2009年2月15日日曜日

「―俳句空間―豈」47号の俳句作品を読む(7) 塩の手で(「俳句最恐説」をめぐって)――同人作品掲載順13・・・中村安伸

「―俳句空間―豈」47号の俳句作品を読む(7)
塩の手で(「俳句最恐説」をめぐって)
――同人作品掲載順13

                       ・・・中村安伸

■倉阪鬼一郎「人形刑」

俳句作品の読解、批評において「恐怖」というファクターを導入することの有効性、あるいは面白さについてのヒントを与えてもらったという点で、倉阪氏の作品と短文は、私にとって示唆に富むものであった。

倉阪氏の連作に付された短文は「俳句最恐説」と題されており、俳句が短歌に比較してより「恐い」ということを、小説の短編が長編に比べて「恐い」ということと同期させて述べているのであるが、小説と俳句との比較はなされていない。

「恐怖」とは自らの生命や財産が危険に瀕している状況において感じるものだろう。小説や映画の読者・視聴者は、登場人物が体験する恐怖を追体験するのであり、人物への感情移入の度合いが深いほど、感じる恐怖もまた深くなるのであろう。

倉阪氏の連作が、読者に恐怖を体感させることを目的にしたとは書かれていないが、もしそうだとしても、正直に言えば小説や映画で体感されるような恐怖を、これらの句ではほとんど感じることができなかった。

映画や小説であれば、いかに短編であろうと、登場人物の境遇に読者をシンクロさせるための仕掛けを用意することができる。しかし、俳句で同様のことを行おうとしても、結局は状況の断片を提示するだけにとどまってしまうのであり、登場人物、あるいは俳句の作中主体が体験する恐怖を読者に追体験させるところまで至るのは困難であろうと思う。

さて倉阪氏の連作中、恐怖を体感できるかどうかは別として、以下に挙げる句には興味をひかれた。

地上の道を歩けば遠き寒の星

描かれているのは寒夜、星空の下をゆく孤独な道のりだが、言外に天上の道程が暗示されることで、神聖な色合いを帯びた句となっている。

赤いリボン骨に飾つて卒業す

白骨死体となって卒業を迎える少女ということなのだろうか。しかしこの句から感じられるのは恐怖というより、ブラックユーモアに近い笑いの感覚である。

春陰のどこかが漏れてゐる気配

日常にひそむ不安感をシュールレアりスティックに表現したもので、恐怖に近い感覚であるといえるかもしれない。「気配」という語でぼかされた表現が緊張感を削いでしまった面は否めない。

春昼の半眼のもの前へ出よ

件の匿名対談でもB子氏が指摘されているとおり、白泉の〈玉音を理解せし者前に出よ〉を本歌としたものであろう。「前へ出よ」と命ぜられているものが仏像、もしくは仏像同様の表情をしたものであるということは、非常にナンセンスで滑稽な景であるといえる。そのナンセンスが成立するために「春昼」という季語が果たしている役割は無視できない。
春昼という語にふくまれる明るさ、あたたかさのなかには、感覚を麻痺せるものがあり、幻想的な景を許容させやすくするはたらきがあるのだ。

俳句において読者が恐怖を感じるとすれば、それは世界そのものの安定や調和が崩れてゆくときの恐怖であろうと思う。そうした点で私がこの連作で最も「恐い」と感じたのは、以下の句である。

手毬つくその塩の手で塩の手で

この句はもちろん攝津幸彦の〈塩の手で触る納戸の日章旗〉を本歌とするものだろう。そして、攝津の句の最も「恐い」部分を抽出して増幅させたような句である。しかし倉阪氏の句と、攝津の句のどちらがより「恐い」かということになると、攝津の句のほうが恐い気がする。倉阪氏の句のほうは「塩の手で」というフレーズのリフレインによって、絶大な恐怖感を体感できそうなのだが、上五の「手毬つく」がリフレインの謎を解いてしまい、破壊力を削いでいる気がするのである。

「塩の手で」というフレーズは「恐い」ものである。

あえて言うなら「塩の手」とは、調理のために塩がついてしまった主婦の手であり、同時に塩でできた手、たとえば旧約聖書『創世記』でソドムとゴモラが滅ぼされたとき、後ろを振り返ったため塩の柱にされたという、ロトの妻の手でもあり、その他いろいろなイメージを包含する多義的なフレーズである。

しかし、これを短歌や小説のなかに置いたなら、文脈においてそれがどういう「塩の手」なのか説明されてしまい、恐さは消えてしまうだろう。俳句という、わずかな語によって形成された独立小宇宙の中であるからこそ、このようなフレーズの多義性が成立するのである。そしてこの多義性によって、作品小宇宙が崩壊の予兆をはらむとき、読者は恐怖を体感することになるだろう。そのような意味においてこそ「俳句最恐説」は成立するのだと思う。

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