2008年11月22日土曜日

きりぎしまでゆく――『空塵秘抄』を読んで・・・尾﨑朗子


きりぎしまでゆく――『空塵秘抄』を読んで

                       ・・・尾﨑朗子

恩田侑布子さんは言葉の力を信じている。だから、恩田さんの一句の中の言葉は動かない。

綿虫を眷属にして人来る
瀧飛沫たましひの鞘抜きしより


一句目、綿虫にまとわりつかれている様子を「綿虫を眷属にして」と表現する。綿虫を「眷属」とすることで、「人」と「綿虫」の距離は縮まる。しかし、その人はこの世の人とこの世からは少し遠のく。言葉が異界を近づけ、この世の現実をおぼろなものにしている。

二句目、目に見えぬ「たましひ」の入れ物を「鞘」としたとたん、「たましひ」は危険なものへと変化する。「瀧飛沫」を浴びている作者とその「たましひ」は開放され、作者を取り巻く人間関係や社会から隔絶していき純度の高いものとなる。それは、鞘から抜かれた名刀の輝きであるとともに、人を傷つけるかもしれない危険なものへとなるのだ。「たましひ」の純粋性と危険性が「鞘」という一言で捉えられている。

これらは、「眷属」でなくてはならないし、「鞘」でなくてはならない。言葉の、表現の必然性があるのだ。

また、言葉はときに事実を超え真実に行きあたる。

碧空のまなこ睡蓮ひらきけり
急流の巌のうらは青蜥蜴


一句目、睡蓮を「碧空のまなこ」といったときから、睡蓮は「碧空のまなこ」となる。一義的な世界では睡蓮は睡蓮であり水生植物以外の何ものでもない。しかし、詩人の住む多義的な世界では睡蓮は空の目となりうる。詩人に言葉を与えられることで、事実を凌駕する架空現実が現れるのだ。それが詩人にとっての真実である。

二句目も同様で、清廉な急流の岩の裏を「青蜥蜴」といったときから、そこは「青蜥蜴」となる。岩の裏に「青蜥蜴」がいそうというのではない、その空間が「青蜥蜴」そのものになるのだ。

きりぎしまでゆけば来てくれますか 藤

恩田さんの句には、どこかぎりぎりの緊張感がある。それは天に向かって飛翔する場合にも、地に落ちゆく場合にでもだ。たぶんそれは現状では満足できない、常に変化を求めてしまう宿命を潔く肯っているからに違いない。

この句では、「きりぎし」に立って遥かな一点へ思いを馳せている。一字開けてつぶやくように置かれた「藤」は、作者を救済するものなのだろうか。「藤」は蔓性の植物だから、するすると手を伸ばしてくれるのかもしれない。しかし、同時に、作者の胸のうちには蔓性のしがらみから逃れたい思いもあるのではないだろうか。だからこそ「きりぎしまでゆけば」という厳しい条件が付されているように思われる。一歩退けば崖の下というぎりぎりの場面を設定したこの句は、ぎりぎりの状況下の相聞を詠んだものかもしれないし、作者の中にある人生哲学から発せられたものかもしれない。しかし、どのような状況であってもここには、俳句という文芸に臨む作者の姿勢があるのではないか。そして、この一歩の揺らぎを恐れない姿勢こそが、言葉に携わる詩人に必要なものなのだろう。

地球これ乗り合はせたる宝船

最後に、広い視点で読まれた向日性の一句。同じ時代に、同じ船に乗り合わせたおかげで、この句集と出合えたことに感謝してこの稿を閉じたい。

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