2009年10月18日日曜日

俳句九十九折(53) 七曜俳句クロニクル Ⅵ・・・冨田拓也

俳句九十九折(53)
七曜俳句クロニクル Ⅵ

                       ・・・冨田拓也


10月11日 日曜日

「俳句短律コレクション」といったものを纏めれば、面白いのではないかと思い付く。

短律、即ち自由律俳句の短い作品ばかりを一同に集めるのである。

しかしながら、例によって今回も思い出せた作品は僅々たるものであった。

鉄鉢の中へも霰  種田山頭火『草木塔』より

咳をしても一人  尾崎放哉『大空』より

墓のうらに廻る     〃

陽へ病む   大橋裸木

草も月夜   青木此君楼『青木此君楼全句集』より

光水の上にある   〃

うごけば、寒い  橋本夢道『無礼なる妻』より

握りしめた夜に咳こむ  住宅顕信『未完成』より

ずぶぬれて犬ころ     〃

麿、変?  高山れおな『荒東雑詩』より

この中のいくつかの作品については、それこそ「本(小説など)のタイトル」や「音楽のタイトル(曲名)」、または「映画のタイトル」にもやや近いものがあるといってもいいかもしれない。

ということは、逆に考えると「本のタイトル」や「音楽のタイトル」、「映画のタイトル」などを注意深く見てゆけば「自由律俳句」に近いものをいくつも見出すことができる、ということにもなりそうである。

いまは亡き山本夏彦というエッセイストに〈タイトルだけが人生だ〉という言葉があったことを思い出した。


10月12日 月曜日

坂本宮尾『木馬の螺子』(角川書店 2005年)を再読。

坂本宮尾さんは山口青邨門の作者で、現在「天為」、「藍生」同人。評伝『杉田久女』(富士見書房 2003)において歪められた久女像を糺し、久女の再評価を決定的なものとしたことは記憶に新しい。句集としては、第1句集『天動説』がある。俳号の「宮尾」とは、猫の鳴き声からとったものであるとのこと。

『木馬の螺子』は、平成7年から17年までの350句を収めた坂本さんの第2句集である。

本人が「あとがき」において〈俳句形式固有の美と格調の伝統に近づきたいという願望と、ともすれば枠から飛び出しそうになる衝動との間には、たえず葛藤があります。〉と記しているように、その句集における作品の示す振り幅は非常に大きい。

まずその二つの傾向の内の「俳句形式固有の美と格調の伝統」を感じさせる作品としては、句集の中から次のものが挙げられよう。

明治てふ紫紺の時代梅雨の蝶

春暮るる海月の包む水のいろ

秋高し暗くからつぽ鯉の咽

夕菅も星もひらきて草千里

とほくまで来て秋空が青いだけ

枯蓮の真中の道を来たりけり


続いて、「ともすれば枠から飛び出しそうになる衝動」を感じさせる作品について挙げてみることにしたい。

あめふらしエロスタナトスむらさきに

緑立つ夕べ化石に貝の渦

門火焚くどの道筋を来たまふや

まなうらに縦に斜めに流星痕

黒揚羽網膜に穴あけにくる

一粒の葡萄のなかに地中海

わが指紋冬の泉に残しけり

朧夜を隕石墜ちて来る途中

やはりこれらの「ともすれば枠から飛び出しそうになる衝動」を感じさせる作品については単なる「伝統的な作風」(といっても多種多様であるが)の範疇から随分と逸脱している印象を受けよう。そして、大方の作者たちには「俳句形式固有の美と格調の伝統に近づきたいという願望」は強くても、「ともすれば枠から飛び出しそうになる衝動」というものは、まずその内側に有してはいないはずである。

そのような「衝動」や「葛藤」を自らの内に抱え込めば、それこそ俳句にかかわっている間、絶えず俳句表現の規範と逸脱との力関係の上において引き裂かれるような大変さを味わうことになるのは必至である。

俳句において「これが正しい」と決めつけてしまった方が、実作者としては何の迷いや疑問も抱かずに済むこととなり、きわめて「楽」なのであるが、そのような安易な選択をこの作者は採ろうとはしない。前述の「葛藤」をそのまま抱え込んで歩もうとする。

この作者が、なにゆえに俳句形式に対するこのような「葛藤」を抱え込まざるを得なくなったのか、ということについて考えてみると、評伝『杉田久女』などの著作からも窺えるように、おそらくこの作者の精神の内側には、ものごとにおける本質というものを希求してやまない強靭な知性が確固として内在しているゆえということになるのであろう。その強靭な知性に立脚した作者精神の存在が、常に俳句作品における安直な出来合いの「解答」といったものを容易に肯うことを許さないとでもいったように作用しているのではないかと思われる。

このような俳句形式に対する「葛藤」を抱え込み、その俳句形式の在り方そのものを不断に問い続けてやまない知性を持つこの作者の今後の作品展開が待たれるところである。


10月13日 火曜日

「図鑑」という言葉が不意にひらめく。

「図鑑」といえば、まずそのずしりと重い手応えが連想され、また多くの細かい調査によって漸く得られた数々の情報と叡智の結晶が、カラフルな写真や図柄とともに収録されており、その内容を想像しただけで、ひとつの未知なる別の世界が広がるとでもいったような趣きがある。

俳句に「図鑑」という言葉を効果的に組み入れることができれば、割合その作品内容については面白くなるところがあるかもしれない。

ふぶく夜や蝶の図鑑を枕もと  橋間石『和栲』より

死後晴れて友の遺品の蝶図鑑  杉本雷造『火祭』より

うららかや鯨図鑑の小さな目  矢島渚男『梟』より

少年老い易し拳銃図鑑黴び  馬場駿吉『夢中夢』より

わが死後の植物図鑑きっと雨  大西泰世『こいびとになってくださいますか』より

橋渡る腕(かいな)に風の図鑑あり  水野真由美『八月の橋』より


10月14日 水曜日

松村禎三句集『旱夫抄』(深夜叢書社 1991年)を再読。

この松村禎三(1929~2007)という人は有名な作曲家であったらしいが、そういった音楽の方面にあまり詳しくない自分は、この作曲家の手になる音楽というものをこれまでに1度も耳にしたことがないのではないかと思われる。

この『旱夫抄』には、作者が肺結核となった昭和25年から31年までの7年間の作品と、昭和56年に作成された作品16句が収録されている。

昭和25年に20代の青年であった松村禎三は肺結核となり、そのために入院することとなった療養所で、現在エディター・俳人である宗田安正と知り合ったことが、俳句を始めるきっかけであったそうである。その後、山口誓子の「天狼」、秋元不死男の「氷海」へと投句。

驟雨来て噴水冷たき光となる

雲の峰昏れずに神の座を示す

炎天より入り来し蝶のしづまらず

幾万の絮落ちて野の枯れつくす

雪原と柱時計が暮れはじむ

禁欲の躬を湯に沈む旱星

紙の凧天より戻り手に帰る

オリオン落ちて寒き日本中が明ける

照るも翳るも村の藤棚一斉に

夜に入りて鰯雲より星洩らす

高々と虹病肺の蜂の巣に

楽譜手に踏切りわたるクリスマス

炎暑の石塀なりしが月光浴びはじむ


昭和25年から31年までの作者の20代の頃の作品から引いた。療養中の時期における作品ということで〈麦笛が線路を越えゆく今が晩年〉〈自殺しようと思ふこの世にきりぎりす〉〈脱ぎて置かる手袋いままで何して来し〉などといったやや陰鬱な内容のものも見受けられるが、全体的にはその作品傾向は、やはりおおよそ「天狼」調といっていいところがあろうか。

「噴水」「雪原」「柱時計」「旱星」「凧」「オリオン」「虹」などの語彙からは、まさしく山口誓子の作風を髣髴とさせるところがある。また、堀井春一郎、小宮山遠、鷹羽狩行、上田五千石、斎藤慎爾といったやはり天狼系の作者の作風に近接した印象があるといえるところもあろうか。

この句集の作品を見ると、いくつも同じような題材を用いた同工の作品があり、また現在の眼から見るとその作品については全体的に若干単調といった側面もあるかもしれないが、ここに取り上げた句を見てもわかるように、そのストレートな表現による作品は、どこかしら決定的な強度を欠いているといった印象が否めないながらも、その直情さと鮮烈さゆえに時の流れによる劣化もさほど感じさせず、現在においてもこの作者の才質の紛れもなさを実感させる、なかなか高い水準を示した作品であるといっていいのではないかという気がする。


10月15日 木曜日

小川春休句集『銀の泡』(株式会社タカトープリントメディア 2009年10月1日)を読む。

小川春休さん(「しゅんきゅう」と読むそうである)は、昭和51年生れで、現在「童子」、「澤」に所属。この句集は、文庫サイズの簡素でつつましやかな装丁で、値段は<本体1000円+税>。

この句集については、全体的には一見やや地味ともいえる作風で、個人的にはもう少し作者の腸の底から摑みだしたような作品も見てみたいという思いも若干ながら抱かないではなかったが、収録された全398句の1句1句について見てゆくと、なかなか捨て難い作品をいくつも見出すことができる。また、その作品全体を通して、作者の1人の人間としての実人生の一端が垣間見えてくるところがあり、そこにもこの句集における静かな魅力といったものが感じ取れるであろう。

ワイパーに春の霙の重たけれ

目刺焼く電車通れば窓鳴つて

夏浅き鞄を傘の代はりかな

ロープウェイ残暑の街を離れけり

月昇り蛸は己が墨の底

ひひらぎを咲かせ人づきあひ少な

初空や無きがごとくに窓硝子

白息を小雨の粒のつらぬける


10月16日 金曜日

「日本」というキーワードを、なんとなく思いつく。

稲づまや浪もてゆへる秋つしま  与謝蕪村

海の中に桜さいたる日本かな  松根東洋城『松根東洋城』より

めつむれば祖国は蒼き海の上  富澤赤黄男『天の狼』より

一生の幾箸づかひ秋津洲  三橋敏雄『鷓鴣』より

思えばかなし桜の国の俳句かな  折笠美秋『君なら蝶に』より

列島をかじる鮫たち桜咲く  坪内稔典『百年の家』より

枯山河大海原のただ中に   西村我尼吾『西村我尼吾句集』より

行く春やパンの袋に世界地図  金子敦『冬夕焼』より

富澤赤黄男の句は、おそらく松根東洋城の句の本歌取りではないかと思われる。赤黄男は、一時期東洋城の門下に所属していたことがある。この松根東洋城の作風というものが、富澤赤黄男の作品へと若干ながら影響を及ぼしている面があるのではないか、とつねづね思っているのだが(漢文的なところや、やや空想趣味的なところなど)、そのことについて言及した赤黄男論というものを、いまだに自分は寡聞にして目にしたことがない。


10月17日 土曜日

森賀まり句集『瞬く』(ふらんす堂 2009年9月22日)を読む。

森賀さんは、波多野爽波門の作者で、現在は「百鳥」同人、「静かな場所」代表。第1句集として『ねむる手』(1996)がある。

この『瞬く』は静謐ないい句集。この句集については、あまり感想をごちゃごちゃと書くのはよしておいて、句集より作品をいくつか抄出しておくことにしたい。

白きものみんなかもめや冬座敷

小さくて秋の蛙のすぐ跳ねる

裏返るとき蛍の強き火よ

行く夏を急がぬ人の帽子かな

文庫本閉ぢて眠りぬ薄氷

初蝶のあやふき脚が見えてゐる

俺といふ人来て座る箒草

かすかなる空耳なれどあたたかし

日脚伸ぶ太々とあり青き文字

半身は光へのびてかたつむり


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■関連記事

俳句九十九折(48) 七曜俳句クロニクル Ⅰ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(49) 七曜俳句クロニクル Ⅱ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(50) 七曜俳句クロニクル Ⅲ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(51) 七曜俳句クロニクル Ⅳ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(52) 七曜俳句クロニクル Ⅴ・・・冨田拓也   →読む
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7 件のコメント:

小川 春休 さんのコメント...

冨田様

はじめまして。
俳人ファイルの頃からいつも楽しみに読ませていただいております。
拙句集に「腸の底から摑みだしたような作品」がないのは、性格というか嗜好というか、
そのような感じでしょうか…。自分ではよく分からないところもありますが。
何はともあれ、お読みいただきありがとうございました。

冨田拓也 さんのコメント...

小川春休様

コメントありがとうございます。

私の意見など、あまりお気になさらないでくださいね。

御句集の『銀の泡』では、他にも、

めし粒をちぎりちぎりて運ぶ蟻

白シャツの君は鋭き肱持てり

線香のひん曲りたる残暑かな

年の瀬の盥せましとうなぎども

笹鳴の山並うつらうつらかな

足跡に雪つむらんと眠りけり

あたりにも感銘いたしました。

小川さんの今後の作品展開についても楽しみにいたしております。

では、またコメントなどいただけると嬉しく思います。

冨田拓也 さんのコメント...

本文の訂正です。

引用させていただいた森賀まりさんの作品は、正しくは、

初蝶のあやふき脚が見えてゐる

でした。

(☓ 初蝶のあやふき脚が見えている)

謹んでお詫び申し上げます。

中村安伸 さんのコメント...

森賀まりさんの作品、本文訂正いたしました。

冨田拓也 さんのコメント...

中村安伸様

訂正していただき、感謝いたします。

六甲山 さんのコメント...

冨田様
 奇しくも音楽家の松村禎三は、私のO高校時代の数学の恩師S先生と三高で同じ寮(自由寮)で、親友であったとのことでした。氏は俳句を作っていたとは知りませんでした。
 堀井春一郎は、時代は違いますが元O高校の教師。
 山本夏彦の〈タイトルだけが人生だ〉という言葉の引用がありました。私は山本夏彦のファンで翻訳(実在が疑わしいのですが…)を除いてすべて読んでおります。どの本であったか忘れましたが〈タイトルはいかさまの才能だ〉という言葉もありましたね。

冨田拓也 さんのコメント...

六甲山さま

コメントいただきありがとうございます。

そうですか。確か六甲山さんはかつて数学を学ばれておられたとのこと。なにかしら奇縁といったようなものが感じられるところがありますね。
松村禎三の俳句は非常に若い時のもので、現在ではあまり知られていないところがあるかもしれません。

たしか堀井春一郎も同じ時期に「天狼」で活躍していたのではなかったと思われます。

山本夏彦の著書をほぼすべて読まれているのですか。驚きました。数学といい音楽といい六甲山さんはやはり相当博識なのですね。

私も10年ほど前から山本夏彦の著書を何冊か読んでいるのですが、あまり若い年齢でこの人の文章を読むのはよくないところがあるかもしれませんね。やや厭世的になってしまうところがあるというか。それでもやはり素晴らしい文章家であることは間違いのないところですね。

では、また気が向いたらコメントしてくださいね。