2008年12月19日金曜日

俳句の意力2

-Ani weekly archives 003.21.12.08-
俳句の意力 2
―デュラスと不器男―

                       ・・・恩田侑布子

永遠不滅とはまぎれもない永遠不滅としてはっきり見えているものではない、断じてそうではないということ、それは完全なる二枚舌だということ。
マルグリット・デユラス 『愛人(ラマン)』(清水徹訳 河出文庫)

『愛人(ラマン)』は、フランスの小説家デュラスの自伝的小説です。メコン河の渡し船の上で、十五歳の「わたし」は、運転手付きの黒塗リムジンに乗った二十六歳の中国人青年と出会います。生涯を一年で燃え尽くそうとする激しい性愛と別れが描かれます。デュラス独特の詩のような暗示に富む文体でつづられる不思議な雰囲気の小説です。

「永遠不滅が完全なる二枚舌だ」というのは、言い換えれば、永遠不滅は、まったくそれらしい顔をすることなく人生にあらわれるということです。「下の兄」の死に際して書かれたことばですが、これは当然、小説の主題である、激しい恋も暗示していると思われます。

束の間の恋の奥にふかぶかと控えているこの小説のもうひとつの主人公は、時間です。ふたりはメコン河と南シナ海の悠久の時間のせめぎあいの中で、わずかの時を出会うのです。七十歳の著者デユラスが、封印された十五歳の自分を求めて手繰り寄せてゆく時間そのものが、生き物のようにぬめぬめと煙って、デルタ地帯特有の湿潤な風土の中で発光しています。

小説のとらえる時間と、俳句のとらえる時間と。その共通点と違いを考えてみるのは面白いことだと思います。

俳句で「花」といえば、桜の花。では、なぜそこまで日本人は桜を愛するのでしょうか。逆説めきますが、それはあまりに移ろいやすい花だからではないでしょうか。一日のうちでも、朝と夕べ、夕べと夜とでは、表情がまるで違います。変幻してとどまることがありません。桜ほど、時の移りゆく姿を、そのはかなさをわたしたちに刻印してくれる花はありません。満開にして光を曳いて散ってゆく一片。流れ去って返らぬ時間。その変幻をいとおしむのが日本人の美意識です。

わたしたちは時の旅人です。時間に流されるばかりでなく、俳句という小さな鍬を手に、時を耕すことができます。はかないものの中に永遠の光を見いだすことができます。そこには誰に与えられるでもない、内面の喜びがあります。

芭蕉の言葉で言えば「不易流行」です。それは無常の中に永遠なるものが宿るということです。仏教の基本哲学である唯識ではこのことを、「依圓不一不異」といいます。依他起性という縁によって存在している自己と、圓成実性という我空・法空の本性は、ひとつでもないし二つでもありません。はかない現象の世界を離れた別のどこかに真如があるわけではありません。

芝不器男という俳人がいました。伊予の国北宇和郡の巒気を帯びた二十六年の生涯は、彗星のように俳壇を駆け抜けたと称され、その句集は、いまも無垢の光芒をひいています。デュラスのひそみに倣えば、これこそ「完全なる二枚舌」です。夭節の俳人にみいだされた永遠は、怖ろしいほどに鮮やかです。

まながひに青空落つる茅花かな      芝不器男



(「ユーキャン俳句倶楽部 2006年1月号」より、加筆転載)


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ことばの森 俳句の意力 ・・・恩田侑布子   →読む

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2 件のコメント:

野村麻実 さんのコメント...

こんにちは。遊びに来ましたo(^-^)o

読んでいますよ~ということで、コメントしに来ましたが、やっぱり今回も気のきいたコメントが浮かびません。

「どこかの原稿として出ている」記事というのは、万人にうけるようにスキがなさ過ぎて、コメントがしにくいのかも~という感想を持っています。

恩田侑布子 さんのコメント...

野村麻美様。おやさしいお気遣い有難うございます。明日は攝津の「異界のベルカント」再開します。また率直なご感想いただければうれしいです。年末は、田舎の自由業者の主婦のこととて、旧稿に手を入れるのが精一杯で失礼いたしました。    恩田侑布子