2008年11月21日金曜日

恩田句集評 福田基














テレパシーで捉えた宇宙のアニミズム

恩田侑布子句集『空塵秘抄』評

                       ・・・福田基

初めにロゴス(言葉)があった。ロゴスは神と共にあった。ロゴスは神であった。このロゴスは初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。このロゴスが命であった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。(新約聖書・ヨハネ福音書)

言葉は、人間の進化のカテゴリーの中で、愛や悲劇を育みつつ、人間の精神の中で変化してきたことは確かな事実である。「言葉は沈黙から、沈黙の充満から生じた。言葉は、その下に沈黙の広大な基盤がよこたわっているときにのみ、安心して広大さによって、言葉は、自身もまた広大なることを学ぶのである。たとえていえば、沈黙は言葉にとり、ちょうど綱渡師のしたにわたされた網のようなのである。いかなる言葉も沈黙のなかで姿を没してゆく、言葉は忘れられる。そして忘却はまた宥恕を準備するのである。それは言葉の構造のなかに愛が織り込まれていることの証拠なのだ。」(ピカート『沈黙の世界』)

ソシュールの『言語学』もあるが、時代と共に変化していった。言葉は化石だという発言もあるし、カメレオンという人もいる。この各々の言語学は多義多様であるが、ぼくは個人的な意見だけれど、タゴールの『迷える小鳥』の一章を好む。

おお海よ、あなたの言葉はどういう意味ですか?
永遠の問いという言葉です。
おお空よ、あなたの答えはどういう答えですか?
永遠の沈黙という言葉です。

不思議なのは詩人の谷川俊太郎ですら「黙って目の前の、ことばにすることのできない存在をみつめていたい。」と述べている。ただし、ことばに出来ない存在を見つめていたのでは存在は成立しないし、それに悩み苦しみながら書き終えたのが、ハイデガーの『存在と時間』であり、サルトルの『存在と無』ではなかろうか。言葉というものは「知性・実在・魂・生命」の中にあるのであって、それを表現しなければ沈黙も現れないであろう。自他相忘れ、主客相没するのなかでロゴスの神秘が醸し出されるならば、言葉に尤(とが)は無いだろう。

ぼくは約三万冊の俳書を蒐集した。蒐集の先輩である蒲田の幡谷東吾宅も訪ね、互いに情報を交換しながら、それが何のためか、わからないが、一種のエゴイズムであったのだろう。それらは東吉野村をはじめ三分割して無償で寄贈した。七十歳になって〈もの〉に対して未練というものがなくなった。現在、生きている命とて「空塵」のようなものだ。加えて、前進しているのか後退して歴史の痕跡を残しているのかわからない時間というものを、僕は認めていない。時間は誰にも見えないのだから「空(くう)」といってもいい。しかるに、なぜ老いが襲うのか? 太陽が東から出て西に沈む繰り返しが老いをもたらしていると思うとき、太陽が憎くてならない。

ところで三万冊の蔵書を寄贈したのにもかかわらず、いまだ書架には六千余冊はある。それで毎日一冊読み直したとなると約二十年かかる。加えて、その本の種類が「色彩心理学」「哲学」「宗教哲学」「史学」「言語学」の論文ゆえ、再読に時間?がかかる。けれども購入したとき走り読みしているので、その要点だけはわかる。したがって、僕の文章はいたって曖昧であることを断っておきたい。少し目をやると何とシャーマニズムやアニミズムの書物の多いことか。まさしく、ぼくの書架にある諸々は「色即是空」か「いろは歌」の残映に外ならないと思っている。

その中にあって『私とは何か』の著書があった。先年ぼくは「私」についてのエッセイを「白燕」に書いたことがある。つまりこういうことである。「私」が、いくら「私」だといったところで、それは「私」ではない。そのことが如実にわかったのは、入院の医療費の給付を受けるため保険会社に実印や書類万端を揃えていったのだが、そうすると保険会社の職員が「貴方」であることを実証できるまで、ひとまずお帰り下さい、という。少々頭に来た「私」は、「私」でないのですか、とすごい剣幕でまくし立てた。「私」が「私」でないというのは、どういうことですか! 保険会社の職員は、御立腹は当然だと思いますが、「貴方」を認める外交員が、いま外出しておりまして「貴方」の「私」を認めるものが不在なのです。立腹のほどは、わかりますが、貴方を「私」と知っている外交員を貴方の家に差し向けますから、今のところは、お帰り下さい。いくら押問答をしても埒があかないので帰宅した。翌日、外交員がやって来て、昨日は申し訳ありませんでした。それも生命保険会社の安全を護るための規約なのです。そこで外交員に「私」を「私」と認めるのは貴女ひとりですか? いや、そのこともありまして、二人か三人で、お訪ねしたことがありますので、二、三人は貴方を知っていると思います。すると「私」というのは貴女が認めたのが、真の「私」ですか。外交員は、失礼でございますが、「私」は「私」でなく「私」が認めた貴方が「私」ということになります。廻りくどい話になった。「私」というのは「私」の世界に存在するのではなく、すべて他人が認知したものが、「私」ということになる。腱鞘炎のため原稿を書くのも指が痛いのだが、それとて他人が認めないから、「私」の〈もの〉なのだろう。結局、「私」というのは、「私」と思うなかに、ひとりいるだけということになろう。

余談は書き出しだ。当一章は長文になるため、「私」が「私」を敢えて認めた自己紹介を書いておこう。当然のことであるが、他人が認めると思って書いているのではない。「私」を認めない「私」のために書いているのだ。

ぼくの生れは徳島県海部郡由岐町志和岐浦である。現在、美波町になっているが、虫眼鏡で地図を見ていただこう。その僻地が理解していただけると思う。福田本家は代々漁師であった。そのぼくの祖母は四歳のときトラホームにかかり全盲となる。ある年齢になってマッサージ師をはじめて生業の糧にしていた。それが三十歳前後から山に籠り口寄せとなり有名になった。その祖母を犯したのが、撫養の御家人の某氏であった。その某氏は最後まで入籍しなかった。その祖母から生れたのが母清子である。母の漁師町は貧乏ゆえ尋常小学校を卒業後、大阪に奉公に出た。昔の漁村はみな同じようであった。ところが、その母の若いころの写真などを見ると絶世の美人に成長していたのである。当時の女性としては一米六五センチもあるのだから現在ならファッションモデルにでもスカウトされたであろう。

その母を見初めたのが阿南市の豪農の次男、阿部勝であった。そこで大変ないざこざを生じた。父は旧神戸工専(現神戸大学)出身でもあるのと、家柄の格の違いにあった。ぼくの子供のころ阿部の実家は厖大であり三つの白い倉もあった。まして小作人が食事をするときは、まるで炉端焼の感があった。阿部家は阿部に嫁ぐのが当然といい、口寄の祖母は福田家が絶えるといって反対し婿養子だといって頑なであった。すでに、ぼくは生れていたのだが、何姓かわからない。その後、昭和八年に祖母福田サトと阿部勝の実印で志和岐浦の旧庄屋家を千二百円で購入している。当時の千二百円は大金であり口寄せで買えるわけがない。何年ころ阿部家と福田家が和解したのかわからないけれど、いずれにしても、婿養子が成立して福田勝となったのだ。したがって、ぼくの生年月日は定かでない。しかし、福田勝があって、今日のぼくが在るというのも運命のいたずらであろうか。

加えて、小阪奇石という黒木拝石の弟子という書道家がいて、由岐町そのものが書道家の集団であったと言えなくはない。戦争中であったが、書道は六年のころ六段になっていた。それはともかく、六年のはじめに父が工業学校を受験しろという。担任の教師に連絡すると驚愕して、父と掛け合った。当志和岐浦から、いまだ歴史のなかで一人だに合格したものはない。無理だという。しかし、父は試験は水もので、そこらに入学出来ないようなら人間としての将来はありせんよといって頑であった。ぼくには全く自信はなかったが、全く開き直る気分で受験した。ところが通ったのである。一つの人生の紛れ当りとでも言えようか。それが今日ある「私」なのである。大学の入試の入学「適正検査」はともかく、毎日のように行う「知能テスト」にはいささかまいった。つまり当時はガリ勉の入学よりも将来を見越した一般的な頭脳が必要であったのだろう。全く人権無視の時代であったのだ。その折京大を受験しようと思ったのだが、父は、これからはダムや護岸の時代が来るといって、地元の工学部に入学した。

けれども、父の先見は外れていた。その時代も不況であったため大手土建会社の入社試験の掲示もなく、あるとき大手土建会社に一名の採用の掲示があった。学生の誰もが振り向きもしなかった。某教授が君は運のいい男だから受験してみたらという。それも面白いではないかと思って受験した。一週間ほどすると呼び出しがあった。その問いがユニークであった。この履歴書、君が書いたのか、それとも代書屋に書かしたのかと聞く、それは、ぼくですが、というと「君は何者か」といった。当社に書道歴で有段者もいるが、とても、これだけ書けぬという。その説明をしろ!ぼくは応えた。工学部の時代、アルバイトで某結社の八段指南で中年の女性を四年間教えただけです。といった。そうか帰ってもよろしいという。怪訝な気分で帰ったのだが、一週間後、採用通知が来た。これとて運命のいたずらだが、後に聞いた話しだが、「君は四番目の成績であったが、多分、その筆力では製図も旨いであろう。松山火力発電所の施行図係として赴任せよ。」という。芸が身を助けるという諺のようになった。その松山の臨時職員の女性のなかに酒井黙禅の同人がいて、俳句を少し齧った。それが病み付きとなり今日のぼくがあるのである。不思議な縁と言えようか。

そのころの土建会社は封建的であり、コンクリートや鉄骨の組立てが終ると、トラックに上乗りして「松ケ枝町の女郎買い」が日課のようなものであった。三百六十五日のうち、正月休暇は三日間という。とても、ふるさとに帰ることもできず、ボーナスの封も切らずに「松ケ枝町の女郎屋」で過ごした。それが三年つづいたのであるが、そのような刹那的な生活でいいのかと考えはじめ、三年の後の春、退社することに決めた。随分と慰留されたけれど退社した。その後、徳島に帰り工業高等学校の代用教員などしていたが、何か自分の仕事と思い、工業学校の課長に相談すると、名古屋大学の教授の紹介で、京大のI・T博士に弟子入りするところとなった。

ところがI・T博士のいうことには、「君のような工学部出身では、とても聴講生にもなれぬ。私の研究室で一年半ばかり勉強しなさい。」ということになった。カントの『判断力批判』から始まって、ヘーゲルの『美学』、ルカーチの『美学』、また宗教哲学まで読まされたのである。一年余り過ぎたあと聴講生と各教授が認める論文を書けという。言われるまま論文を書いた。I・T博士は「まあまあかな」といったのはいいのだが、それを英語に書き直せという。英語のことは多少わかっていたとしても、戦争中、英語の禁止の時代に育ったぼくにとって、全くのナンセンスであった。ところが助ける神もいるもので、某氏の紹介で、ぼくのぎこちない英語の論文を添削してもらったのである。英語は書道のようにはいかぬ。とつくづく思った。そのI・T博士のもとで四年半過ごしたことになろうか。つまり、哲学・心理学・仏教哲学を、いやになるほど読んだということになろう。

その終了後、一時大手建設設計事務所に勤めていたが、三年後に独立して会社を興し、設計事務所を経営し、色彩コーディネーターを生業とし、六十三歳で勇退した。その間、昭和三十三年から山本古瓢の添削を受け、昭和三十六年から林田紀音夫に師事し、昭和三十九年「ひこばえ」創刊同人、古き「海程」の同人なれども兜太氏が主宰になってからは出句せず。しかし、同人費を支払って「海程」の同人であることは、当時の先輩たちを思いまた憶い出すためである。余談になるが京大のI・T博士時代の金銭は母・清子の仕送りによるものである。このような多様な人生は多分、口寄の祖母のシャーマニズムに負うところが多いのではなかろうかと思う。したがって、ぼくの血の流れは、漁村の逞しさと、現(阿南市)の天才「マーサン」こと父勝に加えて、祖父の武家思想にあると思っている。

このようなぼくが、このたびの『空塵秘抄』を鑑賞するので、どこに飛び火し引火するか、わからないことを、はじめに断っておこう。

秘色青磁ここよと瀧の凍ててけり
綿虫のむらさきだつをともにせり
手鏡の巫女と会ふべし冬の川
なぎの葉の平行脈の淑気かな
冬山の径たましひの展翅板

自然は身体ならびに精神の能力において平等をつくった。ただし「精神の能力」における平等ゆえ、つねに平等から不信が生じる。つまり「精神の平等」は誰かが二人同じものを欲したとすると、そこで平等の均衡が破れる。それが些細な諍いから発展し、戦争にまで発展する。それは理性が言葉や約束事によって満たしえなかった全空間の空気を汚すようなものだ。したがって、「平等」ことに物質的「平等」は成立しない。その平等はともかく、池田晶子の『リマーク』の一部を抽出してみよう。

在ること/存在  成ること/現象
現象≒存在=魂
魂は理性に問い得ない/しかし、問うのは常に理性である/問いによって問い得ないもの/それをこそ問いたいのだが/問いは受動ではない/問いは能動である/しかし、答えもまた能動である/(それでなければ何が答えるというのか)/したがって、答えは、答えではない/問うというさまによって/答えというものは/ない

これからは、さまざまな学者や先達の言葉を借用しながら、恩田侑布子の作品の心髄を探り起こしていきたい。

冬蝶白し亡霊となりてなほ
幾千の木の芽われらの天井に
おほぞらのひよめきしだれざくらかな
夜櫻二本火炙りの刑もなし
切込をたびて花びら大虚に
  ⇒「大虚」に「おほぞら」とルビ

規範は法(のり)と事実を和解させる試みだが、俳句には規範の枠組などというものはない。だが恩田は有季の規範を遵守しているようだ。だが恩田にあっては季語の規範のプロセスは単に精神および心的な面の訓育だけでなく、「季語」という規範のマイナスをプラスに転換し模索するだけでもない。むしろ、やや難しいけれど、正常現象としての「犯罪」とさえ言えなくはない。恩田を異常者といっているのではない。梶井基次郎の桜は地下のアニミズムだが、恩田の桜は虚空をさ迷うアニミズムと言えようか。その表白にあるキアロスクーロがすばらしい。それと共に、その明暗は、実は主体がよく知っていながら認識したくないもの、無意識のうちに遠ざけていくものに、異化の機能を与えているではないか。また意識とは意識する行為であると同時に、意識する意識でもある。それがデカルトのコギト・エルゴ・スムではなかろうかと思う。恩田の表白はそのことによって多義、多様化しているとも言えよう。

藤のなみ波の穂うらにこゑしたり
身一つに凭るると藤大蛇なり
藤散るや女陰飛びたつ容して  
⇒「容」に「かたち」とルビ
重ならぬ一生なりけり雪の果  ⇒「生」に「よ」とルビ
黄すみれや地に黙契のある如く

掲句から意識する自我を感じる。フィヒテは自我の確実性を「わたしはわたしである」というトートロジー(同語反復)から来ているという。それにしても……

藤散るや女陰飛びたつ容して

の作品には、聊か度胆を抜かれた感がする。確かに言われてみれば、そのような感じもするし、藤の学名はwisteria(ウィステリア)で、その音調がエキゾチックなので、喫茶店や洋裁店の名前になっている。ウィステリアはフィラデルフィアの解剖学者カスパール・ウィスター教授にちなんだ名前である。英語では学名が一般名になっているが、ウィスィタリアと誤って綴られるのが普通である。北米に二種、東洋シナフジと日本フジが代表している。マメ科であることは葉を見ても花を見ても一見してわかる。花言葉は「異国の佳人よ、あなたを歓迎する」という意味になっている(参考・春山行夫『花の文化史』)。言われて見れば、藤は「マメ科」であったのだ。女陰の如く飛びたった、藤の花は勿論佳人であり宇宙で恋でもしているのだろう。一寸したアンニュイの季節だが、花が舞うことによって、清々しさを感じる。一般の女性論として有名なミシュレの『魔女』の部分を長文になるが抽出してみよう。

自然が彼女たちを魔女にした。魔女とは〈女性〉に固有の〈精髄〉とその気質なのである。女性は〈妖精〉として生まれる。規則正しく反復された気分の高揚をつうじて、女性はシビュラである。愛によって、彼女はマジシアン(女魔法使い)である。固有の繊細さ、いたずら気〈それはしばしば気まぐれで、善意から発するものだ〉をつうじて、女性はソルシェール(魔女)であり、ひとに幸福をさずけ、すくなくともさまざまの悩みを眠りこませ、まぎらせてやる。

原始的種族のいずれを見ても、そこにはかならず同じひとつの出発点がある。われわれはそれを諸〈旅行記〉をつうじて見ることができる。男は狩猟をし、戦闘をする。女は工夫をめぐらし、空想する。女はさまざまの夢や神々を生む。女は、日によって千里眼である。というのは、そのとき女は、欲望と夢想とから成る無限の翼をもつからだ。よりよく四季の動きをはかるために、女は天を見守る。しかし大地もまた天に劣らず彼女の心をとらえる。愛らしい花を両の眼で眺めながらも、若くまた彼女自身花である女は、花々と個人的な関係を結ぶ。女として、彼女は花々に、おのれの愛する人びとの病を癒してくれるよう頼む。なんと単純だがしかしひとの胸を打つ、さまざまの宗教と科学の端緒であろう! もっとあとになると、すべてが分裂することになる。そのとき、男の専門家というものが見られることになり、吟遊詩人・占星術師つまり予言者・降神術師・司祭・医師が現われる。しかしはじめは〈女〉がすべてである。

と述べている。ぼくは恩田と祖母の口寄せとダブらせて、藤からシャーマニズムを、その宇宙をとらえていることを知った。

さらば少年薄氷高く日へ投じ
涅槃図に駆けつけてくる母います
飛びたち易しかたかごの花と人
たまの緒もしだれざくらも梳かれつつ
永き日や黄泉より人のあふれ来ず

身体は「延長する実体」、心は「精神に属する実体」。これはデカルトの心身二元論の切り抜きだが、それを恩田俳句と切り結ぶと少々厄介になるので避けるけれど、哲学のいとなみは「死の稽古」だといったのがソクラテスであったという。それであるならば哲学ではなく『自殺論』を読めばいい。ぼくに言わせれば、哲学は人間相互が矛盾を感じ、その矛盾を説き解すものだと思っている。何も「死の稽古」をしなくても「人間は死すべきもの」である。その意味からすると哲学=理性、宗教=信仰、魔術=意志、という単純なものでいいかと思う。だが掲句にはいささかまいっている。

たまの緒もしだれざくらも梳かれつつ

最初は「ひらかなの」の「たま」を猫のことだと思ったが、それを「魂」とすると、まさしく幽玄の世界だ。仮に猫であれば「たまの尾も」と表現するだろう。広辞苑によると緒とは「魂をつなぐもの」とあった。ぼくは幽玄と書いたけれど、黄泉を連想したものであるとすると、まさしく幽界の世界だ。当然のことであるが、黄泉の国は誰も知らないゆえにしだれざくらが、あるのかどうかわからない。けれどもサルトルではないが想像の世界では銀河の外にでることも出来るのだ。それにしても「緒」が魂であり、梳かれつつ、の動詞は黄泉の国を経験した者でないとわかるまい。それは恩田のテレパシーが、「空(くう)」の世界に繋っているということだ。何しろアニミズムと対話できるのは透視能力と共にすばらしいことだ。ただし、そのような発想は現在「花鳥諷詠」を主流とする俳壇のなかで、なかなか通用しないことを、ここでは述べておきたい。哲学も宗教学もそうであるが、真理を掴もうと身を構えてしまう人が多い。それが甘かろうが苦かろうがまずは味わってみることでなかろうか。

わづらひのかげとも春昼の卵とも
うぐひす餅左右に尻をもてるごと
陰陽のゆらりゆらりと亀鳴けり
わが影をいくつはみ出し落椿
白露なり天の裾引く芙蓉峰

確かに恩田の表白には、ときには宗教的な虚空の世界があり、かつシャーマニズム的なテレパシーの透視能力がある。しかし、これだけは言えることは、その作品の中にペシミズムが溶融していないということだ。従来、アニミズム等々に深入りすると、どこかに仄暗いところが見えるものだが、それすらない。すると、林田紀音夫のようにペシミズムを意識していないことになろう。もっとも恩田自身は明るく屈託のない性格のようだ。したがって、恩田のシャーマニズムは勉学してのことであろう。加えて、アンニュイの作品も、蜾羸娘子(すがるい)。きわめて精神が健康なのだろう。決して五月メランコリーや十一月メランコリーにかかるような精神の軟弱性がないようだ。ぼくは恩田の思惟を表白を天才とは言わないけれど、天才とは学問によって教わる、勤勉によって獲得されるものではない。それは、ディスポジョン(生得的性質)であろう。それでなければ掲句などの作品はできまい。

大脳はたぢろぐ夜の牡丹かな
花いちご踏めばひゆるりと陰画かな
時間から剥がす空間大葭切
この地質若いと指せり青嵐
六月の息若冲の鶏の眼も

『時間と空間』の作品が恩田には多い。ただ、この問題は難しく、折々に和田悟郎先生に聞くけれど詳しくはわからない。『時間とは何か』の著が書架に二十冊はあろうか。それでもわからない。その物理学やサイエンスではニュートンが絶対的時間という概念を提出し、アインシュタインが、それを相対性原理で補正した。そして時間の単位はセシウム原子の発する電磁波の固有の周波数を用いて再定義されている。しかし、それとて、真の時間であるのか、われわれにはわからない。また、それを見ることも出来ない。それ以上に厄介なのが空間である。その時間と空間の共通しているところは何も見えないということである。その『時間と空間論』は際限なくつづいているが、ぼくはその中にあって、ベルグソンの『哲学的直観』のなかの時間論を好む。少し抽出してみよう。

時間とは、区切られた一定の空間に群らがるありとあらゆる事物と事象を交通整理して、その空間に収まる分だけの事物を、少しずつ小出しにその空間へ流してゆく力に外ならない。

と述べている。そうだ、空間に時間が埋もれれば世界の終りだ。色彩は世界の頭脳が合流する場であるが、時空と空間の思惟は各々の感じかたであり、まったくのメタファーと言えよう。現在、この稿を起しているとき初秋の秋晴れだ、すると空間の高さは、自ずから青空の高さだが、横の広さはメッカーの『視覚の法則』だ。ところが星空となると「無限」?の空間ということになろう。その意味で恩田は『時間と空間』のマジシャンということになろうか。

蛍追ひ星の林の奥へかな
水盈ちてそらみつやまと田植唄
  ⇒「盈」に「み」とルビ
山滴るその一粒のわれらかな
また育つ古き写真の雲の峰
うす墨の芥子たゆたはす団扇かな

恩田の作品は多義多様性があることは以前にも述べたと思う。恩田は決してシュールレアリストではないが、幽かなシュールな一面もある。書架にある、アンドレ・ブルトンの『シュルレアリスム宣言』の一部を抜粋してみよう。

シュルレアリスム、男性の名詞。心の純粋な自動現象であり、それを通じて口頭、記述、その他あらゆる方法を用い、思考の真の働きを表現することを目標とする。理性による一切の統禦をとりのぞき、審美的あるいは道徳的な一切の配慮の埒外でおこなわれる。思考口述筆記。哲学用語。シュルレアリスムは、これまで閑却されてきた、ある種の連想形式の高度な現実性への信頼と、夢の全能への信頼と、思考の打算抜きの働きにたいする信頼に基軸をおく、それ以外のあらゆる精神機能を決定的に打破し、それらに代わって人間の重要問題の解決に努める。

と述べている。それらは芸術の思考の一端として認めることができるが、そのシュルレアリスムもダダイズムも現在において衰退してきたのは、その文中の「審美的あるいは道徳的な一切の配慮の埒外でおこなわれる」という思惟にあろう。人間というものはふつう子どもじみているが、他者との対象において生きているのである。たとえば、病にかかると、「あの人よりましだ」と自身を慰める弱さがあるからである。まして集団社会においては尚更のことであろう。

そこで『リマーク』の一章を抽出してみよう。

見ることを失うことの可能性/自己同一の切断/狂気においては実は常態でなかったのか/千変万化する表象の/その表象でそれであるという、まさにそのことにおいてなぜなお/見るの/意味が/そこに?意味?

たしかに瞬間から生命の物質の一点を見る。それは生命の奔出であり、時間が在(あ)るとすれば、その時間の駆動を見るのである。恩田のシュールは柔らかく甘い。甘いというのは悪い意味ではない。瞬間は本来時間の原子ではなく、永遠の原子であることを充分わきまえての発想であったのだ。

大花火浮生の影のしたたりぬ  ⇒「浮生」に「ふせい」とルビ
千年や桃の産毛を形見とし
われらよりさきに死者訪ふ蜻蛉かな
大虚は抜身なりけり曼珠沙華
そびらより抱く月光を焚きしろに

幸福とは何か? それは永遠のテーマであってギリシア時代から繰り返し考えられてきた。ギリシア人の叡智によると、人間は柩のふたを覆うまで、幸福かどうかわからない。仮に一生の大半を栄華のもとに暮らした人も、最後は災害で何もかもうばわれて死ぬかも知れない。人間の生涯の紆余曲折を考えるとき、生れてこないのが一番幸福なのかも知れない。そこでアリストテレスは考えた。彼は美を求めるエロスを獲得することだと、しかし、幸福になるためには、最初に不幸を探さなければならない。「不幸とは何か?」それもこの世に生れてきたからである。不幸が神を不在にする? 魂を愛することをやめると、神の不在が決定的になる? 魂が愛することをやめると、地獄に等しい。では、神とか佛とかはなんだろうか? 誰かそれを見たことがあるのか? 「良き時を持つことが幸福か?」 ともかく生まれた以上、幸福も不幸もない、それは意志の問題であろう。したがって、現在まで書かれた『幸福論』は、どうやら破産してしまったようだ。だからぼくは、つねに「色即是空」である。恩田は幸不幸の中庸を書きつづけているといってもいい。恩田の「空」の思想に取り憑かれいない表白はすばらしいと思う。しかし、そのような自在性は「花鳥諷詠」を支持する現俳壇のなかでは、それを認める俳人たちが少ないということになろうか。

松蟲草とどかぬものに満たされて
闇迫る花野の深井忘れめや
なないろの風たぐりつつ瓢の笛
昼の蟲不在を確かむるために
大地の廻り音より疾しななかまど  
⇒「大地」に「ち」とルビ

世界の〈もの〉それをつくり使用する生き生きした人間の貪欲な欲求や欲望に対して、少なくともしばらくはそれに抵抗し対立し持ちこたえることができる。それは世界の〈もの〉の客観性である。つまり人間の主観に対立しているのは、無垢な自然の荘厳な無関心でもなく、人工的な世界の客観性なのである(参考・アレントの『人間の条件』)。客観というのも、〈もの〉客体のことであり、自然もそのひとつである。虚子がいったという『客観写生』、これは人為では成せない。客観というのは、人間の五官が捉えた瞬時のものであり、たとえば、空を眺めて美しい(原文傍点)と感じたとき、菫が咲いてきれい(原文傍点)、と感じたときは、すでに主観に変貌しているので、横山大観の富士の描画が本物の富士山よりダイナミックに美しく見えたときは、それは大観の芸であって、かつ主観でもある。現実に思うのであるが、「花鳥諷詠」はともかく、「客観写生」を「主観写生」と置き換えたい気分である。美学では客観写生といわず「客体の模倣」という。その自然にしろ〈もの〉にしろ、完全に模倣できないため、その主観的表現を芸術という。恩田の作品には芸術らしきものと、やや人為な些事も紛れている。しかし、大きく見れば、やはりサイキックなテレパシーと言えるのではないか。それと同時にペシミストではないのに、何か明るさのなかに透明な湿気を感じる。ぼくは、その湿度と大きな空間?が好きなゆえ、それらを片寄って掲出しているとしたら許していただこう。

朴枯れて空の真洞に寝たりけり
冬泉まもなく川にのまれたり
垢抜けて水木落葉と還らばや
なに食うて生きてきしやら神楽笛
水仙をみちづれ過去をさかのぼる

宇宙は欺かない/欺くというその思いが、欺くというそのことなのである/つまり宇宙はそう思うようにあるのである/宇宙は/思いの鏡である/そう思うようにある/自由/生きようと思うことが生きることであり/死のうと思うことが死ぬことなのである/生死は常に選択が可能である/生死は意志である/自由/なんでも自分の思うようにできる/げんにそうしている/絶対自由/無重力 『リマーク』

恩田侑布子の発想は自由奔放である。ぼくも自由でありたい。そのことを、ぼくが書くよりもサルトルの『実存主義とは何か』が的を得ているので抽出してみよう。

人間は自由である。人間は自由そのものである。もし一方において神が存在しないとすれば、われわれは自分の行いを正当化する価値や命令を眼前に見出すことはできない。こうしてわれわれの背後にもまた前方にも、明白な価値の領域に、正当化のための理由も逃げ口上ももってはいないのである。われわれは逃げ口上もなく孤独である。そのことを私は、人間は自由の刑に処せられていると表現したい。刑に処せられているというのは、人間は自分自身をつくったものでないからであり、しかも一面において自由であるのは、ひとたび世界のなかに投げだされたからには、人間は自分のなす一切について責任があるからである。

と述べている。この自由は、やや、神によって遁走しているが、しかし、前述のように「私」ではない「私」は自由である。恩田の表白はそのことを、わきまえての発想だと思っている。それでなけれな、ナルシシズムをみちづれにして過去など見ることはないだろう。

とんど火の天に沖あり加賀の国
冬の噴水あらつても洗つても斜め
天籟の遊びゆきしや初氷
刀の沸かがよひやまぬ寒夜かな  
⇒「刀」に「とう」、「沸」に「にえ」とルビ
枯葎身のうちに金沈殿す

哲学のなかでは「内在」と「超越」という言葉がよく出て来る。ある意味ではフッサールが、意識の流れのなかで、その主体がわかるものを「内在」とよんだ。それに対して、意識が向う志向を超越とした。その論理は厄介なので避けるけれど、ともかく現象学的なエポケーに残るもの、ということよりもエポケーによって初めて開示されるものは存在の領域、すなわち主観性という絶対的なものである。ただ、体験と根拠がノエシスとノエマに還元されるとき、相手とのあいだの対話の可能性を見ることができよう。その表白のコミュニケーションは主観的な条件と省察されることになるだろう。その間(はざま)にある中庸性は恩田独自なものといってよい。それが分裂的ディスクール! そんなことはない恩田は俳句をバンヴェニスト、つまり「私を語る」主体として捉えているのだ。その表白の言語がアンバランスであるのも、それは恩田の自我というものではなかろうか。むしろ、通読した限り、そのアンバランスがユニークであったと言えよう。加えて、レトリックが皆無といってもいい。たとえ、宗教的な意味があっても、その表白はさわやかであった。つまり粘性がないということだ。仮に湿度が垣間見えたとしても、そこには意図的なものがなかった。レトリックはギリシア語のレトロールから来ている。さらにレトリックは、モノローグという性質よりも生活の慣習のなかで育まれたものだが、恩田の表白にはそれしかない。たとえば、恩田の表白を和田悟朗先生が面白いといったとすれば、それは表白の多様性にあろう。しかし、ともすれば、パレーシャルの特性が、もっとも色濃かったからであろう。たとえば、レトリックがモノローグ的な生活や慣習のなかで育まれたとすると、恩田はユニークな表白もするけれどドクサ(臆見)的でなかったということになろうか。いずれにしても、その多様・多義性は「私」が認める恩田の作品であったということだ。

はじまりはたれも頬染め初茜
後にせよのつぺらぼうの冬の駅
てんでんに温泉に浸かるごと雪の墓
  ⇒「温泉」に「ゆ」、「浸」に「つ」とルビ
石に描く0限りなし冬夕暮  ⇒「0」に「ゼロ」とルビ
地球これ乗り合はせたる宝船

一応、通読を終えた。憂鬱は偏に褪めた情熱に由来するという諺もあるけれど、恩田の性格はきわめて、明るいように感じる。あとがきに、

……年々、空の塵なる思いが深く、句集名を『空塵秘抄』としました。/『梁塵秘抄』を読み耽っていた二十歳ころの思い出もあります。後半にある恋の歌ももちろん好きでしたが、

夜更けて中夜に至る程、州鶴眠りて春の水、娑婆の故き郷に同じ、
寒鴻鳴きては秋の風、閻浮の昔の日に似たり、

という一節になぐさめられていました。極楽浄土の静かな夜ふけは、憂いに満ちた春の水や、閻浮提の秋風が恋しいというのです。……きのうは、茶畠の中を夜泣石に向かって歩きました。道のべの木槿は馬にくはれけり、と芭蕉が詠み、年たけて又こゆべしと思ひきや命なりけり佐夜の中山、と西行が詠った道。炎天をよぎるのは青蜥蜴ばかり、汗の川になって辿りついた夜泣石は、棕櫚の柱の祠に涼しく安置されていて、……おや、石の後ろに小さなお坊様、と思うや、瓢然と風のように見守って立っておられるのは空海像でした。大空と微塵が、ここでほのぼのとなつかしく語らっておいでなのです。「空中塵中に……自然の文を演(の)ぶ」という空海の言葉が浮かんできます。空中の一塵として大いなるもの遠いものを、私も求め続けていきたいのです。

とあった。この一章は若き女性のセンチメンタルな思惟が色濃いが、美しい世界だと思う。ただし、恩田が『空海全集』や『正法眼蔵』のすべてを読み切っていたとすれば、「あとがき」も多少変化したと思う。加えて、インドネシアの『シャーマニズム』また沖縄から発生した『シャーマニズム』に加えて、古代仏教のタントリズムでもある『空の思想史』を読破していたら、少し違った表白になっていただろうと思う。なぜなら、自分で考えていたことがなぜわかるのかと同様に自分の脳内で起こっている過程と類似の過程が自分の脳内のべつの所で起こっていることもあるし、その意味からすれば恩田の思考は、自分に正直であったということになろう。したがって、恩田のその「たま」が透明であるように『空塵』は濁っていなかったということである。ただ、「空海」にしろ「親鸞」にしろ、いずれにしても、それらの思想が俳句の表白の中に一貫して溶融していなければなるまい。和田悟朗先生が「面白い」といったとすれば、その表白のパラツキにあろうか。それと共に多少、饒舌でなかったか。俳句を林田紀音夫のように「垂直の一章」とは言わないないまでも、その表白にトリビアリズムが欲しかったと思う。トリビアルは、いいかえれば俳句の表白の力でもあるからだ。ぼく自身『林田紀音夫全句集』を編んだが、すべての作品を敬愛している訳ではない。林田の句集が完売したのは、その作品の良否よりも、ばかばかしいまでのトリビアリズムの作品が人々の暗誦性、もしくは口承性に耐えたということである。

黄の青の赤の雨傘誰から死ぬ  紀音夫

の作品も彼の計算によるものであり「黄・青・赤」は人工の三原色であって、それらは人間を含めて、すべて死ぬという暗示であって、それが自然の三原色、つまり光では「赤・緑・青紫」である。その自然の三原色は人類が滅びても太陽のある限り、地球上につづくであろう。そこら当りを踏まえた上で俳句は表白すべきではなかろうかと思う。確かに、人間の能力では自己自身を是認できないし、読み書きの能力とて、それは文字を識別するところまでである。つまり、そのような技能をもってしても、自己を省察できないということである。しかし、そのことによって、哲学・宗教・心理学・小説・詩・等々が現存しているということになろうか。

『空塵秘抄』の裏帯の中から、ぼくが抽出しなかった作品に触れてみよう。

隆起岩三千万年春怒濤

仮に地球の歴史が四十六億年とすると、その四十億年を先カンブリア時代といい、三億年を、古生代という。多くの化石が発見された恐竜の時代は二億三千万年つづく。すると地球の歴史はあと七千万年しか残っていない。それを新生代といい、わかりやすく言えばマンモスやオオツノシカの時代だ。これは推定だが、五千万年前に大氷期が発生し、マンモスの類は絶滅する。そこで猿たちは二本足で歩くようになり、そのことによって脳が発達し、それが進化して人間になったという説もある。だが、それは誰にもわからない。ある学者の言うところによると、人類が人類らしくなったのは五千年前位だといっている。掲句のユニークなのは、三千万年前に人類はいなかった。けれども、隆起岩に春怒濤はあったであろう。しかし「春」という言葉はなかった。当然のことだが、魂も人間がつくり出したものであり、勿論、神仏もそういうことになろう。想像力は自由だけれど、どうも、ぼくには「春」が気がかりでならなかった。それを遺伝子学から考察すると「無から有」が生じたものはない。したがって、三千万年前の人間の遺伝子が春怒濤を見たとなると、それはテレパシーを超越したものであった。

きりぎしまでゆけば来てくれますか 藤

掲句には、ぼくは追随できない。昔の「海程」の亜流と言えば、金子兜太先生に叱責を受けるかも知れないが、このような表白は俳句ではなく自由詩的な散文である。どこにポエジーがあるのかわからない。このような発想は二十余年前の「海程」ならばいざ知らず、まったくの少女趣味的な「夢みる夢子」となるのではなかろうか。以前にも藤は豆科といった。そうなると掲句はナルシシズムに酔っていることになろう。この作品を良しとする論評を是非とも聞きたいものである。

夏の富士使ひはしりの魑魅なる  ⇒「魑魅」に「すだま」とルビ

魑魅というのは、一般的に山林や木石の生ずる人面鬼身の怪物だ。さて、夏富士にそのような魑魅がいるのだろうか。当然それは想像によるものだが、確かに夏富士は滑らかだ。それを走るように魑魅がやって来るのだろう。言われてみれば、夏富士そのものが魑魅のような感じがすることがある。それを「使いはしり」と感じるのは、それぞれの個性によるものだ。これも私事だが昔、富士山麓の樹海に入ったことがある。屈強な案内人を二人雇って、一人の案内人であれば、もし、脳梗塞や心臓麻痺で倒れたらという不安もあってのことである。そこには覗く程度の空が見えるのみで、同じような橅や楢の鬱葱とした仄暗さであり、せせらぎの一つとて流れていない。ここに入る人々のほとんどは厭世自殺が目的だが、ガイドの話によると、ほとんど餓死する前に縊死する人が多いという。磁石も利かないから方向もわからない。折に人骨に出会うという不気味さだ。そこに入る人は、よほど悩みがあったのだろう。そこには魑魅はいないけれど、つねに死と紙一重であり、否!一人で入れば死を意味していよう。掲句の魑魅は死者のアニミズムでなかったことが唯一の救いであり、夏富士の霞から使者となったのであろう。けだし難解であった。

一瀑があり恋の火のまうしろに

掲句に対して、とかく批判を加えるつもりはない。若き折、誰にでも起こりうる概念だからである。しかし、その表白はダイナミズムだ。「空中の一塵として、大いなるもの、遠いものを、求め続けていきたい」のパラドックスの作品だ。だがしかし、ぼくは思うのだが作品の統一性が欲しいと思った。むしろ恋をするより、時空にさ迷う塵のなかから一類のアニミズムを捉えてほしい。

今さら何が問題なのか/謎と発見/謎を発見する/眼が謎を発見する/謎が謎を発見するのだから、今さら何が問題を得るだろうか/謎は問題ではない/解かれるべきは何かなのではない/謎は、謎である  『リマーク』

そうだ恩田のテレパシー能力からすれば空塵の謎を掴むことも容易だろう。

刃凍ててやはらかき首集まり来

恩田の俳句は『霊験記』でもないし『霊囿記』でもない。またユートピアを求めるものでもない。人間はエピキュリアンでもない。どちらかと言えば神秘主義者でなかろうか。そこで少しチェスタトンの言葉を借りてみよう。

現実の人間の歴史を通じて、人間が正気を保ってきたものは何であるのか。神秘主義なのである。心に神秘を持っているかぎり、人間は健康であることができる。神秘を破壊する時、すなわち狂気が創られる。平常平凡な人間がいつでも正気であったのは、平常平凡な人間がいつでも神秘家であったためである。薄明の存在の余地を認めたからである。一方の足を大地に置き、一方の足をおとぎの国に置いてきたからである。平常平凡な人間は、いつでも神々を疑う自由を残して来た。しかし、今日の不可知論者とちがって、同時に神々を信ずる自由を残してきた。大事なのは真実であって、論理の首尾一貫性は二の次だったのである。かりに真実が二つ存在し、お互いに矛盾するように思えた場合でも、矛盾もひっくるめて二つの真実をそのまま受け入れてきたのである。人間には目が二つある。二つの目で見る時はじめて物が立体的に見える。

掲出した恩田の作品は何かの理由があるのであろうが、それは神秘主義を超えた狂気とも言えよう。ぼくにその深い意味がわからないからである。これはたとえばの話だが、正月などは料理の刃が厨で凍てていて、その料理に家族の首が集まって来ることがある。そのような情景は戦中戦後、しばしばであった。加えて太刀凍てではないゆえ、多分そのようなことではなかろうか。しかしながら、「首」というのは晒し首に繋がるゆえ、その言語を考えなければなるまい。しかしユニークであった。

最後に、恩田は名文の「あとがき」があるように、宇宙や時間や空間や魂に私の狂気ではなく正常な五官を働かすことだ。空中の一塵として私を置いてみることだ。ゲーテが『ファウスト』の中で欲望の追求は絶望に行きつくことの示唆であるといったが、アニミズムに欲望などありはしない。かつ神秘もそうだ。インターネットで検索してみたら「自殺・絶望」よりも「自殺・希望」の言葉がヒットしたように、自殺という見えない「空(くう)」もしくは「無」を求めているのだ。つまり俳句は現象界に存在する〈もの〉を五官で捉えたものであるがゆえ、それが植物であろうが花であろうが人工的〈もの〉であろうが、凝視すると「何にせ?(原文傍点)」の疑問と共に、その〈もの〉のルーツがわからなくても幽かに見えてくるものだ。それがアニミズムである。平凡に見える作品のなかに、それらの深みが隠されているものが最高のものとぼくは思う。

鑑賞とも批評ともなっていない雑文は「私」が「私」でない者が書いたゆえ許していただこう。ふと思うことは静謐な表白の中にこそ空中のアニミズムが見えているのだ。シュルレアリスムが、歴史から消えたように、俳句もまた、難解な作品は歴史から消えることになろう。時間と空間の中にいれば、自ずからアニミズムの声が聞こえてくるだろう。

『空塵秘抄』に幸あれと祈るとともに更なる発展を期待し雑文の紙尾としたい。

--------------------------------------------------

■関連記事

きりぎしまでゆく――『空塵秘抄』を読んで・・・尾﨑朗子   →読む

-------------------------------------------------

■関連書籍を以下より購入できます。




3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

福田基さま

 熱意ある長文の書評を率先してお書きいただき、本当に有難うございました。本欄をおかりして改めてお礼申し上げます。運命論者ではないのですが、つくづくわたし不思議なのです。と申しますのも、35年前、自殺を考えない日はなかった1高校生が、林田紀音夫の〈滞る血のかなしさを硝子に頒つ〉の一句に出会い、こんな小さな詩形でこんな深い詩が書けるんだと衝撃をうけました。どんなにその一句を呟いたかわかりません。

 とうとう生前の林田紀音夫には会えませんでしたが、紀音夫のたったひとりの高弟の福田基さんに、しかも、林田の全句集の編纂という、後世にのこる偉業を成し遂げた直後の福田さん自らに、拙句集評執筆の申し出をお受けし、こうしてお書きいただき、35年前の出会いが結実したような感慨をおぼえます。

匿名 さんのコメント...

恩田さまは、林田紀音夫さんがお好きなのですね!私も大好きで全句集を持っております。
職業柄、人を殺したあるいは、見殺した経験のある方の句はわかるので、私は心が安らぎます。ああ、この方も苦しんでいたのだな、と。

> 福田基さま

はじめまして、純粋読者でいつの間にかすみつかせていただいております、産婦人科医の野村と申します。
論評よりも、本分、特に自己紹介の部分、とても楽しく拝見させていただきました。

 福田さまの育った環境は、もうすでに私のような若者?には異世界のようになっていて、もう先に逝ってしまったおじいちゃんのお話をきいているようで、とても楽しいものです。
 たくさんの話を聴いたはずなのですけれど、もう本当にききたい時には、そこにいない。なにか日記のようなものでも残していてくれたら!と思うのに、あの文章が好きだった人が何も残していないのはとても残念でなりません。

 たくさんの昔話を書いてくだされば、と思います。でもここは俳句の世界ですから、こんなコメントはいけませんでしたでしょうか。祖父は「特攻隊員」を選んだ側の人でした。

匿名 さんのコメント...

野村麻実さま
 林田紀音夫の全句集をお持ちとは素晴らしい純粋読者でいらっしゃいますね。しかも
「職業柄、人を殺したあるいは、見殺した経験のある方の句はわかるので、私は心が安らぎます。ああ、この方も苦しんでいたのだな、と。」
という短いコメントの中に、紀音夫俳句の不易の魅力がある意味語り尽くされていると思い、麻実さまって、物事の本質を見抜くすごい力をおもちだなって思いました。

 紀音夫は、生老病死に丸腰で向き合った本当の詩人ですよね。全句集が売り切れたというお話、福田さんからお聞きし、日本人も捨てたもんじゃないなとうれしくなりました。