■俳句九十九折(4)
高柳重信と五十句競作
・・・冨田拓也
A さて「ニューウェーヴの登場」についてです。『現代俳句ハンドブック』(1995年 雄山閣)の齋藤慎爾さんの「現代俳句小史」によると〈八〇年代から九〇年代にかけて登場したニューウェーヴでは「結社」による俳人として今井聖、小澤實、片山由美子、金田咲子、岸本尚毅、島谷征良、田中裕明、大屋達冶、西村和子、能村研三、中原道夫、保坂敏子、辻桃子、仙田洋子、長谷川櫂、正木ゆう子、和田耕三郎らがいる。〉〈高柳重信の影響下に出発した夏石番矢、攝津幸彦、林桂、仁平勝、沢好摩、藤原月彦。〉〈同人誌、個人誌では大木あまり、大井恒行、鎌倉佐弓、江里昭彦、蝶丸、永末恵子、大西泰世、高原耕冶、池田澄子、荻原久美子、筑紫磐井、鳴戸奈菜、堀本吟、西川徹郎、久保純夫、皆吉司、高沢晶子、四ッ谷龍らがいる。〉とあります。これらの人たちを指して「ニューウェーヴ」というらしいですね。
B 同人誌、個人誌の記述は少し誤りがありそうですね。結社出身の人が結構多いのではないでしょうか。
A それはともかく、俳句の歴史を見ていくと前回の「存在の時代」の飯島晴子、安井浩司、河原枇杷男あたりの達成と共に、この中で「高柳重信の影響下に出発した」作者たちの、いうなれば「重信と若者たち」ともいうべき関係が、現在ではほとんど閑却されているのではないかという気がします。あと高柳重信の評論、編集や企画などによるオーガナイザーとしての役割についても現在ではあまり話題になりません。このあたりをすこし見ていきましょうか。
B この流れを見てゆくといまでも相当面白いです。圧倒的なカリスマ性を持つ重信と若き才能たちの熾烈なぶつかりあいから生まれてくるはげしい火花というか。この熱気が、いまはないですね。
A 高柳重信(1923~1983)のまわりには戦後の20歳位からほとんど生涯にわたって若者たちが取り巻いているといった感があります。野田誠の句集『敗走』の序文では重信が〈その頃、二十歳をいくつか越したばかりの、無経験で病弱な僕に、鳥海多佳男・野田誠・下野博士らの少年たちが、何故、そんな信頼を寄せてきたのか、それをいまさら邪推しても、さしたる価値はなかろうが、歳月を経てふりかえつてみるとき、それが、互いに一つの感慨を呼びおこす事柄であったことに偽りはなかろう。〉と書いています。
B なぜそのように若者たちが重信を取り巻いていたのかというと、中村苑子の『俳句礼賛』(2001年 富士見書房)の「高柳重信物語」に〈高柳は日常、自分を律することにもきびしかったが、周囲の後輩たちには殊にきびしい態度でのぞんだ。〉〈才能のある若者を溺愛し、期待をかけて、自分の知っているかぎりの知識を注ぎこんで可能性の開拓に必死になっていた〉〈こと俳句作品に対しては、じつに容赦のない峻烈な態度であったから、おとうと弟子たちはみんな男泣きに泣いた。〉〈しかし、ひとたび高柳に承認された作品は名品のお墨付きも同然だから、みんなは懲りずに何度でも作品を持参しては傷ついて帰った。〉という記述があります。重信の鑑賞眼が一つの信頼できる「批評」として存在していたようです。
A 「俳句研究」2002年2月号の歌人佐佐木幸綱の講演録「高柳重信の光と影」では〈われわれは高柳塾と呼んでいましたが、高柳さんのお宅へ行くと、ときには徹夜で話しをしてくださる。俳句の話ばかりですから、俳句でびしょ濡れになるような覚悟で帰って来ます。それが新鮮でびっくりするような体験だったものですから、私も一年くらい通いました。私の前に加藤郁乎さんが通い、その前に寺山修司が通い、その前に大岡信が通っています。なかで高柳さんの世界をいちばんうまく盗み取ったのが寺山修司ではないかと思っています。〉とあります。
B 一種の「啓蒙家」ですね。大変な博識で有名だったそうですが、他ジャンルの表現者、それもこのような錚々たる面々にまでその影響力が大きかったというのは今回、資料に目を通していて少なからぬ驚きでした。他にも吉岡實、須永朝彦などへの影響も少なくなかったようです。
A 自らの俳誌「俳句評論」の同人であった中村苑子、大原テルカズ、折笠美秋、安井浩司、大岡頌司、寺田澄史、志摩聡、川名大、坂戸淳夫、松岡緑男、岩片仁次、若山幸央、金子晋、高橋龍、太田紫苑、桑原三郎、福田葉子、津沢マサ子などへの影響も当然ながら大きかったようです。
B 「俳句評論」は1958年(昭和33年)創刊で、同人には先ほど挙げた作者の他に永田耕衣、富澤赤黄男、高屋窓秋、橋間石、阿部青鞋、三橋鷹女、三橋敏雄、楠本憲吉、三谷昭、神生彩史、赤尾兜子、河原枇杷男、和田悟朗などといった現在では信じ難いほど高いレベルの俳人が数多く揃っていました。
A 坪内稔典、攝津幸彦、沢好摩(澤好摩)といった戦後生まれ世代の若者たちのリーダーであった3人への影響も看過できません。坪内稔典さんは「追悼・高柳重信」という文章で〈高柳重信にとって俳句は、常に<未知なる俳句>(「俳句形式における前衛と正統」)としてあった。正岡子規が発句形式を俳句と呼んで以来、俳句は、この世にまだはっきりとは姿を現していない<未知なる俳句>になった。このように高柳は考えた。〉〈攝津幸彦、夏石番矢、藤原月彦、仁平勝、沢好摩、宇多喜代子、そしてわたしなどは、そうした高柳に強く誘われた。いささか傲慢に聞こえる言い方かもしれないが、こんな俳人がいるのなら俳句に深くかかわってみよう、そんなふうにわたしは思った。〉と書いておられます。
B 次に1953年生まれの対馬康子さんの「俳句のバブル」という文章を引用しましょう。〈私は、昭和48年に山口青邨と中島斌雄の指導のもとで俳句を始め、東大学生俳句界にも学外参加していた。学生達は自由な雰囲気のもとで、他結社の胸を借りて他流試合にどんどん出て行くという、青春特有の客気と何者に対しても恐れを知らない革新の気風に満ちていた。全ての権威は否定されるべき対象で、まだ学生運動の名残が強く残っていた。4Sは皆健全で、山本健吉が俳句の価値基準であった。それに対して自らの価値体系を堂々と主張したのが、高柳重信率いる「俳句研究」であった。ノンセクトラディカルというのが良心的学生の相場であったが、重信には若者にそう行動させる眩しい光があった。時代がそうであったように、虚子の絶対的権威のもとでひたすら写生に打ち込み切磋琢磨する幸せを多くの学生達はもう持っていなかった。〉
A 昭和48年(1973年)ですからこのあたりから「ニューウェーヴ」といわれる作者たちが徐々に登場し始めるようです。対馬さんと同年代である1952年生まれの西村我尼吾さんの「天為」200号での発言に〈高柳重信の芸術至上主義俳句と金子兜太の社会性俳句〉では〈我々の時代は、断トツに高柳重信なんですね。なぜか。それは我々、ノンセクトラジカルの世界においては、それまでの労働階級を前提とした社会性俳句に対してはですね、やはり学生が、根底から疑いを持っていた、というのがあると思います。そこに高柳重信のある種の救い、芸術至上主義に対する救いですが、五十句競作という動きに対して、若者が大きく動いていったんじゃないか、というふうなおもいがあります。〉とあります。
B ここで「五十句競作」という呼称が出てきました。
A 「五十句競作」というのは高柳重信が1968年から1983年まで編集長をしていた総合誌である「俳句研究」誌上で昭和48年(1973年)から始めた新人発掘を目的とした賞のことです。
B 当時、齋藤慎爾さんによって企画された三一書房の『現代短歌大系』十一巻で、塚本邦雄、大岡信、中井英夫が選考する「現代短歌大系」新人賞に多くの若者が応募してきた事実を高柳重信が目のあたりにしたのがきっかけでこの「五十句競作」が発案されたとのことです。「現代短歌大系」新人賞については、中井英夫がかつてのように次代を担う新しい才能を発掘する目的で立案したそうです。
A 三橋敏雄も当時の「俳句研究」に「若き野心への期待」という文章で〈三一書房版『現代短歌大系』の第十一巻に、公募による短歌作品五十首を対象とする、同大系新人賞が発表収載された。同大系の編者であり、かつ新人賞の審査に当たるという、大岡信・塚本邦雄・中井英夫三氏の顔ぶれから、賞の結果にかなりの興味を寄せていたところ、期待を上廻る若い才能が、短歌形式によってとらえられているのを眼前にして、私は思わずああと嗟嘆した。俳句形式における残んの力は、はたして、いかなる若い才能を擒にすることができるだろうかと ――。〉と書いています。このときの「現代短歌大系」新人賞(昭和48年)は応募が684篇、受賞者は石井辰彦(20歳)で歌歴1年、ほかには次席として歌歴なしの長岡裕一郎(18歳)などがいました。
石井辰彦
神輿揉む夏の祭の若者の艶めく肌に揉まれよや神
もみぢ葉の染むる出湯に若者は腰をひたせりぼんなうの午後
我が反古は燃えてぞ歌となりにける我こそまことの歌人ならずや ⇒「歌人」に「うたびと」とルビ
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長岡裕一郎
青空にマグリットの月冴え冴えと「諧謔」は歩く恋愛海岸
ギリシャ悲劇の野外劇場雨となり美男美女美女美女美男たち
B 今から見るとその応募作品の多くについては応募者たちの年齢的なものによる技術の未熟さもあって、かならずしも完成度が高いとは言い難いところがありますが、いくつかの作品はいまでもなかなかの完成度を示しているのではないかと思われます。「美女美女美女」は「雨」と関連させた一種の言葉遊びですね。
A 高柳重信にとって中井英夫という人は短歌の世界で塚本邦雄、中城ふみ子、春日井健などを見出した編集者として最も尊敬する人物の一人だったとのこと。こういった新人発掘が俳句の世界でも可能かという試みが「五十句競作」だったというわけです。
B この賞の特色は高柳重信が一人で選を行う点にありました。これは以前「六人の会賞」という賞で佐藤鬼房、鈴木六林男、林田紀音夫、三橋敏雄、赤尾兜子、そして重信というメンバーで選考した時どうしても票が割れてしまうため、一人で行うことにしたという話があります。
A その第一回「五十句競作」は、応募数124篇で、「俳句研究」昭和48年(1973年)11月号に結果が発表され、入選は郡山淳一という当時22才の青年でした。佳作として、大屋達冶、沢好摩、しょうり大、攝津幸彦、高橋龍、長岡裕一郎、宮入聖、藤原月彦の名前があります。ほとんどの作者がまだ二十代ですね。
大屋達冶
酒近く鶴ゐる津軽明りかな
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しょうり大
憶良らの近江は山かせりなずな
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攝津幸彦
鬼あざみ鬼のみ風に吹かれをり
南浦和のダリアを仮のあはれとす
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長岡裕一郎
鍵束の重みよひとつの天をはずし
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宮入聖
ふりいでし雨の花火の音すなり
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藤原月彦
致死量の月光兄の蒼全裸 ⇒「蒼全裸」に「あおはだか」とルビ
B 重信は第一回を成功させるべく受賞者の候補としてあらかじめ、三人の作者、宮崎大地、郡山淳一、大屋達冶に目星をつけていたとのことです。しかしながら宮崎大地という青年は〈この「五十句競作」を計画したとき、せめて第一回だけは多少の成功を収めたいと思い、まず入選第一席に推すべき青年を、あらかじめ用意していたのであった。たまたま僕は、本誌主催の全国俳句大会の応募者の中に、かなり出色と思われる若い才能を見出し、あとで個人的な作品の提出を求めた結果、すでに百句以上を手元に持っていたのである。そこから既成作家の影響が表面に残っているものを避けながら五十句を選び出しさえすれば、それだけで充分に入選作として推す価値はあった。しかし、その二十歳ほどの青年は、それを選句の暴力と言い、彼の自選五十句でなければ嫌だと頑張り、遂に応募を断念してしまった。〉という何年後かの重信自身の文章にもあるように第一回の応募を辞退、その後俳句をやめてしまったそうです、結局、無所属ということが決め手で郡山淳一の受賞ということになりました。
A 郡山淳一と宮崎大地の作品をここに若干記しておきましょう。
郡山淳一
林檎割くいきづく言葉噛み殺し
妹に告げきて燃える海泳ぐ
白葡萄食ひ机上の航海術
きみとゆく青嵐青空あをし
古典閉づ夕ぐれあまりにも赤く
薄明に臥して水銀もてあそぶ
ロルカ忌にひややかに待つ昼の月
日没にふるへる帽子の中の蝶
わが十指真水にしづむ伯爵忌
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宮崎大地
木枯を思へば匂ふ裸身かな
未来より少年泳ぎ来たる朝
ゆゑありて我はさなぎとなりゆけり
石があり石がありつつ崩壊す
秋風や蝶の棺にマッチ箱
戴冠の我が名をきざむ大地かな
我が夏の快楽や蝶を見て死なむ
一指にて石は枯野によみがへり
市民A薔薇を兇器として愛す
B この後、「五十句競作」は林桂や夏石番矢、西村我尼吾、久保純夫、黒田杏子、辻桃子、安土多架志、中田剛、長谷川櫂などを加えて年に一度、十年程続いていくわけですがやはり始めの頃がピークだったようですね。重信自身も第五回の「五十句競作」の時点で〈この「五十句競作」に対しても、いまの僕は、それほど過分の期待をかけようと思ってはいないのである。〉と書いています。
A その後無所属を貫いた郡山淳一も昭和52年に俳句の筆を折っています。句作期間は結局のところ4、5年だったようです。
B この時代の作品は先ほどの「現代短歌大系」の短歌作品と同様どれも所謂文学的な要素を割合多分に含んでいますね。
A 1970年には三島由紀夫が自決していますし、澁澤龍彦あたりの幻想・異端文学、寺山修司のアングラの世界、短歌の塚本邦雄の美学などの影響が相当強かったみたいですね。当然、高柳重信、加藤郁乎の影響も大きいはずです。全体的にややアヴァンギャルドというか。これはやはりこの当時の時代の影響なのでしょう。
B 他に、小林恭二さんがこの「五十句競作」に1980年(昭和55年)に応募されたときのことを「沢好摩伝」(「新潮」 1989年1月号)に記していて、様々なことを考えさせられる内容なのですが、ここでは作品のみを引用しましょう。この文中に出てくる沢好摩の第二句集『印象』(1985年 南方社)は昭和俳句史における隠れた名句集の一つといっても過言ではないでしょう。
沢好摩
空たかく殺しわすれし春の鳥
むささびは睡りにおちる際を飛ぶ
甕抱きし双掌を解けば翼かな
日本の雨脚濃ゆし猪鹿蝶
葱抜きし男ぴかぴか来たりけり
木の箱に納まるわれももみぢせり
炎天やまたもしづかに手が振られ
鳥渡る棒高跳びの棒残り
綿つめし金管楽器や秋のくれ
祈りとは海を曇らす吐息だらう
■
小林恭二
日がさして白い布団に桜散る
恋人よ草の沖には草の鮫
木の上の蛇が見てゐる絵日傘や
花野越え来し白鳥只今渋谷上空
雪国やさみしき脳はともるらむ
包帯や花嫁走るミラボー橋
A この時の「五十句競作」での重信の行為に小林恭二さんは腹を立て、俳句をやめて小説家への道を進みます。
B 宮崎大地の時もそうでしたが、これは重信の功罪における負の側面なのでしょうね。同じ小林恭二さんの文中に〈このこよなく新しい才能を愛し、愛するあまり食い殺し続けた男〉とあります。中村苑子も『証言・昭和の俳句』で〈どうも高柳のアクが強すぎるというか、みんな才能があるんですが、どうも作家として育っていかない。〉と発言しています。さらに「高柳重信物語」では〈そんな高柳を親しい先輩たちは、半ば呆れながら「弟殺し」と評した。なかには、脱落していった惜しい俊英が少なくなかったが、私が残念に思うのは、高柳の許を去っていったその人たちが、高柳から離れたばかりではなく、俳句そのものとも決別してしまい、二度とふたたび、どこにも名前を見ることがないのである。〉 とも。
A やはりこういった特殊な才質を有した俳人には当然ながら非情な側面もあるものなのでしょう。しかしながら、その一方で飯田龍太との会話において、龍太が新人について質問したところ、〈ひとりも居ない〉〈でも、期待出来ても出来なくとも、あと押ししてあげないと、俳壇はますます悪くなるばかりなんだ〉という発言もあったようです。当時の「俳句研究」を見ると評論においても随分若い作者たちに紙面を提供しています。
B こういった「五十句競作」の流れが1976年(昭和51年)の坪内稔典の「現代俳句」、1978年(昭和53年)の沢好摩の「未定」、1980年(昭和55年)の攝津幸彦の「豈」といった若者たちの俳句誌の創刊という熱気へと繋がっていくわけです。さらにいうなればこの流れの上にこの「―俳句空間―豈weekly」も存在しているのです。
A 中井英夫や高柳重信あたりを契機として私もこのような発言をしているともいえるわけですか。故人の影響力というのも小さくないですね。
B このように若者たちに強い影響を与え、俳句型式を追及し続けた高柳重信も1983年に60歳で亡くなります。戦中、戦後、結核という宿痾を抱え込み、その灰燼と絶望の中で自らの言葉を掘鑿し、数々の優れた俳人を「俳句評論」において組織すると同時に、様々な句集を自ら印刷、出版し、さらには総合誌「俳句研究」によって自らの俳句史を作り上げようとしたこの不世出の俳人の来し方を見るとなんとも凄絶な感じがします。
A 現在、この高柳重信の評論や1968年から1983年までの180冊にも及ぶ「俳句研究」の資料性としての価値が見直される必要があるのではないかという気がします。宗田安正さんの発言を引いておきましょう。〈あの人の編集は雑誌の作り方じゃなかったね。〉〈彼は古典を相手にしないのね。近代俳句、現代俳句だ。あの毎号の特集、たとえば作家特集などはすごかった。あの特集を抜けている総合誌の作家特集は今でもないよ。〉〈ほかの特集も見事でした。年代ごとの俳壇、たとえば「昭和二十年代の俳壇」「三十年代の俳壇」「四十年代の俳壇」などと時間をヨコに切って当時の俳壇の俯瞰をやる。そして、「社会性俳句のゆくえ」などテーマ別の特集もやっている。だから、近代俳句史をタテに切り、ヨコに切り、作家でやり、俳句本質論、表記論もやっている。雑誌が全部そろうと、まさに全何巻とかの大「近現代俳句体系」なんだ。〉
B この年には中村草田男が82歳、寺山修司も47歳で亡くなっています。寺山修司は『黄金時代』(1978年)のあとがきにおいて〈俳句は、おそらく、世界でももっともすぐれた詩型であることが、この頃、あらためて痛感されるのである。〉と書き、昔の仲間であった松村禎三、宗田安正、齋藤慎爾によびかけ、同人誌「雷帝」を創刊して俳句に帰還しようとしていたそうです。ここでの寺山の逝去も現在から見ると大きいものなのかもしれません。
A なんとなく1962年の三鬼、赤黄男、蛇笏が亡くなった年にも似ていますね。
B 一つの時代のターニングポイントだったのでしょうか。
A 対馬康子さんの先ほどの「俳句のバブル」という文章の続きを引きましょう。
重信の死後、俳句がライトヴァースになっていくのにも失望した。それは、日本経済がバブルへ突入していく布石とも言うべき風潮であった。
俳人の言葉 第4回
俳句を書くという行為は、そこに精神の権化である一匹の鬼を出現させることである。そして鬼こそは、古くから「もの」と呼ばれる、得たいの知れぬ不可思議なものであった。
高柳重信
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■関連記事
俳句九十九折(1)・・・冨田拓也 →読む
俳句九十九折(2)・・・冨田拓也 →読む
俳句九十九折(3)・・・冨田拓也 →読む
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1 件のコメント:
富田拓也様
御稿、興味深く拝読しました。断片的に仄聞していることも多いですが、やはりこのように総括的に記述されると非常に興味深いものがあります。感じたのは、いわゆるニューウェイブの人たちの中間決算の時期にさしかかっているにもかかわらず、それがなされそうな機運が無いということです。小生記事でも触れた一九八三年の高柳重信死去のあたりから一九九三年の「俳句空間」廃刊までの流れが小生などにも大層わかりにくい感じがします。当事者たちにしてみれば、別にこと改めて記述するまでもないということかも知れませんが、そろそろ通史的な回顧があってもよいように思いました。当時は角川の「俳句」にも鈴木豊一というすぐれた編集長がいて(今もお元気ですが)、「俳句研究」の高柳重信も一目置いていたそうです。重信サイドからばかりでなく、角川書店なども含め包括的な記述がなされなくてはならないと思います。近過去を歴史化するというのは、ある意味ではいちばん難しいところでしょうが。
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