2008年10月25日土曜日

失われた風景(3)

失われた風景(3)
硝子器の光


大本義幸句集『硝子器に春の影みち』



                       ・・・青山茂根

攝津は仲間といつものように珈琲を飲んで現代俳人を論じ、龍太はだめだ、澄雄はだめだ、汀子は全然だめだと次々に評し去った挙句、最後の結論として、「本当の伝統俳句って俺たちなんだよな」と結論を出した。
           (『攝津幸彦選集』 「語録・文章・俳句から」 筑紫磐井) 


伝統の継承とは人によって耕された土地の稔りを刈り取ることではない。自己がひとりで荒地を耕すことなのだ。(中略)それゆえに伝統派と自負する人達が真の継承者たらず、反伝統派と目される人が真の継承者たり得ることもある。伝統の継承のための作り方はないのである。

           (『野見山朱鳥全集 第三集』 「助言抄」 野見山朱鳥)


贈られた大本義幸句集『硝子器に春の影みち』を開いていて、私もあっ!と思った。略年譜の頁の御写真と、その隣の「・・・に生まれる。」という箇所に。ずっと以前、本当に偶然としか言い得ないのだが、仕事でその場所に行ったことがあるのだった。たった一人、しかもヒッチハイクで。仕事でヒッチハイク、いやヒッチハイクで仕事したのは後にも先にもこのときだけである。

ドラム缶を楯に泣く僕に緑の故郷だが    『硝子器に春の影みち』
                                
そのころ私はテレビコマーシャルの制作会社で働いていた。あるTV-CMの仕事で、私は一人で愛媛に向かった。これまでずっと現地の農家の方に出演してもらって独特な味わいを出している、愛媛の特産品を使用した飲料のシリーズCMだった。前回の撮影から2,3年経っていて、しかも前回は小津安二郎の『東京物語』の設定を借りて都内に現地の出演者を呼んで制作していた。そのレギュラー出演者の農家の方の最近の様子と、新たなタレハン(タレントハンティング。一般の方で企画意図にあう容姿の、出演してくれる人を探すこと)に行ってこい、と上司から言われたのだ。何百人もオーディションを重ねているうちに、使える人材、どんなに整った顔かたちでも使えないタイプは分かってくる。モデル上がりの美形タイプは、スチールはなんとかごまかせるが、ムービーとなるとその薄っぺらさが見事に出てしまうのだ。機転が利くことももちろんだが、存在感や持ち味でやはり小劇場系のまだ売れてない役者さんがオーディションを通ることが多い。また、そのときの企画、クライアントの要望、演出家の嗜好なども考慮して判断しなければならない。そのシリーズCMの演出は、映画監督でもある、先日亡くなった市川準氏だった。

都会へ去る男ら 朝顔破船で咲き     『硝子器に春の影みち』

家庭用の小さなビデオカメラとポラロイドと大量のポラのフィルムを抱えて、松山空港からまず愛媛県庁に向かい、アポを取っていた新聞社の方にお会いして、二週間後の撮影時に取材に来て頂けるようお願いする。これは大洲出身の代理店のコピーライターからの指示だった。話を終えて帰るとき、「本当に独りで回るんですか? 大丈夫ですか?」と心配されるが、「なんとかなると思います。」と暢気に答えて外に出てはみたものの、さて、どこへ向かえばいいのか。

星降れば犬つるみおる西の方      『硝子器に春の影みち』

通りを渡って、確かその向かい側のアーケードが、現在「俳句甲子園」を行っている商店街だったと記憶している。そこを一往復してみるが、これは、という顔に行き当たらない。再び県庁舎の前に戻って、やっぱりまず今までのロケ地である八幡浜まで行くべきか、と考えていると、声をかけられた。「あんた、何してるんだい?」全く知らない男の人が二人、働き盛りをやや過ぎた中年といったところ。正直に、CMに出演してくれる農家の方を探している、これこれこういうCMで本チャンの撮影はいつで、と説明すると、「じゃあうちの町に来いよ。連れてってやるから。うちのほうもみかん農家ばかりさ。」と言う。唐突過ぎて一瞬ひるむが、いや、この人たちも味のある顔してるし、いいチャンスかも、と頭を巡らす。で、なんていうところですが、と問う私に、彼らは言った。
「伊方町。愛媛の西のはじっこだよ。」

海へ夜へきらきら人の脂浮く      『硝子器に春の影みち』

ここからどのくらい、50キロだよ、ええーっ、と言ってももう車に乗り込んで出発していた。翌日には八幡浜に移動して、今までの出演者に会い、いつものロケ現場の状況の確認や、毎回コーディネーター代わりに動いてくれるみかん農家の方にご挨拶にも行かねばならない。ひとり車中でかなり焦る私だったが、お二人は陽気にその辺りの地形やお国自慢など楽しげに話してくれる。車窓から見える海は、穏やかで透明度が高く、点在する小さな島々の緑に、次第に私もなんとかなるさ、と思い始めていた。

翔ぶ鳥の翼の先のほそい群島      『硝子器に春の影みち』
石の岬よ石榴を剖く雨の岬よ       『      〃     』

愛媛県西宇和郡伊方町は、愛媛の西の端から九州へ向かって細長く突き出ている形状で、ピノキオの鼻かカジキの上顎の尖った部分に似ている。松山を出てからはいかにも湾岸といった地形だったのが、その岬へ近づくにしたがって道が平坦に真っ直ぐ伸びるようで、周囲に高い山がなく、両側を宇和海と瀬戸内海に挟まれた不思議な風景なのだった。11月の終わり、初冬の景ながら柔らかな紗をかけたような光が降り注いでいた。硝子器の中にいるような、明るさが満ちていた。
  
硝子器に風は充ちてよこの国に死なむ  『硝子器に春の影みち』
大夕立掃き残されし島ねむる        『      〃     』

やがて、風車が見えた。よくCMや、ミュージックビデオの撮影にロスアンゼルス郊外の風車がたくさんある丘が使われるのだが、こんなに近くで、本物の風力発電の風車を見たのは初めてだった。風が強い地形なのだ。数は11基ほどということだが(現在は町全体で60基ほどに増えている)、その岬を包む光と、海に向って回り続ける風車は、印象的な光景だった。

汗ひかぬ村をよこぎる風車      『硝子器に春の影みち』
怒りのごと流星が洗う細い岬よ    『     〃      』

その町に着いた。既に夕刻、スナックだが飲食店だが分からぬ、という店に連れていかれて、既にその店にいた人たちも混じって宴会となる。そんな店の傍らにも、収穫用の黄色い籠に入った大量のみかんがあった。うちのとこのみかん食べてよ、と言われると断れない。こういう現地仕事のときは何軒も回るうちにみかんでお腹いっぱいになってしまうのだ。もう遅いのでタレハンは明日あちこち一緒に回ってくれる、ということになり、港のそばのビジネスホテルを紹介され落ち着く。その港から、週に何便かある九州行きのフェリーが出るのだ。より西を目指して。

三島忌の花屋の奥の波止場かな    『硝子器に春の影みち』
墓の背にまわれば夕日普段着の    『      〃     』

翌朝は土曜日だった記憶があるが、町役場へ行き観光課の方に挨拶をして、小学校、農家の方を訪ねて回った。いずれも雰囲気のある面差しの方ばかりだが、やはり今までのロケ地からの遠さと、みかんの産地としてはいつもの日の丸地区にかなわないのだろう、という見当が私にはついてしまっていた。八幡浜の日の丸地区のみかんは都内の高級スーパーか料亭にしか出回らない、愛媛でも一等地といえる生産地区なのだ。湾を見下ろす丘に、緑の下草の生えたみかん畑の広がるさまは美しい光景だった。また、その穏やかな湾の水の照り返しが果実の色づきに良い影響を及ぼす。生産地としての地形の違い。しかし、ひととおりの取材をして、最初のお二人に礼を言い、結局八幡浜まで車で送ってもらった。鉄道が通っていないので、それしか方法がなかったのだ。

合歓の花薄目をあける少年期       『硝子器に春の影みち』
ひとりで歩くと闇がつめよる思春期の   『      〃     』
すてきれぬ血族ここにも野すみれ咲き  『      〃     』

作品の中に繰り返し現れるモチーフというものは、その人の趣味嗜好もあるが、幼い頃の原風景、成長過程での体験が無意識に現れるものかもしれない。真っ当でない訪れ方をしたその町は、冬なのに明るく、陽光に包まれた景色だった。人々の温かさはそれにも増して。旅の花火の胸にひらく、と同じく、目を瞑ればその風車は今も私の脳裏に現れる。穏やかな内海に面した四国の風景が、ときにイタリアやギリシャ沿岸の景観に譬えられ、最近ではそれらの建築様式を模したリゾートホテルなども作られているように、そこには何も無いことのよろしさ、南欧の明るさがあった。

くれるなら木沓がほしい水平線     『硝子器に春の影みち』
耳洗う樹木に星の尾は消えて      『      〃     』
南天の赤故郷へつづく道         『      〃     』

大本氏の句集から、その風景を思い出した。    

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■関連記事

失われた風景(1)ハンバーガーと詩人魂・・・青山茂根   →読む

失われた風景(2) 象は鎖に・・・青山茂根   →読む

4 件のコメント:

さんのコメント...

茂根さま。うん。これ、実感と想像力のないまぜになったよい読み方ですよ。(れおなさんの文章も、ポイントを突いていて読みごたえがありましたが。) 俳句や詩を読んで(小説でもですが)、どんな風景をともに見て行くのか、ということ、その句集の理解の中心になるはずです。

 私は、実家が松山ですが、宇和島と藤原純友の本拠日振島まではゆきました。坪内さんや大本さんの故郷の伊方まではいってませんが、その港町の風景は想像がつきます。大本さんの句の原風景はあきらかですね。
 ちなみに、「俳句甲子園」のあるアーケードの通りは松山城の南側に位置し、「大街道」といいまして随一の繁華街。空襲で焼け、その再建でかえって繁栄しています。
 お城の北側は空襲を免れ、城下町の町並みをのこしており、私の実家はその城北のはずれにあるんです。
 中村草田男が『長子』に入れた
 町空のつばくらめのみ新しや  草田男
という戦前の風景がいまで町並みにものこっています。(佐藤文香さんや神野紗希さんならもっとビビッドに説明できるとおもうけど)。

 なぜこういうことを言うかと言えば、あなたが連れて行って貰った大本さんの故郷は、愛媛の南端、松山から言えば辺境に位置していて、風土はすでに九州に近い南国なのです。
 南予は、高橋新吉をうんだ富澤赤黄男。伊予水軍や、純友もいたし、中予の人間性とはひと味ちがう反骨の異端児の風土です。すごく憧れていた土地。
 大本義幸の句集を、その原風景とからめて理解の端緒をつけていること、この点で、あなたのこの鑑賞の固有性を高く評価します。気づかずして深い追体験がおこなわれ、句の内部に同化してしまった感があること、この句集の本質の部分に踏み込んでいると思いました。
 彼の俳句には、どこか読み手を「人生いかに生くべきか」というところから感動させる牽引力があるのです。それはもちろん「言葉」が牽引し喚起することなのですが、その言葉は「記号」ではなくていわば足音とか手振りとか、視線の波動そのもの、そういうことに似ているのです。そして、彼が歩いてきた場所は道のりは、これがまさに戦後の或る時代のそれなのではないでしょうか?



 

青山茂根 さんのコメント...

吟さま

ありがとうございます。
コメント長くなりますが失礼します。
こんな拙い文を、私がここへ出そうと思ったきっかけは大井さんの句集解説にある、「その村から脱出して」という箇所に違和感を覚えたためなんです。
密漁の句からその書き方だと、かなり寒村のイメージがついてしまわないか、と。
大本さんの句の魅力に少しでも近づけていたらうれしいです。

ただ、アップされたあとで思い出したことも2,3あり。
まず、大本さんに謝らなくてはならないのは、旧三崎町と旧伊方町を混同して描いてしまったことです。現在は合併されてすべて伊方町となっていますが、私が伺ったときはそれ以前でしたので、泊まった港のあたりは旧三崎町です。
そして、この話の翌日に、八幡浜でハンティングした農家の方が実は旧伊方町の方で、出演もして頂いたし、その方の自宅の庭も借りて撮影もしたのでした。それは旧伊方町でも旧保内町(現在は合併されて八幡浜市)に隣接したところで、海から石垣と石段がずっと丘の上まで続く両側に平屋建ての瓦屋根の家が建っているという、まるで尾道さながらの景色でした。故・市川準監督も、「仕事辞めたらあの辺の無人島買って釣りでもして暮らしたいねえ」と言っていたほど。

吟さまも松山の方だったのですね。私は強固な故郷を持っている方が羨ましくて、その辺の感情もこれを書いた動機のひとつです。父祖の地ではないところで生まれて、ずっとよそ者扱いを受けて育ってきてしまった者としてはこれらの句の世界は憧れです。また違うことでその地とも伊方町は共通点があるので。これは磐井さんもお仕事上で関係おありと思います。

南予の反骨の異端児といえば、磐井さんと座談会に出ていた谷君ですね。飲み会で隣に座ると「ヒヨシムラ一揆」の話聞かされます。

大本さんにどうぞよろしくお伝えください。

さんのコメント...

茂根さま。
 今週はあなたの句集評に関わってみます。
 じつは、私の生まれた場所は。愛知県犬山市です、愛媛県松山市には昭和二十年三歳のときに父親の仕事の都合で移住してきてそのまま一八歳までいました。だから、私も、松山とか愛媛の人からすれば「よそ者」なんです。こういうことが重要であった時代では、母たちは戦後の生活苦のなかで土地柄になじむのにかなり苦労をしたみたいです。でも、「それはお互い様じゃけん」というような土地の人情にふれるとこともあったからこそいまでは母にも私にもお友達がたくさんいます。人間の感情ってどこでもおなじです。うまれたところだけが故郷ではないのです。
 記憶に強く残っている育った場所とか。自分の精神形成に決定的ななにかを与えてくれた場所、学校やその場所。紐帯のありどころが「故郷=ハイマート」なんです。(初心の場所、と私は言っています。)
 でも、大本さんと話していると、少年期からの付き合いの濃い坪内稔典さんとの精神的な絆はつよいなあ、とおもいます。また、初期「豈」の摂津さんとの絆も、です。これは、大本さんのセンチメントの強い性格から来るのかも知れません。と同時に、俳句活動を通してできた故郷感覚もあるはずですね。
 「サバーピア俳句」というのが週刊俳句のさいばらさんのところで話題になりましたが、郊外のマンションだって、子供が長じたのちは立派な故郷だし、各同人誌や結社やこのウェブの場だって、まともに意見交換してわかりあうことができれば、私達にとってはりっぱなハイマートですよ。(俳マート、なんちゃって)。
 このことは、人間がアトム化してゆきそうな現代にあっても、いまもってますます大きなテーマになってゆくはずです。
 谷雄介さんも南予の人なのですか?じゃあ。ますますがんばってもらわんと。

青山茂根 さんのコメント...

俳マートですか、俳ミーもあるし、そういうのもありですね。

初心の場所というか、私がここに出させていただいているのも、餌を恵んでもらった外猫が居ついてしまったようなものです。ご本人たちはお忘れと思いますが、私がもう俳句続けられない、と思っていた時期に、年鑑の世代展望で磐井さんに、辞めてしまうには惜しい、と書いて頂いたこと、遡って7,8年前に家庭の事情で俳句が書けなくなっていたときに、図書新聞でれおなさんに句を取り上げていただいたこと、それらが契機となっています。この場を借りて今更ですがお礼申し上げます。本当に、これらのエールがなかったら、今俳句続けられていませんでした。

誰かの句を正当に評価していくことと、
自分も、次の誰かに頂いたエールを送れたら、と書いています。