■評論詩「切れについて5又は新しい切れと切字」
(作品番号13)
・・・筑紫磐井
1.切れのない俳句例示
(1)虚子・筑紫の切れ(仁平の言及例)
仁平勝が『俳句の射程』(平成十八年)の「類型のすすめ」の中で、
虚子の句を取り上げている。
仁平は虚子の文体、俳句の特性として掲げているので、
決して虚子の名句としているわけではないが、
当面の議論には便利な句である。
籠負ひて焚き火煙に現れ来 高濱虚子
油虫聖賢の書に対すのみ
苗売の立ちどまりつつ三声ほど
気にかかることもなければ梅雨もよし
よき人によき火鉢をと思へども
仁平の言葉を断片的につなぎ合わせると、
「切れのない虚子独特の平句的文体」
「内容が他愛ない」ということになるが、
分からなくはない形容である。
もちろんこれは切字を論ずる中で挙げているのではないので、
厳密に切字があるか、
切れがあるかということを見る必要はない。
そしてこれには種明かしがある。
仁平は虚子の句を批判批評しているのではなくて、
次の私の句を批評批判し、
それぞれが虚子の句にそっくりだというのである。
仁平が取り上げた私の句を見てみよう。
養家から花を運んで遊びに来 筑紫磐井
ネクタイは季題の如く締むるのみ
心地よき季語の数なり二百ほど
定型のたまに不自由なるもよし
虫けらのやうな男にはべれども
似ていると言っても語尾の類似程度でしかないと思うかも知れないが、
仁平は語尾でさえこれくらい類似があるといっているのであり、
筑紫の句は虚子文体の模倣だと言うのである。
もちろんこれは、筑紫が虚子のまねをして
けしからんといっているわけではないだろう。
筑紫にまねできるような原理を虚子が持っている
ということを言いたかったのだろう。
(2)龍太・登四郎の切れ(筑紫の言及例)
虚子に切字や切れが少ないということは分かるが、
実は虚子と対比される、新しい作家も切字が少ない。
なるほど、新興俳句や前衛俳句は、
季語や定型に批判的であったから切字がなかったであろうし、
切字と関係の深いと思われる切れも少なかったものかと想像されるだろう。
しかしそれは、実は伝統派作家でも顕著に見えるのである。
おそらくそれは、桑原武夫の影響があったのではないか。
昭和21年に発表された「第二芸術」は
短詩型作家たちに大きな影響を与えたが、
桑原による俳句否定の裏側に、
俳句は現代的でなければならないという前向きな命題を
戦後派作家たちは読み取ったようである。
それを「俳句の現代化」と呼んでみたいと思う。
俳句は生きている限り現代的であるはずだが、
とりわけそうした主張がされるところに、
現代の主潮流についていけない俳句の後進性を感じていると言えようか。
そうでなければ、
戦後の新しい俳句総合誌の名称を「現代俳句」(21年9月創刊。石田波郷編集)とし、
俳人の懇話会を「現代俳句協会」(22年11月発足)と名付け、
同時代俳句鑑賞の標題を『現代俳句』(山本健吉著。26年6月刊)とする感覚には、
すべからく俳句は現代的でなければならないという
脅迫観念が働いていたように思われる。
俳句の現代化とは、俳句が現代を詠むと同時に、
現代を詠むにふさわしい表現・文体を確立することも必要であった。
例えば登四郎の句集『咀嚼音』に寄せた波郷の跋文に、
登四郎の若かりし日の作品
「ぬばたまの黒飴さはに良寛忌」をとりあげ、
「これらの句の情趣や華麗な叙法は、
趣味的に過ぎて戦後の俳句をうち樹てるべき
新人の仕事とは思えなかった」とし
「長靴に腰埋め野分の老教師」を評価したのは
その一端であった。
この「現代を詠むにふさわしい表現・文体」の中に、
切字の排除、切れの排斥があった。
くちびるを出て朝寒のこゑとなる 能村登四郎
白地来て血のみを潔く子に遺す
捕虫網買ひ父が先づ捕へらる
春ひとり槍投げて槍に歩み寄る
水の上に露けさありて光湧く
どこからとなく声の集まる夕凪どき
その藁塚往きもかへりも手触れてゆく
薄墨がひろがり寒の鯉うかぶ
うしろ手に扉を閉め冬の去る思ひ
夢の世と思ひてゐしが辛夷咲く
湯ざめして何かと儚ごとばかり
あたたかき夜食の後の部屋のぞく
竹婦人抱かせてもらひすぐ戻す
厠にて国敗れたる日と思ふ
霜掃きし箒しばらくして倒る
もちろんすべてを切字、切れのない俳句とするわけにはいかないが、
特に若い時代の作品にはこうした傾向が顕著であるように思う。
これは更に、戦後を代表する作家、龍太についても言うことができる。
雪山に春の夕焼瀧をなす 飯田龍太
露の村墓域とおもふばかりなり
満月に目をみひらいて花こぶし
青竹が熟柿のどれにでも届く
耳そばだてて雪原を遠く見る
手が見えて父が落葉の山歩く
雪山のどこも動かず花にほふ
亡き父の秋夜濡れたる机拭く
冬耕の兄がうしろの山通る
炎天に筵たたけば盆が来る
雪の日暮れはいくたびも読む文のごとし
ことさら切字、切れのない作品を選んだと思われるかも知れないが、
むしろこの時代の作家たちにはこれが主調音であった。
一方で、俳句らしさを保証する切字や切れを抜きにして、
独自の俳句世界を作り出せたことは
すばらしい偉業であった。
散文文体で芭蕉を超える俳句作品が出来れば
これはマナスルに登頂したり南極オングル島で越冬するのと
―――(私の幼少時代の思い出で恐縮だが)
同じほど英雄的行為であるべきだ。
閑話休題。
例えば、龍太の句をこんな解説を施す鑑賞文がある。
裏富士の月夜の空を黄金虫 龍太
何の奇もてらわずに、裏富士の月夜の空を黄金虫がゆくと詠む。作者の住む山梨県側が裏富士に当たるが、「裏富士」の語が呼び起こす力強い影は、「月夜の空」の明るさと四つに組み合い、虫は黒い命の塊となってその中央を翔ぶ。澄み切った大景が、ごく自然に虫の後から立ち上がる。(大岡信『折々のうた』)
面白いのは、「裏富士の月夜の空を黄金虫(俳句)」を
「裏富士の月夜の空を黄金虫がゆくと詠む(鑑賞文)」と書いていることである。
何の鑑賞も述べていないのである。
それ以後、周辺を撫で回した解釈を進めているが、
これは俳句の解釈ではない。
語句の解釈、散文の解釈に過ぎない。
散文に限りなく近い俳句と言うことである。
裏返せば、575の中に散文を投げ込んでも立派な作品ができることを、
戦後伝統俳句は示してきたのである。
2.良質な切字論―――「や」「かな」論
では切字論は無駄なのか。
そうであるともそうでないとも言える。
むしろ区別しないといけないのは、切字論の中に、
抽象的な切字論と、具体的な「や」「かな」論があるということだ。
せっかく仁平の虚子論を挙げたのであるから、
不可解な虚子の切字論に触れてみることにしよう。
[昭和5年「俳句に志す人の為に」]
切字といふことを昔は大変やかましくいつてゐましたがそれ程やかましくいふ必要はありません。要するに終止形若くはそれに代る言葉が一句のうちに一つあればよいといふことであります。
ただ終止言といつても「あります」とか「だ」とかいふ言葉を遣つてはいけません。自ら俳句らしい調子を具備した終止言であることが必要です。それには先づ「や」とか「かな」とか俳句特有の文字があることを知つて置く必要があります。この二つを基礎として俳句らしい文字の配列具合を知ることが必要であります。
最初期から俳句理論・体系の完成期に至るまでの切字論は
それほど大きく変わっていないように見える。
なるほど、初期ほどの冷淡さはないが、
昭和五年にあっても切字には季題論に寄せるほどの熱意が感じられない。
ほぼ同じ時期に述べている
「切字といふものは少しも普通の文章や会話の用語と変つたところはないではないか」「仰の通りであります。」[大正2年「六ヶ月間俳句講義」]
は余りにもあっけらかんとして、
落語でも聞いているような滑稽さを覚えることだろう。
しかし、虚子にとって、やはり切字はその程度のことであった。
我々が虚子の言説から学ばねばならないのは別のことである。
特にここで多少現代の俳句の考え方と関係する問題を取り上げてみたい。
現在俳句の本質について議論するとき、
「切れ」を重要視する俳人や評論家が多い。
この切れ至上論者が、その論の中で
虚子の言葉を引いて虚子が切れを必須としたように書いているが、
見た限りでは虚子に切れに直接言及した文書はないのではないか。
あったとしても、虚子の切字と切れの関係は、
①切字を入れることとなっているがそれに厳密である必要はない、
②一句の中に終止形があれば切れているのである、
ということであり、
虚子がしばしばいう、十七字は鉄則である、
季題は鉄則である、という意気込んだ発言とはまるで違う。
ここで言う、「終止形があれば」を、
「終止形を入れなければならない」と理解するのは不可能である。
これはどう見ても「大概の句は終止形が入っているから」程度の軽い意味であろう。
だからこそ、
「少しも普通の文章や会話の用語と変つたところはないではないか」「仰の通りであります。」
などと軽く言うことができるのである。それにしても
「少しも普通の文章や会話の用語と変つたところはない」
はすばらしい言葉で、
俳句切れ論者の「俳句には切れが必要だ」が
実は「日本語には切れが必要だ」と同様であり、
俳句にとっては何の意味もない言説であることを証明している。
* *
むしろ虚子が重い意味を込めたのは特定の切字についてであった。
具体的に言えば「や」「かな」である。
明治31年の『俳句入門』にあっては
「や、かなの如きに特別の意味ありとするが抑もの了見違ひなり。けりにすべきか、かなにすべきかは、其時の語呂、調子の按排にて定まること」
と言っているが、大正に入っての入門書は明らかに異なり、
重いトーンでこの切字について書いている。
切字全体の評価とこれは明らかに異なっており、
この点について虚子の進歩があったと見ることもできた。
最も懇切丁寧に記述しているのは「六ヶ月間講義」である。
具体的な切字論であるだけに、
「や」「かな」それぞれの例句を掲げながら論じている。
[大正2年「六ヶ月間俳句講義」]
扨て私は前に切字として「や」「かな」の二つをあげて置き乍らまだ其説明をしませんでした。此「や」「かな」の二つは切字中に於てもっとも普通に又もっとも広い意味に用ゐられるものでありまして、俳句の切字として特に論ずべきものは「や」「かな」の二つのみと言つてよい位であります。
虚子はここで、「や」「かな」の例句を挙げている。まず、
出替や幼ごころに物あはれ 嵐雪
の句を例としてこういう。
此場合「や」の字の働きはどうかといふと其は別に「や」に感嘆とか嗟嘆とか疑問とかいふ意味があるわけでなく、「出代」といふ或事柄の其感念を極めて強く読者の頭に印象せしめる働きを持つてゐるのであります。誠に此「や」の字によつて与へらるる強さを説明してみると、「出代は幼ごころにもの哀れ」といつただけでは唯出代が文章の主格となるだけでありまして「出代といふものは」といふ位の意味になるのでありますが、其が此句の場合は「出代といふものがあります。其出代は」とでも言つた位の強さを持つてゐるのであります。
尚ほ、私は進んで説明を試みて見ませう。ここに一人の政治家があつて演壇に立つて・・・「諸君。現政府は・・・」と言つたままで、呼吸を詰めて聴衆を睨みながら二三分間黙つてゐたとしたらどうでせう。其は「現政府は人民に対して・・・」とか何とかすらすら弁じ立てるよりも遥に強く現政府といふものについての意識を聴衆の頭に呼起します。若し聴衆の方にも現政府に向つて十分の不平が込み上げて繰るやうな場合であつたならば、却て其のさきに無用の文句を並べるより、唯斯う言つたままではらはら涙でも流して団洲式の思ひ入れでもした方が聴衆は沸き立つかも知れないのであります。
前の説明の「ここに出代といふものがあります。其出代は・・・」と言つて其で論者の頭に強く印象さすといふよりも此政治家の演説の如く「出代」と言た許りで暫く黙つてゐて、其で出代に就いてのいろいろの感想を先づ強く読者の頭に呼び起すと言つた方が「や」の字の働きを説明する上に於て比較的要領を得るかも知れません。
次は「かな」で、余り適確とも思えないが
呼かへす鮒売見えぬあられかな 凡兆
の句を例として次のように述べている。
これも「霰が降つてゐる」とか「霰が降つてゐて寒い日である」とか、若くは「其の鮒売を降りかくす程沢山の霰が降つてゐた」とかいふのではまだ十分に意味を尽くしたとは申されません。やはり「かな」といふ字によつて其時の光景を極めて自由に且つ十分に聯想せしめようとするのであります。即ち「霰の降つてゐる寒い日である」とか、「霰の為に鮒売が見えぬ」とかいふのは読者の方がめいめい勝手に聯想を回らしてゐるのであつて、「かな」といふ字は一向其に頓着なく突き棄てた梵鐘の余韻のやうに唯長く長く響を伝へてゐる許りであります。
「や」「かな」は俳句としてもっとも進歩した、此上発達のしやうがない迄に広い自由な意味を有するやうになつた切字でありまして、同時に又俳句としてもっとも荘重な典雅な調子を有してゐる切字なのであります。此間或人が来て、やかなを排斥する論者は言語の退歩を主張する論者であると申しましたが、私は其議論に賛成します。
せわしない現代俳人のために
悠々たる虚子の切字論のよってたつ由来を語ってみよう。
切字は17字という制約と殆ど同格で
発句を発句たらしめる形式的要件であったと考えられる。
季題の本意は宗匠の間で秘伝となっていたが、
連歌の発句は誰が見ても分かる明瞭さが必要である。
これが連歌だと誰にでも分かる形式があってこそ、
内容にわたる秘伝も一層の価値が生まれる。
とすれば、屋上屋を重ねようとも
発句であることを素人たちに否応もなく納得させる形式は
価値がないとは言えなかった。
まして、575はこの連歌の草創期には発句として認識されるか、
和歌の片割れ、生成途中として認識されるかおぼつかなかったからである。
「や」「かな」でがんじがらめになることは、
575であっても和歌の片割れであることを拒否することになったのである。
このように見れば、切字「や」「かな」は17字と並んで、
俳句を俳句らしく見せる、意味のほとんどない専用用語である、
というのが正しいだろう。
しかしいまやその俳句が俳句らしくさえ見えれば、
もとより切字を使う必要もない。したがって、
「切れ字といふことを昔は大変やかましくいつてゐましたが
それ程やかましくいふ必要はありません」。
[以上22行、評論詩「切れについて2」より引用]
これが、虚子が切字、
いや「や」「かな」に注目した理由を演繹して
行き着く先の結論となると思われる。
[昭和10年『俳句読本』]
俳句は短い文学でありまして、文学の中で最も短い文学であると云つてよいのであります。その短い文学のうちで、感情を述べ、季題を諷詠しようとするのでありますからして、複雑な景色や感情を叙さうとしても、それは出来無い相談であります。だから其景色や感情を出来るだけ単純にして、出来るだけエッキスにして之を叙する必要が起こつて来きます。又、それに伴うて出来るだけ文字の無駄を省いて、出来るだけ文字を少なくして之を叙すると云ふ必要も起こつてきます。
俳句に大切な切り字と称へるものが出来て来たのも、亦その必要から起こつて来たものでありまして、切り字はまあ終止言と思へば間違はないといつていいのでありますが、終止言という意味ばかりで無く、文字を省略する為に、重大な職務を背負はされているのであります。殊に「や」の字の如き切り字は余程複雑な意味を持つて居るのでありまして・・・
* *
ここで虚子から離れて現代俳句作家に目を転じてみよう。
石田波郷はその古典的諷詠のみならず、
俳句の中で「霜柱俳句は切字響きけり」と述べたことでよく知られている。
しかしその波郷もこういっている。
自分は始め「何でも彼でもや、かな、けり」を使へといふことが俳句に於ける韻文精神の徹底のとにかく第一歩だと思つた。それで句が古くなつてしまふやうならそれはその作家が碌なものではないからなのである。(石田波郷「決戦下の俳句」)
この直後、波郷はあらためて、
自分の言ひたいことは一つ。「短い散文で何か言へるか」である。十七字は字数ではないのである。
と述べている。「短い散文で何か言へるか」という思いから出た言葉は、
切字という言葉、それも切れを予想する機能ではなく、
単なる「や」「かな」「けり」であったことは興味深い。
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評論詩「切れについて」(作品番号9)――西郷信綱氏の亡くなりし日より――・・・筑紫磐井 →読む
評論詩「切れについて2又は序詩」(作品番号10)・・・筑紫磐井 →読む
評論詩「切れについて3又は現代切字論考史」(作品番号11)・・・筑紫磐井 →読む評論詩「切れについて4又は浅野信批判」(作品番号12)・・・筑紫磐井 →読む
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1 件のコメント:
磐井様
毎回の長文詩(・・!)読むのが、たいへんですが、面白く拝見しています。
波郷の言、十七字に含みうる散文の質量について波郷がこんなことを言っているのは、はじめて知りました、私もすこしていねいにしらべてます、
ホトトギス伝来のかきかたには、虚子にしろ星野立子にしろ「一物仕立て」がおおくて、現代の稲畑汀子なども、途中で言葉をいいやめるというかたちで切っているのが、数多く見つけられます。これはホトトギス流のひとつのスタイルですよね。
昼寝するつもりがケーキ焼くことに 汀子
爽やかな涙となりてゆくことも 同
砂漠には砂漠の時間昼寝して 同
意味的には切れて(完結して)いますのに
文法的には言いっぱなし、倒置法ですが、これはたいへん面白いかきかたです。挨拶の口上とか、存問の呟き、なのかな>と考えているのですが、やはりこの言い方は韻文にしては不思議な印象をあたえます。
今回の
〈自分の言ひたいことは一つ。「短い散文で何か言へるか」である。十七字は字数ではないのである。〉
という波郷の考え方を適用すれば、なにかわかるような気がします。
「や」「かな」「けり」を使えないまでに散文化した結果終止形の切れ字を省略してしまったのでしょうか?(ここは、まさに切れたしっぽ、空無化したまぼろしの「切れ」空間ですよね。)
磐井さんの問題設定や展開に刺激されまして、思いつきみたいですが。
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