2008年12月19日金曜日

自叙伝風に(編集論)

自叙伝風に(編集論/作品番号17)

                       ・・・筑紫磐井

堀本吟氏は連載中の「書物の影/第2回」で筑紫磐井なる人物を語っているが、買いかぶりすぎのところが多々あるようだ。豈には有為な人材がたくさんおり、筑紫磐井氏はそれ程のことはしていない。大したところがないことを証明するために、本人が自叙伝を書いてみたいと言い出した。ただ、世の常の自叙伝では面白くないので、筑紫磐井という存在を因数分解してみた。すると、①現在豈の同人であり、②かって編集人であり現在も多少編集に関与しており、また③発行人でもあるということがすべてのようである。そこで、①同人論、②編集論、③発行論を論ずればすべてが分かるはずである(できれば、最後に「まとめ」を入れてみたい)。都合により、今回は書きやすいところから―――「編集論」を書いてみる。
(追加。書いている内に、堀本氏の「書物の影/第3回」が出てしまった。これが週刊のいいところでもあり困ったところでもある。とりあえず第2回を前提に記事を書く)

          *        *         *

(1)当面の編集の評価
豈47号の特集「青年の主張」に山口優夢氏が批判的感想を寄せ、コメントに高山れおな氏が編集人を代弁したコメントを提供し、両者和解したような結末になっているのを見て面白く思った。特集の企画をした段階での想定は、誰でも知っている(!)あの「青年の主張」であるからその反応はバイアスのかかったものになることは予想していた。かつ、この特集の依頼は、青年であると自覚している人と、青年の立場をもう去った人と、両者に頼む必要があった。この時の依頼文は次のようなものである。

特集1/青年の主張
俳句における新世代論はいつの時代にも存在しましたが、高齢化に伴い新世代の境目は現在きわめて見えにくくなっています。団塊の世代は論じられていても、ポスト団塊の世代は50代から10代まで、多種多様に考え方が異なります。今回特集は、かってのNHKの国民的行事であった「青年の主張コンクール」(1956~89年。後続の「青春メッセージ」も2004年で終了)にならい、青年の主張を求めるとともに、青年から外れた人には「青年に対する主張」を依頼します。(青年の範囲はご自由にお考えください)

相当意地の悪い依頼であったと思っている。あの「青年の主張」を知っている人(あの「青年の主張」がどうやら本当の『青年の主張』ではないらしいとうすうす思っていた人)はもはや青年ではなくかつ『青年の主張』にも距離を置いた発言になり、あの「青年の主張」を知らない人こそが本当の青年であり本当の『青年の主張』を語るはずなのだから(にもかかわらず『青年の主張』を語っていない青年がいたのも愉快だった)。さらにご丁寧に「(青年の範囲はご自由にお考えください)」と書いていたのだから、推理小説であれば、最後の場面で、被害者が加害者に、加害者が被害者に変わる可能性を秘めていた。
企画をした編集責任者は、俳句ジャーナリズムの行う「青年の主張」に本当の『青年の主張』が現れるのか多分に懐疑的であったに違いない、だからこそ今回、山口氏のようなまっとうな『青年の主張』が登場すると涙ぐましいものを感じ、まんざら捨てたものでもないと思うのである。いずれにしろ、NHKの「青年の主張コンクール」が無ければ思いつかない企画であったし、山口氏の話のようにそれがYou-tubeでさえ検索できないような考古学的価値のある事件であったとすれば、ますます豈にはふさわしい特集であった。

(2)編集の特殊性―1(特集について)
山口氏のコメントは今後の編集の参考にすることにして、どうやらこんな特集は商業雑誌でも結社誌でも絶対やらない特集だった、といまさらながら確信した。一見、若手特集をやる雑誌ならできなくはなさそうな気もするが、まず、編集者が執筆者に依頼する内容を多義的にしており、どのようにでも解釈できたから様々な人に意見を述べてもらうこともできた(まるで内閣の支持率調査のようだ)。そして押しつけがましい理念を持っていなかった。いや、押しつけがましい以前の、理念を示していなかったと言ってよいかも知れない。

これで思い出すのが現在の「―俳句空間―豈」(第3期「豈」)の実質第1号であり、「特集・戦後俳句の病理」と銘打った38号だが、その筆頭論文は、かつての「俳句空間」の編集長澤好摩氏に依頼したのだが、澤氏はそこでいかにこの特集が的外れであるかを諄々と、且つ徹頭徹尾説いていたのだった。編集企図を否定する筆頭論文は珍しいと思うが、考えてみるとそれだけでも価値はあったように思う。「戦後俳句の病理」という問題設定が可能かどうか、それ自身が一編集者が決められる話ではないからである。もちろん、問題設定を共感して企図通り書いていただけた執筆者があったことは申し添えておく。

だから、理念は示さないという批判は甘んじて受けるが、その脚下に、問題に対する根本的懐疑は潜在意識的に持っていた。それが時折、「青年の主張」などという奇妙な特集となって現れるのである。このように<編集態度>というものに対して常に疑問を持っていたのだが、それを編集人たちで解決しようなどとは思わず、適切と思う執筆者に依頼することで拡散させた。拡散させて消えることもあったが、澤氏のような大津波となって返ってくることもあった。これは同人雑誌の編集(商業雑誌の編集でも結社誌の編集でもないという意味)であっても、余り例を見ないものであったろう。例えば、知ったような顔で「俳句は・・・・」等と書き出す特集の趣旨の中で、ここでいう「俳句」とは何だったのかというぐらいの懐疑は常に懐いている。面白いからと言う企画は今までにやったことはないはずで、一見脳天気に見える特集は多分に逆説や、更に進んで虚無に満ち充ちていると思う。「豈」は「虚無」の別名なのである(攝津幸彦の虚無の解釈によれば、虚無とは「虚子の無」だそうである)。

(3)編集の特殊性―2(特集以外)
具体的に編集に当たっては、どこの雑誌もまねできないぐらい同人にきめ細かく詳細なアンケートを行っていることは余り知られていない。大所帯となって同人総会ができない同人雑誌としてはこうした意味で総意(実は個別の意見の集積)を確認している。豈は直接民主主義(郵便型)国家だろうと思っている。

豈の編集人時代に最大の自負を持っていたのは、作品欄の下の随想であった。450字程度の短いものであったが、めちゃくちゃに面白い。日本中の俳句雑誌の中で最も面白い欄ではないか。終戦直後の新聞の時事コラムを読むように無秩序に、勝手なテーマで並ぶが、個性が出ており、ことによると俳句より面白いかも知れない。今でもついつい読みふけってしまう。また、せっかくのこのページを3人に1人は白紙で返すから、適当に息抜きもできる。実はこれにはモデルがあって、能村登四郎は自分の雑誌で俳句作品欄の下に五百字随想という欄を設けて毎月楽しげに執筆していた。短詩型作家といえども若干は筋のある文章を書きたいという欲求があるようで、500字程度という字数は多分ベストの字数なのだ。亡くなった貞永まことの文章など実に泣かせるものがあった。

(4)編集の多様性
こうした中で時折異変もある。豈39-2号(関西篇)は、編集を移して、堀本吟氏をはじめとする豈の関西同人が総力を結集して「再発見/関西の戦後俳句」と「現代川柳と自由律」の特集で刊行された。膨大な編集会議を経て一年半にわたる編集期間を費やして、壮烈な理念議論や豈のアイデンティティの確認が行われ、疲労困憊の上でできあがったという。今もってその疲労を癒すための充電期間中であり、次の関西篇はもうちょっと待ってね(堀本吟氏談)、という状態だそうである。これが世の常いう同人誌の編集なのかと逆に感心した次第である(この点については次号で少し述べたい)。おそらくその本を出す前から、いや企画の段階から編集者には精緻な地図が頭の中に浮かび上がっていたはずである。もちろんこうした編集は悪くない(問題は、この方式だと3年に1冊ぐらいしか雑誌が出ないことだろう)。近く、米国で豈の編集をできないか検討中である。

(5)編集の歴史
参考までに「豈」編集史を辿ってみる。「豈」は国立国会図書館では次のように分類されている。

①第1次「豈」第1号(1980年)~第28号(1997年)
②第2次「豈」第29号(1998年)~第37号(2003年)[中烏編集時代は、表紙には「豈nouveau」と表示]
③第3次「豈」第38号(2004年)~第47号(2008年)[表紙には「―俳句空間―豈」と表示]

初期は44頁(同人16人)程度であったが、現在は160頁前後(同人は73人)、最大時は第43号で262頁。

第1次「豈」は、同人が書きたいものを載せると言う方針であったから積極的編集は取られていない。俳句作品は固より、評論などもおおむね同人が書きたいものが書かれ、自由に掲載されるシステムであった(これは「黄金海岸」の編集の伝統を引き継いでいた)。ただし、第26号は「攝津幸彦の世界」、第28号は「回想の攝津幸彦」(攝津幸彦追悼特集)の特集を組んでいる。「攝津幸彦の世界」は、同人誌でこうした特集を組むことを攝津は最後まで躊躇していたが、虫が知らせたというか、酒巻英一郎氏の強力な押しにより実現した。攝津幸彦の最後を飾る号となってしまった。

第2次「豈」は、攝津幸彦が亡くなった後の試行的編集として、第1次「豈」を踏襲しつつ第35号「黄金海岸篇」、第37号「俳句空間篇」(「黄金海岸」とは大本義幸が発行した同人誌(1974~5年)であり、攝津幸彦、坪内稔典らが参加、4号で廃刊。「俳句空間」は高柳重信「俳句研究」が廃刊後、澤好摩氏が創刊した総合誌(1986~1993年)であり、第6号から弘栄堂書店の発行に移り大井恒行氏が編集し、第23号で休刊)の2つの大型特集を企画した。「豈」のアイデンティティを確認しつつ、新しい編集の方向を模索した時期であった。

第3次「豈」は毎号2つの特集を組み、外部執筆者への依頼を行いながら問題を深めている。

「―俳句空間―豈」特集目次
47号 ①青年の主張 ②安井浩司の13冊の句集
46号 ①俳句と身体感覚 ②私の俳句入門(あるいは非入門)
45号 ①伝統の黄昏/伝統の新興 ②戦後俳句論争
44号 ①俳句の言葉 ②Who’s who豈‘07
43号 ①攝津幸彦論 ②攝津幸彦の生きた時代
42号 ①戦後60年の俳句表現 ②俳句で何を新たに表現するか
41号 ①シュールレアリズム・思想・限界 ②祝ホトトギス一三〇〇号記念/その功罪
40号 ①俳句はどこまで文学か/言語と俳句 ②新人はどう現れるか
39-2号 ①再発見 関西の戦後俳句 ②現代川柳と自由律
39号 ①虚子の新研究
38号 ①戦後俳句の病理 ②仁平勝の世界

編集は第1次「豈」にあっては同人持ち回りからはじまり、第12号以降中烏健二、筑紫磐井に代わった。第2次「豈」は筑紫磐井、酒巻英一郎、高山れおな、大井恒行が、第3次「豈」は筑紫磐井、堀本吟、大井恒行が担当している。
(現在の豈の編集人は大井恒行であるが、前述したように彼こそ、かの弘栄堂版「俳句空間」の編集長であり、幾多の名企画を生み出した人であることを申し添えたい。筆者は、その「俳句空間」の編集会議に攝津幸彦らと招かれたが、俳句雑誌の編集はこのようにするのかと傍聴していただけのメンバーに過ぎなかった)

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■関連記事

書物の影 第二回 ・・・堀本 吟   →読む

1 件のコメント:

さんのコメント...

コメント詩ふうに。
    *

 「俳句空間ー豈」ー関西版・・ですか?。
すみません。
目下コンセプトを構想中。状況分析の最中というべきか、

感触ではまだ、です。みなさん自分たちのことで、こころがトルネード。

ご期待いただいているのに。
〈もうちょっとまってね〉。
いずれ詳しく。〈もうちょっとまってね〉。

別件。
エディトリアル・コーディネーター筑紫磐井の手腕を買いかぶっているとは、思わない。

もちろん、それぞれ個人個体であることの「くせ」がありまして、磐井を珍重する人はもちろんですが、磐井嫌いは私の周囲にもたくさん。


かつて、思想は個人の人生観や哲学の感情を込めた陳述の体裁をとりました。
いまや、個人の思想は編集された情報の海に浮遊する道をえらびました、・・・、

こんな知の時代に
ひじょうに批評意欲を湧かせる人材については、わたしは、べつのかたちで
「 」論を書く、つもり、です 。
あとは、自分の書物の中で、書きます、両欄兼ね併せて、ご愛読を。

これについては、コメント嫌いの貴下の意志と好みを尊重しまければなりません。
作者のご返事無用。