2009年2月14日土曜日

山口優夢氏宛回答

匿名批評をめぐる高柳重信の発言とそれに対する山口優夢氏の異論、並びに高山れおなによる回答

はじめに

当ブログ前号所出の拙文「俳誌雑読 其の六 ほんとに雑読風に」に対し、山口優夢氏から、長文のコメントが寄せられた。コメントの対象となっているのは、全部で五項に分かれた同文中、「夢幻航海」第67号(二〇〇九年一月一日)に触れた第一項、しかもそのうち同誌から引用された高柳重信の発言である。〈僕には、ここに引用されている高柳重信氏の発言にはほとんど納得するところがありませんでした。〉とのことで、縷々批判がなされている。山口氏のコメントに対して卑見を述べたいと思うが、読者の便を考え、拙文中に掲げた高柳の発言をそのまま再掲出する(丸付き数字は引用者)。


それが批評精神の発動であるならば、あくまでも事実を踏まえ、真実に迫ろうとする一貫した論理性がそこに見出だされるはずで、それが明らかであれば、匿名とか実名とかは枝葉末節の問題です。また、論争の作法といい、批評の礼儀といいますが、批評に徹することが批評に関する礼節の基本であり、何を措いても論争に徹することが論争の作法であって、表面的な行儀作法などは二次的なものだと思う。


また匿名記事と単純に対比して署名の文章を持ち出してくるけれど、率直に言えば、その実質において無署名に等しいものが多い。少しも自分の名を惜しむ風情の見えない無責任で低次元の文章や、その発言の内容に後日に至るまで責任をとろうとしない場あたりの文章などは、たとえ署名してあっても無署名と同じです。


これは余談ですが、誰しも匿名を非難することは容易ながら、実は匿名記事だから救いがある場合だって少なくないのです。たとえば匿名記事で批判された人が、そのことの反論として匿名であることだけを非難し、その批評の論理を無視してしまうのは、いわば常套手段とも言えますが、それで一応の恰好がつくだけ救いでもあるのです。


匿名時評には、それなりに求められている幾つかの性格のようなものがあり、その一つに読んで面白いということもあるんですね。皮肉な見方をするとか、多少は揶揄するような書き方も、その中に含まれます。もちろん、その切れ味がいいかどうかも問題で、切れ味が悪いと嫌味になったりして、お行儀のいい人たちの顰蹙を買うことになる。しかし、批評は文学の世界のものなので、その本質は充分に毒を持っているのが当然で、どのような文体で書こうが、その批評の毒に耐えられない人たちは、いろいろ理由をつけて非難したがる。もともと文学というものを、安全で上品なものと思う方が間違いで、うかうかとしていれば必ず心に手傷を負うような危険なものなのです。そのへんの根本の認識がないから、甘っちょろい倫理感をふりまわすことになる。

以上は、一九八一年十二月の「俳句研究」年鑑号に掲載された「俳壇総展望」(座談会 阿部完市・三橋敏雄・高柳重信)から、匿名批評に関する高柳の発言を、高山が抜書きしたものである。直接の引用は、前出「夢幻航海」に拠っている。


山口優夢様へ
拙文に対し、熱のこもったコメントをお寄せくださったこと、御礼申し上げます。以下、貴文に対してお答えします。貴文は、前置きを除いて七節に分かれております。各節毎に、順に全文を掲出し、逐次管見を述べることとします。なお、これも記述の便宜のため、勝手ながら貴文中に括弧付き漢数字を挿入させていただきました。

(一)まず、①「批評に徹することが批評に関する礼節の基本」、「何を措いても論争に徹することが論争の作法」とありますが、そもそも匿名で記事を発表するという選択を行なっている時点で、批評を読む側から言えばそのような「基本」に徹することをさせてくれない、という憾みがあります。(二)匿名で批評を行なうという行為は、批評を言いっぱなしにしてキャッチボールを拒んでいるところがあるのではないかと僕は考えています。(三)だって、その批評に対する反論を誰にすればいいのか分からないわけですよね。(四)現実的には、たとえばその批評の載った同じ雑誌などに反論を載せれば反論は届くであろうという予測はあるにしろ、匿名というのは、最初からそういう反論なんかそもそも想定されておらず、そんなものは受け付けていませんよ、という態度として受け取られても仕方ないのではないですか。(五)果たしてそのように発信された批評が、「何を措いても論争に徹することが論争の作法」というドグマにふさわしいものでしょうか?

最初に確認したいのは、貴兄は匿名批評を否定する考えでいるわけですね。それにしてはこの第一節で、高柳発言①の前半に言及せず、いきなり後半から話を始めているのはなぜなのでしょう。私は、前号拙文で、高柳発言の①④を「匿名批評の一般理論」であるとしましたが、①に関していえば匿名批評の正当性の根拠を述べているのは前半の〈それが批評精神の発動であるならば、あくまでも事実を踏まえ、真実に迫ろうとする一貫した論理性がそこに見出だされるはずで、それが明らかであれば、匿名とか実名とかは枝葉末節の問題です。〉の方です。匿名批評を否定するには、このセンテンスに述べられている認識を否定しなければなりません。私にはそれは出来そうにありませんが(また否定する必要も認めませんが)、ここは是非、貴兄の方で否定してみてください。

さて、貴文(一)に、〈そのような「基本」に徹することをさせてくれない、という憾みがあります。〉とありますが、私にはほとんど理解できない「憾み」です。なぜなら貴兄自身が(四)で述べているように、たとえ匿名批評に対してであっても反論・批判は可能だからです。

貴文(二)に、〈匿名で批評を行なうという行為は、批評を言いっぱなしにしてキャッチボールを拒んでいるところがあるのではないかと僕は考えています。〉とあり、(四)に〈匿名というのは、最初からそういう反論なんかそもそも想定されておらず、そんなものは受け付けていませんよ、という態度として受け取られても仕方ないのではないですか。〉とありますが、顕名の筆者ならキャッチボールしてくれ、匿名の筆者はキャッチボールしてくれないというのは貴兄の一方的な思い込みにすぎません。それも、かなり幸福な思い込みと言ってよいでしょう。キャッチボールしてくれるかどうかは、実際のところケースバイケースのはずです。正当な批判に対して沈黙すれば、その筆者は批判を認めたことになり、体面に傷がつくこともあるでしょう。同時に、正当ならざる批判、回答に値しない批判に対して沈黙を以て応じるというのも、まごうかたなき批評の権利です(貴兄は、自分が求めれば皆がキャッチボールしてくれて当然だと思っているのかもしれませんが)。いずれの場合も、顕名か匿名かは「枝葉末節の問題」にすぎません。

もちろん、匿名の相手と議論の応酬が成立したとしても、なお、相手の名を知りたいという人情自体は自然ですが、それに対しては「我慢したまえ」とだけ言っておきます。批評とは、それが論争に発展した場合でも、互いに〈あくまでも事実を踏まえ、真実に迫ろうとする一貫した論理性〉を追求することこそが本旨なのであって、相手が誰であるかは“二次的な”問題だからです。その上で、本旨は本旨として、相手によって言説の語り口は変わります。例えば今回、小生は貴兄に対して、さいばら天気氏に対するのと同じ語り口では接していません。相手が匿名だったら、その場合はその場合で語り口を探ればよいのです。

ところで、そもそも疑問なのは、貴兄はいついかなる匿名批評によって不利益を蒙り、反論を思い立ちながらそれを拒まれた「憾み」を抱いたのでしょうか。私自身は、幸か不幸かそのような経験がありません。後学のために、何か例をあげていただけると有難いと思います(*1)。あるいは、一般論(しかも誤った一般論)としてこうしたことを言っているなら、それこそ一昔前の批評用語でいう“悪しき抽象”ではないでしょうか。

(六)次に②は匿名記事に対する署名記事の優位性を疑問視していますが、これはれおな様が言及しているとおりたかだか「補足」に過ぎないので、棄てておいてもいいかと思います。(七)あえて一言書かせていただければ、たとえ「少しも自分の名を惜しむ風情の見えない無責任で低次元の文章や、その発言の内容に後日に至るまで責任をとろうとしない場あたりの文章」であっても、署名してあれば、少なくとも責任を取ろうという意思、取れる可能性はあるわけです。(八)匿名であるということは、その可能性をすら、最初から放棄しているのではないでしょうか。

第二節へゆきます。貴文(八)に関しては、第一節について書いたことのうちに、すでに答えが含まれているように思います。貴文(七)ですが、これもまた、私には“悪しき抽象”の一例に見えます。〈責任を取ろうという意思〉などハナから無い文章をさして高柳は〈少しも自分の名を惜しむ風情の見えない無責任で低次元の文章〉とあげつらっているのであり、貴文は揚げ足取りに近い。「署名」というものにそこまで手放しの信をおく貴兄がなんだか心配になるほどです。だいたい貴兄は筆者の側の署名ばかり気にしていますが、俳句界の文章の通弊は筆者の署名の有無ではなく、しばしば批判の対象をはっきり示さないことだと私は思っています。こう書いたそばから具体例を示さないわけにはゆきませんから、少し脇道にそれますが、〈自分の名を惜しむ風情の見えない〉文章の例を、最近の総合誌から二つばかり挙げておきましょう。

ひとつめは「俳句」二月号の特集「いま、注目する俳句と俳人」のうちの「『個』の崩壊の中で」と題した出口善子氏の一文。具体的な俳句鑑賞をしている後半はともかく(それとて優れたものではありませんが)、俳句界の現状分析をしている前半は依怙地な思い込みによる決めつけばかりが目立つ、はなはだ感心しない文章です。それだけならまだしも、こんな一節があるのを貴兄はどう思われますか。

「軽くて場当たり的」、それこそが俳句だと名のある先達的存在が高校生あたりを煽動しているのも事実で、今日の新しい一つの風潮を助長している。

この〈先達的存在〉は誰なのでしょう。出口氏が大阪在の俳人であることなどを勘案すると、坪内稔典氏である蓋然性が高いとは思いますが、もとより確証はありません。また、これが坪内氏だったとしても、あるいは夏井いつき氏や佐藤郁良氏だったとしても、〈「軽くて場当たり的」、それこそが俳句だ〉などと言ってはいないでしょう。対象を特定できるだけの情報を提示せず、しかもこうした名前を曖昧に想起させながら(もちろん貴兄は別の名前を想起するのかもしれません)、かくも悪意ある文章を書きつけるとは驚くべきことです(と、言いたいところですが、俳句界ではあんまり驚くべきことでもありません)。反論を受け付けない文章とは、こういう文章のことです。仮に坪内氏なり他の誰かがこれは自分へのあてこすりだなと感じたとしても、確証はないのですからそれとして反論するわけにはゆきません(もちろん現に私がそうしているように、第三者的な批判は可能です)。また、こうしたケースに限らず、愚劣な文章というのは愚劣さそれ自体によって最初から批判・反論を封じているとも言えるのです。宛名人がわかっているからと言って、一体誰が〈少しも自分の名を惜しむ風情の見えない無責任で低次元の文章〉に対して、いちいち手間と時間を割いて批判を用意するでしょうか。少なくとも私は御免ですが。

もうひとつ例をあげましょう。「俳句界」二月号に載る「俳句添削教室 俳句研究所」の大牧広氏の一文。所員の投句を所長である大牧氏が添削してゆくコーナーですが、冒頭に「今月の講義のポイント 写生句を考える」と題した五百字ほどの短文が置かれています。

ふりかえって考えてみると、現代俳句、ことに生活句や心象句は右に左に思いがぶれている。つよい思考軸がないともいえる。だから写生俳句は一種の軽さを持つゆえの磁力があるのかもしれない。
とは書くものの今売出中の青壮年俳人の老成した、したり顔の写生俳句についていけないことも勿論で、この線引思考は苦しい。

文章全体として微妙に日本語が変で、微妙に支離滅裂なのですが、上に引いた末尾の二つのパラグラフなども、ひとつ目はなにやら意味が取りがたく、ふたつ目はこれまた対象を明示しないままの批判の例となっています。出口氏のものほど悪質とは言えませんが、この類の書き方は俳句関係の文章では実に実に実にしばしば目にするところです。〈今売出中の青壮年俳人〉といい、〈したり顔の写生俳句〉といい、表現があまりにアバウトで、これでは大牧氏が批判したかった誰彼がこの文章を読んだとしても、自らを省みるよすがにすることもできないでしょう。もちろん大牧氏はそのような事態を想定していないのでしょうが、これもまた書くことへの「無責任」が露呈した文章の一典型です。出口氏や大牧氏の駄文の罪は、それ単独では大したことはありません。しかし、こうした水準の文章が互いに互いを肯定し合うことで、俳句界の言説の全体の水準を引き下げてきた、そのメカニズムを認識していただきたいと思います。

高柳発言②に戻りましょう。貴文(六)で述べられるとおり、前号拙文では高柳②を単に「補足」としました。しかし、これはむしろ「匿名批評の感情的基礎」とでも言った方がよいかと思いなおしています。〈実質において無署名に等しい〉〈署名してあっても無署名と同じ〉といった言葉尻を捉えればいささか暴論めいて見えますが、形式論理に淫して揚げ足を取るのでなければ、このような発言の背後にある高柳の感情自体に共感することは難しくありません。高柳は事実あまたの〈自分の名を惜しむ風情の見えない無責任で低次元の文章〉に苦しめられ、苛立たせられていたわけで、こういっては悪いですが、お気楽な貴兄や小生とは立場が違うのです。その程度の想像力は貴兄としても惜しむべきではないと思います。

こんな言い方をするのも、前号拙文では、高柳の発言を引用する前段として、昭和五十年代の「俳句研究」誌における匿名時評「俳壇春秋」の背景について、岩片仁次氏の文章を引くなどして若干の説明を施しているにもかかわらず、貴文にはその点についての言及がほとんどないからです。高柳の発言は匿名批評一般の存在意義を認めてのものであると共に、当時の彼が置かれていた状況に即したものでもあります。貴兄にそうした発言の文脈に対する意識が充分にあるのかないのか、貴文を読むだけでは判断がつきかねています。

補足するならば、そのような立場――俳句界の言論の一翼を担って上述のような“メカニズム”に抗い、俳句表現史の展開に責任を負うような立場――に就いてくれと、誰も高柳に頼んだわけではありません。しかし、頼まれたわけでもないのに勝手に俳句に対して責任感を燃やす人間が、各時代に一定の数は必ず現われてきたし、現在もいるはずです。そしてやはりそのような人たちこそが、俳句表現を展開させてゆく原動力なのです。「無責任で低次元の文章」など読まなければいい、無視すればいい、というのは、そのような責任感に無縁の者に許された幸福というべきであり、勝手に責任を負ってしまった人たちはそれが俳句の内部の現象である以上、無関係でいることはできないのです。

(九)続いて③はタチの悪いブラックジョークみたいなものですね。(十)同じ溜飲を下げるのなら、匿名であることに対してではなく、実際にその人に向って反論することで溜飲を下げたほうがはるかにすっきりするし、批評空間の形成という意味でも有意義なのではないでしょうか。(十一)そもそもこのような溜飲の下げ方をしなければならないということは、①の、「何を措いても論争に徹することが論争の作法」に明らかに反する事態を招くように僕には感じられますが、れおな様はどのようにお感じになりますか? (十二)匿名で批評されたC子さんが溜飲を少しでも下げられたかどうか、僕には大いに疑問です。

貴文第三節は、高柳発言③に対する批判と、同発言にかかわっての小生の記述に対する批判が混在して、読者にはややわかりにくいかもしれません。私は前号拙稿で、〈③は、人間観察者としての高柳重信の凄みが最もよく出ているだろう。もう笑うしかないという辛辣さではないか。本稿冒頭で登場したC子氏なども、高山に向かって匿名を非難したことで少しは溜飲を下げたに相違なく、ご同慶のいたりと申さねばなるまい。〉と書いたのでした。

こうした議論の場で、論者の年齢のことなど持ち出すのは良い趣味ではないでしょうが、それにしてもこの貴文第三節を読むと貴兄の若さを強く感じないわけにはいきません(良い趣味でなくてもあえて持ち出すのは、それこそ高山が「論争に徹」しているためです)。貴兄はいったい、世の中の多くの人々、とりわけ俳人・俳句愛好者なる人種が、貴兄や小生のような多弁な議論好き(しかし、小生は決して貴兄ほどの議論好きではありませんが)ばかりだと思っているのでしょうか。そのうちの相当数は、議論どころか、先の出口氏や大牧氏のケースに見たように、当たり前の日本語散文をつづる能力にも不安のある人たちなのですよ。匿名批評は、いかにも貴文(四)にいうように、〈最初からそういう反論なんかそもそも想定されておらず、そんなものは受け付けていませんよ、という態度〉を感じさせるわけで、貴兄のような意気盛んな議論好きには大いに不満でしょうが(しかし、あくまでそれは一見したところの話にすぎず、反論するつもりであれば反論できることはすでに述べました)、これを逆に言えば匿名批評とは反論を免除する印象を与える形式でもあるのです。「あんなこと言いやがって。でも匿名記事だから放っておこう」という対応が、批判を受けた当人の心理の上でも社会的にも許される、という性質が匿名批評にはあるのです。

俳句人口の少なくない部分を占める、議論する意欲もなく、能力にも不安のある人たちにとって、反論を免除されることは実は好都合な事態というべきでしょう。また、高柳③の後半で言われているように、やむなく反論に及んだ場合でも、「匿名とは卑怯なり」とだけ言っておけば、批判された内実に関してややこしい論を展開しないでも文章の恰好がつく分、反論文としてのハードルは低くなるわけです。要するに楽をさせて貰える。すなわち、〈実は匿名記事だから救いがある場合だって少なくない〉のです。このあたりの事情に対する高柳の洞察の透徹ぶりに対して私は、〈人間観察者としての高柳重信の凄みが最もよく出ている〉と述べたのであり、一方、この残酷なまでのリアリズムを〈タチの悪いブラックジョーク〉と見誤ってしまうような貴兄の洞察力・想像力の欠如ぶりに若さ(はっきり未熟さと言い換えてもいいですが)を感じないわけにはゆかないのです。

しかし翻って考えるに、実は議論の能力の高い人たちにとっても匿名批評は救いでないこともないのです。「夢幻航海」の岩片氏の文章によれば、昭和五十年代の「俳壇春秋」欄では、金子兜太氏ついで角川春樹氏が俎上に乗ることが多かったらしい。春樹氏はともかく、兜太氏がきわめて高い議論の能力を持っていることは言うまでもありませんが、だからといって当時の氏が、若き山口優夢がのべつ逸りたっているように議論をしたくてうずうずしていたかといえばどうなのでしょう。兜太氏の立場で想像してみるなら、仮に匿名時評で手痛い指摘を受けたとしても、先ほど述べたような匿名時評の性質からしてそのまま放置しておくことも出来るわけです。相手が匿名時評である限り、反論するかしないかの選択権は兜太氏の側にあり、反論しなかったとしても兜太氏にとって不名誉にはならない。これがもし、高柳重信が顕名で名指しで公開の批判を繰り広げたらどうなるでしょう。基本的に議論を受けて立たざるを得ないし、受けて立たなければ高柳の批判を認めたことになるわけです。当時の実際を調べたわけではなく、以上はあくまで仮定の話ですが、要は匿名批評は兜太氏のようなこわもての論客にとっても救いとして機能する可能性があったということです。もちろん高柳サイドにしてもそれは同じです。高柳にせよ、彼が信頼して匿名時評を書かせた筆者たち(そのうちの一人が岩片氏であったわけですが)にせよ、反論があれば受けて立つ用意はあったでしょう。なぜなら彼らは、〈あくまでも事実を踏まえ、真実に迫ろうとする一貫した論理性〉を追及することを自負する人たちだったのですから。しかし、そんな彼らにしても、やはり現実に論争がおこれば大きな負担にはなるわけです。そういう意味で匿名は、書き手サイドにも救いだったには違いない。

それにしても、貴兄の文章を読んでいると、反論に敗れるとか、そもそも批判が正鵠を射ているため反論出来ないというケースが想定されていないようで、これにも若さと想像力の欠如を二つながら感じざるを得ません。繰り返しますが、反論出来ない場合に反論を免除されているとしたら、それは“救い”ではないでしょうか。〈実際にその人に向って反論することで溜飲を下げたほうがはるかにすっきりする〉と貴兄は言いますが、いつでも反論し、溜飲を下げられると思ったら大間違いです。

貴文(十二)に言及のあるC子氏に関していえば、彼女になされた批判とは、作品の価値判断の部分なのですから、そもそも反論はできないのです。「俳句甲子園」では、ディベートで自作の価値を擁護して勝利するのがルールだったかもしれませんが、少なくとも私が接触し、信頼する俳人たちの間では自作を弁舌で擁護するのははしたない行為とみなされています(この程度の常識は貴兄とてわきまえているとは思いますが)。あきらかな読み手サイドの力不足(文法知識や語彙力の不足)のために当然読み取られてよい内容が読み取られていない場合とか、特殊な作句事情があるような場合に多少の説明を加えるのは構わないでしょうが、適切な読解の上に立って当該の作品が良いか悪いかを判定しているのであれば、たとえ不満でも自作の擁護はしないのがたしなみです。そして実際、C子氏は不満だった。しかし今述べたような次第で作品評そのものにどうこうは言えないながら、批評が匿名である点を批判することはできたわけです。この場合に、「溜飲を下げる」という言い回しを使うのは、言葉のまことに模範的な運用と申せましょう。

貴兄が、当方とC子氏のやりとりの詳細を知らないのは仕方ないとしても、「A子とB子の匿名合評対談」をもしお読みであるなら、もう少し状況が想像出来てもよさそうなものです。あの合評対談に、俳句の読解と価値判断以外のことが書かれてあったでしょうか。あの合評対談は、チャット機能を使ってのものですからいささか荒っぽくはありますが、基本的な読みの筋は外していないという印象を私は持っています。C子氏は、単純な誤読があるならそれをコメント欄ででも本文記事ででも指摘すればよかったのだし、作品の価値判断に関しては黙っているほかありませんでした。そして、たとえ対談が顕名でなされていたとしても、この条件に違いはないのです。

(十三)最後に④ですが、匿名批評の本質的な優位性を説いているのは4つあるうちでこの項目だけですね。(十四)曰く、匿名記事に求められる性質として「読んで面白い」というものがある、と。(十五)具体的な面白さとしては、「皮肉な見方をするとか、多少は揶揄するような書き方も、その中に含まれます」とありますが、「含まれます」と言いながらそれしか書かれていないということは、それが匿名記事の主な面白さだと重信は理解していると思って良いのでしょう。(十六)皮肉や揶揄が匿名記事の面白さなのだ、というのはただの開き直りではないのですか? (十七)あえて匿名を選択することによって生じる優位性が、皮肉や揶揄といった表面的なところにとどまるということが、匿名という選択肢の無意味さを露呈してしまっているとはいえないでしょうか。

貴文第四節です。貴文(十三)によれば、高柳発言④は〈匿名批評の本質的な優位性を説いている〉とのことですが、どこにそのような記述があるのでしょうか。高柳の一連の発言の根幹にあるのは、「匿名か顕名かは枝葉末節の問題だ」という考えであり、匿名が顕名に比して本質的に優位性を持っているとか、あるいは貴文(二十)にある〈「匿名記事は署名記事に劣るということはない」という主張〉などはどこにも述べられていません。冒頭でも触れたように、貴兄は高柳発言①前半の〈それが批評精神の発動であるならば、あくまでも事実を踏まえ、真実に迫ろうとする一貫した論理性がそこに見出だされるはずで、それが明らかであれば、匿名とか実名とかは枝葉末節の問題です。〉という最も重要な一文をきちんと受け止めていません。何度でも繰り返しますが、この一文にいう〈あくまでも事実を踏まえ、真実に迫ろうとする一貫した論理性〉を持った文章が、すなわち高柳が庶幾し、容認する批評であって、その点さえ担保されていれば、匿名か顕名かも、表面的な礼儀作法も、すべては“枝葉末節”だと彼は述べているのです。“枝葉末節”とはつまり、優位も劣位もへったくれもない、ということです。どうも貴文は全体として、恣意的に妄想された「匿名批評の優位性」に対してつっかかっているような気がするのですが、小生の誤解でしょうか。

貴文(十四)(十五)(十六)にある通り、高柳は発言④で、匿名批評の面白さの問題についてふれていますが、このあたり、貴文は曲解に類します。高柳が、〈匿名時評には、それなりに求められている幾つかの性格のようなものがあり、その一つに読んで面白いということもあるんですね。皮肉な見方をするとか、多少は揶揄するような書き方も、その中に含まれます。〉と述べているのに対して、貴兄は高柳は匿名時評の主な面白さは皮肉や揶揄にあると理解していたとするのですが、高柳がここで述べているのはあくまで文章の書き方についてです。いうまでもなく、文章には内容と形式のふたつの側面があるのであり、形式=書き方とは別に内容=テーマの面白さが想定されているがゆえに、「・・・ような書き方も、その中に含まれます」という表現が出てくるのです。先ほど、貴兄の想像力の欠如ということを申しましたが、この場合も書かれていることから書かれていないことを類推する力、すなわち文脈を読む力が貴兄に不足していることを感じます。では、その内容は何かということをいちおう補足しておくなら、昭和五十年代当時の「俳壇春秋」の場合であれば、すでに述べたように、金子兜太氏や角川春樹氏を俎上に乗せての俳壇政治やら人事やらにかかわるあれこれが多かったようです。

貴文(十七)に関していえば、〈あえて匿名を選択することによって生じる優位性が、皮肉や揶揄といった表面的なところにとどまる〉という貴兄の理解が、貴兄の“表面的な”文章読解力の結果であることはたった今述べました。この前提が誤っているのですから、〈匿名という選択肢の無意味さを露呈してしまっているとはいえないでしょうか。〉については何をかいわんやですが、「内容」というファクターを考慮に入れれば「匿名という選択肢」が「無意味」などでないことはすぐにわかる話です。当時の「俳句研究」にしても、ほとんどの記事は署名入りでなされた作品評や作家評だったわけですが、そちらで書くのは適切でない、もしくは反応の激甚が予想される事柄を匿名時評で書く。匿名で書いてあることが書かれた側にとって(また書いた側にとっても)救いになる機微については説明済みです。言うべきことは言いつつ流血を回避する大人の智恵ですな(*2)。「そんなのきたない、いやだ、きらいだ」という反応をなさってももちろん結構ですが、高柳重信というのは芸術至上主義者であると同時に、俳壇政治の一方の当事者として、そうした汚れ役的な部分をもひきうけた人であったわけです。なぜなのでしょう。端的に好きでもあったでしょうけど、俳壇政治に活気がある時代には俳句表現にも活気があると考えてのことではなかったかとも思います。例えば近代俳句史で最大の俳壇政治的なできごとは水原秋桜子の「ホトトギス」離脱でしょうが、この昭和初期という時代はまた近代俳句のピークでもあったのはいうまでもありません。実際、高柳が逝き、もうひとりの汚れ役は牢屋に入って退場したりということもあり、〈平成俳壇はなにもおこらない。無風状態がつづいている。〉(小澤實氏の言葉/「澤」二〇〇七年七月号)のが現状です。俳壇政治の面でも、作品史的な面でも、と言ってよいのでしょう。

(十八)この項目の終わりの方では、文学はそもそも毒を持つものだ、という論に展開していきますが、これは甚だしい議論のすり替えであり、逆に、文学の毒というものがあえて匿名にすることによってしか発露されぬものだとすれば、それは反論を想定しない書き方によってしか文学の毒は表明されない、ということと同義であり、そのことと角川の言論封殺と、一体何が違うのか僕には分かりません。

貴文第五節=(十八)ですが、ここに書かれている批判(?)は世上いわゆるマッチポンプではないでしょうか。〈文学の毒というものがあえて匿名にすることによってしか発露されぬものだとすれば〉云々とありますが、「優位性」云々と同様、やはり高柳はこのようなことをひとことも言っていません。貴文(十八)は、勝手に筋違いの仮定を持ち出して、ひとりで結論を出している、文字通りのひとり相撲です。ご自分で冷静に読み返してみてください。当然、当方に回答の義務はありません。

(十九)もしも匿名記事というものに、批評空間の形成という観点から見ていささかでも優位性があるのならば、ぜひそれを示していただきたいと僕は思います。(二十)重信氏の①~④は、ほとんどが「匿名記事は署名記事に劣るということはない」という主張であり、あえて匿名という反論を想定しない書き方によってどのように批評空間を形成するかという本質的な事柄にはほとんど触れられていないという印象を覚えます。

第六節です。貴文(十九)ですが、すでに述べたように匿名記事の「優位性」などということを高柳も小生もひとことも述べていません。やはり私に“それ”を示す義務はないと思います。匿名記事が持つ性質や、匿名記事の存在意義についてならば、これまでの記述においておおむね示してきたつもりです。貴文(二十)も、かなり無茶な文章ですね。これだとあたかも高柳が「批評空間」全体を匿名性によって立ち上げようとしたかのような……ここまできてようやく思い当たるとは迂闊ですが、貴兄はもしや高柳重信が何者かよくご存じないのでしょうか。なんだかそんな印象を受けます。貴兄にいわれるまでもなく、〈どのように批評空間を形成するかという本質的な事柄〉について高柳ほど意識的だった人はいません。もしほんとうにそれを知りたいのであれば、拙文のわずかな引用などではなく、『バベルの塔』や『俳句の海で』を読んで勉強することをお奨めします。お読みになれば、なぜ高柳が、顕名か匿名かなどということは枝葉末節だと自信を持って言い切れるのか、理解できるでしょう。この両著をもしすでに読んでおられるのであれば、これまでの的外れな批判の数々がなぜ出てくるのか、私にはほとんどミステリーです(*3)

(二十一)また、野村麻実氏の上のコメントでは「愛情に裏打ちされた企画であれば、大丈夫なんじゃないかな?」という一文がありますが、愛情というのはお互いのことを知ることから始まるのであり、自分から名前を名乗りもしない人間が、愛情を持って自分に接してくれているのかどうかなんてことをどのように判断できるのか、僕には分かりません。

ラスト、貴文第七節=(二十一)です。さすがに辟易してきました。第三者のコメントに触発されての一文に、小生の回答義務があるのかどうかも微妙ですが、小生は愛情深くかつ意地悪でもあるのでお付き合いしましょう。貴兄は、『源氏物語』その他、王朝文学はお読みでしょうか。相手の名前も素性もわからないままに、いきなり愛情が始まる例がいくつも出てきますよ(夕顔とか、朧月夜とか)。往来で一瞬すれ違っただけの喪服姿の女に対する愛を歌った、ボードレールの「路上で会つた女に」なんていう詩も参考になるかもしれません(引用はソネットの後半六行)。

稲光り……それから夜。その眼差が 忽然と
俺を蘇らせたまま、須臾
(しゆゆ)の間に消え去つた美女、
来世でなければ もう二度とお前に会へないのだらうか。


遥か離れた遠国(をんごく)に。遅すぎた。永久に恐らく会へまい。
お前が何処に遁れるか俺は知らぬし、俺の行手
(ゆくて)はお前が知らない。
さぞ深く愛しただろう女
(ひと)なのに、さうとお前も知つてゐたのに。
                    鈴木信太郎訳

小生にはこの詩はとてもよくわかります。しかし、貴兄は「だから名前を名乗るのが大切なんです」なんて言うのかもしれませんが(笑)。



                    ――この稿、了――


(*1)

ただし、例示に際しては、むしろ匿名かハンドルネームによる発信が多数派であるweb上のコメントの付け合いレベルのものを提示されても意味がないので、紙媒体もしくは電子媒体の場合でもいちおう批評文の名に値するものから挙げていただければ幸いです。こうした保留を付けねばならないところ、前号拙文に対するコメントでの、〈匿名の件については、高柳重信が範として出てくるあたりに、紙媒体と電子通信媒体の差を考慮していない気がしました。〉との、野口裕氏の指摘が出てくる所以でしょう。

率直に言ってこれまでのところ、当ブログは紙媒体の延長線上で、編集の手間の最小性と執筆から発行までの速度性という点で電子媒体の長所を生かす、くらいのつもりでやってきました。分量制限が無いという条件が、紙媒体に書く場合とはおのずから異なる文体をもたらしているのは確かですが、当ブログの四人の常連筆者の文章(高山・中村・筑紫・冨田)の書き方は、読者との距離の設定の仕方など、webプロパーの語りではなく、紙媒体のそれの方により近いのかと思います。さらに、他の寄稿者の方々もこの四人が形成している言説空間の個性にある程度、配慮してくださっているように感じています。しかし、これは私の勘違いで客観的にはまた別の見え方をしているのかもしれません。

いずれにせよ、当ブログでの匿名合評対談は、企画当事者の意識としては、インターネット文化の匿名性に由来するよりは、紙媒体における同種企画(石井隆司編集長時代の「俳句研究」に連載された新刊句集を対象とした匿名合評対談など)をweb上に移したものであり、ゆえに前号拙稿で、それに結びつける形で、紙媒体出版文化の権化ともいうべき高柳重信の発言を紹介することになったわけです。

ところで、山口優夢氏に先んじて、さいばら天気氏が、匿名批評を批判していました(*4)が、これは前号拙稿に述べたように、〈この種の“政治的に正しい意見”には興味が無いので〉無視しました。「クールポコ」がどうしたというような品下った語り口にも戦意をそがれましたが、さすがにさいばら氏が、今回、小生が山口氏に説明した程度のことを承知していないとも思えず、となれば要するにことは好き嫌いの問題であって、議論にはらないと考えたためでもあります。しかし、上述の素朴なメディア論を敷衍すれば、さいばら氏の批判は、匿名性が優勢なインターネットの世界で、顕名性を暗黙のルールとした開放型の俳句メディアを形成しようとしていたところ、後発の類似したブログで紙媒体の亡霊のような匿名企画が出現したことへの苛立ちの表明だったかもしれません。まあ、単なる買い被りかもしれませんが。

(*2)

出口善子氏や大牧広氏の書き方も一種の「大人の智恵」ではあるでしょう。しかし、こちらは決して真似してはいけない「大人の智恵」です。なぜなら彼らの文章は、「あくまで事実を踏まえ」てもいなければ、「真実に迫ろうとする一貫した論理性」にも欠けているからです。わかりきったことですが、老婆心によって補足しておきます。

(*3)

・・・と、偉そうに書いておりますが、小生も貴兄の年齢の頃には、高柳重信のことなど碌に知りませんでした。せいぜい、朝日文庫で作品を読んでいたくらいでしょうか。要するに、今回の貴兄のコメントは、いささか蛮勇に過ぎたということです。

(*4)

西原天気「俳句的日常」http://tenki00.exblog.jp/9116492/

(追記)

山口優夢氏への回答は基本的には高柳重信の発言をめぐってのものであり、「A子とB子の匿名合評対談」について、直接的にはほとんど触れていない。前号拙稿に付せられた久留島氏のコメントをとっかかりに、簡単に述べておく。以下、久留島コメントの全文を掲げる(表記を改行なしの追い込みに改め、角ブラケット入り数字を付した)。


[1]こんにちは。毎週興味深く拝読させていただいております。[2]「豈」本誌の状況を全く知らないもので、このような議論に加わることは場違いかとも思いますが、すこしだけ失礼いたします。[3]高山氏は岩片氏と重信の発言を引いて匿名批評の優位性を議論されています。[4]その発言の一部は納得できる部分もあるのですが、ただ、「総合誌」の立場と「同人誌」では違いがあるのではないでしょうか。[5]私のような部外の読者にとっては、HNも匿名も大差なく、たとえばこの場ならコメント欄でも議論は可能かと思います。[6]しかしそれでも匿名というのはやはり「言いっぱなし」であり、総合誌のような中立の立場で行うのと、その後も関係が続くであろう場で行うのとは、まったく違う、かと思います。[7]もちろん、その違いを前提としたうえで、匿名批評の魅力、確かに放言、皮肉、揶揄、などある意味で変則的な力があると思いますが、その力に期待されているのであれば、それはそれでひとつのお立場かと存じます。[8]…もっとも、天気氏同様、「少々驚くとともに残念な」気がしていますが。[9]高山氏のお答えに、いち読者として私も期待しております。

久留島氏[3]については、山口氏宛て本文で回答済み。久留島氏[4]にいう〈「総合誌」の立場と「同人誌」では違いがあるのではないでしょうか。〉との疑問であるが、当然違いはある。実際、「俳句研究」の匿名時評とA子B子匿名合評対談は、匿名という点は共通でも、内容を全く異にしている。ただし、どういう形式でも内容でも、批評という範疇に属する文章なら〈あくまでも事実を踏まえ、真実に迫ろうとする一貫した論理性〉を追求しなくてはならない、という高柳発言①の原則には変わりない。この点に共感したゆえに、「夢幻航海」の記事を紹介したのである。高柳発言はジャーナリスティックな匿名時評に即してのものゆえ、作品評に即して言葉を変えれば、「あくまで書かれた作品の言葉と自己の感性に忠実に、当該の作品を読解し、価値判断をくだそうとする一貫した態度」が大切、とでもなろうか。

久留島氏[6]のうち、〈匿名というのはやはり「言いっぱなし」であり〉の部分については、山口氏宛て本文で回答済み。同じく、〈総合誌のような中立の立場で行うのと、その後も関係が続くであろう場で行うのとは、まったく違う、かと思います。〉については、指摘の通りまったく違うであろう。しかしこれは、それこそ久留島氏[2]にある通り、「豈」誌の問題なので外部の人がご心配になるには及ばない。中にはC子氏のように批判的な同人が他にもいるかもしれぬが(とはいえ「豈」はそもそも高柳重信系統の文化に近しいのである)、それらをひっくるめて高山の責任において行った企画である。他の同人誌や結社誌におなじやり方をお奨めした覚えはないし、そもそも「豈」という雑誌の特異な現状が前提となった企画であり、総合誌はともかく、他の結社誌・同人誌では成立しないだろう。「豈」の特異な現状とは、同人誌としては稀な三十年に及ばんとする命数の長さ、七十余人という規模の大きさ等等である。この辺の事情については、当ブログにおける筑紫磐井氏の連載(下記、「関連記事」の項を参照)が参考になろう。

久留島氏[7]に、〈匿名批評の魅力〉として〈放言、皮肉、揶揄、などある意味で変則的な力〉が挙げられている。その通りであるが、「俳壇春秋」のようなジャーナリスティックな匿名時評と、同人仲間の作品評をおこなうこんどの匿名対談では、その「変則的な力」の現われ方はおのずから異なる。例えば、今対談の企画者には、ふたりの発言者のナレーションを、ある程度フィクショナルに立ち上げることに興味の重点のひとつがあった(現実のa子とA子、現実のb子とB子は同じではないということ)。また、実のところ、放言や皮肉や揶揄があろうがなかろうが(A子B子対談にそうした要素が皆無ではないが、さほど濃厚ではない)、匿名批評は匿名であるということ自体でいかに人々の心を騒がせるものか(つまり魅力がある、面白い、ということです)、拙稿に対する諸兄姉のホットな反応が明かし立てていよう。

面白さの問題を別にすれば、A子B子対談の場合、匿名にしなくてはならない理由は、「俳壇春秋」よりはるかに軽いことは明白である。「俳壇春秋」が、匿名であることで、批判する側・される側双方を衝突の負荷から守っていた点については山口氏宛ての本文で記した通りであるが、A子B子対談はそもそも和気藹々の同人作品評なのだから衝突の負荷などほとんどないのである。が、ほとんどなくてもわずかにあることは確かで、一方、世の俳人は山口優夢のような議論好きやさいばら天気のような喧嘩好きばかりではないし、高山れおなほど面の皮の厚い者ばかりでもない。つまり、匿名性によるガードの意義がゼロというわけではないのである。ひとことで言えば、人目を気にせずのびのび語り合って欲しいということで、その目的は果たしたように思う。久留島氏[8]には〈「少々驚くとともに残念な」気がしていますが。〉とあるが、高山が気にしているのは、読者の方々がA子氏B子氏の評言自体に総じて誠実で的を射ているという感触を持たれたかどうか、彼女らの掛け合いを読み物として興がってくれたかどうか、その点だけである。

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■関連記事

俳誌雑読 其の六 ほんとに雑読風に・・・高山れおな  →読む

自叙伝風に(編集論/作品番号17)・・・筑紫磐井 →読む

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13 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

読みませていただきました!
ありがとうございます。

内容について、言及させていただくと私のせいでコメント欄が荒れてしまうかもしれませんので、感想については勿論さし控えさせていただきますが、「汚れ役」の言及について興味深く読ませていただきました。
汚れ役にはそれ相当の覚悟と自己犠牲が時に必要となりますものね。

お疲れになりませんように。
分野は違いますが、同志として。

匿名 さんのコメント...

野村麻実様

こんばんは。覚悟と自己犠牲という意味では、高柳重信というのは別格の一人に数えられるでしょう。なにしろ、

目醒め
がちなる
わが尽忠は
俳句かな
  『山海集』

と、本気で詠むような人です。
私どものブログの合評対談は、ごく気楽なもので、高柳たちの時評のような特別な狙いがあるわけではないのですが、ずいぶん激甚な化学反応を起こしたものです。

高柳重信の俳句作品は今でも読まれていますが、編集者・ジャーナリストの側面は没後随分たっていて、だんだん見えにくくなっているかと思います。私はたまたま身近に高柳の愛弟子である澤好摩氏がいたり、「夢幻航海」を読んでいたりするので、多少のことを知り得たというに過ぎません。

Unknown さんのコメント...

この22日に大阪で、大本義幸さんへの「句集を読む祝賀会」をやるための一文がまにあわなかった。代わりにコメントします。

「高山が気にしているのは、読者の方々がA子氏B子氏の評言自体に総じて誠実で的を射ているという感触を持たれたかどうか、彼女らの掛け合いを読み物として興がってくれたかどうか、その点だけである。」(高山さん 文)

このことですが、批評されたほうの位置から云えば、企画者れおなさんの構想への感想はひとつのテストケースです。
起用された匿名さん達について云えば、まともな読み方でしたよ。このわが同人のA子B子さんの対話形式は真面目すぎるほどでした。ひとつのテストケースです。云われっぱなしの人間ではない私は、(褒められたらうれしいし、不満があれば反論しますから、相手がリラックスして自由に発言してくださるならけっこう、少々の悪口では同人としての信頼はくずれません。)

ただし、この間、一つ不満だったのは、岡村さんの句を、「一句も読めなかったとおりすぎましょう」「私も」といなしたでしょう。あとから、思い直してくれて、良いのがみつかったそうですし、私の句とならべて、「母は棲む」「ママはいる」云々で言及してもらったし、ほっとしました。彼は関西で頑張っていますからね。やはりこれだけスペースと時間を取ってくださる限りは、もう一踏ん張りサービスしてくださって、云う限りは、全掲載者の句に一句でも「ここがこういう風に良くない」ぐらいはイロニーとエスプリを発揮して云うべきです。好みや価値観は、どちらにもありますが、優しさも欲しいです。
 かりにですよ、彼がその匿名さんであったとしても、そこは巧くとぼけてね。その程度は、みな「やくしゃ」になって誌面をおもしろくしてください。

高柳さんのご高説も十分参考にしますが、まずは現場の感覚、豈の諧謔豊かなところを発揮して、どういう集団になり通あるのかわかりあってゆきませう。
理屈じゃないところで、感覚が決定的にちがう、というのもありえます。すぐにはいっしょにはなれないけど。まあ、理解を目差して。長文失礼しました。

匿名 さんのコメント...

堀本吟様


>起用された匿名さん達について云えば、まともな読み方でしたよ。このわが同人のA子B子さんの対話形式は真面目すぎるほどでした。

そう言っていただけてほっとしております。

>ただし、この間、一つ不満だったのは、岡村さんの句を、「一句も読めなかったとおりすぎましょう」「私も」といなしたでしょう。

あの分量だと体力勝負の面も大きいようです。岡村さんと恩田さんは初回の最後で疲労困憊していたと聞いています。それでまあ、第二回の頭にやり直しているわけで、ライブ感といえばライブ感の反映ですね。ちょっとお気の毒ではありました。

>かりにですよ、彼がその匿名さんであったとしても、そこは巧くとぼけてね。その程度は、みな「やくしゃ」になって誌面をおもしろくしてください。

そう、「やくしゃ」それから小生は「えんしゅつか」として楽しんだわけです。しかし、この恐ろしく作風に幅のある人たちの作品全部を読み通してコメントすることの容易ならざるところは察してあげてください。

>高柳さんのご高説も十分参考にしますが、まずは現場の感覚、豈の諧謔豊かなところを発揮して、どういう集団になり通あるのかわかりあってゆきませう。

吟さんは関西だからやはり重信には距離感がおありのようですね。まあ、重信の世界というのはなんだかんだ言って関東の地誌と深く結びついているから無理もないですが。

匿名 さんのコメント...

れおなさま

山口優夢です。長文のご回答、ありがとうございました。大変勉強になりました。

まずは、自分の論(というか、ただのコメントですが)の不手際を思い知らされました。匿名批評に対する自分の基本的なスタンスを明らかにしていなかったこと、匿名批評の優位性のような「是か否か」という単純な二元論に問題を落とし込んだこと、「匿名とか実名とかは枝葉末節の問題」という高柳発言について触れていなかったこと、高柳の発言の時代的な文脈を計算に入れていなかったことなど、挙げればいくつもありますが、まずはそれらの手際の悪さを謝したいと思います。申し訳ありませんでした。

しかしながら、僕にはどうしても分からないことが一点あります。高柳氏の発言そのものは、僕自身勉強不足であり、高柳重信については大して何も知らないので、彼の真意は知りません(興味もありません)が、一体、この①~④を挙げることで高山れおなが何を言いたかったのかなあ、ということです。匿名であろうが署名つきであろうがそれは批評の本質に関わりのない、枝葉末節の問題だ、と本気で考えているのであれば、その一言で十分だったのではないでしょうか。匿名にした場合「救いがある場合だって少なくない」「読んでおもしろいということもある」と言う高柳氏の発言を引用することで、匿名記事の正当性を主張する意思のようなものが僕なんかには感じられたので、そこについて批判を向けたいというのが、稚拙ながらあのコメントの主旨でした。

僕自身の匿名批評に対するスタンスは、特にありません。いや、僕自身大して知らないのです。れおな様が想像なさったような「匿名批評によって不利益を蒙り」云々ということは全くありません。なくてはいけなかったでしょうか?匿名批評という形式自体、この豈ウィークリーのA子B子対談で初めて触れたほどです。あとは、「匿名かハンドルネームによる発信が多数派であるweb上のコメントの付け合い」くらいでしょうか(なぜコメントの付け合いを匿名批評から弁別するのか知りませんが。僕のれおな様の記事に対する反応もコメント欄でのものでしたが、れおな様から見ればその時点で僕の発言はあるレベルに達していないように思われるのでしょうか)。ああ、そのようなコメントの付け合いでは相手が匿名のために不愉快になることもありましたが、れおな様に従えばそれはいちいちここで示す必要はありませんね。

しかし、匿名のそのような文章を見かけるたびに思うのは、なぜわざわざ匿名にするのか、という疑問です。裏から見れば、じゃあ、なぜ署名入りにするのですか、と言われそうですが、それには自分なりの回答があります。

今回、高山れおなから「若さと想像力の欠如を二つながら感じざるを得ません」「いささか蛮勇に過ぎた」と反論されているのは、山口優夢であり、それ以外の誰でもありません。れおな様の反論で、僕はかなりダメージを受けました。「この若造が、馬鹿なこと言ってるな」とこれを読んだ多くの方が僕のことを批判的に見たかもしれません。僕は自分の議論の上での未熟さを痛烈に批判され、その上でなんだか知らぬ間に「議論好き」のレッテルまで貼られて(そんなに好きでもないですよ)、はっきり言って逃げ出したい気分です。しかし、「僕」がいつなんどきでも「山口優夢」であり、それ以外のものでは決してないことは公開されており、逃げることも隠れることもできません。もっと正確に言えば、逃げることも隠れることもできますが、そうしたら、山口優夢が逃げた、隠れた、という事実は消すことができぬものとして残ることになります。

大牧弘氏の文章は直接には拝読していないので何とも言えませんが、出口善子氏の文章は、僕も拝読しました。れおな様のおっしゃるとおり、誰を批判したいのかよく分からないと言う意味で、僕も一定の不快感を抱きました。今回のれおな様の指摘に対して大牧氏や出口氏が何か答えるかどうかはご本人達の判断でしょう。しかし、批判されたのが「大牧弘」であり、「出口善子」である、という事態は、公然のものとして、翻ることはありません。

僕は何が言いたいのでしょう?署名入りの文章であれば、その文章に対するどのような反応であっても、その本人がかぶることになります。文章が面白くて、いい意味で話題になる場合、その高い評価を、文章の筆者が得ることになります。今回の僕のように、めちゃくちゃに批判された場合も、その悪評は文章の筆者がかぶります。前者を考えれば、確かに匿名批評というのは割りにあわない全くの無償の行為なのかもしれません。それはそれで美しいかもしれませんが、だから匿名を選ぶ、という理由にはならないでしょう。それだけなら、ただの自己満足だからです。

匿名をわざわざ選ぶということに見出す利点は、僕などの偏見で言えば、その記事に悪評がたっても知らんふりをしていられる、逃げ道が残されている、という意味しかないのではないかな、と思えるわけです。その逃げ道のことを、僕は「言いっぱなしじゃないか」と批判しています。僕が名前入りで記事を書き、コメントを書くのは、自分は自分以外に逃げる場所がない、という覚悟を持っているからです。そのような覚悟なしに書かれる文章を誰がかえりみるものか、と思うからです。ところが、匿名というのはその逃げ道がある。ある、と言っているだけで、逃げるかどうかは別問題ですよ。

れおな様の回答によれば、匿名だから言いっぱなし、というのは僕の思い込みで、反論しようと思えば反論できる、ということでしたが、そういうことではありません。想像してみてください。批評された側からすれば、どうして匿名なのだろう、ということを真っ先に思うでしょう。「最初からそういう反論なんかそもそも想定されておらず、そんなものは受け付けていませんよ、という態度」に、少なくとも僕は受け取ります。そう、態度の問題なのです。そりゃあ、現実的には反論はできるでしょう。あるいは、その批評が正鵠を得ているために反論できない、という事態もあるかもしれません。僕だってみんながみんなキャッチボールをしてくれると考えるような能天気ではありませんから(キャッチボールしてくれない、ということは、放った球が悪かったということが多いですね)、匿名か署名入りかに関わらずキャッチボールは行なわれないということもあるでしょう。でも、そういう問題じゃない。

僕だったら、逃げ道を用意していると思える相手とはそもそも議論にならないな、と判断します。実際に逃げるかどうかではなく、いざとなったら逃げられる、と思われてしまうことが問題なのであり、即ち、態度の問題です。その「逃げ道」の部分が批評された相手にとっても逃げ道に働くという利点がある、というのが高柳発言の③だとも言えるでしょうが、それは詭弁でしょう。もしもそんな逃げ道が必要なら、わざわざ言論の公器を使わずとも、実際に会って話すなり、私信でも送るなりすればいいのではないでしょうか。

逃げ道が用意されている腰の引けた態度と見えてしまうようなマイナス点を加味しても、それでも匿名という態度を選ぶ場合がある、その理由は何なのか、その納得する理由は重信の発言からは少なくとも見えてこない。だから、匿名批評を擁護するように書かれているれおな様にそれを教えていただきたい、というのが僕のコメントの主旨だったのでした。れおな様にその主旨が正しく伝わっていなかったのでしょう。僕が高柳重信のことをどのくらい知っているかなんてそれこそ枝葉末節の問題なのです。僕は高柳重信論を展開しているのではなく、高柳発言を引用してあなたが何を言いたかったのか、それを聞きたかったのですから。しかし、そのあたりは完全に僕の書き方のミスでしたね。僕はあのように絡むのではなく、もっと謙虚にれおな様に質問すべきだったと反省しています。

匿名か実名かは枝葉末節、と取られるのならそれでも構わないと思います。しかし、そうだとしても、わざわざ匿名という態度を選択することの裏に何らかの意図があるはずだと思うのは間違いでしょうか?趣味の問題だ、と言われてしまえばそれまでなのですがね。

れおな様自身の企画であるA子B子対談について、なぜ匿名かという点は「人目を気にせずのびのび語り合って欲しい」とおっしゃっていましたね。なぜ匿名だとのびのび語り合えて、署名入りだとそうでないのか、という点に僕は疑問を抱いているのです。ただ、誤解しないでいただきたいのは、だからA子B子対談を批判する、ということではありません。れおな様のその意識がどこから来るのか、ということを知りたいのです。

匿名という手段を、しかも一同人誌の中で使うということは、果たして「衝突の負荷から守っていた」ということなのでしょうか?ただ、その点については豈内部の話ですから、僕はあまり深入りする気はありません。そういう個々のケースには実は大して興味がないのです。れおな様が書いていたとおり、豈には豈の特殊事情があるのでしょう。だから、僕ははっきり言って自分と関係のない力学のもとで書かれているらしいA子B子対談については批判する気もありません(俳句批評という点で見れば楽しめるところもある企画だと感じました)。

ただ、れおな様が匿名というものをどう考えているのか、自分とは何が違うのか、という点に関しては説明していただいて理解いたしましたので、もうこれ以上議論することもないかとも感じております。ただ、僕は納得できなかった、というだけです。

追記

「愛情」の一件、誤解があります。そもそも王朝文学やらボードレールやらを取り上げて、批評記事を書いている者の愛情を云々しようというところで首を傾げてしまいますけれども、それは措くとして、「相手の名前も素性も分からないままに」愛情が始まるという話をされていますが、僕がいつ「名も知らぬ相手との間に愛情は望むべくもない」というようなことを申し上げたのでしょうか?僕が言っているのは、「名も知らぬ相手」ではなく「自分から名乗りもしない相手」です。

無論、王朝文学では、名乗りもしない、ということもあるでしょう。しかし、彼等の愛情は肌を合わせて始まっているのではあり、名前とか地位とかそういうものではなく、自らのアイデンティティを愛する人の前にさらけ出しているという意味では、匿名ではないでしょう。匿名とは、誰だか特定できないという状況を指すのであり、戸籍上の名前を知らないという意味ではないと僕は理解しています。そういう意味では、匂宮は匿名どころか偽名を用いた大悪党とも言えるでしょうか。

また、ついでなのでもう一言付け加えておきますが、私宛に書いてくださった文章の最後、「貴兄は「だから名前を名乗るのが大切なんです」なんて言うのかもしれませんが(笑)。」とありますが、このような本筋の議論と離れた場所での揶揄は大変不愉快です。れおな様は天気氏宛のコメントにて「必要とあれば幾らでも下品にならねば」とおっしゃっていますが、その「必要」って何ですか?議論の途中、年齢のことを持ち出して「若い」「未熟」とおっしゃられるのは、議論上の必要であろうということは納得いたします。そこまで書いてくださって、むしろ嬉しく思います。しかし、この文章はなぜ必要なんですか?「(笑)」はなんで必要なんですか?必要もなく、あなたは人を傷つけるかもしれない言葉を放つのですか?それとも、こんなことくらいで傷つくのなら議論する資格はないとでも?あるいは、僕がこういうふうに言うことによって溜飲を下げているとでもあなたは思うでしょうか?

少々驚くとともに残念な気がしています。

匿名 さんのコメント...

山口優夢様

あまり気落ちしないでください。

重信を引用して何が言いたかったかということですが、あの記事は「俳誌雑読」という枠組の中のものです。最近読んだ俳句雑誌で面白いと思ったトピックスを五つ紹介したうちのひとつ、というだけのことです。たまたまそれに先んじてA子B子対談というものをやり、多少の反応があったため、特に興を覚えてのご紹介になりましたが。私自身は中でも高柳発言③に感心しております。

優夢さんのコメントにはなるほどいろいろ不備があったわけですが、私のお返事がこれどほど長大かつ綿密になったのは、優夢さんの批判が私というより以上に高柳重信に向けられる形になっていたからです。勝手に引用した手前、それを批判に晒したままほったらかしにはできないことはおわかりいただけるでしょう。そのため、文章が必要以上にしつこく厳しいものになったかもしれません。

今回も優夢さんは長く書いておられますが、本論の部分は特にご返事はいたしません。「追記」のところ。「愛情」談義についての小生の書き方にご不満のようですね。もちろんあれははぐらかしているのです。もう本体の議論は済んでいるのだし、「愛情」という話題自体が優夢さんと野村麻実さんの間のもので、こちらに下駄をあずけられても困るわけなので。

だったら「回答義務なし」として書かなければいいようなものですが、そこは本文中にも書いた通り、多少「意地悪」をしたということでもあります。あまり重苦しい議論が長々と続きましたから、詩の引用でもして口直しをしてお開きにしようという、自分と読者に対するサービスの面もあります。最後の(笑)入りの軽口が出てくる所以です。この(笑)は決して優夢さんをあざ笑っているわけではなく、そろそろ終りにしましょうとニコッと微笑んだつもりでしたが、これだけ書いたあとではなかなかそのニュアンスは伝わらんよなと、無理は承知でもありました。ご不快であったなら謝罪します。

匿名 さんのコメント...

高山さま

拝読させていただきました。
まずは優夢氏に対する長文回答とともに、拙コメント(なんだか変な言葉ですが)に対しても丁寧なご回答を頂いたことに感謝したいと思います。優夢氏ときわめて年齢の近い(半年くらい?)私にとって、教育的とも思えるご指摘であり、参考になりました。なお、

>匿名批評は匿名であるということ自体でいかに人々の心を騒がせるものか
>(つまり魅力がある、面白い、ということです)、

という部分、また

>高山が気にしているのは、読者の方々がA子氏B子氏の
>評言自体に総じて誠実で的を射ているという感触を
>持たれたかどうか、彼女らの掛け合いを読み物として
>興がってくれたかどうか、その点だけである。」

という部分に関して言えば、少なくとも私は「読み物として」楽しませて頂いたことを白状(?)します。A子様B子様の掛け合いはテンポ良く且つ辛辣、的確に思えましたし、すべからく「秘密結社」とか「謎の○○」とかいう言葉は装置として楽しいものです。ただし、豈ではない、つまり自分の作品が批評にさらされる危険(または期待)もなく、犯人探しへの興味もない、ネット越しのいち読者の私にとっては、今回の批評が実名批評であったり、使い捨てHNであったりした場合に、面白くなかったかどうか、(すなわち、「同人誌的な変則的な力」がどの程度発揮されたか)はわかりません。
また、個人的に「大学院」という研究機関に属する身としては、優夢氏の今回のコメントに、少なからず共感する部分があったことを表明しておきたいと思います。

ともかく、様々な点で高山氏のスタンスをお聞きできた点では、私にとっては有益でした。御礼申し上げたいと思います。ありがとうございました。

匿名 さんのコメント...

久留島様

コメント有難うございます。

この話題はこれ以上の展開性があるものではないのでこれまでとしたいと思います。A子B子対談については、本来エンタテインメント的な軽いノリでの企画であって、さいばら天気氏のように元々編集者でメディアのあり方について一家言あるような人はともかく、多くの方々は、それ自体としては何の気なしにお読みいただいていたはずなのです。

それがこうなったのは、高柳重信という劇薬に引火したためです。近々、角川書店から「俳句」の別冊(だったかな)で「高柳重信読本」が出るはずです。久留島さんも俳句をなさっているのであれば、お読みになってみてはいかがでしょう。

匿名 さんのコメント...

れおな様

私の方こそ、感情的なコメントを失礼いたしました。御見苦しいところをお見せしました。

重信、読んでみようかと思います。

匿名 さんのコメント...

山口優夢様

重信、是非、読んでみてください。

優夢さんも小生も、世間から見るときっと充分、議論好きに見えることでしょう。この前、安井浩司氏も驚いていたように、優夢さんの年齢で優夢さんほど書ける人などほとんどいやしないのです。これからもどんどんお書き願います。

みなみな様。この件のコメントはこれまでということにしていただければ幸いです。

高山れおな敬白

匿名 さんのコメント...

匿名対談に関しての私の感想も、
吟さまとほぼ同じです。
そして楽しみました。

大好きな恩田さまのところで、
書き手の方がヘタってしまったのだろうということも想像つきましたけれど、でもひどいな、と思いました。で、次回フォローされていて安心しました。
書くの難しいと思います。

わからないことはもちろん、みんなあって、
わからない時代もあって、
大きくなるとわかるときもあるし。
若いときはみんな体験してきているから。
山口さまの気持ちはわからなくはないです。

> 自分の論の不手際

自分より格上の論者に挑むときには、
次には失敗なさらないでしょう。
高山さまの論が激烈に見えるのも、文章に論理的な隙を作らない努力のせいだと思われます。もうこれで終わりにしたかったからではないでしょうか。
責めているわけではないと思いますよ。

「山口さま」は匿名でも、実名でも逃げないでしょう。でも世の中、実名だからって逃げない人ばかりじゃないし、目の前に人がいたってくるりと逃げる人も実際いるわけですから、結局の所、個人の資質だと思います。
それから逃げるのが大事な時もあると思います。(相手が立派な方ばかりとは限りません)かわすのも一つのテクニックです。

山口さまが「匿名」についてわからないのは、「匿名でもいいからやりたいこと」がまだないのだと思います。無名の時代には、「匿名」の必要性は最初からありませんものね。だから「匿名でもやる」動機そのものが理解できないだけなのだと思います。そして無名の時代には「匿名企画」はまずまわってこないと思います。

「匿名でもやる価値がある」ことが見つけられたら、是非ともその時にはチャレンジされてみてはいかがでしょうか?きっとまだまだ先のことでしょうけれど、「匿名」の山口さまは逃げないでしょう?

この論考、面白かったですo(^-^)o。

> 僕は自分の議論の上での未熟さを痛烈に批判され、その上でなんだか知らぬ間に「議論好き」のレッテルまで貼られて

「議論好き」が悪いこととは思えません。
何か違和感があれば言っていいと思います。

次の論説、楽しみにしていますね。
すねて書かなくなったら「本当の逃げ」です。

さて「高柳重信読本」
http://www.amazon.co.jp/dp/4046213906/
もうすでにアマゾンで予約可能ですね(>▽<)!!!

注文してみました。
これで4冊は売上げが増えたかもしれませんね。れおなさま、実はこれを狙っていらっしゃったに違いありません!

(これまで、の後でごめんなさい)

匿名 さんのコメント...

野村麻実様

私は、年上ではあっても格上などではありませんよ。
重信はもちろん格上に間違いありませんが、格上だの格下だのは俳句には似合わない言葉です。
ほんとうにこれまでに願います。

匿名 さんのコメント...

すみません。
首をつっこみすぎましたね。