような人〉まで、集中には硝子の語を含む作が計六句あり、大本にとって硝子は俳句生涯の全体にわたるモティーフであることがわかる。大井恒行が、句集の解説で行き届いた説明をしている。

硝子は、硬く、脆く、透明な、触れることがためらわれる何かなのである。それは現実社会を写し出すものでありながら、冷たく拒絶を含むものとして存在している。その底には、大本義幸のロマンチシズムが胚胎している。「硝子器に 風は充ちてよ」とは、ついに、風が充ちないことを知りながら、なお、充ちてよと願わざるを得ないのである。それでも「この国」にいること、そして死んでいくこと。(中略)ロマンチシズムには、必ず律儀な心性が隠されている。その律儀な心性こそ鬱をもたらす因子である。

ここでいきなり話が鬱の方へ飛ぶ。鬱については第五章「拾遺・硝子器に春の影みち」に、関連する句が含まれている。

朝顔にありがとうを云う朝であった。
鬱にちかし病葉に眼がむく日は
鬱がくる白蓮のはなひらくとき
わが息のとどかぬあたり合歓咲ける
コスモスはかたかなで書く字さようなら

〈何かと多事多難〉(攝津資子栞文)だった十年の東京暮らしの後、大本は故郷・愛媛へ帰り、松山でスナック「仏蘭西館」を開店するが、知人の連帯保証人になったことが裏目に出て、二年後には大阪に移らなければならなかった。〈異郷の地での、低賃金労働者としての生活、借金返済のための切り詰めた生活、それが齎したアルコール依存による入退院、それらを見事に克服して、酒も煙草も口にすることなく、借金も完済し終わって、ほっとしたのもつかの間、胃癌の手術(二〇〇三年四月)、さらに翌年には咽頭癌の手術を受け、声を失った。〉(大井恒行解説)というのが大本のその後であった。第五章の句は、この咽頭癌手術後の近作であるから、「鬱」については回想的に詠まれていることになる。それは良いのだが、「鬱」の語を含まない三句についても、危険なほどの繊細さを抱え込んでしまっているのが見て取れる。これは経済事情などとは必ずしも関係ない、大本本来の資質なのであろう。さらにこの章の後半(つまり句集のほとんど最後近く)には、次のような作品が現われる。

海をてらす雷よくるしめ少年はいつもそう  ⇒「雷」に「らい」とルビ
包とは愛、海をくる雷をそだてよ  ⇒「包」は「パオ」
いなずまよくるしめ少年はいつもそう
雷を愛せり少年はいつもそう  
⇒「雷」に「いかづち」とルビ

投げつけるかのような、投げ出されたかのような言葉、とりわけリフレーンのごとく三たび繰り返される「少年はいつもそう」が胸に刺さってくる。大本義幸は、自分がほんとうに少年だった時、すでに具体的なイメージによって若さゆえの鬱屈を客観的に描出するすべを知っていた。今、声を失った老人になって、彼は自らの苦しみを言挙げせずに、あらゆる少年たちの苦しみを言う。老いて貧しく体は弱りきっていながら、「そだてよ」と言う。美しい少年、醜い少年、賢い少年、愚かな少年、健康な少年、病気の少年、ありとあらゆる「少年はいつもそう」、苦しんでいる。こうした人間の人間に対する共感の表明は、従来、俳句において最も手薄だった部分だ。評者がこれまで読んだうちで、最も美しい俳句のひとつだと思っている。

ページを少しさかのぼる。第三章「薄氷(うすらい)」は、一九九〇年代から二〇〇〇年代の初頭にかけての八十句からなる。「豈」同人・恩田侑布子の選。

TOKYOは秋攝津幸彦死す
墓の背にまわれば夕日普段着の
ありがとうきみのいたこと忘れず冬
マフラーを頂きまする幸彦の

この章では、一九九六年に死んだ摂津幸彦をめぐる句が最も印象的だ。そもそも大本は、〈いわゆる“熱烈な攝津ファン”の元祖のような人でもあり、三十五年前、厭がる幸彦を「俳句研究」誌が公募する「五十句競作」に無理やり応募させ、結果、それが幸彦の俳人として生きる生涯を決定づけることになった〉(攝津資子栞文)のであり、大本にとって攝津の死がもたらす喪失感は単なる旧友の死といった次元のものではなかっただろう。攝津の第三句集『與野情話』(一九七七年 沖積舎)についても、大本が産婆役を果たしたものらしいが、先に紹介したバー「八甲田」のエピソードからも知られる通り、大本はすぐれた俳句作者という以上にすぐれたオルガナイザーとして俳句にかかわってきたところがあるようだ。短い松山帰郷時代にも、愛媛大学生だった小西昭夫と運命的な出会いをしており、現在の「子規新報」へといたる小西の活動の端緒をつくった。〈大本義幸が住むところ、必ず、俳句の新しい渦ができた。〉(大井恒行解説)のである。この名産婆役の磁力は、直接的な交渉のほとんど無い、評者にまで及んでいるところがある。冒頭でバイアス云々と断りを入れた所以である。なお、引用したうち、「墓の背に」の句に関して言えば、大本は両親や弟妹をも早くに亡くしているそうだから攝津の墓とは限るまいが、また攝津の墓でもよいわけである。いずれにしても、懐かしい人の墓の背にまわるとそこに「普段着の」夕日があるとは、自然による救済のこれほど深い観照も稀なのではないか。

最後に第四章「冬至物語」。この章は、「豈」第三号(一九八一年)から第十一号(一九九二年)にかけて、九回にわたって発表された「冬至物語」の句からなっている。やはり八十句で、「豈」同人・藤原龍一郎の選。紹介は一句だけにしておく。

十字に組む魂にはるけし〈定型詩〉

ほとんど無意識的に俳句を書き始めた少年がいたりついた、これは究極の「定型論」であった。

*大本義幸句集『硝子器に春の影みち』は、著者より贈呈を受けました。記して感謝します。

2 件のコメント:

野村麻実 さんのコメント...

熱き尿放つ京浜工業地帯の夜の農奴よ

都会の疲れきった風景が、ミレーの画のように収まっている句に、ああ、その通りだなぁと感動しました。社会的背景まで浮彫りにし、我々労働者の日常を映し出しているように思えます。

広島の句も可愛くて好きです。

発想の柔軟な方なのですね。

高山れおな さんのコメント...

野村麻実様

発想が柔軟というのはその通りでしょうね。特に広島の句のような語法は、いろんなものに雁字搦めになりながら句を作っている者からすると驚異です。それと、野村さんが京浜工業地帯の句からミレーの絵を連想されたのには虚を突かれました。でも、それは本質的な読みだと思います。俳句の世界も優雅な花鳥諷詠共同体から、もっと人間同士の共感を詠む方向へシフトせぬものかと夢想しています。大本さんの句に、結構その手がかりを感じます。大先輩ですが、決して過去の作家ではないと今回、原稿を書きながら痛感した次第です。