2008年11月1日土曜日

失われた風景(4)パレットの回路・・・青山茂根

失われた風景(4)
パレットの回路

                       ・・・青山茂根

(秋元)不死男はしばらく私の句をみていたが、おもむろに、彼の句帖をひらいた。それは息子の小学生が使う雑記帖で、表紙には「具象を重んずべし」とか「凝視」とか、不死男一流の金言が書いてある、不思議な句帖である。
       (『現代俳句の世界9 西東三鬼集』 「続神戸」 西東三鬼)

古くからの、もう十五年ほどの知り合い(だが、2ヶ月に一度の句会以外ではほとんど会わなくなった)たちと吟行に出かけた先で、Mさんから問われた。「あなたはどうしてこういう場で抽象的な句が出来るの?僕はさっきからそれでずっと頭を悩ませているんだけど。」「まず具象から入りますよ。そこから抽象へ飛ばしをかけるんです。」「抽象に行こう行こうとしてるんだけどさ、なかなか行かないんだよ。」「Mさんはコピー書くときの回路に入っちゃうんですよ。俳句書く回路はそっちじゃなくて、こっちですよ。」「そうかなあ。」「コピーは一通りの読みしか想定されないけど、俳句は何通りもの読みが可能ですしね。そう考えると、私はコピー書けないなあ。」(Mさんはコピーライターである。今は現場に出たくても出にくい立場になってしまったが。)

ふうん、とMさんは納得がいかない風だったが、また自分の句作に入っていった。

R ぼくはよくわかんないけど、創造的な意欲をもって書くと、駄目になっちゃうところがあるんだよ。もちろん文学者だから、当然創造的な意欲をもって、はっきりした動機がなかったら文学表現なんて成り立たない。ところがそれがアイロニカルに全部働いてくるのね、創造的意欲を持つと。それで足を掬われちゃうところがあるんだよ。

M だからね、文学が自己表現でなければならないという側面があることは、これは明らかな話なんですよ。ところが、にもかかわらず、自己表現、自己表現と、おまじないみたいに唱えてやり出すと、そこはまた駄目になっちゃう。
    (『あたかも風のごとく 田村隆一対談集』 「文学は言葉で作る」
                 R:田村隆一、M:丸谷才一の発言)

俳句とも文芸とも全く縁のない生活をしていた学生の頃、一時油絵を習いに通っていたことがあった。北鎌倉の、古くからの住宅地の中にある画家のアトリエで、その辺の地元の人しかこない店で生徒仲間と飲んだりするのが楽しみだった。美大を目指す高校生や、美大を卒業してアパレル関係へ就職するが、絵を描くことは続けたい、という人たちもいたが、大半は私のような、ちょっと絵を描いてみたいという、基礎もなくカンバスに油絵の具を塗たくっている者たちだった。教えてくれる画家は、山口長男の晩年の弟子の一人で、どっちかというと抽象かなあ、と自分でいう絵を描いていた。

山口長男の絵は板にイエロー・オーカーやライト・レッド、黒等の色面を塗りこめたもので、一度見たら忘れられない印象を人に与えた。(中略)剛直な構成のなかに、どこか俳句的な軽みを感じさせる、日本独特の抽象的表現であり、(後略)。
                 (『絵画の方法』 身近な「死」 宇佐美圭司)

画家先生の様子を見ていると、最初のデッサンはどうみても具象なのだが、カンバスに絵の具を重ねていくうちに、どうしてそこにその色が入るの?と形の無いものに変わっていく。確かに同じ静物を、同一のチューリップを、一個の果実を見て描いていくのだが、描き進めるうちに我々のカンバスとは全く異なる世界がそこにあった。何故花の茎が湾曲するのか、この光はどこから?といった具合に。対象の線や形が、風景のなかに埋没して、影や光の部分が新たな帯や面となってカンバス上に現れる。

はじまりの頃の具象的な作品と到達点である完全に抽象的な作品を比べてみると、そこには決定的な飛躍がある。飛躍を作ったのはモンドリアンの描く行為の、そして見る行為の連続的なプロセスであった。(中略)モンドリアンは、「いかにして木が客観的に見えるか」と問うた。(中略)客観的な木とは何か?を問うて彼は抽象絵画に到達したのだった。
        (『絵画の方法』 「見えない転機」 宇佐美圭司
            文中モンドリアンはPiet Mondrian 1872-1944)

そして、デッサンを通っていない我々の絵は、完成を見ずに行き詰るのだ。この先どう描けばいいのか、と途方にくれている私に、まだ描けるよ、もっと筆をのせてごらん、と画家はいうのだが、私にはその先の光が、色が見えなかった。過去からの表現形式の蓄積も、技法も持っていなかった。

いったい、わたくしたちの言語の中での「文語」の微妙な力は、どこに由来するものなのか、と思う。バイブルや賛美歌は、文語のほうがふさわしいと、なぜ考えてしまうのか。単に古色を出すにふさわしい文体というのではなかろう。長い歳月をかけて練りに練った一つの「形」が文語であるとすれば、その形をとるということは、当然、「過去」を負う意志の表明になる。そのとき、過去とは一種の威厳であって、とくに詩のばあい、「情を述べる」という発想がしなやかすぎるだけに、かっこうの器なのであろう。この威厳には、当然、韻律や調律の問題もからまっている。                           (『現代詩読本6 室生犀星』 「四つの詩-犀星詩の変遷」 北村太郎)

私より少し前からそこに通い始めた者の中には、やっぱり基礎をやりたいと、絵の具箱を閉じて鉛筆やコンテに持ち替えたものもいた。1,2年通ったろうか、生徒間の気不味いこともあって私はそこを止めてしまった。以来、絵を描いていない。

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