2009年1月25日日曜日

「―俳句空間―豈」47号の俳句作品を読む(5) 鼓膜のごとき―同人作品掲載順6,7・・・中村安伸

「―俳句空間―豈」47号の俳句作品を読む(5)
鼓膜のごとき―
同人作品掲載順7、8

                       ・・・中村安伸

■大本義幸「冬至物語外伝8」

昨年出版された第一句集『硝子器に春の影みち』によって、大本義幸の作品の多くに触れることが可能となった。この句集に関しては、Web上にも多くの人が評や感想を書いていて、それぞれに興味深いものである。

さて「―俳句空間―豈」47号に掲載された作品は十九句であるが、句集にて発表済みのものも含まれている。そして、前半の九句のうち六句に「耳」「鼓膜」という聴覚に関する語が使われていることが、この作品群を特徴づけている。

大本は咽頭癌のために声を発することが出来なくなってしまっているとのことである。「ウラハイ」に掲載された野口裕の記事には、以下のように記されている。「大本さんとはじめて顔を合わせたときには、すでに彼は声を失っていた。筆談を通して行う彼の物言いは、断定に近い響きを持っている。」

声を発する機能を失った彼にとって、声に対する関心は高いものとならざるを得ないだろう。そして、コミュニケーションにおいて声と対になる「聴覚」への思いもまた高まるであろうことは想像に難くない。

もちろん、このように作者の境涯を句の読みの前提とすることには注意が必要である。

作者と作品を完全に切り離すことは出来ないし、ことさら作者の影を消し去ろうとすることは、魅力的な解釈へ回路を閉ざすことになりかねない。一方で境涯にこだわりすぎることもまた、作品そのものが本来持っている多様な解釈可能性を制限することになるだろう。俳句作品の解釈めいたものを発表することについては、常に複雑な思いがつきまとう。作品の多様な可能性を切り開いているつもりが、逆に、読者にとっても、あるいは自分自身にとっても、知らず知らずその他の可能性を隠す結果になってしまっているのではないかと懸念するのである。

さて、大本の俳句作品に戻るが、前述の六句において、聴覚をめぐるふたつの語、すなわち「耳」と「鼓膜」が使われているのだが、これらはそれぞれ異なる意識を反映している。

「耳なし芳一」を持ち出すまでもなく「耳」には、身体の外側に突出した部分と、内部で音を感じる器官としての部分がある。

前者は(後者もだが)持ち主本人からは見えず、一方で彼に語りかけようとする他者からはよく見えるものである。

〈美しき耳もつ人や初蛍〉という句の「耳」は、もとより外部器官としての「耳」であり。自らの美に気づかない人への愛しさという感情を思わせる。とりあわせられた「初蛍」は、その淡やかな思いを形象していると受け取ってもよいだろう。

同じく外部器官としての「耳」だが〈降りしきる星々の夜に耳漱ぐ〉における「耳」は、作中主体自身のものである。ここでは逆に自らの一部でありながら、どことなく得体の知れぬ異物のように感じられる「耳」を描いている。

そして〈耳にのこりし雷鳴の清しこと〉という句は内部器官としての「耳」と、それに接続された記憶を描いている。この句の清らかさは、彼の境涯へと思いを至らせることによって、より高い純度をもって感受される。蛇足だが「清しこと」は「清きこと」とするのが正しいだろう。

一方、解剖学的にはより微細な器官を指し示す「鼓膜」の語の使われ方に関しては、聴覚への関心と同時に、薄くてこわれやすい物への愛着を感じさせる。これは大本氏の俳句の根幹をなすモチーフである「ガラス」「薄氷」に通じるものと言ってよいだろう。大本氏の句集における「ガラス」「薄氷」については「ウラハイ」に掲載された羽田野令の記事において、以下のように言及されている。「硝子も薄氷も透明で割れやすいものであるが、薄氷は硝子よりも一層あやうげである。それは青年の孤独な傷つきやすい心にも似る。そして、光を通す美しさ、透明ゆえの清らかさは憧れの対象ともなり得るだろう。」

さて「鼓膜」が使用されているのは以下の二句である。

少年や鼓膜のごとき霧の村
海ありて鼓膜のごとき過疎の村


二句とも「鼓膜」は「村」に対応する直喩として使われている。薄くてこわれやすく、それゆえに愛すべきもの、また一方で、そのナイーブさゆえに守るべき、隠すべき弱点であるもの、そのようなものとして、おそらくは故郷である「村」への思いを描いたものだろう。前者は過去の、後者は現在の村を描いているのかもしれない。どちらにも同じ喩を使うということの不器用さ、それゆえの強さを思う。


■岡村知昭「原人へ」

岡村は同号に掲載された「特集・青年の主張」に「「実験」の必要」というタイトルで寄稿し、その中で「実験」へのあくなき意欲を述べている。そして「原人へ」と題された二十句についても、実験作とは銘打っていないものの、そこには実験的な姿勢を垣間見ることができるのである。

しかし「実験」とはどのようなことを示すものか、判然としない部分があることも事実である。理論を実証するための実験、製作したモノの機能や安全性を測定するための実験など、さまざまなものがあるだろうが、概して言うと実験とは、机上あるいは脳内においてはクリアーでなかった点を明らかにするために行われる実証作業であり、その結果を評価する段階までを含むもののはずである。

岡村の作品が実験的であると感じるのは、こうした評価、確認作業済みの完成品からはほど遠い、おそらくは作者本人もその効果についての手ごたえを、確かには把握していないと思われる作品が多いからである。つまり、本来の意味での実験の過程にあるものを公にしているというわけである。

俳句作品をひとつのプロダクトとして考えるなら、その機能、安全性がしっかりと確認されたものをこそ発表するべきであり、実験は自らの工房内で行われるべきという考え方も成り立つだろう。

しかし俳句作品、ことに同人誌という場に発表されるものについてこのような考えは適切かどうか。

もちろん自選能力は大切だが、時には作者自身にとっても「よくわからないが気になる」作品について、思い切って読者の評価を仰いでみることも必要だろう。同人誌とは基本的にはその嗜好や思想等に共通項を持った人々の集まりのはずであり、一種の共同組合のような場でもあるはずだ。同人たちに実験の立会い、あるいは評価の手助けをしてもらうことに不都合は無いはずである。

もちろん、こうした場が機能するためには同人相互の作品批評が必要となるが、それが十分に機能している同人誌は少数派であると言わざるを得ないだろう。主宰が責任をもって――たとえ偏向していたとしても――評価を下してくれる結社のほうが、実験の場にはより適していると言えるかもしれない。

話はそれるが「主宰」という評価機関をもたない同人誌においては、同人自らが相互評価機関とならなくてはならないはずであるが、すくなくとも「豈」においてはこうしたシステムは十分には働いていないと思う。今週完結した匿名批評や、この連載が、そうしたシステムを稼動させるための呼び水となれば良いと思っている。

さて、岡村の二十句には、うまく説明できないが、なんともいえず気になるという作品が散見される。作者もまた、この「気になる」感覚を頼りに、これらの作品を纏め上げ、発表したのではないだろうか。

なかには、あまりにも理が勝っている作品、とりあわせが収拾つかないほどに離れすぎている作品など、失敗と判断せざるを得ないものも少なくない。一方で以下のような作品には魅力を感じる。

ヒヤシンス大陸棚にママはいる
つるばらの稔や蕁麻疹の姉
鈴へ降る麟粉ささくれて日暮


一句めの確信に満ちた言い切りは魅力的である。母ではなく、幼児期に自分と一体であったはずの「ママ」。なくなってしまった自分自身の一部を思うような痛みとなつかしさが込められているように感じる。

二句めの「姉」の肌にあらわれる「蕁麻疹」の、ばらの花のような美しさとグロテスクさ。「つるばら」は近親相姦のタブーを乗り越えそうになる自らを縛り付けるためのものか、それとも花のような斑をあらわす肌に棘を食い込ませたいという嗜虐的な欲求のあらわれだろうか。

三句めの視覚的効果の巧みさ。「鈴」「麟粉」「日暮」とそれぞれに質感、スケールを異にする、それでいて黄金色という色彩の共通点のある物体を配合し、暮れてゆく日の光が、変化しつつ「ささくれ」る瞬間をとらえたのだろう。

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