tag:blogger.com,1999:blog-4734103401000226006.post6386491239256404138..comments2023-05-14T20:15:48.690+09:00Comments on ―俳句空間―豈weekly: 評論詩「切れについて5」yasnakamhttp://www.blogger.com/profile/08671629243313330081noreply@blogger.comBlogger1125tag:blogger.com,1999:blog-4734103401000226006.post-66000118566015105432008-11-25T21:42:00.000+09:002008-11-25T21:42:00.000+09:00磐井様毎回の長文詩(・・!)読むのが、たいへんですが、面白く拝見しています。 波郷の言、十七字に含み...磐井様<BR/>毎回の長文詩(・・!)読むのが、たいへんですが、面白く拝見しています。<BR/><BR/> 波郷の言、十七字に含みうる散文の質量について波郷がこんなことを言っているのは、はじめて知りました、私もすこしていねいにしらべてます、<BR/>ホトトギス伝来のかきかたには、虚子にしろ星野立子にしろ「一物仕立て」がおおくて、現代の稲畑汀子なども、途中で言葉をいいやめるというかたちで切っているのが、数多く見つけられます。これはホトトギス流のひとつのスタイルですよね。<BR/><BR/>昼寝するつもりがケーキ焼くことに 汀子<BR/>爽やかな涙となりてゆくことも 同<BR/>砂漠には砂漠の時間昼寝して 同<BR/><BR/>意味的には切れて(完結して)いますのに<BR/>文法的には言いっぱなし、倒置法ですが、これはたいへん面白いかきかたです。挨拶の口上とか、存問の呟き、なのかな>と考えているのですが、やはりこの言い方は韻文にしては不思議な印象をあたえます。<BR/><BR/> 今回の<BR/><BR/>〈自分の言ひたいことは一つ。「短い散文で何か言へるか」である。十七字は字数ではないのである。〉<BR/><BR/> という波郷の考え方を適用すれば、なにかわかるような気がします。<BR/>「や」「かな」「けり」を使えないまでに散文化した結果終止形の切れ字を省略してしまったのでしょうか?(ここは、まさに切れたしっぽ、空無化したまぼろしの「切れ」空間ですよね。)<BR/><BR/>磐井さんの問題設定や展開に刺激されまして、思いつきみたいですが。Unknownhttps://www.blogger.com/profile/00150502238276483466noreply@blogger.com