2009年1月25日日曜日

ある肉体 『安井浩司選句集』および「蛇結茨抄」(「豈」47号所収)を読む・・・山口優夢

ある肉体
『安井浩司選句集』および「蛇結茨抄」(「豈」47号所収)を読む

                       ・・・山口優夢



この前、豈ウィークリーに「豈47号を読む 特集「安井浩司の13冊の句集」編」を書かせていただいた。その折に、安井浩司の句について書かれた評者の方々の文章についてさまざまに批判を加えたにも関わらず、じゃあ、自分は安井浩司の句をどのように読んでいるのか、という方法論については(少々触れたものの)ほとんど書かずにいてしまった。このため、あとである俳人から「あの文章に対しては、書かれた評者もみな反応しにくいのではないか」という批判をいただいた。

確かにそれももっともな話で、さんざっぱら人のことをとやかく言っておいて自分は何もないのか、というのも少々気にかかるところではあった。さらに、あの原稿を書く際に参照した「安井浩司選句集」および「蛇結茨抄」を読んだ所感もまとめておきたいとの考えから、再度、この場をお借りして安井浩司の俳句について文章を書かせていただきたいと思う。

また、本文に入る前に、僕が安井浩司の句を読んだ感想が「9割方は全然面白さが分からない」というものであることは、一言言っておきたい。たとえば、選句集からランダムに抜いてみるが、

命としてふるさとに立つスルメの姿 『霊果』
木耳に落胆の旅人は帰りなさい 『霊果』
人来ればわざと野面の皺の水 『句篇』

などの句は、それぞれの単語が有機的なつながりを持って僕の心に迫ってこない。こちらに飛びつこうとする単語単語がみなばらばらなままで、ぐしゃっと僕の前に落ちてしまう感じがする。僕には読み取れない面白さが恐らくはかなり多く埋蔵されているものと推察する。

その上で、僕が面白いと感じた一割弱の句についてのみ、書き記すことにする。僕が以下に書く彼の句の印象は、彼の句集全体の印象というよりも、僕がその中で面白いと思えたものを対象にして書いたものであるため、安井浩司全体から見るとかなり偏ったものである可能性もあることは一言申し添えておきたい。

それでも、少なくとも、安井浩司のある一端には触れ得たのではないかという確信は持っているのだが。



野の蛇の交差するとき上下すや 『四大にあらず』

蛇にも衣擦れと言えるような音がするだろうか。

二匹の蛇が交差するとき、おのおののうろこがするすると擦れていく、そのかすかな音を彼は聞きとめていただろうか。蛇と蛇が交差してゆくその肌触りを、感じられるはずのない皮膚感覚を、彼はほとんど自分のものとして感じているのではないか。そうでもなければ、「上下すや」という一語は出てくるものではない。

もちろん、交差する、ということは、どちらかが上になり、もう一方が下になる、ということであるのは当然である。しかし、そのような理屈でこの「上下」という言葉の必然性を問うことにはほとんど何の意味もない。この句に表出された皮膚感覚、質感が、うんざりするくらいリアルに感じられる原因は、本質的には、句中におけるその視点の迫り方にあり、「上下すや」という下五が決定的にそれを後押ししているのだから。

まず、「野の蛇の」という上五によって、読者の頭の中には、潜在的に「野」の情景を俯瞰するという視点が用意される。単に「蛇」ではなく「野の蛇」と書かれているのは、蛇がおなかに感じているであろう土のひんやりとした触感を出すためでもあるだろうが、「野」という平面的で俯瞰しやすい大きな場を提示してみせることができるからでもあろう。

「交差するとき」という中七。ここで、「交差」という状況から、上五で書かれた「野の蛇」が一匹ではなく(少なくとも)二匹存在することが分かる。ここではまだ、読者の頭の中に描かれた情景は俯瞰のままだ。上から見ることで、二匹の蛇が十字をなしてするすると動いていることが分かる。二匹しかいない、と書かれてはいないから、何十匹もの蛇が野いっぱいに蠢いているのだと読んでもいい。実際、蛇同士が「交差」するのは、何十匹もの蛇が高密度である領域を占めていると思わなければ、考えにくいシチュエーションではある。ただ、僕のイメージでは、広大な野の中でただ二匹しか存在しない蛇同士がするすると交差しているのだと考えたい。「野」という大きな場の中で、小さな生き物同士が偶々交差する、その偶然性をこそ、尊びたいのだ。

そして、下五の「上下すや」で視点はぐっと蛇に迫ってくる。俯瞰、という視点は大きく物事を切り取っていると同時に事物そのものからは遠い。「野」という語から引き出された俯瞰の視点によって、蛇の「交差」はやや遠くから見た二次元的な景色として捉えられていたが、それに対して「上下」は、明らかに立体的な空間把握だ。蛇の体が彼の視野いっぱいを満たすものとして感じられるほど、彼の視点は低くなっている。この中七までと下五との間にある視点の断絶はほとんど劇的と言ってもいいほどだ。この視点まで下りてくることで初めて、蛇同士がスマートに重なることができず、不恰好に交差部分だけ盛り上がってしまうという事実、肉体同士が確固たるものとして存在してしまっているという避けがたい事実を嘆くことになる。偶然は喜劇であり、必然は悲劇だ。この句において「交差」という事態は喜劇であり、「上下」という状態は悲劇なのである。

「上下」という把握からは、上になった蛇がおなかの辺りに感じるかもしれない息苦しさや、下になった蛇が感じるかもしれない上からの圧迫感も伝わってくる。否応もなく自分の体が存在してしまうという認識はどれほど淋しくまた悲しいものであろう。それは、存在することへの逃れがたい悲しみだ。



彼の句でもっとも注目すべきは、ある肉体がどうしようもなく存在しているということのあわれではないだろうか。

喰いかけの蟹の裏面林に落ち 『青年経』
日の高み胸掻きむしりいなご食う 『乾坤』
花かりん眼球もまた断食し 『汝と我』
伊勢蝦の胸さぐらんや天の川 『四大にあらず』

摂食は、全ての生物の基本である。肉体の存在のためにはそれを形作るもととなる食料が絶対不可欠だ。これらの句に描かれた摂食行動は、自分の肉体が存在するためやむにやまれず行なわれているという認識が強く、その裏打ちがあってこそ、取り澄ましたディナーやランチとはほど遠い、原始のままの摂食の生々しさが浮き彫りになる。

「喰いかけの蟹の裏面」という言葉から立ち上る気色悪さは、そのまま、食べるという行動が本来的に抱えている、自己本位的な強奪が生きものの間で交わされることの生々しさに通じている。それを思うからこそ、「いなご食う」のに冷や汗流し、「胸掻きむしり」しなければならないのだし、逆に体中の器官に断食を命じることで「花かりん」の美しさに達するという幻想を見もするのだ。「伊勢蝦の胸」をさぐるという動作の気味悪さ。さぐられた胸はそのままバリバリと切り裂かれ、硬い歯で白い肉は噛み潰される。それぞれの句において「林に落ち」「日の高み」「天の川」という状況設定が、それぞれ句の中の摂食行動を世界の一諸相として定着させるのに一役買っている。

睡蓮やふと日月は食しあう 『氾人』

だからこそ、このような戦慄すべき幻想を見てしまう。日食、月食という言葉はあるが、それらは古来不吉なものと言われてきた。「日月は食しあう」ことの不気味よりも、そのことに「ふと」気付いてしまったときの彼の戦きを思ってしまう。

そしてもちろん、入ってくるものがあれば出てゆくものもある。

麦秋の厠ひらけばみなおみな 『密母集』
旅人に乾ききつたる野の厠 『霊果』
盲女来て野中の厠で瞠かん 『霊果』 ⇒「瞠」に「みひら」とルビ
春日われ尿の高さに敗れたり 『句篇』
老農ひとり男糞女糞を混ぜる春 『句篇』

普通、食べるという行為よりも排泄行為の方が気持ち悪いものであるはずなのに、これらの句には、むしろ摂食行動に比べて不思議とあっけらかんとした明るさが感じられる。摂食が食うものと食われるものとの主従的な関係性の中に閉じていたのに対して、排泄は排泄する者たち同士の横並びのコミュニケーションがほのかに示されている。

それが一番明らかなのは「春日」の句。男同士で並んで立ち小便でもしているのだろうか。上に向けて放った尿の高さを争い、そして負けてしまったという句意からは、摂食の際に感じたようなおののきはどこにも感じられない。実に馬鹿馬鹿しく情けなく、それゆえに楽しく笑い合える、豊かなコミュニケーションが成立している。「男糞」と「女糞」を混ぜ合わせるという発想、ここでは、肉体同士ではうまく交じり合えなかった物同士が、排泄されたもの同士だといとも簡単に混ざり合い、混沌を生み出している。これをコミュニケーションと名づけるべきだろうか?少なくとも、世界に向けて開かれていることは確かなようだ。

また、厠という場が世界へ開かれているということも彼の句においては真のようである。盲女が厠で目を開くという奇跡体験、なおかつ「ひらく」という動詞は「厠ひらけばみなおみな」の「ひらく」に通ずる。麦秋のきらきらした光の中のおおらかな排泄行為たち。また、「旅人」の句では、「乾ききつたる野の厠」と言うことで、逆に乾いていない厠が想起させられる。乾いていない厠を用いるのがそこで生活する人々であり、旅人は、人が滅多に来ない厠で用を足すため、そこは乾ききっている。そこに旅人の寂しさを見出すということから、厠に込められたコミュニティ性が裏返しに読み取れる。

厠から天地創造ひくく見ゆ 『句篇』

あるいは、こういう句を読むと、厠のコミュニティ性は本来的に具わっているものではなく、志向されているもののようにも思える。厠には一人づつ入るわけで、そもそもは一人一人隔離された状態に置かれるのだが、排泄行為によってその一人の空間から世界へ開こうという意思が働くのだ。天地創造を厠から見てしまうという絶対的な淋しさは、人々へつながってゆこうとせざるを得ない淋しさなのかもしれない。

彼の句における摂食と排泄の違いを見てきたが、実は次のような句も存在する。

あゝそれは一食の糞夏の土堤 『四大にあらず』 ⇒「一食」に「いちじき」とルビ

夏、土手などで人糞か犬の糞か、とにかくそのようなものを見かけることはたまにあるものだが、その量を「一食」と捉えたのは彼以外になかったのではないか。排泄は摂食につながり、無限のループの中で生き物は生き続ける。摂食は自分に閉じて行く行為だから暗く切なく、排泄は世界に開いてゆく行為だから明るく楽しい。しかも、それらは別々に存在するわけではなく、我々の体をなす表裏一体の現象なのだ。その逃げられない現実を「一食の糞」という言葉で捉えたとき、彼の中から自然と「あゝ」という嘆息が洩れたのであろう。そこに降り注ぐ夏の光と湿気を帯びた空気は、生きていくことに関する何もかもをさらけ出してしまっているかのようだ。

こういう句では「糞」を気取って「まり」などと読まずに、ストレートに「くそ」と読みたい。



ある肉体が存在するとき、それを生み出した何者かが必ず存在し、そして、その肉体も必ず何かを生み出そうとする意思を持って存在している。しかし、彼の句においては、実に奇妙な生まれを持つ存在が多く描かれる。

夏の海ふとヴァイオリンの妊娠へ 『密母集』
大地に涌きし魚は河に棄てられん 『氾人』
野のみみず創るや蛇を細分して 『四大にあらず』
白山蛇は生まれずにただ分離して 「蛇結茨抄」 ⇒「蛇」に「かがち」とルビ

大昔に、アダムは土人形として神に作られたという話を思い出させる。まるで泥をこねるように生み出されるみみずや蛇、おまけに水の中にすむ魚は大地から涌いて来たものだという。かと思えば、ヴァイオリンは妊娠し、さて、何を生み出すのか?しかし、あの曲線美は確かに、何かを孕んでいると思わなければ説明がつかないかもしれない!

このような世界では、母性は混乱し、女たちは途方に暮れる。

赤松に釘打てば母泣きにけり 『乾坤』
つわぶきの葉や自らを裂く女 『汝と我』
主を掴むおみなは鳥の力なれ 『汝と我』 ⇒「主」に「しゅ」とルビ
睡蓮に百の身振りをする母や 『汝と我』

「主(しゅ)」とは造物主であろうか。その人の腕を掴むおんなの手に込められた力は決して強くないだろう。しかし、そこには必死ですがり付こうとする懸命さが読み取れる。赤松に釘を打てば泣く母、自らを裂く女、母の見せる百の身振り。これらは、まさに狂乱の態といった句だ。

遠い空き家に灰満つ必死に交む貝 『青年経』
如輪木けむりのごとくに性交す 『阿父学』 ⇒「如輪木」に「じょりんもく」とルビ
つわぶきに照らさる馬上性交や 『風餐』
父母の最中を過ぎてや稲交び 『四大にあらず』 ⇒「稲交」に「いなつる」とルビ
みな人体の最終性交笹のなか 『句篇』
深草風遂に女賊へ乗るゆめや 「蛇結茨抄」

「誕生」に対して、性行為のことをはっきり詠んでいる句を上のようにいくつか挙げてみたが、これらの句にいわゆる「エロティシズム」を読み取ることは難しいように感じる。どの句も、官能美を楽しむには、あまりにも必死すぎるのだ。貝は灰が降り積もる中で一刻も早く性行為を完了させようとしているようだし、「けむりのごとくに」という比喩からは感じている官能そのものの淡さを思わせる。そもそも、「性交」という、輪郭が明瞭で硬い言葉が頻繁に使われているところを見ても、彼にはどうやらセックスを楽しむという観念は欠如しているように見える。「女賊へ乗る」という夢の中の行為も、「深草風」という言葉があるからか、生き急ぎ、切迫しながら早く相手を仕留めようとする息遣いが聞えてきそうだ(それが楽しいのかもしれないが)。

これらの句の切迫した性行為も、自己の肉体の存在に対するよるべない淋しさの現われなのだろう。むしろ、肉体の存在が、それのみに留まらず死のイメージと抱き合わせられるとき、次のようにエロティシズムが発現する余地が生まれる。

恋人とただ菩提寺へ毬つきに 『乾坤』
大鮭を抱き草上にすわる裸女 『乾坤』

菩提寺の象徴する死後の世界、抱かれた鮭に刻々と迫り来る死。しかし、恋人も裸女も、実に悠々と死という事態に臨んでいる。それは第三者的な冷たさに裏付けられたものではなく、死という絶対性さえ包含してしまえる「無意味さの余裕」によるものではないかと僕は考えている。

摂食や性行為には、それが生きてゆくために必要不可欠であるという絶対的な逃れがたさがある。それに対して、排泄や「毬つき」「草上にすわる」という行為には、それら自身は大して意味がないということに救いが見出される(もちろん、排泄しないと生きていけないという意味では排泄行為も必要不可欠なのだが、排泄されたもの自体は人間にとってほぼ無価値だ。飼料にするなどの副次的な意味を除いて)。これらは、純粋な恍惚なのだ。毬をついて空白になる時間、鮭を抱いたまま腕の中の鮭が死んでゆくのをいとおしむ時間、それらの恍惚は、生きてゆくことに縛られる生き物にとっての、最大の贅沢なのである。排泄も、同様の文脈のもとに捉えなおすことができる。だからこそ盲女も目を開くし、「厠ひらけばみなおみな」という実におおらかな幻想が芽生えもするのだ。



犬二匹まひるの夢殿見せあえり 『阿父学』
ひるすぎの小屋を壊せばみなすすき 『阿父学』
二階より地のひるがおを吹く友や 『阿父学』

生きてゆく上で必要不可欠ではない、つまり「遊び」と思える部分の句には、たとえば上のようなものがある。「まひるの夢殿」とは何なのか、判然としないところはあるが、夢殿という語感や形状から察するに、おそらくはふぐりのことを指すのではないかと想像する。後ろ足で立ち上がりながら二匹の犬が互いのふぐりを見せ合っているという非現実的な状況は、楽天的であっけらかんとした明るさに満ちている。

「ひるすぎの」の句は彼の中でも特に著名な句である。「小屋を壊せば」とさらっと書かれているが、どうやって壊すのだろう?ショベルカーなどのものものしい機械を持ってきて壊す、というよりは、僕は、一人の大男が斧を振り下ろしてざっくり壊してゆく状況を想像したい。なぜなら、そのほうが「みなすすき」という下五の状況に至ったときに呆然とする男の顔が見えてくると思うからだ。破壊という行為からは彼の憂愁が立ち上ってくるだろう。彼は何を目指して小屋の破壊にいそしんだのだろうか。それは分からないが、少なくとも「みなすすき」などという意味のない情景に小屋を還元するためではなかったのではないかと推察する。その無意味さに戸惑う男とそれを喜ぶ作者の顔が二重写しに見えてくる。

三句目は、「二階より地のひるがおを吹く友」を、それを見ている人の視点から映し出しているところに興味が惹かれる。「吹きにけり」では自身が吹いたと読めてしまい、それだとこの句に出ている「友」を不可思議に思う気分は生まれない。友が漫画のようにぐぐぐっと二階の窓から身を乗り出し、地のひるがおにぎりぎりまで顔を寄せてそっと息を吹きかける。友の体の構造がどうなっているのか、彼にはまるで分からない。実に不可解なのだ。そして、なぜそんなことをするのかも。この句は、ひるがおが主役ではなく、上から降りてくる友の胴体が、それを見ている人の視界を圧してしまうところを面白いと思う。実に無意味であるがゆえに、シュールな情景が映し出せている。

これらの句は、たとえば次に挙げるような、生きてゆくのに必死で、それゆえ生理的な感覚に訴えてくるところの大きい生き物たちとはやはり違う次元に属しているようだ。

鳥墜ちて青野に伏せり重き脳 『青年経』
雪野ひと握りの血で蝙蝠鍛える 『青年経』
夜間飛行士草に眠る処女膜のように 『赤内楽』
たらの芽に悲しき虎は存在す 『霊果』
主よ昼餉跡かなしみの蟲興る 『乾坤』 ⇒「主」に「しゅ」とルビ

非情に大雑把にまとめれば、彼の句には以上見てきたような無意味性・不可避性という二つの系統があり、冒頭に挙げた「野の蛇」の句は「交差」で無意味性、「上下」で不可避性を表すことでふたつの系統を止揚していると言えよう。結局、その二つの局面を行ったり来たりすることでみな生きてゆくものなのだろう。

笹のはな暦の裏はみな忌日 「蛇結茨抄」

このような不可避性に真っ黒に塗りつぶされるまで。

作者は安井浩司(1936-)

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4 件のコメント:

高山れおな さんのコメント...

山口優夢様

御寄稿有難うございました。土日は仕事で関西に出張しておりまして、御入稿に対してレスポンス出来ず、失礼いたしました。

御稿、楽しく拝読しました。安井浩司氏の句、一割くらいにしか反応出来なかったとの御意見、全くその通りではないでしょうか。小生にしたところで、一割ということはないかも知れませんが、句の意図するところがよくわからないケースの方が圧倒的に多いことは確かです。

ただ、『句篇』や『山毛欅と創造』などでは、一句一句がどうという以上に、よくわからない句、退屈と思われる句も含めて、句集全体の流れに身を委ねる快感があります。選句集の場合は、そのような凡句駄句を含めての豊かさが消えてしまいますので、是非、全句集なり個別句集なりをお読みになることをお勧めします。

・・・と、偉そうなことを言っておりますが、御稿の精細な読みを前にして、果たして自分はどれだけ安井氏の句を読めているのだろうかと、反省を迫られたことです。小生に限らず、案外、一句一句の読みがおろそかにされてきた部分が、こと安井浩司の享受に関しては大きいように思います。

前回の御寄稿で、優夢さんが批判的に言及していた宇井十間氏の安井論(「豈」本誌第47号)は、小生もはなはだ感心しませんでしたが、「安井浩司の俳句をめぐるディスコースの奇妙さ」の指摘だけはもっともに思ったものです。高原耕治・救仁郷由美子・酒巻英一郎といった安井俳句の熱狂的支持者たちが、さてどの程度、個々の句を読めているのかどうか、彼らの書いたものから判断する限りはなはだ心もとないものがあります。いや、読めているのかも知れませんが、彼らにはリテラシーに関する意識があまりにも乏しいため、安井を出汁になにやら怪気炎を上げているさましか見えてこないのは残念なことです。夏石番矢・正岡豊・志賀康といった人たちに関しては同断ではないですが、それにしても安井俳句の具体的な読みがいよいよ求められているのだろうと思います。御稿はその意味で、貴重な一石であり、個人的には大いに勇気づけらもしました。長くなりました。この辺で。

優夢 さんのコメント...

れおなさま

コメントをいただきましてありがとうございます。土日に出張とはお忙しいですね。お疲れ様でした。

拙稿をお読みいただいてありがとうございます。安井浩司氏の句は、句のねらいどころが分からない句が大半を占める一方、面白いものは肉体的な感覚に訴えてくるところが大きく、大変楽しんで読むことができました。

この拙稿では、確かに一句一句に解体して読んでしまっているので(僕はどの句集もたいがいそんな風に読んでしまう癖があります)、句集全体の流れに身をゆだねるという読み方をするとまた違った側面が出てくるのでしょうね。挙げていただいている『山毛欅と創造』など、選句集には入っていませんでしたし、そういう意味でも読んでみたい気はしています。

俳句を十全に鑑賞することは本当に難しいと、こういう文章を書いてみるといつも思います。本当は、一句一句を紐解いてゆく作業を通じて句集全体の流れを読み取り、その仕事の意味を明らかにしてゆく、というところまで書けたらいいのですけれども。

匿名 さんのコメント...

山口様、
豈ウィークリーはじめて投稿いたします。お二人に俎上にあげられている宇井十間です。私の豈の文章について詳細な批評をいただきましてありがとうございました。随所に参考になるコメントもあり、私はいろいろとたのしんで読ませていただきました。
「書かれた評者も反応しにくいのでは」とはとくに思いません。みなさんたまたま忙しくて反応していないだけだろうと思います。安井浩二について、「9割方は面白さが分からない」というのも私は同感で、ただし私の場合、分からないのは作者の失敗なのだから、それをあえて読者の責任にする必要はないと思うところだけがほかの方とちがうところなのかと思います。山口様はどの俳人に一番ひかれるのでしょうか。そういう俳人についての文章もまた拝見したくたのしみにしております。
宇井十間

山口優夢 さんのコメント...

宇井様

山口優夢です。はじめまして。

僕の以前の記事での放言、お許しください。多々至らぬ点もあり、書き方としても未熟なところが沢山あったろうと思うのに、「いろいろとたのしんで」読んでいただいたとのこと、嬉しく思います。ありがとうございます。

安井浩司氏の句は、選句集のうち1割は、大変面白く読むことができました。安井氏に限らず、句集中に1割でも大変面白い句があれば、それで十分のような気もしています。

僕が最近一番惹かれているのは、三橋敏雄氏です。いつかその鑑賞文も書けたら、と思っております。