散逸的乱読中のメモから、青畝の句・「大きな物語」・その他のことについて
・・・関 悦史
句集をむりやり読んでも一向に頭に入らないという日が続いたもので、むかしのSF・ミステリから始まってしばらく俳句と全然関係なさそうなものばかり読んでいた。ところが非常に遠回りながら全く俳句と関わらないわけではないというところも間々出てきて、たしか武田泰淳がどこかで大乗仏教の「空」は「諸行無常」と同じ概念だと説明していたときに、それをもっと噛み砕くと「全てのものは関係しあって変化する」ということだと云っていたから、全く無関係なものごとというのはないのだろうということで今回は最近の浮遊・迷走とそこから拾った抜書きをそのまま出す。
山田正紀『神々の埋葬』(角川文庫)というのは私が小中学生の頃近所の本屋にあったSF長篇で読まないままになっていたのを、最近古本屋で見つけて装幀が懐かしいので古本屋で買ってしまい、じつに二十数年ぶりに読むことになって、内容は今読んでも充分面白かったがそれをここで紹介してもあまり意味がなく、時間が経ちすぎたがために作者の狙いと無関係な面白みが出てきてしまったので、書きたいのはそちらである。
当時の世界情勢が作品に関わってくるのだが、作中最も頑迷なイスラム国家として名が挙がるのがなぜかパキスタン。いつ出たのだったかこの本はと奥付を見ると昭和54年(1979年)で、つまりこの作品が文庫化された年にイラン革命が起こったことになる。タイミングのひどく悪い文庫化だったわけが、そうした事件の年次が特定できるような事柄に限らず昔のエンターテインメント、それも世界情勢に関わる作品というのは当時の社会がどういう強迫観念にさいなまれていたか、その感覚が丸ごと保存されている社会の無意識の貯蔵庫のようなところがあり、そういえば当時は人口増加がひどく問題視されていて(総人口がまだ45億人かそこらだったはずだが)人口は減らさなければという意識がずいぶん切迫していたのだったと、その感覚までありありと思い出したりもする。何よりも冷戦構造の世界に生きているという感覚がどの作品にも染みとおっている(同じエンターテインメントでもミステリの方はあまりそういう機能はなかったようだが)。
何年に何が起こったといった数字や言語情報の記憶はわりと簡単に残るが、普段の暮らしのなかで抱いていた感覚というのはケガや病気の苦痛と一緒で、消えた途端にリアルに甦らせるのが至難となり、感覚が変わったということ自体をもすぐに忘れてしまう。これは最近読んだわけではないが小松左京の『首都消失』。東京が謎の「雲」にすっぽりと覆われて完全に遮断され、外からは都民1000万人の生死もわからなくなるという話だったが、あれなども政治・経済・外交・軍事の中枢がまとまっている首都が沈黙したと聞いたら即座に「この隙にソ連が攻めてくる」という緊張が読者の側にも走るようでなければ、何の話をしているのだかわからなくなりかねない。
などと思っていたら、先々週の「豈weekly」第35号の大井恒行氏の新連載でいきなり阿波野青畝「蝶多しベルリンの壁無きゆゑか」が出てきた。
阿波野青畝といえば「4S」の中でも論じられる機会の少ない人だが、高柳重信が「4S」で最も新しいのは青畝、俳句を始めた当初は誓子に惹かれたがいつの間にか青畝の方に移っていったと云っていて、90年代初頭に相次いで物故した3人の俳人追悼企画本『誓子 青畝 楸邨――さらば昭和俳句』(立風書房)にその文が収録されていたはずだが、いま手元にないので正確には引けない。
この本のなかに誓子が青畝本人に向かって「山又山山桜又山桜」という句はわからないと云っているエピソードなどもあったはずで、硬質に視覚をなぞるのでその分初心者に魅力がわかりやすい誓子と、茫洋たる記憶と感覚の広がりをそっくり一句の時空に含みこんでしまう青畝の作風の違いが象徴的に現われていると思ったものだった。その青畝にしても俳句形式のなかで壁崩壊当時の感覚を甦らせる、またはそっくり保存するのはさすがに難しいかとベルリンの壁一句を見て最初は思ったが、この場合は季語の「蝶」多しが当時の感慨を伝えている。
全く違う思考様式の敵対勢力と人類を何十回も絶滅させうる核兵器持ったまま向かい合って凝固していた冷戦構造の世界というのはそれなりに圧迫感のあるもので、ソ連国内に異変があったときのニュースの隔靴掻痒ぶりと緊迫ぶりは、今思うと異様なものだった。まずソ連国営放送のアナウンサーが黒ネクタイとなり、各国に出かけていたソ連要人が一斉に国内へ帰り始めるといった断片的な徴候がまず伝えられ、そこからニュース番組がソ連で誰かトップクラスの重要人物が死亡したらしいという憶測を流し始める。「チェルネンコ書記長死去か」と世界が固唾をのんで注視していると、異変開始からずいぶん経ってから「ウスチノフ国防相死去」の報が発表されたりする(20代以下の人にはほとんどわからないであろう話なのでついでに説明すると、当時のソ連では「書記長」が最高権力者だった。「首相」は別にいたのだが「プロレタリアート独裁」の理論によって政府より党の方が上位であり、その党の最高意思決定機関が「政治局」、その「政治局」の選抜メンバーから構成されるのが「書記局」なので「書記長」がトップになるという理屈だったと記憶する)。
ベルリンの壁というのはその二分された世界を象徴する建造物だったわけだが、当時はあれはピラミッドや万里の長城と同じく個人の一生のスケールを超えたもので、自分が生きているうちに消えてなくなると思っている人間はいなかった。「ベルリンの壁がなくなって世界がひとつになったらいいな」というのは「鳥のように自由に空が飛べたら」というのと同等のレベルの絵空ごとだった。その絵空ごとが89年の暮に唐突に本当に起こってしまった。その開放感をあらわすのが「蝶多し」なのだ。
先日、樋口由紀子氏が出たばかりの本『別冊セレクション柳人 セレクション柳論』(邑書林)を送ってくれた(この場を借りてお礼申し上げます)。川柳については今までさして関心がないまま来てしまったので、集中当たり前のように論じられている川柳作家のほとんどを知らないでいたことに今更気づいたり、外部から見ると一人だけむやみに目立つ時実新子の現代川柳史における位置づけを樋口氏の文で初めて教えられたりした。
この本の中に佐藤美文「川柳が詠んできた戦後―昭和62年」という一文があり、竹下内閣発足前後の時事川柳がまとまった量引用されているのだが、そこで最初に出てくるのが「NTT指をくわえて眺めやり」「NTT一株ほどのあたたかさ」といった電電公社民営化に伴って上場され、値上がり確実と言われたNTT株騒動をめぐる作品であった。元になった事象が細かすぎて今となっては社会史的資料としてしか読めない作品が多数ある。それらと比較すると青畝の「ベルリンの壁」の句は、違う生理と論理で出来上がっているのが感じられる。川柳と俳句どちらが上かといった話ではない。大分前、城戸朱理氏の耕衣論を紹介したときに引用したドゥルーズの「永遠」と「持続」という時間の二つの分け方で云えば、俳句は時事を詠んでも必ず永遠性への通路を持とうとし、一方川柳は素材となった事象のうつろいやすさと心中覚悟で「持続」に留まるという違いがあるように見える。これは時事の代わりに私を素材に据えた時実新子の場合も変わらない(この辺は一読しての思いつきのメモに過ぎないが)。
ベルリンの壁ついでに「大きな物語」の話もする。
最近俳句関連の勉強会やシンポジウムに行くと「大きな物語の消失」の話が毎度のように出る。何で今更こんな20年近い昔の流行語がと思っていたのだが、さすがに若干意味合いが変わっているところもあるらしい。最初に流行ったときはベルリンの壁崩壊のすぐ後で、「大きな物語」はほぼ「マルクス主義」と同義に扱われていた印象があるのだが、最近の用法について東浩紀が書いたものが2,3ヶ月前の『文學界』に載っていた。
《ぼくの著作をお読みになったかたなら、ぼくが、現代社会の基本的な性格を、「大きな物語がなくなった」ことに求めていることはご存知かと思います。
しかし、そこでひとつ、きわめて頻繁に誤解されていることがある。「大きな物語の崩壊」というぼくの主張は、じつは、教養が崩壊しただの、イデオロギーが信じられなくなっただの、共通の規範意識が失われただのといった、社会のもろもろの局面で「物語」があまり大きな役割を果たさなくなったという現象、それそのものを意味するものではありません。
そうではなく、ぼくが重要だと考えているのは、もう少し抽象的な変化なのです。たしかに現代社会では、さまざまな局面で物語の影響力が失われている。ひとは教養など信じなくなっているし、イデオロギーなどという言葉は死語になっている。それはそうなのですが、ここで注目すべきなのは、どちらかというと、「みなが同じ物語に関心をもつべきである」という信念、ちょっと学問的な匂いのする表現を使えば「特定の物語の共有化圧力」とでもなりますが、そういうメタ物語的な(原文・「メタ物語的な」に傍点)信念のほうが消失していることです。問題は、みなが信じる大きな物語がなくなったことにあるのではない。「みなが信じる大きな物語があるべきだ」とみなが信じなくなっていること、そちらのほうにこそ深刻な問題がある。
むろん、いまでも、いわゆる大きな物語を信じている、信じたいひとはたくさんいるでしょう。たとえば目本には、ナショナリストもいればマルクシストもいるでしょうし、カルトに入信しているひともいるでしょう。テロリストもまた、大きな物語の信者だと言えるでしょう(なんといっても、彼らはその信念のために命まで捧げるのですから)。しかし、現代社会は、彼らがそれらの物語そのものを個人的に信じる、それはいくらでも許すけれど、彼らが「みながその物語を信じるべきである」と決意し、他人の信条に介入することは決して許さない、そういう二重基準の――リチャード・ローティの言葉を借りれば「アイロニカル」な――社会になっているのです。
そのような特徴を「ポストモダン」と呼ぶのか「再帰的近代」と呼ぶのか、それはお好みなのでどちらでもかまいません。いずれにせよ、そのような現代社会の性格は、近代社会の原理の必然として生じている(自由主義の本質的に非政治的な性格――最近ぼくはこの文脈でカール・シュミットを読み直そうと考えているのですが、その話はまた別の機会に譲ります)。だからそれは、そうそう戻るものではありません。つまり、「大きな物語の崩壊」の傾向が、近い将来に反転することは考えられない。
ぼくたちは、他人がなにを信じようとかまわないが、それが自分に押しつけられるのはごめんだとみなが考え、そしてみながたがいの信念の適用範囲を監視し制限しあっている時代に生きている。
そのような社会では、信念そのものの内容よりも、むしろその適用の範囲こそが、信念の是非を問ううえで重要だと見なされることになる。》(東浩紀「なんとなく考える 第七回 娯楽性について(一)」 文學界2009年2月号 p.256-257)
これを見ると90年代の最初の流行時とのニュアンスの違いには、壁崩壊当時ほとんど影もかたちもなかったインターネットの普及により、世界や文化の全領域を見渡すこと自体が不可能になったという社会基盤の変化が大分影響しているように見える。
ところがその後もう一点、やや意外な本で「大きな物語」について言及されているのを見かけた。蓮實重彦の近著『ゴダール マネ フーコー ――思考と感性をめぐる断片的な考察』(NTT出版)がそれで、ここで蓮實重彦はエリック・ロメール監督の映画『ステファヌ・マラルメ』(1968年)の話題からマラルメ本人のインタヴューの引用へと移り、「大きな物語の消失」などリオタールが言い出すずっと前、19世紀末にマラルメが既に口にしていたことを指摘し「時代錯誤もはなはだしい」という。大教育家の面目躍如のくだりで、少々長いが該当箇所を引く。
《つまり、詩人はそれぞれに自分だけの片隅で、まさしく自分だけのフルートで、自分の好きな曲を演奏しようとしており、詩というものが始まって以来はじめて、詩人たちは聖歌隊席で譜面台をまえにして歌うことをやめてしまった。これまでは、自分の歌に伴奏するには、公の典礼のための韻律を奏でる大パイプオルガンが必要でしたね。ところがです! この大パイプオルガンを弾きすぎたあまり、人々はそれに飽きてしまったのです。死の床にあった偉大なるユゴーは、これは私は信じて疑わないのですが、自分の死とともにつぎの一世紀の詩のすべてを埋葬してしまうのだと確信していた。とはいえ、ポール・ヴェルレーヌはすでに『叡知』を書きあげていました。 (『マラルメ全集Ⅲ』筑摩書房、四八九頁)
そこまでマラルメの言葉を耳にしてきたわれわれは、はたしてこれが本物の詩人にふさわしい声の抑揚かどうかの判断をいちはやく放棄し、「まさしく異常な、他に類例を見ない光景」なるものをめぐるこの一九世紀末の議論が、詩人白身は生きることのなかった二〇世紀の末期を彩ることになるあの「ポストモダン」という退屈な語彙のみだりな使用を、すでに百年前に禁じていることに思いあたり、粛然とする。「大パイプオルガン」が鳴りやんで以後という比喩は、いまなら誰もが臆面もなく「ポストモダン」的と呼ぶであろう知的、文化的な環境を素描するものだが、その語彙をマラルメの一世紀後にあえて□にすることは、時代錯誤もはなはだしいといわざるをえないからである。
他人を模している以上はどこかしらいかがわしい響きもおびかねないここでの声は、にもかかわらず、文字よりも遙かに直接的に事態の核心をつくものとしてあたりに響いている。一九六八年のこの作品を世紀が変わってから改めて見直しても、その印象は否定しがたい。実際、二一世紀を生きることなく他界したフランスの美学者ジャン=フランソワ・リオタールが前世紀末にふと口走った「大きな物語」なるものが、いまや機能しえずに姿を消すべき権威として提示された概念であるなら、それが一九世紀末の詩人マラルメのいう「公の典礼のための韻律を奏でる大パイプオルガン」にほぼ相当していることは誰にもすぐ理解できる。大聖堂における宗教的な儀式に通じているものなら、それは、「大きな物語」というやや抽象的な語彙より、遙かに意義深いイメージを喚起しているからだ。この「大パイプオルガン」という比喩は、「国民全般に普及して数百年を閲しその鍵盤を押せば忽ち正当性が高らかに奏で出される巨大なパイプオルガン」として「詩の危機」にも語られていたものだが、「大パイプオルガン」に対応する楽器として、そこでは「フルート」のみならず、「ヴィオラ」も挙げられている。
このインタヴューで語られている「聖歌隊席で譜面台をまえにして歌うことをやめてしまった」詩人という比喩は、礼拝的な儀式性という文脈を超えて、「大きな物語」の支配は失墜したと思いこんでいる者たちの相対的な自由を象徴するに充分である。マラルメ自身は、「詩の危機」でこの自由を高貴なものとは認めているのだが、彼のみならず、声のみで『ステファヌ・マラルメ』に介入するインタヴュアーもまた、依拠すべき統一的な理念の不在を、詩の歴史にあっては未知の現象として話題にしている。今日の文脈でいうなら、「大きな物語」を手放したものたちが陥ったと批判されがちないわゆる「相対主義」という思考の流れを、一九世紀の詩人は、「大パイプオルガン」に飽きてしまった人々が思い思いに奏でる「自分だけのフルート」という比
喩で語っているのである。
詩人たちが「大パイプオルガン」を放棄して「自分だけのフルート」に専念せざるをえない現状を、「安定と統一を欠く社会では、安定した芸術、決定的な芸術は想像されえない」と言葉で説明するマラルメは、さらにこういいそえている。
このような未完成な社会の仕組み――それは、多くの精神が不安を抱く理由を説明するものなのですが――は、そういう社会の仕組みから個人主義的な傾向への説明のつかぬ欲求が生まれてくるものであり、その欲求を直接反映したものが、現在見られる多様な文学的立場の表明なのです。
(『マラルメ全集Ⅲ』前掲書、四八三頁)
これが「異常な、他に類例を見ない光景」の説明だとするなら、この一九世紀末の「安定と統一を欠く」社会という意識はそっくり二〇世紀に受けつがれ、しかるべき世界史的な事件をめぐって、飽きることなく変奏されることになるだろう。実際、人類は、過去一世紀以来――あえて9・11に言及するまでもなく、ロメール自身がその一翼を担った「ヌーヴェル・ヴァーグ」という現象そのものを想起してみればよいことだが――、いたるところで、「異常な、他に類例を見ない」光景に立ち会ってばかりいたのだとさえいえる。ジャーナリズムの領域においては、あたかも「異常な、他に類例を見ない光景」ならざるものは語るに値しないようかのように、事態は進展しているのだ。
ことによると、インタヴューという近代のジャーナリスティックな手段は、あらゆる論者から「異常な、他に類例を見ない光景」という言葉に類似した言辞を引きだすための不穏な反覆装置なのかもしれない。だとするなら、ジュール・ユレのインタヴューに応じたマラルメもまた、その不穏な反覆装置の罠に落ちたというべきなのだろうか。それとも、そうした言葉を最初に口にした歴史的な存在として、記憶されべきなのだろうか。
「公の典礼のための韻律を奏でる大パイプオルガン」がぴたりと鳴りやみ、誰もがあちらこららで「自分だけのフルート」を好き勝手に奏で始めた以後の「異常な、他に類例を見ない光景」を目にしてしまったという意味で――たとえ、それが世紀末のフランスの詩壇にかぎられていたにせよ――、一九世紀の詩人ステファヌ・マラルメは、まぎれもなくわれわれの同時代人である。彼自身はそうといってはいないが、依拠すべき原理を持ちそびれた者たちが個々に演じたてるこのいささか統一を欠いた多様なメロディーは、それに対する批判めいた言辞とともに、われわれのまわりのいたるところで耳にしうるものだからである。多くの人が、二〇世紀後半にこそ特殊なものだと思っていたこの現象は、すでに十九世紀末から現実化されていた歴史的な事態
にほかならず、マラルメはそのことにことのほか自覚的だったのである。二〇世紀後半に生きる者たちは、晩年のマラルメが目ざとく察知していたことがらを、あたかもみずからの社会に特有の事態だと勘違いして、「ポストモダン」などとつぶやいていたにすぎない。》(蓮實重彦『ゴダール マネ フーコー ――思考と感性をめぐる断片的な考察』NTT出版 p.139-144)
「大パイプオルガン」が鳴りやんだことを指摘したそのマラルメが後代のブランショのこの世離れした言語観の震源となったのは周知の通りで、世界と等価の一冊の本という妄想的なヴィジョンはその前にジョイスやプルーストらにそれぞれのやり方で実現されていく。「大パイプオルガン」が鳴りやんだ後も新しい文学・芸術が絶えたわけでは別にないので、「大きな物語の消失」の語が再びあちこちで飛び交うようになった現在の世界も既にそのどこかに新しい動きを秘めており、われわれがそれに気づくのに数十年ほどかかるというだけのことかもしれない。
どこまで俳句と関係があるのかよくわからない、昔話と思いつきのメモと引用とを散らかしただけの本当の閑談になったが、今回はこれで終わり。
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4 件のコメント:
関悦史様
閑談かも知れませんが、すこぶる面白い閑談でした。ベルリンの壁が自分の生きているうちに無くなるとは思っていなかったとのお話、まったく同感。私どもは、冷戦の空気を実感的に知っている最後の世代なのでございましょう。
蓮實重彦の引用も、大変勉強になりました。今出ている「新潮」に乗っているエッセイも、面白いですよ。中村光夫との思い出話ですが、若い批評家の不見識に対する、それこそ大教育家風の抑圧的な身振りが相変わらず素敵です。
関悦史様
はじめまして、湊圭史です。
自由な随想的展開、おもしろく読ませていただきました。
ベンヤミンの『ドイツ悲劇の根源』を読みながら、
バロックは一種「大きな物語の崩壊」後の文化で
「ポストモダン」の先駆とも言えるかな、
と考えたのを思い出しました。
日本の中世も末法の世で、その時代に
連歌・俳諧の源があり、また美学的にも
王朝美学の頽廃から生じたというのも考え併せると、
俳句・俳諧はもともと「大きな物語」終焉後の
「廃墟の文学」である、と言えるかな、などと
愚考して、楽しんでおります。
高山れおな様
コメントありがとうございます。
何でこんな昔話を書いたかという理由のひとつが、20代のある俳人が自分は「大きな物語」があった時代を知らないと言っていたので、たまにそういう話をしてみてもいいかなと思ったということなのですが、健在らしい蓮實重彦(「新潮」のエッセイは知りませんでした。ありがとうございます)がいくら抑圧してくれても、そもそも蓮實が何者か知らない人も増えていそうで、その意味では思わずもまた「大きな物語」の消失を口にしてしまいそうにはなるのですが。
湊圭史様
はじめまして。コメントありがとうございます。
こういう文化的変動は過去何度もあったのでしょうし、その都度様式が変化していったのでしょうが(例えば酒井健『ゴシックとは何か』などを見るとゴシック~ルネサンスの時期にもそうした変化はあったようです)、それらの変動と現在とがどこまで一緒なのか、または違うのかというのが見当がつきかねます。
ベンヤミンの場合は断片や廃墟を口にしてもその向こうに失われた統合性を幻視的に甦らせようとしている、やや悲痛なようあところがありますが、俳諧の方はどうなのか。
日本の中世から比較の対象を採るならばむしろ鎌倉新仏教の宗祖たち辺りに注目してみた方がいいのかもしれません(これも思いつきではありますが)。
関悦史様
たしかによくある話と言えば話なのですね(笑)。
ベンヤミン(ヨーロッパのゴシック時代)の全体性への憧憬が俳諧文化とつながりにくい、というのもおっしゃる通りです。本格的に考えるとすれば、大きな思想背景を論じる力がないと、とても手が出せません。
ご返答ありがとうございました。
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