【第五回】目・眼・瞳/ペニス・魔羅/尻・肛門
・・・江里昭彦
13 目・眼・瞳まなこ・まなざし・視線・視力・眼球・
眼光・肉眼・碧眼・老眼・瞳孔
触る、押す、蹴る、抱くなど、ひとが〈力〉を伝えるには、身体の一部または全部を相手に接触させる必要がある。しかし、相手と距離を保ったままで〈力〉を及ぼす方法が、二つある。それは、視線と声(言葉・悲鳴・叫び・歌)だ。「目は口ほどに物を言う」なる俚諺のとおり、視線も声と同様、繊細な心理から凶悪な暴力までの幾多の音階をもっている。
視線にこもる〈力〉に人類が強い関心を寄せてきたことは、世界各地に邪視信仰が分布する一事によって明らかだろう。邪視は、災厄・不幸をもたらす魔力めいた眼力のこと。その持ち主には、ソクラテス、アリストテレスら哲学者、ウェルギリウスら詩人、クロムウェル、ナポレオン3世ら政治家など著名人が多く含まれていて、私たちを驚かす。
バビロニアの伝承では、チグリス、ユーフラテス両河の水源は、女神の両眼である。呪力に限らず、眼からは生命と文明の諸力が流れでる。また、映画『アンダルシアの犬』には、女の眼球が剃刀で切断され、硝子体が溢れでるシーンがある。ブニュエルの創造した戦慄的な映像美学だ。
〔例句〕
緑蔭に黒猫の目のかつと金 川端茅舎
片陰の家の奥なる眼に刺さる 西東三鬼
蛇よぎる戦にあれしわがまなこ 富澤赤黄男
水仙花眼にて安死を希はれ居り 平畑静塔
神ありと決めし眼で読む冬の星 田川飛旅子
秋風の目薬をさし千里眼 中尾壽美子
暗闇の眼玉濡らさず泳ぐなり 鈴木六林男
雪国に子を生んでこの深まなざし 森澄雄
まなこ荒れ/たちまち/朝の/終りかな 高柳重信
孤島にゐる熱き眼玉のごときもの 阿部鬼九男
天より雪来ればたたかう子の眸 竹本健司
瞳無けれど戦盲眼を向けり潮騒 大沼正明
簾透きあらあらしくも妊婦の眼 宮入聖
14 ペニス・魔羅
男根・陽物・陰茎・睾丸・ふぐり
人体の最大の皮肉は、男性の外性器が、排泄・快楽・生殖の全く異なる三つの用途を、ともに受けもっていることだ。用途の頻度は、先に掲げた順に低くなる。生殖にいたっては、普通の人なら、生涯に二、三度用いればこと足りよう。これらの用途が切り離され、べつべつの器官に割り振られていたなら、男の悲喜劇の多くは生じなかったであろう。カトリック教会も、オナニーを禁じるとか、生殖を目的とする性交のみ是認するといった、抑圧的な姿勢で民衆に臨まなくても済んだであろうに。
男性の外性器のうち、ふぐりはその重要性にもかかわらず、あまり関心が払われない。もっぱらペニスが、性的な賛嘆の対象となり、かつオブセッションの原因となる。ペニスには、性的興奮が勃起という劇しい変化となって現われるからだ。春画において、ペニスは必ずと言っていいほど勃起している。その形状をいかに扇情的に描くか、徳川時代の浮世絵師は着想と技とを競った。
〔例句〕
春泥に子等のちんぽこならびけり 川端茅舎
索漠たる終の男根や龍の玉 永田耕衣
墓彫るを見る湯上りの魔羅さげて 島津亮
まら振り洗う裸海上労働済む 金子兜太
母を呪へり股間にさむきものつるし 堀井春一郎
勃起とは剛直なものはないちもんめ 岸本マチ子
陰毛という土砂降りの連帯や 徳弘純
紙の世のかの夜の華のかのまらや 摂津幸彦
父の陰茎を抜かんと喘ぐ真昼のくらがり 西川徹郎
囀りや魔羅を浄めるひとの口 江里昭彦
15 尻・肛門
アヌス・けつ
尻といい肛門といい、あらたまった言説の場に持ちだすには、なにかしら勇気が要る。それらが連想上、生理現象なら排泄・放屁に、疾患なら痔に、性愛なら肛門性交に、結びつくせいだろう。また、体罰としての尻叩きの屈辱感も影響を及ぼしていよう。逆の観点から言うと、権威を嘲笑し、神聖を冒瀆し、価値を転倒するためには、尻・肛門にかかる表現を積極的にぶちまけるのが、すこぶる効果的ということになる。ラブレーやサドがやったのはそれである。こうしたなかで、フロイトが「肛門期」を学術用語として用い広めた手柄は特筆される。
裸体画の伝統をもつ西洋では、臀部の描写は珍しいことではない。対するに、日本はそのような伝統をもたず、かつ、常に衣服が体型を隠すように包んでいた。日本人に臀部の美しさを認識させたのは、戦後著しく普及したジーンズである。
〔例句〕
幸さながら青年の尻菖蒲湯に 秋元不死男
子の臀を掌に受け沈む冬至の湯 田川飛旅子
朝日あり童貞の尻固すぼみ 金子兜太
前には尻の薄暮がある君ながもちするな 加藤郁乎
蒙古斑の尻割れば昔日の蕊の流れ 大沼正明
湖底の草が肛門にふれ眠られず 西川徹郎
暗殺者の手が撫でている青い尻 上野ちづこ
少年の肛門より降霊術の朝靄 江里昭彦
童姦ヤ臀部ニ死ク秋彼岸 森山光章
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