インポテンツの愛のうた
・・・外山一機
四ッ谷龍の俳句はさびしさを湛えている。
落日を背にクレーンの弧を描く
デーゲーム拍手まばらに四月尽
灰色校舎翳つくりあう楓の実
こうした句を享受するとき、僕は「様々なる意匠」という言葉とともに、はにかみのようなものを覚えずにはいられない。俳句表現において「さびしさ」や、あるいは「虚無」や「孤独」といったテーマはすでに詠みつくされてしまっている。もちろん、だからといってこうしたことを詠むべきではないというのではない。重要なのは、その句のテーマが何であるかではなくその句が詩として優れているかどうかだ。
だが、それでもなお僕が四ッ谷の句の前に立つときに戸惑いを覚えるのは、四ッ谷がその青年期から一貫してさびしそうな顔で詠み続けているからだろう。
友の髭淡し春風吹き寄せぬ
昭和四九年、一六歳の折の作品である。この優しいまなざしを、僕は痛ましく思う。この優しさは、すでに「友」と同じ地点に立てなくなってしまった者のそれであるからだ。そこにあるのは、いわば奇妙な晩年の意識である。
夏星を繰る骰子の展開図
たとえば「夏星」の運行と「骰子」の神秘的な関係を見出したとして、四ッ谷はそれを神秘的なままに讃えることができない。その「展開図」が見えてしまうところに四ッ谷の抱え込んだ不幸がある。
十三夜線路いきなり光りだす
だから、僕はこういう句のほうに安心する。終焉の場所から睥睨するのではなく、「いまここ」にあるものを無暗に詠っていくこと。けれども、四ッ谷はそれを選ばなかったようだ。
翻って、四ッ谷の句の持つさびしさの根源にあるものは何だろうか。
石鹼泡ひとつひとつの瞳を持てり
生まれてはすぐに壊れてしまうシャボンの泡のなかに四ッ谷は「瞳」を見出す。けれど、それらの「瞳」ははたしてこちらを見ているのか。
ゆきかうひとみなつかれたる眼して春
「つかれたる眼」をして「ゆきかう」人々、それが四ッ谷にとっての「春」のありようであり、同時に、世界のありようであった。
鳥交る松の林に雲沈み
むこうがわに人間もいてものものしきブギウギ
それぞれの肩のかたちで探梅へ
ばらばらのままの青空大栄螺
四ッ谷の句は傍観者のそれである。そして四ッ谷が見ているのは他者と繋がりにくくなったさびしい世界である。「それぞれの肩のかたち」とは、自我を徹底的に背負い込んだ個人の謂である。四ッ谷にとっては青空さえ「ばらばらのまま」であり、「鳥」の交る「松の林」も「人間」たちの「ブギウギ」もたちまちに不穏なものに化してしまう。四ッ谷はこんなふうに沈痛な面持ちで世界のさびしさを詠ってきたのだ。
虻飛行馬酔木咲く野はコナゴナに
秋淋し大庇より大烏
ときにそれは滑稽な作品にもなる。これらは「来しかたや馬酔木咲く野の日のひかり」(水原秋桜子)「方丈の大庇より春の蝶」(高野素十)を下敷きにしたものであろう。秋桜子の雅やかな句の世界に「虻」が闖入する。すると世界は一転してコナゴナになってしまう。また、二句目は「秋淋し」という露骨ともいえる吐露から始まり、「春の蝶」の鮮やかさと対をなすかのように「大烏」が登場する。「虻飛行」の句にもいえることだが、そもそもこれら二句は秋桜子や素十の句とその完成度においては比べるべくもないのである。むしろこれらの句に見るべきは秋桜子や素十の句より優れているか否かではなく、そのように表現せずにはいられなかった表現行為の一回性の尊さのほうであろう。すなわち、いわゆる名句への問い返しをする行為それ自体によって自らの立場を見据えようとする、やや狂気じみた作者の面持ちをこそ見るべきなのである。
ところで、「虻飛行」の句に見られるような嗜虐性は四ッ谷の作品にときどき顔をのぞかせる性質である。
桃の花十まで数え鬼死ねよ
土曜殺人日曜愛撫氷水
犬擲てばばら色に照る大地かな
「桃の花」の句は、自らを脅かすものとしての「鬼」にまるでまじないのように「死ねよ」と投げかける。だがそのことによって逆に「鬼」を殺すことの不可能性が暗示されていよう。また「土曜殺人」の句は、愛情の裏側にあるいささかねじまがった暴力を示している。三句目の「犬擲てば」の句では鬱勃とした気分を追い払うかのように「犬」を「擲」つのだが、その瞬間、大地がばら色へと変貌する。ちょうど「虻」が暴力的な羽音を立てながら飛ぶことによって「馬酔木咲く野」が「コナゴナ」になったのと表裏の関係をなしていよう。
こうした嗜虐性――あるいはそれを破壊願望といってもいいのかもしれないが――は、世界のほうから虐待を受けていることの反転であるのかもしれない。
はればれとわたしをころす桜かな
ガラス器の汚れ忽ち鳥曇
筒鳥や頭の中を走る傷
姫女苑・姫女苑・姫女苑手の火傷あり
鳶燃えて砂丘を転がり落ちる僕
四ッ谷の作品に登場するのは傷つきやすい「僕」の姿である。四ッ谷の句がときに傍観者的であるのは、物事への接触によって痛手を受けることへの怯えによるものなのかもしれない。こうした過剰な怯えの意識による他者との接触不良が、四ッ谷の作品世界を底流するさびしさへと繋がっているのだろう。
楽譜持つ子画帳持つ子と稲の中
この二人の子どもたちは「稲の中」で無事めぐり会うことができたのだろうか。そしてまた、たとえばそれぞれの持つ「楽譜」と「画帳」とを見せあうことはできたのだろうか。初めから接触不良が起こることはわかっているのだ。けれど、この二人はきっとわかりえあえたのだと思わないことには、あまりにさびしい。
大旱の丸太が二本愛しあう
思えば、四ッ谷龍の第一句集名は『慈愛』であった。孤独と虚無とが錯綜する場所で、どのようにしたら「愛」を詠うことができるのか。「丸太」といえば「手と足をもいだ丸太にしてかえし」(鶴彬)という川柳が知られているが、四ッ谷の句にあるのは他者によって手足をもがれた者ではなく、虚無と孤独のなかでついに手も足も持つことのできなかった者の姿である。あらゆるものが生気を失った「大旱」の世界で、他者との接触に懐疑的でありつつそれでも「愛しあう」のなら、それはこんなふうに滑稽で悲劇的な様相を呈するほかない。
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